草を踏む音が聞こえても顔は上げなかった。すぐ近くまで来たそれが一度止んですぐ傍に腰を降ろすのがわかって、それで少しだけ腕をずらして見やる。見慣れた藍色と、腰に儀式剣。斬るためではない、形だけがそうと固定された、宝珠の形のひとつ。
「もう日暮れてんぞ」
「知ってます」
 出した声は思ったよりもしっかりしていた。ほんの少しの煙草の匂いが流れてくる。年のせいなのか、深みのあるような声。
「泣いてるか」
「泣いてないです」
 腕と膝に顔を埋めたまま言い返す。風が冷たいのが寒くて、更に背を丸めた。
「……ただちょっと、落ち込んでるだけです」
「それなら、もう戻ったらどうだ」
「……」
 大勢が探しているというユゼのそれには無音が返されて、彼は白い煙を空に向かって吐き出す。太陽の光の完全に失せた空の低い位置には、ぼんやりとした光を放つ月が見えた。
「……そうだなぁ」
 整えられた林から、葉を透かしてその少し欠けた円を見やる。少し考えてから、ユゼは口を開いた。
「例えば、もっと平凡な茶やら青やら赤だったとして、そうすれば確かに、お前はもっと普通寄りの生活が出来ただろうな。師団が付く事もなく、知らないうちに王族に組み込まれる事もない。大公にもならなくて済んだし、王宮の中で常に厄介者扱いされる事もない」
 細い紙と草の筒を灰に変えていく小さい火を見下ろす。指で軽く揺するように叩いて灰色を落とせば、それは暗い中の緑の中に埋れて見えなくなった。
「魔法をずっと知らずに生きる事が出来たかもしれないし、どっちみち魔法使いにはなったかもしれない。街の中で何にも加わらずにいたかもしれないし結局は協会に入る事になるかも分からないな。それも西じゃなくもっと別の場所かもしれないし、あるいは紅軍かもしれない。うまくいってれば師団に入る可能性もあるし、魔法院で研究漬けをしているかもしれないな」
 指に挟んだそれを口にくわえる。そのまま深く吸い込めば強い苦みと僅かな清涼感が入り交じる。吐き出した煙の行方を眼で追って、紫煙が消えたのを見送ってからちらと横目を向ければ、小さく縮こまらせた背には飾り紐が絡み付いたままの髪がわだかまっていた。普段なら絶対に、そんな事はしないのに。
「そういう風に生きられてれば、紫銀を殺しにくるような奴もいない、利権争いで自滅する馬鹿ももう少しは減ったろうな。ラシエナは禁忌に手を出したりなんかしなかったし、レティシャもトーリャもカルドも、ディウスも、クォルクも、死なずに済んだ」
 何の音も無い。視界の端で淡い色が僅かに揺れたようには見えたが、ユゼはそれには何も言わずに煙草の火を見やった。
「全部、仮定の話だな。結論は出きってる。今いるのは蒼樹の黒服で魔導師で、キレナシシャスの王族の一人で、大公で、紫銀だ。お前に関わって死んだ奴も大量にいる、師団連中も犯罪者の奴らも死んでる。今生きてる奴もいつ死ぬか分からないし、それは俺だってそうだ」
「わかってます」
 小さい声が割り込む。無音の中を待っていれば、呟くように零れ落ちた。
「わかってます、……結局、逃げたくて逃げてるだけです」
「……逃げてる、って自覚はあるんだな」
「全部人のせいにするほどあつかましくないです」
「茶化す所か」
 紫煙を吐き出す。俯いたのは変わらないまま、手が袖を握り締めるのが暗闇の中に沈んで見えた。
「……何か出来るって思ってました」
「じゃなけりゃ、神殿から出ようなんて思わないだろうな」
「でも、神殿の、紫銀の大公のほうがよほどじゃないかって」
「まぁ、なぁ」
「……師団なんて嫌いです」
 ユゼはそれには苦笑する。手を伸ばして、銀の頭を撫でやった。
「……聞いたか」
「規模と被害を総浚いしてるときに、見つけました。三十七人、ですか」
