最初、彼女は人間として生を享けた。
 否、これに『最初』と付けるのは語弊が生じるだろう。事実彼女は生まれたその時から今の今まで『人間』だったのだから。

 彼女は一度も死ななかった。
 一度たりとも。たとえ炎に投じられようと水に沈められようと、土に押しつぶされようと、全身を石で殴りつけられようと、ただ生への執着で生き続けてきた。
 彼女が『魔女』だと称され評された理由は、その長命だった。
 いや、長命などというものでは説明がつかないものだった。彼女はある時を境に、非常にゆっくりと、傍目には何が変化しているのか分からないほど、緩慢にしか、時を刻まなかったのだ。

 彼女自身は、それを「延命」だと解した。その技法を魔だとするなら確かに自分は魔女だろうと、そう言ってのけた。
 故に捕らえられ、処刑された数も尋常ではない。それでも彼女は生き続けた。処刑はどれも、一つとして成らなかったからだ。

 必ずその場にある金属が、彼女に味方した。
 彼女が怒りを覚えたとき、生への執着の為に人を憎みそれに憎悪を抱いたとき。彼女が生きようと、生き続けようと思った理由、それ事態に叛く情念を彼女が抱いたとき。着飾った裁判官に貴族、そして執行人が手にした金属が、必ず彼女を救う為に動いた。
 貫けと思えば貫いた。斬り裂けと思えば斬り裂いた。その金属達が自分の意志と思考に従っているのだと気付くまでに、そう時間がかからなかった。種類によって動きが違う事もすぐに分かった。一番愚鈍に動くのは鉛で、一番鋭利な刃を備えるのが金だった。生き続ける、身を守る。それを考えるのであれば、選択肢は一つだった。銀は繊細だが工作にしか使えなかった。鉄は強固だったが時折意に反した。銅はよく動いたが粗雑だった。だから、金を選んだ。処刑場で得たそれを、奪い取って、形を変えて身につけて。

 身につける事で、似合わないと、そう信じ続けていた苛烈すぎる情念が静まるのが分かった。鎮められるのが処刑場で得たそれだと分かるのも早かった。買い求めた金ではその役をなすことは出来なかったのだ。幸い、医者、智者であるという特性から、魔女狩りにさえ見つからなければ、処刑場にさえ送られなければ、平穏な暮らしを送れたが、人の知らぬ事を識る女、人の出来る調合をする女、一年足らずで居場所を変え続ける女の噂は、絶えなかった。時には信じた友人に、裏切られた。金銭によって売られ、遊女の真似事をさせられかけた事も、見せ物として扱われた事もあった。
 それでも女は生き続けたかった。何としても死んではならないと、そう信じ続けていた。この命と魂を手放す訳にはいかないと、強く心に決めていた。



 ――彼女は最初、売られ棄てられた子供だった。
 口減らしだったのだと、知恵がついてからようやく理解した。

 知恵を付けてくれたのは、彼女を買い取った旅芸人の一座の、座頭だった。
 いつも煙管を咥えて、舞台に出ない彼は薄汚れた服で笑いながら、怪我の絶えない『家族』たちの治療をし続けていた。薬と小さな刃と、針と糸で、すべての傷と病を治そうとしていた。
 彼女に最初に与えられた仕事は、細い糸を紡ぐ事だった。次に針を研ぐ事、鋏と薄い刃を管理する事、それらの世話をする事を教え込まれた。薬草と薬の知識は、その合間に絶え間なく詰め込まれた。
 彼女は座頭を養父として認識していた。養父は彼女を只の子供として認識していた。それには何の不満も無かった。一座はどの村でもどの町でも盛況だったから、奴隷の子供にも羽振りは良かったし、なにより薬の知識がある彼女は『家族』からの信頼も得ていた。それらも全て養父のおかげだった。だから彼女は養父を信頼していたし尊敬していた。与えられたものの全てを大事と思っていた。

