思わずクロウィルを見上げれば、彼は出されたその束の中の数を確認して、差し出した男性に頷き返していた。
「渡しとく。ラシエナの方はこれからちょっと数が多くなるかもしれないけど、都度で届けてくれないか」
「急用かな。わかった、確実に届くようにするよ。東の方は大変だと聞くからね」
「頼む。あ、あと、サーザジェイルって、これな」
 これ、と言いながらクロウィルは振り返ってフェルを指差す。おや、という眼には声すら出ないまましどろもどろになりながらも、フェルはもう一度会釈を返した。男性は、なるほど、と笑みを浮かべる。
「丁度だったかもしれないね。昨日来た隊商が届けてくれた中にあったようだから」
「そう、です?」
「運が悪いと一ヶ月もここに置き去りって事もあるからね。ある程度溜まったら届ける事になってはいるけど、見落としも無いとは言えないからね。不通となると両方にとって悲しいから、たまにでいいから様子見においで」
 言って差し出してくれたそれを受け取る。束ねられた手紙は二通。荷の方は、丁寧に油紙で包まれているようだった。
 ありがとうございます、と言えば彼はにこりと笑む。じゃあ、とクロウィルが踵を返すのを追いかけて扉を外へと抜けて、そうしてから一度郵便所の看板を見上げる。横からクロウィルの声。
「名前を伝えれば出してくれるから、特別に何か身構えたりはしなくて良いな」
「はい。……サージェの方に何か来てるとは思いませんでした……」
 手紙を手に持ち上げる。蒼樹に来る以前から、魔導師として使っている名前だ。いくつかの論文の発表に使った程度で、魔導師以外のほとんど誰にも知られていないが、街の登録に使っているのはその『サーザジェイル』の方だから、手紙が来るのもそちらだろうし、本名はどうしても使えないのだが。どうにも失念していた。
「誰からだ?」
 問いかけられて、二つを括ってあった麻の紐を解く。そうしてから改めてそれらを持ち上げて見てみれば、確かに表書きにはサーザジェイルにという宛名。一つ目、白い封筒を裏に返せば、思わず苦笑が零れた。
「……カティアル様」
「ああ……やっぱりな」
 エジャルエーレの当主、『サーザジェイル』の後ろ盾をしてくれている彼からだ。クロウィルの声にも苦笑めいた色が浮かんでいるのを聞きながらもう一つ、こちらはざらざらとした薄茶のその裏を見て、一転フェルは眼を瞬いた。覗き込んだクロウィルも、あれ、と声を落とす。
「……レゼリス?」
 確かにそう書いてある。言われて表書きを見れば、言われてみれば見慣れた筆跡。
「……です、ね」
「……珍しいっていうか、わざわざ隊商に載せて送って来たのか?」
 いくらでもすぐに届けられるだろうに、というそれにはフェルも同じように疑問符を浮かべる。差し出しの名はレゼリス・ルディス、雪騎士には家名が無いそのままだ。少し悩んで、フェルはクロウィルを見やった。
「……ちょっと良いです?」
「俺は急ぎじゃないしな、良いよ。……ちょっと向こういくか、座るとこあるし」
 確認をしたいと言えば、彼はすぐに頷いて返してくれる。背を軽く押されてそちらへと踏み出せば、ちょうど向いた視線の先にはベンチがいくつか並んでいた。どうやら市場と公園とが一緒になっているらしい、往来する人は何となく昼に比べて落ち着いているような雰囲気で、どうやら何人かがそこに腰掛けて談笑しているような様子も見える。促されるまま簡易な木のそれに腰掛けて、そうしてから薄茶色をしたそれをもう一度見やる。青い封蝋にはただの円が二つ重なっただけの印が捺されていた。簡易印、神殿の物の中でも侍従達が使用を許されている一つだ。あまり一般には、そうとは知られていないが。