「昨日新しい報告が来たよ。また十二人死んだ。重傷者で言えば百以上……全部、魔法院の命令に丸のまま従わずに、人員の足りないまま交戦した馬鹿共だな」
「大っ嫌いです、馬鹿やる人も、勝手な事する人も」
「……お前のせいじゃないさ」
 後手に回ってしまったのは、事実だ。だがそれは中枢も師団も同じ事。まして王宮から離れていた紫銀が即応できないなど、わかりきった話だ。それが良いか悪いかは別としても、団員が死んだ事と大公とは、直接繋がるものなど無い。
「……でも、何か出来たはずなのに」
「それも仮定だ」
 即座に返して、もうすっかり短くなった煙草に眼を落とす。懐から革の袋を取り出して火を押し付けて消して中に入れ、もう一本を取り出した。火をつけ、一口大きく吸い込む。
「……中途半端なんだよ、お前は」
 吐き出す。風にさらわれてすぐに消える。
「神殿のも全部抱えて、協会にまで行って、それでまるきり全部出来るとでも思ってんのか? 猛反発喰らってでも出るってんなら、神殿を捨てれば良かったんだ」
「無理ですよ」
 掠れたそれに視線を向ければ、風に流された髪が肩から落ちて、細い首が垣間見えた。息をついてクロークの留め金を外す。
 重さのある藍色のそれを頭から被せておいて、小さい身体を膝の上に抱え上げる。丁度肩の当たりに来た頭をあやすように軽く叩いてやれば素直にしがみついてくる。ユゼは少し迷って、結局付けたばかりの火を消した。灰に残った微かな煙を全て吐き出す。
 食い違いなど、本人が一番良く分かっている事だろう。自分の色を否定したいのは自分なのに、してしまえば立てなくなる。――失うのが、色だけであるのならば、それで良かったが。
「……でもなぁ、俺は俺で、クォルクとの約束は果たしたいんだよな」
 藍色の中に沈み込んだ銀色を撫でた。胸元を握り締めた手のすぐ近くには、師団を預る証の龍泉の首飾りがある。遺志と共に残された唯一のもの。
「だから、誰の影響でもいい、決まるまでは神殿か協会か、どっちかには居てくれないか」
「……嫌です」
「フェル、」
「団長なんて知らない」
 手に力がこもるのが分かる。ユゼが黒い空を見上げて、そして細く息を吐き出した。



 暗い中に何かが見えて、通り過ぎようとした視線を慌ててそこに引き戻す。それが何であるかを視認して、クロウィルは安堵したように緩く息を漏らした。
「親父」
「ああ、来たか。こっちだ」
 隠形を解いて声をかければ呼びかけられる。その軽い調子に眉根を寄せた。
「来たか、って……こっちはさんざ」
 探したのに、と言いかけて言葉を切る。抱き抱えられた痩躯が力を失っている様子に何事かとユゼを見やれば、彼は彼女を腕に抱えたまま器用に肩をすくめてみせた。
「泣き疲れ」
「……何やったんだよ」
「なんで俺が何かした事前提なんだよ……まあそうなんだけどな。ちょっとつついちまった、クォルクの事とかな」
 思わず眼を見開く。ユゼは今は眠っているその顔を見下ろして、そして片手でクロウィルを手招く。怪訝な色を強めながらもそれに従って、背に流れるクロークを手繰りながらすぐ傍に膝をついた。促されて、手を伸ばす。
「……何で、前団長の事なんか」
「まぁな。話の流れだよ。フェルも色々悩んでるみたいだからなぁ……」
 ユゼの腕から力の無い身体を抱え上げて、立ち上がる。ユゼがまだ座ったままなのに眼を向ければ憮然とした表情で首を振られた。痺れたのかと見て、クロウィルはその足を靴で小突いた。
「ッ、お前な……!」
「人の労力無駄にした等価。報告はしとく」
