気付いたら調練場で毛布を被せられて眠っていて、暖かい何かの匂いで目が覚めた。
「起きた?」
 声が聞こえて眼を瞬く。ぼんやりとした視界のまま、床、絨毯を押しのけるように身体を持ち上げると、小さく笑うような声。横になって座ると揺れるような重い心地がして、思わず眼を閉じそうになった所に白い手が頬に触れた。
「何時間やってたの、ほら」
「少なく見積もってもあのあと二十時間はやってたかねぇ、俺が寝て起きてもやってたし」
「それって貫徹……ああほら、フェル。起きて」
 視線を外した隙に眼を閉じてしまったのを見て、フィレンスは苦笑しながらフェルのすぐ傍にしゃがんでその頬を軽く叩いた。抗議するような小さい声、紫がぼんやりと金を見上げた。まだ朦朧としている様子のその手を取って、大きなカップを持たせる。寝ぼけてはいるようだが、それが何かは流石にわかったらしく、何も言わない無言のままスープに口をつけるのを見やってから息をついて反対側へと振り返った。
「最低限、水だけは取ってたって聞いたけど、本当に最低限だねエーフェ」
「だってこいつ梃子でも動かねえんだもん」
 答える彼も、今は肩に毛布を被り、その膝の上では妖精がいくつか丸まって眼を閉じている。調整をしていたのだという彼は、眼を上げるとそのままフェルの方を見やった。
「普通五時間粘って駄目だったら気分転換くらいするもんだぞ、いくらなんでも」
「集中力だけは馬鹿みたいにあるからねぇ……」
 フェルは暖かいそれをゆっくりと傾けている。ちゃんと飲めているのか不安になるほどゆっくりだが、元より寝起きが良い方ではないし良い時も良い時で問題がないわけではないから、それがないよりは良いだろうと思っておく。黒服は脱いだ格好で肩に掛かった毛布を引き寄せるようにして、それでようやく紫が上向いた。
「……おはよう、フィレンス……」
 はっきりとしない声音、あからさまに寝起きといった様子のそれには、しゃがんだ膝の上に頬杖をついた。
「おはよう、って言ってももう昼過ぎてるけどね」
「……?」
「隠りっきりだって聞いたから物資供給と様子見に来たの。一回中断して、休憩」
 揺れて下を向いた顔が、こくりと一度頷く。スープを嚥下する作業に戻ったのを見てからエーフェを見やれば、彼は傍らの時計の盤に眼をやって唸った。これも昔は機械の類に属していたものを、妖精の力で動かす魔術機構として再構築したものらしいが、それでもどことなく無機質な塊には違和と不審を禁じ得ない。エーフェは察しているのだろうが何も言わずに、そうだな、と呟いた。
「俺は良い。色々調整個所も見つかってるし、食事も届けてくれたしそっちで済ましとく。悪いな、魔法知識が全っ然無い騎士って、そうそういないだろ」
「見つかったのが奇跡ってくらいいなかったね、案外皆知ってるみたい」
 声を掛け、適当に問いかけた内容に疑問符を浮かべたロイは、頼んだそれには何の疑問を抱く事も無く達してくれたようだった。恐らくここに入って、驚きはしただろうが。
 おいしかった、とぼやけたままの声が聞こえて立ち上がる。先に皿を受け取ってから手を伸ばして、伸びて来た手を掴んで支えてやればフェルは素直に立ち上がる。軽い音を立てて落ちた毛布の下から下敷きになっていた黒服を引っ張り出して、そうしてからゆるりと周囲を見渡した。
「……コウは……」
「談話室。でもその前に身体暖めないとね……外吹雪いてるから、暖房利きにくくなってるみたい。こっちは端の方だから尚更だし、温石とか要る?」
 後半は座ったままのエーフェに向ける。フィレンスの問いかけには、彼はこいつらがいるからと膝の上の妖精達を指差してみせた。大丈夫だという事だろうと思って、じゃあ、とフィレンスは眼を擦るフェルの背を押して促した。



「そういえば、エクサさんって誰と組んでるんです?」
 今日は寒い。分厚く絨毯を敷いたとはいえ底冷えのする調練場から部屋に戻って、冷えた身体を湯浴みで暖め直した頃には眼もすっかり覚めていた。任務を終えた後の恒例となりつつある談話室での自由時間の合間に、隣接された小さい給湯室でやはり恒例となりつつある紅茶の準備をしながら、フェルは隣に立つエクサを見上げて首を傾げる。丁度陶器を持ち上げた所の彼は、その問いに眼を瞬かせた。
 調練場、というよりも、もう既に一つの部屋として使われてしまっているあそこに隠っているうちに、日は越えてしまっていたらしい。長官から通達のあった翌日の、既にその夕方を迎えていた。学院からの編成案は朝の内に通達があり確定したらしいが、訓練中であるという事を伝え聞いていたのか、主に他の黒服達が調整をしてくれた様子だった。目先の事に集中するようにとそれとなく言われて、それに甘える事にしたのがつい先程の事。