 封に挟み込まれた赤い麻の紐を引っ張って封を割り、包まれていた便箋を取り出す。見慣れた、整った字。
「……なんだって?」
「……侍従達に脅されたので書きます、って」
 書き出し、一番最初に書いてあったその一文に、思わず苦笑する。レゼリスは公私をきっちりと別けたがる、自分からこうして書く事はしないだろうと思ったら。
「あいつも侍従に押し切られる事とか、あるんだな」
「あるみたいですね、珍しい、というか」
 想像するとなんだか少し笑ってしまう。侍従達の大半はあまり強い物言いはしないから、雪騎士の団長に迫ったのは何人かだろう、なんとなくその面々も想像がつくな、と思いながら、簡素な、公的な印象など全く見せないその文面を追う。本当に質素な、飾り気の無い書き言葉。
 要旨は単純だった。本当は小包だけで済ませるつもりが、部下達が何かをと言うので添える事になったという事。神殿は滞りないという事がほんの少しの言葉で書かれていて。そして同時に送った小包の中は、師父の届けてくれた香草、だと。
「……師父?」
 横から覗き込んでいたクロウィルが小さく零すように言ったのには、フェルは思わず彼を見やる。眼を見合わせた。文面を、指差す。
「……え……?」
「……え、いや、レゼリスは嘘書かないだろ」
「え、でも……え……?」
「お前それは流石に師父に失礼じゃないか」
 頭をはたかれた。軽い衝撃、痛くはない。良く読めと言わんばかりのそれを合図にしたようにフェルはもう一度文面に眼を落として、もう一度確かめるようにゆっくりと文字を追う。
『これを書く少し前に、師父が神殿まで、フェル様の畑の冬香草を届けて下さいました。水布に巻いてお送りいたしますので、香袋やハーブティに、とのご伝言です。
 長い間フェル様がいらっしゃらないのを怪訝に思っていらっしゃるご様子でしたので、ご勉学の為、とお伝え致しました。どこに、とは、師父はお訊きになりませんでしたから、きっと察して下さっていると思います。』
「畑は、頼んで来たのか?」
「え、と、侍従に、なんですけど……あれ……」
 師父と、そう呼んでいるのは、王宮の中でも神殿の領域とされる庭園をたった一人で隅々まで整える庭師の老人だ。些細なきっかけから、師、そして父と慕うようになり、いつの間にかフェルが呼び始めた『師父』という呼び名が王宮中に広まっていた。無愛想で取りつく島も無いあの庭師を、紫銀の実の父と思う人間も少なくはないし、老人も決してそれを否定していない。かといって肯定しているわけでもないが、だからこそフェルも彼の事を師父と呼び続けている。
 だが、彼は難しい人なのだ。機嫌の良さそうなところなど一度として見た事が無いし、身分も地位も関係なく傍若無人なふうに振る舞う。庭師としての腕は確かで、そのおかげもあって神殿の庭は冬の間も緑が絶える事は無いが、確か何度か貴族との間で問題も起こっていたはずだ。今ではもう、庭園でおかしな事をするような人間の方が少ないが。
「こっちに来る前も会えなかったから、前に戻った時に少し様子を見て、収穫はいつ頃に、っていうのは、侍従には伝えてたんですけど……」
 あの師父がわざわざ自分の仕事の部分でないところに手を出し、その上収穫したものをわざわざ神殿に持って来るとは思えない。だがレゼリスが嘘を書かないだろうというのは、確かにクロウィルの言う通りだ。だからきっとそうなのだろうとは思うのだが。
 小包を持ち上げてみる。さほどの重さは無い。傾けてみても揺れるような事は無いから、きっとしっかりと詰められているのだろうとは分かった。水布でという事は、さほど痛んでもいないはずだ。
