身体を滑り込ませて、開いた時と同じように慎重に扉を閉じる。ゆっくり時間をかけてそうしてから部屋の中に目を向ければ、灯りの消された執務室は窓のカーテンも隙間なく閉じられていて、ぼんやりと暗い。もう陽が傾き始める時間だというのもあるだろう、足元が危ういようにも思える中で少しだけ身を乗り出してその奥を窺う。
 いつもは長官が座っている大きな椅子は、どうやら無人のようだった。あれ、と首を傾げた拍子に、積み上げられた書類の山の合間に光るようなものを見つけて、そしてそこに視線を向けて眼を瞬いた。何か、話し合いの時に使われるのだろう、ローテーブルとソファが二組のよくある組み合わせの、その右側、長椅子の片方に横になった姿。
 認可待ちや任務の関連なのだろう、あちこちに積み上げられた書類を崩さないように気を付けながら、ソファの後ろに回り込む。柔らかい布張りのその背に片手を突いて覗き込むようにすれば、どうやらクッションにもたれかかるようにしてそのまま眼を閉じたのだろう、横向きに顔を伏せた彼が静かに呼吸を繰り返していた。
 なんとなく、珍しいものを見つけたような気分だった。腕を支えにしてそのソファの背に後ろから寄りかかる。覗き込めば落ちてくる髪を耳に掛けて見やった先、白い顔の上には黄金の髪が散らばっていた。眼を、瞬く。
 あまり気の抜いたところを他人に見せるような人ではないという事は、普段の振る舞いを見ていればそう察しのつく事だ。語っている言葉に嘘偽りは少なくとも、決してそれ以上にはならないし、それを楽しんでいる様子すら見せる。
 ――そうでないところを見るのは、初めてだ。クラリスに言った通りこの人との付き合いは長い。正確に言えば付き合いがあったのは兄とフェルとで、自分と直接に関わることは、あまり無かったのだが。初対面がいつだったかは分からないが、だが十年以上前の事でも、時折顔を合わせていた事はよく憶えている。思い返せばその頃から、あまり好印象を抱いたわけでも無かったのだ。
 それも、今思えば八つ当たりに近いものだったのだが。軽く、音を立てないように息を吐き出して、背を伸ばす。腕に抱えていた外套を持ち上げて、ソファの背に掛けておこうとして、ふとその手が止まる。見やった彼は、きっと街からその部屋に戻って来てコートか何かを脱いだままなのだろう、薄い上衣が背に流れて身体の下に巻き込まれてしまっていた。
 少し考えてから、丈の長いそれを広げて、起こさないように慎重に、ゆっくり、横向きに倒れたままのその身体に被せた。雪が降ってきているのだ、いくら室内でいくら暖房があるからといって、寒くないわけではないだろう。着ているシャツの襟元がしっかりと閉じられている事にも気付きはしたが、流石にそこまでできるほどの勇気は無かった。
 本当なら寝台にと思うが、生憎この長官の寝台の在り処はわからない。そもそも自室に相当するものがあるのだろうか、この人に。それらしい場所を使っているようなところなど、この蒼樹に入ってからというもの一度も見た事も聞いた事もない。大概がこの執務室で、たまに談話室に現れ、稀に調練の場に出没する、その程度。この人が個人として何かをしているところを見たのは、もう既に何年も昔の記憶の中にしかない。
 あまり、人との関係を重視するような性格はしていないらしいとは、何度か兄が漏らしていたのを聞いた覚えはあるのだが。実際に目の当たりにしてみると、どう応えたものか、その加減が分からない。
 そういうところでも、やはりこの人は『長官』だ、どうしても。
 息をつく。音を立てないようにそうして、手を伸ばした。目を閉じたその顔にかかる金の髪を、指先で掬い取るように少しだけ払う。眠ったその人は、動かない。疲れを見せるような事はしなくても、疲労が無くなるわけではないだろう。強情というか、意地の強い。思いながら指先のその髪をゆっくり梳いた。そうしている間に不意に手袋を忘れている事に気付く。気付いたが、今更だと忘れる事にした。
 触れた金色は柔らかい。真っ直ぐではなくどこか緩く弧を描いて癖があって、よくよく見てみればどうしてかあちこちで長さがばらばらだった。肩に掛かるくらいの髪は整えられているように見えるが、段を付けたようにも見えないそれを怪訝に思いながら、やはり眼を開く事も、微かな反応も返さない横顔を見て、それでもう片方の手も伸ばした。
 金の房を指先に取る。三つのそれを一段編んで、すぐ脇から別の房を拾ってもう一段編み込む。同じ事を何度か繰り返す。こめかみの辺りから耳の後ろまでをそうしてしまってもやはり、彼は起きない。限界だとクラリスが言っていたその通りなのだろう。目を覚まされたら、その方が気まずいだろうが。