 そうやって暮らしているうちに、いつだったか、誰かが気付いた。
 彼女の成長が、あまりにも遅い事に。

 最初は、売られた奴隷だからこそ、何かが枷になっているのだろうと、皆が思っていた。
 だが人気の一座の中で、そこらの子供よりもよほど良い暮らしをしている中で、いくらなんでも、『五年の歳月を全く成長もなく』生き続けているという事実は、一座には捉え難かった。

 彼女は薬に人並みに明るくなった時から、自分で薬を作る事を始めていた。
 同時に、ずっと願い、念じ、己に誓い、言い続けていた事があった。
 『ずっと、いつまでも、ここに。』

 彼女は知識に人以上に明るくなった時に、自分が成したその意味を知った。
 長い間、ずっと願い、念じ、己に誓い、言い続けていた事の、真実。
 『言葉による、呪いである』と。

 ある意味では、天性だったのだろう。彼女は己の知らないまま己に呪いを掛けていた。『いつまでもこのままここで生き続けたい、その為ならなんでもする』と。あるいはそれは契約だったのかもしれない。
 ある意味では、それ自体が呪いだったのだろう。彼女は己の知らないままに己を堕としていた。『人に平等に流れる時間という概念を捻じ曲げ、遅らせ、限りなく引き延ばす』という、ある種医術の頂点を体現していた。
 ――当然、『家族』たちの眼が変わった。一座に居られなくなるまで、そう長くはなかった。

 今まで一度も寄らなかった町に入って、最初の陽が落ちるのを見た後に、一番の大事を与えてくれたその人から、その事が告げられた。毎年来る、その言葉がただの慰め、気休め、方便である事など分かりきっていた。分かっていたからこそ、頷いた。

 与えてくれた『大事』のおかげで、困る事は無かった。唯一困ったとすれば、名がなかった事だった。
 否、名ならあった。養父がそう呼んでいた名なら、あった。クリュテという音は、だが家族の中でしか通用しないものだと思っていた。
 彼女を町に受け入れる事を、その理由も含めて全てを了承した長老は、それを知って、そしてすぐに与えてくれた。
 『クリュテ』。
 意味など無い。含意など無い。ただ識別、個人を見分ける為の音。『家族』が彼女をそう呼んだ音。
 ――嬉しくないはずなど、なかった。

 クリュテと呼ばれながら、彼女は薬草を集め、育てて、薬を作って人を癒しながら、ただひたすら待った。ここに来たのは冬の事だった。だから冬が来ればと信じていた。『家族』の長に恥じないようにと、よりすばらしい医師があると聞けば行き、客が訪れれば訊いた。そうしていつの間にか、『クリュテ』という音はは智慧を指すようになっていた。

 ――それでも彼らは来なかった。それでも、彼女は待ち続けた。七つ目の冬を数えた時に、名を与えてくれた長老が息を引き取った。病も怪我も無い、医師にはどうする事も出来ない、老衰だった。

 その町にも、すぐに居られなくなった。七年を数えて、やはりクリュテはほとんど成長していなかった。呪う事は止めたのに、引き延ばされたそれが戻る事は無いらしかった。
 五年が限界なのだろうと、彼女は判断した。四年か五年かごとに、住む町を変えた。成長と同じでゆっくりとしか伸びない髪を長く伸ばして、一度住んだ町には近づかないようにし続けた。幸い医者は何処も数が少ないか、あるいは居ないかだったから、暮らすのに不便は無かったが、ただどこかで諦めていた。

 いつだったか、どこかで一座と出会した。
 ――唯一面識のあった老女が、『魔女』と彼女の事を呼んだ。冬に一座から出されて、一人で生き始めてから、既に三十年が経っていたのに、自分より小さかった子供が、自分より年老いた長老になっている事で、彼女の中で何かが変わった。……抜け落ちてしまったのかもしれない。

 薬を作り続ける事に集中した。町を移り渡る事を止めた。怪我人や病人以外と接する事を止めた。そうしなければならないという強迫観念めいたものが植わっていた。求められる事だけが、存在意義になった。
 薬と医術、そして知識を溜め込む事にほとんどの時間を費やした。費やす中で、魔術を知った。様々な手法、技法、効力。それでも、彼女の身にある『呪い』はわからなかった。
 せめて体系付けようと、試みた。結局分かったのは、彼女の意思による、という事だけだった。