 冬香草は扱い方で香りの変わる、あまりない種類の草だ。本来なら料理の香り付けに使われる種類だが、やりようによっては色の無い紅茶にも涼しい香りの香袋にもなる。茎を編んで枕に入れれば、やはり良い香りが長く続く。それが好きで育てていたものなのだが、蒼樹に来る事を決めて、それが決まって、それで収穫は半ば諦めていた。
 師父の事は、簡素な文面の中ではそれだけしか書いていない。最後には、直接協会に届けなかったのはその方がという祭祀長の判断であること、事情を知る雪騎士や神官達も心配している様子であることが書かれていた。時々は報せがあればそういった面々も安心するだろうから、余裕があればという言葉で、一枚分の便箋は締められていた。
 少し、考える。そうしてからクロウィルを見上げた。
「手紙、出す時もここに預けたりとかって出来るんです?」
「宛先伝えれば、そっちの方面に行く隊商なり何なり捕まえて預けてくれる。依頼料は必要だけどな。連絡寄越せって?」
「あると心配な人が安心するだろうから、って」
 小さく笑うような声になってしまった。神官も雪騎士も実直で素直な人が多いから、どうしても心配性に思えてしまう。実際そうなのだろうけれど。クロウィルもそれには小さく笑うような表情を浮かべる。
「レゼリスもだろうな」
「そう、です?」
「だろ、きっと。あいつ顔に出さないの上手いから」
 言うそれに、フェルは眼を瞬いた。軽く首を傾げたクロウィルに、倣うように首を傾げてみせる。
「クロウィル、レゼリスと仲良いです?」
「仲良いっていうか……まあ、良い方かな。休みの時とか合間合間に話したりとかはする、付き合い長いしな」
「……あ、でも、そっか、レゼリスが団長になって、もう随分ですもんね……」
 どれほど、というくらいではない。だが短くもない、七年は経っているだろうか。第二部隊は当然紫銀の周囲に控えなければならない上、雪騎士や神官との情報共有も頻繁に行う為に、繋がりが強い。雪の団長、筆頭侍従であるレゼリスは、尚の事だろう。
「俺らが第二に配属になる前から、だしな、レゼリスは」
「です、よね。何年前でしたっけ、第二にクロ達が来たの」
 途端、クロウィルが翠を軽く瞠るようにして、フェルは疑問符を浮かべた。視線を外した彼は何故か気まずそうに青い髪を乱雑に掻き混ぜるようにして、空いたもう片方の手が軽く銀をはたいた。思わず眼を白黒させるフェルに、視線を向けないまま口を開く。
「七十六年。六二七六年の夏、だな、よく覚えてる。今年が八十一年だろ、だから五年前だ、今年の夏で六年、学校卒業してすぐだな、俺が副隊長になったのは四年前」
「……い、今のは……?」
「……この歳なって愛称で呼ばれるとか思わないだろ普通」
 言われて、はた、と、ようやく気が付いた。無意識だった、とは小さく零しながら眼を落とす。いくらか前までは、そう呼んでいたのだ、ラシエナの事はエナと、クロウィルの事はクロ、と。いつからだったか、それもやめてしまったのだが。
 だが。少し考える。
「……クロ?」
「…………」
 顔を向け、呼びかけてみても、沈黙しか帰ってこない。眼はこちらを向かないまま、だが気まずいだけではなさそうに見えて、フェルは少し身を乗り出すようにして彼の表情を窺った。なんとも言えない、気まずさと、ほんの少し照れるような気恥ずかしげな色が見えた。
「クロ」
 反応が無い、それすら珍しい反応に思える。少し面白い、と、そう思っている間に溜め息の音。
「……あのな」
「だって、無視するから」
「気まずいだろもう成年してんのに。男の愛称って成年前まででギリギリだろあれ」
「クロ」
 瞬間、彼が大きく息を吐き出す。軽く頭を振ったかと思った次の瞬間には、その青と翠が間近に見えて思わず眼を見張った。抱き込むように彼からは遠いはずの右耳に暖かい手の感触、押さえつけるようにして反対側に引き寄せられる。