 言い放って背を向ける。後ろで悪態をついているのはさっさと無視を決め込んで、あまり揺らさないように気をつけながら神殿へと向かって足を踏み出し、すぐに隠形に移る。途端全ての感触が僅かに遠のいて、すぐに戻って来る。音が膜を通したようくぐもった響きになって、隠形していない人間がどこか淡く光を纏っているように見える以外には、普段と変わりはない。こちらの気配も姿も完全に隠してしまうこの特殊な術式は、使用者が身につけているものや触れているものにも作用するから、腕に抱えた彼女も今はこちら側だ。
 ちらと見下ろす。すっかり意識は無いのか閉じた目元が、やはり赤く染まってしまっているのが分かった。暗い中でもそれが見えるのは雪の雲もなく上がった月のせいだろう。樹々の梢よりも高く上がったそれは真円に近い、あと数日で満月を迎える。
 灌木をそのまま踏み越えて、小さい林を抜ければすぐに神殿が見える。ほんの少しの間どうするかを迷っていると、少し遠くにぼんやりとした光が見えた。足早にそちらに向かう。
「レゼリス」
《……クロウィルさん?》
 どこかくぐもったような声が聞こえてくる。視線をゆっくりと巡らす彼には悪いと思いながら、そのままでクロウィルは口を開いた。
「見つけた、けど障りがあるから、このまま奥に入れないか」
《……分かりました、神殿の者に伝えて参ります、どうぞそのまま》
「助かる、……悪いな」
 レゼリスはそれには、いえ、と苦笑して、そしてすぐに踵を返す。その真反対に向かって行けば東翼と繋がる回廊とは別の扉。警備に立っている数人を横目にしながら、そのままその扉をすり抜けた。明かりの点された無機質な廊下を進んで、神殿の中央にある祭壇の間を横断してまた別の扉を抜けた。短い道の先には絨毯の敷き詰められた廊下が左右に伸びて、正面には階段が上下に向かって伸びている。
 振動の少ないようにという事だけは気をつけて、そのまま三階へと上がる。奥まった一室の扉を抜けるとそこに一人が見えて、隠形を解くと同時に気付いた彼女は振り返るなり駆け寄って来た。
「フェル、……なにかあったの?」
「あったはあったけど、眠ってるだけ。怪我は無い」
 安堵と不安のない交ぜになった表情で彼女を覗き込むようにしたイースにそう言えば、それでようやく目元を緩める。寝室にと言うのには頷き返して奥の部屋に入り、仄かな明かりの中の柔らかい寝台に身体を横たえて薄い掛布を掛けてから、音を立てないように扉を閉じる。イースが報告にと姿を消すのを見送って、レゼリスから指示があったのだろう、侍従の何人かが静かに入って来たのには軽い説明をして寝室を示す。ほとんど音もなく手早く必要な事だけを終えて彼らはすぐに去って、そのまま少しの間待っていると、ほんの少し息を乱したフィレンスが唐突に姿を現した。
「……どこにいた?」
「南側の林の奥。親父が見つけておいてくれてたおかげで、そんなに遠くには。……どうしたよ」
「陛下に、足止め喰らってた」
「は?」
 何でと問いかけるがフィレンスは応えないまま奥の扉を抜けて行く。クロウィルは溜め息を吐き出した。
 自分が言えた事ではないが、やはり過保護すぎるきらいがある。順次戻って来る他の数人も程度の差はあれその様子がありありと見て取れて、とりあえずは現状を伝えるだけに留めて待機を指示しておく。もう夜半も越えている、休んでおかなければ日中が辛くなる。それは全員が分かっている事なのだろう、多少逡巡は見せても素直に退がった。
 何回かそれを繰り返して、不意に二人足りない事に気付いた。またかと思って、未だに物音一つしない寝室の扉を見やる。とりあえずは落ち着いたかと判断して寄りかかっていた壁から背を離した。



「おークロウィル。フェル見つかったってな」
「ついでに僕たちも見つかっちゃいましたねスフェ先輩」
「まあここまで隠れられてたんだし良くねえ?」
「……お前ら毎回サボるよな、不良」
「仕事はしてんじゃん?」