 成長しない、という事が緩やかに知れてから、時折不老不死を求める人間が訪れたが、彼女は一切相手にしなかった。彼女自身が相手にしたくなかったことと、彼女のこれが『不老不死』では無いという事が、分かりきっていたからだった。
 彼女は、非常にゆっくりではあるが、確実に時を経ている。無理をすれば身体の調子も崩れていく。だから彼女は、これは不老でも不死でもない、ただの強制的な『延命』だと意味付けていた。
 当然、理解はされなかった。次第に避けられ、遠ざけられるようになっていった。緩やかに平和な時もあった。誰かと語らう事も知った。だがそれも不変でない事など分かりきっていた。

 火によって全てを焼かれたのは、ただの始まりだった。
 火をかけたのは、町の子供達だった。

 名を隠して姿を消した。持たざる中でなんとか生き延び続けた。その為に、『己』を隠した。衣服を変え、表情を変え、言語を変え、言葉を変えた。唯一誇りとしていた薬と知識も、必要なら無知に徹した。
 何にでも『成』った。おおよそ思いつく限りの全ての人間を模倣した。しなければ、生きられなかった。色を売る以外なら何でもやった。それは最後の矜持だった。何でも出来るように、知識を喰い続けた。時には乞食になった。時には貴族になった。時には王妃にもなった。
 『仮面』だと、見抜いた人には評された。見抜いてもその実を見られた訳ではない、察せられたわけではないということに安堵して、安堵した事に虚無を覚えた。

 ――『私』とは『何』なのだろう。
 ――『私』が此処に『居』る理由とは、何なのだろうか。
 ――いやそもそも、『私』が『私』である必要が、あるのだろうか。

 ――それは、『嫌だ』。
 ――消えたくない。
 ――無くなりたくない。
 ――『在り続けたい』。

 いつだったか、些細な事で誰かと口論になった。その時は、そういう人格、人間の『仮面』だった。
 いつの間にか、仮面は剥がれ落ちていた。深い怒りを自覚したとき、彼女は自分が『そこに居る』と直感した。
 自然、それを求めるようになった。次第にまた、迫害が勢いを増していた。

 何度も捕らえられた。おおよそ思いつく限り全ての方法で殺されかけた。逃げ続けた、生き続けて、そのうちに忘れてしまっていた。

 ――私とは、何だったのだろう。





 逃げて、生きて、逃げ続けていた雨の夜、雷を背に聴きながら、雨の中で女は震えていた。
 あの刃だけは、駄目だ。そうわかっていた。あれに僅かに捕らえられただけでも、自分は死に至ると、そう理解していた。だから逃げ続けていた。
 『仮面』が抜け落ちた時から、『姿を消す』事が出来るようになっていた。だからそれで夜陰に紛れようとして。

 ――そこで、始めて会った。全身に文様を刻んだ姿の男。ただ掌を向け、握るだけで『人間』の命など簡単に奪う存在。
 名を訊かれたときに、去来したものは、確かにかつて失った『名』だった。だがそこに、その場に、既に『クリュテ』など、居なかったのだ。
 在ったのは、唯一明確な感情。『世界』に与えられたものの中で、一つだけ彼女の中に残ったもの。

「『憤怒(Ira)』」

 『無我の世界』は、明確な形をもって、己の許にある。
 だから、いらない。人の世界など。排斥しか知らないそこでは、わたしは『在れない』。

 『人の世界』に求められないのであれば、己が己に『罪』を求めよう。
 世界を呪う。呪う、故に頂点を。並び立つ唯一絶対の『座』を奪おう。

 ――それがただひとつ、残された場所だった。
 ――魔女には、罪には、彼女には、もうそれしか残されていなかった。
 ――『世界』への幻想に折れてしまった女の、現世での最後の『生への執着』。

 ――『座』は『憤怒』、『罪科』は『無我』。故に怒りによって、地に根を張る、黒の魔女。



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