 覆い被さって来た青が左の耳に擦り寄る。耳朶に熱い吐息と唇の軽く触れる感触、同時に、低く重い声が吹き込まれた。
「――フェル」
 ざわりと漣立つような感覚が背から全身に広がった。跳ねた肩に力が篭る。呼吸が止まる。小包を、抱き締める。瞬く間に熱が顔に上がってくる感覚と同時、変わらず耳元で、吐息だけで笑う声。
「良いな?」
 いつもとは違う、質量のある声に追い打ちのように粟立つものを感じて、思わずその言葉に何度も頷いた。視界の端から青が遠ざかって、ゆるゆると片手で左の耳を押さえる。一転していつも通りの彼の声。
「やるんだったらやり返されるのも考えとけよ、フェル」
「――っ、こんなじゃ、ない、ですもん……!!」
 すぐにひっくり返ってしまいそうな声を押さえつけて、なんとかそれだけを言い返す。どうしてか呼吸まで浅いのをなんとか平静を取り繕っていれば、横からの満足げな声。
「顔赤いな?」
「、誰の所為ですか……っ」
「変な事するフェルの所為」
 変な事はそっちだろう、とは、言えなかった。まるで肌を直接撫で上げられたようなざわついた感覚はまだ抜けない。快も不快もなくただどうしようもないそれを押さえつけるのに必死で、顔を隠す余裕もない。横から手が伸びてくるのが視界の端に映ったのにまた勝手に身体が震えて、それには苦笑が降ってくる。
「そんなに怖がらなくて良いだろ、力抜け」
 とん、と、音を立てて背中を軽く叩かれる。それでようやく全身の何かが緩やかに薄くなって行くのが分かった。続け様に何度か背中を叩くその感触に、肩の力も抜けて行く。
 怖いわけではない。恐ろしさとは、違った。なにかとは明確に言葉にできない、ただ、あの声。押さえた耳までが熱い。
「次からは同じようにやり返すからな」
「……程度が、違いすぎる気が、するんですけど」
「じゃないとやめようと思わないだろ」
 程度が違うのはわざとなのか。思ってフェルがちらと彼を見上げれば、眼が合った彼はにやりと笑ってみせる。慌てて眼を逸らした。そのまま目を伏せたフェルは、深く息を吐き出す。
「……もうしません」
「なら良し。……そんなか?」
 私服でも変わらず手袋に覆われた手に軽く頬を突つかれる。まだ赤いのかと自分でもそこに手を当てて、そして横目に彼を睨め付けた。
「……たらし」
「経験」
 即座に切り返されて、フェルは唇を尖らせる。顔はまだ熱かった。



 眼を開けて、暫くぼうっとしていた。天井の、使い込まれた白木を意味も無く眺める。
「起きたか?」
「……おきた。……たぶん」
 横合いからの声には口が勝手に言葉を返すような感覚で、そうしてからフィレンスは一度眼を閉じる。改めて視界を開いて横を見れば、ラカナクだった。
「……おはよ」
「もう昼も越えてそろそろ十六時だけどな。どうした?」
「……ん、いや。寝てたか……」
「かなりしっかりな」
「…………」
 結局行けなかった、とは、内心に落とすだけでいるうちに横から上着が差し出される。腕をついて身体を起こして受け取る。欠伸を噛み殺しながら袖を通して、髪を撫でつけながらフィレンスは彼を見やった。
「……なにかあった?」
「いや、戻ってきたらフェルが居なかったんでな、どっか行ったのかと」
「ん、付き添いと一緒に買い物だって、二位とかが一緒だから」
「ああ、なるほど。じゃあ帰ってくるの待っとくか……」
 言った彼はそのまま空気に紛れるようにして姿を消す。隣室、フェルの部屋に戻ったのだろうと考えながら、二つ目の欠伸は押さえられずにそのまま口元を覆う。大きく息を吐き出しながら、左眼を擦った。
「……着替えよ……」