 真っ暗な神殿の屋根に転がった影に声を掛けられて、そこからの応酬を聞いてから声を投げ返せば即答が返って来る。息をついてその方へと近づいて行けば夜の中に沈み込んだ藍色が二つ。それに並んで腰を下ろした。完全に寝転んだ方、スフェリウスがそのクロウィルを見やる。
「……フィレンスの様子どーよ」
「落ち着いてるよ、思ったよりも」
「そっか。ならいいか」
「……隊長ももう少しこう、何とかなりませんかね」
「まあなぁ。まぁ、あいつが崩れても副隊長がいるから、正直どうでもいいんだけど」
 辛辣とも取れる言葉を、のんびりとした口調で彼は言う。クロウィルは黒い樹々の方へと視線を投げながら口を開いた。
「……ラカナクとかはまだ落ち着いてるし大丈夫だろ。フィレンスも、判断が鈍る訳でもないし」
「まーなー。じゃなきゃ他の連中はともかく、俺は抜けてるし」
「ですよねぇ」
「だよなぁ……」
 いつも眠そうにしていて気の抜けたように見える彼は、護衛師団には珍しく、その力を買われた団員ではない。買われたのはその思考と、そして彼の背後にある巨大な人脈だ。強大な組織の力による画策とそれを確実に成功させるだけのものを持ち合わせている。その協力を望まれたから、望まれた分を望まれただけ提供する、その為だけの団員。何にも執着しないからこそ、歯止めにもなるが。
「ついでに言えば僕はスフェ先輩がここが良いって言ってるからいるだけですしね」
「師団に入ってまで俺について来たお前もお前だよなー。でもそうは言いつつ、フェルの事気に入ってんだろ?」
「否定はしませんけど。でも先輩達がそこまで過保護になる理由が理解できませんしする必要も無いと思ってます」
 屋根の傾斜に座って両足を投げ出したジルファが眼を細めてクロウィルを見やる。クロウィルは眉根を寄せた。
「……色々あるんだよ」
「色々としか答えませんよね」
「言えるかよ」
「もしかしてないんですか、理由」
「……やっかむなってジルファ。ほんとフェルには色々あったんだって、第二の連中は」
「例えば?」
「自分のせいで死んだ妹と名前が同じだったり」
 スフェリウスはやはり、何でも無いような口調で言う。ジルファの視線にはクロウィルは俺じゃない、とだけ答えて、その答えに彼は眉根を寄せた。
「……でもそんなの、ただの身代わりじゃないですか」
「本人も分かってるだろって、だから言わねえんだよ。そこまで馬鹿な子供がいられる場所でもないしなぁ、ここ」
「……でも」
「ま、仕事だろ? 理由が必要かって」
「詭弁です。論点すり替わってます」
「おんなじおんなじ」
 ジルファはそれに小さく悩むように唸る。しばらくの無音、流石にこの冬空の下をじっとしていると寒いなどと思っていると、溜め息に続いてジルファが呟いた。
「……矛盾ばっかじゃないですか」
「人間の全部が全部理論で割り切れるわけないだろ。お前じゃないんだから」
「人を術式みたいに言わないでください副隊長。僕無機物じゃないです」
「……魔法って有機だろ?」
「そういう意味じゃねえよ岩石が」
 吐き捨てられてクロウィルは乱雑に髪を掻き混ぜた。魔導師めんどくさい。スフェリウスが小さく笑う、それを睨みつければ気付いてか彼はにやりと笑った。
「……羨ましいんだぜこれでも?」
「……知ってるよ。俺だって羨ましいよお前の事」
「悩み事は少ないけどなー確かに。俺そういう意味で他人好きにならねぇもん」
「そういう意味じゃない」
「知ってる知ってる。知ってて言ってる」
 空を仰いだ。手に負えないと零せば二人分の笑い声。スフェリウスの戻ればという声に、クロウィルは素直に立ち上がった。




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