「言ってなかったか。俺は今は、本来なら休養期間中でな」
「……そう、なんです?」
「特別に深刻なわけではないんだが。日常生活には支障はないから、他の組の援護と、それもない時は訓練の相手をしていたり、学院に臨時で教えに行ったり……色々してるな、今は」
 紅茶の缶を取り出して中身を確認し、ポットの中に適量を入れながらエクサは言う。フェルは火の様子に眼を戻した。少しの無音、彼が小さく笑う。
「深刻ではないと言っただろうに」
「う……でも」
「何のことはない、欠落に罹った後遺症が長引いてるだけだ」
 もう一度彼を見上げる。鳶色の髪を揺らして肩をすくめる仕草に、ほんの少しの安堵と共に眼を戻した。汲み上げたばかりの冷たい水は地上に保存しておいたそれよりは暖かいが、それでも沸騰するまでは時間がかかる。
 経路消失症や欠落症と、魔法使い達は呼んでいる。正式な名称はともかく、引き起こされるのはその呼び名の通り魔力経路の消失だ。ある日あるいはある時に、唐突に魔力の一切が消え失せる。体内に残存するのは肉体を構築する氣のみとなり、魔法を使えば即座に消滅する危険がある程の、一種の病気だとされていた。
 病気にしてはその性質は不可解で、原因も発症条件も不明で治療法も無く、突然罹患し唐突に元に戻る。一時的なそれは人によっては数日から数年間に及ぶ事すらあり、今ではほぼ全ての人間が気付くとも気付かないとも、生きているうちに必ず一度は罹るだろうと言われているものだ。
「俺は、症状自体は二ヶ月くらいだったな。それで直って元に戻ったんだが、どうにも勘が戻らない……というよりは、魔力経路の幾つかが閉じてそのまま戻ってないみたいでな」
「……大丈夫なんですか、それ」
「大丈夫じゃないから休養中、だな。それでも最近になってようやく殆どが戻ってきたから、それで長官にはそろそろとは言っていたはそうなんだが」
「で、最初っからあれ、ですか」
「だな。……精霊にも嫌われたみたいだから、あと少しと言っても調整には相当かかるはずだったんだが、そんな悠長な事も言っていられないらしい。今度仲立ちしてくれないか」
「私で良ければ、是非。……でも大丈夫でしょうか、精霊達こっちが無視しちゃうと怒りますし……」
「無視も何も、魔力経路が消えれば精霊も見えなくなるんだから仕方がないだろうとは言いたいんだが。まあ、そんなこんなで魔法も丸ごと調整が必要で、前線に戻るのに難儀しててな、相方はその間辺境の長期任務に当たってる」
「長期……じゃあ、会った事ない、です?」
「多分はな。……恐らく向こうにも話は伝わっているだろうが。鏡が通じているから、双方の状況はかなり密にやりとりされているし」
 その言葉と窺うような眼には、なんとも言えない気恥ずかしいような申し訳ないような、そんな心地を覚えながらフェルはえへ、と、肩を寄せるようにしてはにかむ。人見知りではないのだろうが、初対面はやはりどんな人が相手でも緊張するのだという事が、蒼樹に入ってからは多数の人に知られていた。下の戸棚から重い銀盆を取り出しながら、声は彼に向ける。
「……今回の編成で、平気、なんです? エクサさんは」
「だと言っただろう? 精霊への申し開きは早急にするとして……フェル、噴いてるぞ」
「え、あっ」
 唐突なそれに、火に眼を戻せば薬缶の口から沸騰した泡が吹き零れていて、慌てて火勢を抑える。竈の中から火の精霊の顔が幾つか覗いているのを見つけて、だからこんなに早いのかと苦笑しながら、布を使って熱い薬缶を持ち上げ注意深く湯をポットに注ぎこむ。
「しかし長官にもそう伝えていたとはいえ、最初にこれとはどう考えても難題だな」
「あの内容は万全でもきついですよねぇ」
 冷たいカップにも注いでから薬缶を戻して、それで精霊達には少しの魔力を差し出す。淡い光を象ったそれに手を伸ばして受け取った彼らは、そのまま給湯室の扉を突き通るようにしてどこかへと消えて行った。談話室の暖炉の方に戻ったのだろうと見て竈を見やれば、そちらの火は既に跡形も無く消えている。見送ったエクサがカップの湯を捨てて、軽くポットを揺らして様子を見ながら言った。
「四日使えるだけまだ楽という所かな。砂糖どこにある?」
「上にありますよ。でも四日って、使ってみると以外に短いですよね、宝珠の調整とかしてると」
「それだなぁ、問題は」
 ポットの中の葉を取り出してからそれらを纏めて銀盆に載せて、乗り切らない角砂糖の瓶をフェルに持たせてエクサは扉に向かう。それを潜って談話室に戻ると数人の話し声がして。本棚の間からテーブルの方を見やれば彼はうわあと呻いた。
「何か増えてんな……カップ足りないぞ」
「おー、ありがとな二人とも」
 答えたロードが茶器を受け取って奥の方から手渡していく。足りないという給仕の声には、珍しく座ったままだったフィレンスが腰を上げた。