 小さく呟く。声に出したそれが耳に入って、それでようやく自分の思考に納得して掛布を剥いだ。裸足のまま絨毯を敷いた床に脚を下ろす。
 衝立代わりの本棚の奥、覗き込まないと見えない位置の衣裳棚を開いて、少し迷ってから私服の一式を取り出した。脇の小さなテーブルにそれを置いて、更にもう一つ考える。手を伸ばして持ち上げた、白い長い布地。
「……いっか、仕事じゃないし」
 呟いて、戻した。白の制服であれば胸元を押さえるのにも必要なのだが、任務があるとも言われていない。やってしまえば窮屈だから、今は良いだろう。
 多少声を出したら少し目が覚めて来た。夜着から手早く着替えてテーブルの引き出しの中から櫛を出して簡単に整える。伸びてきたなと思いながら金の髪を指先でつまんで、しかし結ぶ気にもなれずに結局そのままにする。
 一度窓の外を見やる。雪が白く景色を隠しているのを見て、これでは協会の中も冷えるだろうともう一度衣裳棚を開いた。上衣だけでは足りないだろうからと外套を引っ張り出そうとして、不意に一つが目に入り、手が止まる。吊り下げられたそれを外して、両手で目の前に広げて、そして大きく息をついた。コート。
「……返さないとだよなぁこれ……」
 先の問題があった時に、長官に被せられた外套。あのまま、返す機会を逸し続けてずっと手元に持ったままだ。一応借り物だからと、手入れだけはしているのだが。
 深い茶と灰色を混ぜ込んだような色のそれは丈の長く、生地は厚いのに見た目に反して軽い。何度目かそれをしげしげと眺めて、そしてフィレンスは不意に眉根を寄せた。
 大きい。男物だからだろうか。自分とあの長官とでは、さほど体格に差は無いように見えるのに。袖を通した時もそうだった、思ったよりも大きくて、手も半ばまで隠れてしまうくらいで。襟元も大きかったから風は容易に入り込んで、それでも十分に暖かかったのだが。
 少し考える。その外套を心持ち丁寧にテーブルの上に据えて、夜着は小さく畳んで棚の下、籐編みの籠の中に入れておく。普段制服の時以外には身に付けている暗い青の外套を取り出して袖を通して、そうしてからテーブルの上のそれを腕に抱えた。
 少し手狭なそこから出て、一度寝台に腰掛けてその下から靴を引っ張り出す。私服と言ってもスカートではないから普段の革のそれで良い。具合を確かめてから立ち上がって、階段を降りてそのまま廊下へと出た。
 出てから、剣の事を思い出した。僅かに迷う、だが迷った結果溜め息を吐き出すだけにして、そのまま扉に鍵を掛けて踵を返した。まだ頭が寝ていると、こめかみのあたりを押さえながら思って、そうしながら片腕のコートを抱え直す。
 フェルは出掛ける時に、長官も、と言っていた。まだフェルが帰って来ていないのなら、今の内なら執務室は無人か、いても秘書のクラリスだけだろう。彼女になら言伝を頼めるし、本当に無人なら書き置きかなにかと一緒に置いておけば良いから気が楽だ。本人に直接というのは、なんとなく難易度が高いようにお前てしまう。だからと言って間接的にと思っても、長官が執務室から逃亡するのはしょっちゅうでもいざ無人の時をと思うと中々その機会が無い。それに最近はまだ逃亡癖はなりを潜めたままだし、逃げたとしてもいつ戻ってくるのかも判然としないから見計らうのも難しい。それは、今もそうなのだが。
 置いてくるだけならそんなに時間はかからないだろう。だから今の内と主棟へと足を向ける。途中にすれ違った白黒とは軽く声を交わして、見えた執務室の扉に、しかしフィレンスはあれ、と声を落とした。
「クラリス?」
「あら、フィレンス。フェルと一緒じゃないのね、珍しい」
「ん、ちょっとね。……どうかしたの?」