「他の出してくるよ」
「ああ、いい、持ってくるから」
「予備の置き場所知ってる?」
「……すまん、任せた」
 エクサのそれには彼女は小さく手を挙げるだけで答えて、テーブルの上の銀盆を拾い上げて入れ替わりに本棚の合間に消えて行く。フィオナがそれを見て、ふふと笑った。
「フィレンスさん、お茶好きですからねぇ」
「お茶だけじゃなくて料理全般よね。これだってそうでしょ?」
 フィオナと並んで湯気の立つそれを手にしたユーリが、テーブルの上のクッキーを指差しながら続ける。先にとロードが渡してくれたのを有り難く受け取ったフェルは、絨毯の上に寝そべっていたコウが足元に擦り寄ってくるのを膝の上に抱き上げてから柔らかい香りを立てるそれをゆっくりと一口嚥下して、そうしてから息をついた。
 談話室に紅茶や焼き菓子が姿を見せるようになったのは、最近の事だそうだ。以前の事は、フェルには良くはわからない話題だが、時期を聞いて納得した部分もある。同時期から食事時でもないのに厨房で数人が作業し、その成果が方々で振る舞われるという事も、時折起こっているらしい。
 戻ってきたフィレンスが、水は駄目だとぼやきながらセオラスに後の作業を押し付けるのを眺める。なんとなく暖かいものを感じながら紅茶を少しずつ愉しんでいると、隣に戻って来たフィレンスがそれに眼を向けて、そして軽く首を傾げた。
「……フェル、どうした?」
「今ちょっとほくほくしてます」
 疑問符が浮かぶのがわかったがそれ以上は言わない。対岸、斜めの位置のエクサと目が合って、彼が面白そうに笑うのには、に、と笑って返した。それだけで終わらせておいて、後は周囲の雑談の声に耳を傾ける。暫くそうするだけの暇。
 昼のうちはフィレンスと外に出ていたコウは、今はフェルの膝を枕にして眼を瞑っている。暫くは大人しくしているしかないと分かっている様子だとフィレンスは言ったが、それにしてもと少しばかり思うのを、口には出さないままその柔らかい鋼色を撫でた。
 扉の開く音がして、数人の視線がそちらに向くのが視界に入る。それに遅れて振り返れば白い衣装の男性が丁度扉を閉めたところで、その彼は暖炉のすぐ近くに据えられた一番大きなテーブルの周囲に集まった彼らを見て眼を瞬かせた。
「また群れてるな」
「……えっと、キールさん」
「正解」
 呟いた彼はフェルのそれには短く言って、ソファの後ろから手を伸ばして言い当てた銀を乱雑に撫でる。その扱いになんだかなぁと思いつつも、その感触が嫌いなわけでもないと黙っていると、ロードの誘いかけには軽く手を振って断りながら、キールはその場を見渡した。
「オラント……は、ここにもいないか。誰か見なかったか、夕方頃から見てないんだが」
「調練場の方行くの見かけたけど。屋内の方」
 問いに彼を見上げたフィレンスが、膝の上に移動してきたコウを抱えて、その前肢を振りながら声を上げる。キールはそれで、ああと声を零した。
「だから見なかったのか……ありがとうな、助かる」
「任務?」
「明日のな」
 短いやり取りだけして、それで彼はすぐに扉の外へと消えて行く。視線を戻した二色を見上げて、コウが濁った鳴き声を上げれば、それでようやく気付いたフィレンスが前肢を放した。苦笑したフェルが元のようにと自分の膝の上に抱え上げれば、抱えられたそのまま頭を肩にすりつけて眼を閉じた。
 落ち着かないのだろうかと、何となく思う。魔法使いにとってエーフェの有する技術が衝撃であるように、コウ、『異種』にとってもそうだろう。あるいは魔法を使う魔法使いよりも『異種』の方がより物事の中心には近い、それもあるのかもしれないが。
 エクサが少し手を伸ばしてそよぐ耳の先を軽く引っ張るのには、長い尾が手を弾いて拒否が明確に示される。事あるごとに鋼の色を弄ろうとするセオラスに対しては、コウも段々と遠慮が無くなって来ていた。フェルは小さく笑う。
「セオラスさんコウの事好きですよね」
「好きっていうか気になるだろ、やっぱり、こう。魔導師として」
「どのあたりがです?」
「だって人間と共存が可能な『異種』ってそうそういるわけでもないし、そうそう会えるもんでもないしさ。興味の対象。何をどうするとは思わないけど」
 言いながらも、既に手は引いている。嫌がるそぶりが見えればすぐに引くから、コウの方も嫌ってはいない様子だが、そのあたりは本人に聞いてみない事にはわからない事だ。それこそ、自分がどう思われているのかも、フェル自身にはわかりようもない。
 この訓練が終えれば、どうなるのだろうかと。ほんの少しぬるくなった紅茶を口に運びながら、思う。




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