 執務室から出てくる、その時に変に慎重に扉を閉じていたように見えた。年月が経っているからだろう、綺麗に時間を吸い込んで飴色の浮いた木の扉を見やり、それから目を戻せば、彼女は苦笑を浮かべた。
「長官がね。限界だったみたいで、少し休憩してる間に寝てしまわれて」
「……戻ってたんだ?」
「警備隊と連携していることで調整箇所が出たって、急いで戻って来たの。フェル達は、まだ?」
「うん、みたい」
 今日は案内人がいる様子だから、きっとあちこちを回っているのだろうとは思うが。もう一度扉を見やれば、クラリスは首を傾けた。
「長官に用事? 急ぎなら、起こしてしまっても大丈夫よ」
「え、……悪くない?」
「平気、長官も寝るつもりはなかったと思うから。寝る、って宣言したあとなら、自然と目が覚めて起きてくるまで触るな、だけど」
 それもあんまり無いから、と困ったように彼女は笑う。そうなのか、と、眼を瞬いて、そうしてから言う彼女に控えめに問い掛けた。
「……入るのは平気?」
「ええ。……どうかしたの?」
「いや、ちょっと渡したいのが……」
 抱えたそれを示せば、クラリスは疑問符を浮かべながらもそう、と短く声を落とした。蒼はそのまま、扉を見やる。
「……そうね、あまり音は立てないように気を付けて。鋭い人だから、普段からここに何度も出入りしているような人間でないと、たぶん目を覚ましてしまうと思うわ」
「……気を付ける」
「そうしてね。……ねえ、フィレンス、やっぱりまだヴァルディア様の事は苦手?」
 どこか神妙に頷いたフィレンスに問い掛けたクラリスのそれに、問われた方は思わずえ、と声を零した。問い掛けた彼女は眼鏡の奥で小さく笑う。
「前に言ってたでしょう、あんまり得意じゃ無いって」
「……ああ、……結構前だよ、それ」
 答える声と一緒に、自然と力の抜けた笑い顔が浮かぶ。憶えてたのか、という思いが浮かんだ。数ヶ月かそれくらい、前の事だ。今とは全く違う状況の中で、ただ独り言のように漏らした本音。
 得意でないのは、本当だ。単に他愛もない雑談をしているだけなら良い、むしろ楽しいとも面白いとも思う。だが長官として相対した瞬間の、値踏みするような眼が、どうしても好きにはなれない。常に評価がつきまとうのは紫旗でも同じ事だが、なんとなく、彼のそれは紫旗のそれとは色が違うように思えるのだ。だから少し考えて、軽く小さくこめかみを掻いた。
「……ヴァルディア様が、っていうか、長官がっていうか……」
「ん……?」
「いや、割と前から知り合いだからさ。特別付き合いがあったとかじゃないけど……だからその、落差っていうか」
 疑問符を浮かべた彼女に、曖昧にそう言えば、それで彼女は納得したようにああ、と声を漏らした。珍しく何も抱えていない手を伸ばして、クラリスはフィレンスの腕をやんわりと叩く。
「大丈夫よ、そんなに身構えなくて」
「か、な」
「ええ。そんなに難しい人じゃないもの、……あなたに合わせてたんじゃないかしら?」
 声の後半は少し声を潜めるように、悪戯っぽく言われて思わず眼を瞬いて、すぐにそれも苦笑に変わる。
「……かも」
「ふふ。……でも、そうねえ、慣れてないなら、尚更気をつけた方が良いかもしれないわ。寝起き、面倒だから」
 その言葉には暗に背を押されて、小さく笑い返す。官吏達に伝えなきゃ、と、そう言ったクラリスが緩やかに背を向けて立ち去るのを見送ってから、フィレンスは扉を見やった。
 ――置いておくだけ置いておこう。思考が導き出した言葉に頷いて、そして慎重に手を伸ばして把手を握り、音を立てないようにその扉を押し開けた。




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