 ソファの背に寄りかかっていた身体を起こす。そのまま、被せた外套がずれて落ちていないのを確認してから、音を立てないように扉へと向かった。扉は西向きだから日暮れの陽が入り込んでしまわないように、入って来た時と同じように滑り込むように廊下へと出る。最後まで音の無いように気をつけて、そうしてから人の気配のしない廊下を南棟へと戻るように辿り始めた。



 協会に戻る階段の場所を示され、そこを登って扉を開けた先は、窓の外に薄闇が見える場所。
「南棟の西側。食堂入る前に左に折れるところあるだろ、あの先がここ」
「みんなここ使うんです?」
「地下に用事ある時は、俺はこっちからだな……どうだろう、上から回ってくのもいるかも」
 まっすぐ行ける分寄り道する余地がないから、と、螺旋階段から廊下に出る扉を開く為に鍵を使ったクロウィルは、フェルの背の後ろで閉じられた扉に鍵をかけ直す。把手を握って軽く押し引きをして、開かない事を確認してからその鍵を上衣の中に仕舞って、首を傾げたフェルにはああ、と声を零した。
「外から入って来れる場所だからな、ここは。一応下の入り口で所属者以外は弾くようになってるんだけど、紛れないとも限らないし、そういうのが入って何するかって大体予想つくだろ?」
「ああ……じゃあ、使う時は必ず鍵掛けるんです?」
「そういう決まりになってるな。厨房入ってすぐのところに鍵入った戸棚があるから、使う時はそこから持っていって、使い終わったら戻す」
 言いながら荷物を抱えた彼が歩き始めるのについていく。少し歩いた先の左右に伸びた分岐を左に折れて、そこに見えた扉を開けば暖かい空気が流れてくる。何人かの人影、奥には壁に遮られてもいない調理場の見える、広い厨房、食堂。遮る壁も無いそこで、もう何人かが動き始めているようだった。
「フェル、外出てたのか?」
「あ、はい。買い物とか、色々」
 白服、キールの声には、扉を開いて押さえたままで答える。その彼が何かを持っているのを見てか肩の上で大人しくしていたコウが飛び降り、その彼の足元にほとほとと近付いていく。フェルが苦笑している間に白い制服のすぐ傍に腰を下ろした鋼色は、ゆったりと尾を左右に振っていた。キールも苦笑する。
「お前は本当に……ねだり上手というか」
 言った彼がしゃがんで、持っていたボウルの中から小振りの海老を摘まみ上げる。下処理の終わったそれを差し出されたコウはぱたぱたと尾を振りながらそれを咥えて、かふかふと音を立てながら咀嚼して飲み込む。扉のすぐ横、壁に備え付けられた戸棚に鍵を戻していたクロウィルもそれに気付いて苦笑したようで、一つを貰って満足したらしいコウがフェルのところに戻っていくのを見やり、次いでその白に眼を向けた。
「今日は?」
「グラタンとその他諸々。古い粉をもう使ってしまおうってことになってな、豪勢だよ。暇がありそうだったら手伝ってくれ、色々足の早いのも食べてしまわないとだからな」
「ああ、それで海老な……入ったのか」
「らしい、珍しくな。それで人手が必要なんだ」
「了解、出来るだけ早く合流する」
「頼んだ」
 言ってキールは作業に戻っていく。フェルがクロウィルを見やれば、あそこな、と鍵を仕舞った戸棚を一度指し示して、そうしてから扉を潜って廊下へと逆戻りする。少しの場所にある階段を上の階へと上がって行きながらフェルはクロウィルを見上げた。
「よく、手伝ったりとかします?」
「ん、たまにな、時間が合えば。結構任務で酷使されるから、帰って来て装備の点検と手入れして制服どうにかしてお湯使って、ってなると、中々時間が無い」
「任務、セオラスさんと、なんですよね」
「だ、な」
「……クロウィルって何位です……?」
 翠がこちらを見下ろすのと目が合って、たじろぐそのままで眼を外す間に軽く笑う声。
「気にすんなよ」
「う、え……ご、ごめんなさい……」
「気にしない。隠すような事じゃないし、序列だったら所属者には開示されてるから、見ようと思えばすぐ見れるしな」
「そ、う、なんです……?」
「情報室行けば見れる。執務室のすぐ下の、官吏たちがいつも詰めてるところだな。白黒関連の書類とか情報とか纏めてる所だから顔出しておいて悪い事は無いと思うぞ。……俺はたぶん、変わってなければ白の中では七十三位だな」
 眼を瞬いた。目的の階に着いて廊下を右手の側に進みながら、彼はたしか、と続ける。
「協会での序列って、任務の達成度とか階梯、魔導師なら階級とか、あとはやってる任務の難易度の平均とかで決まるんだ。俺階梯低いから、それで上限かかってる」
「低いって言っても、十ですよね、階梯」
「この協会十二とか十三とかごろごろしてるんだからな?」
 眼を瞬く。荷物を抱えた腕の方に眼を落とした。眉根を寄せる。
「……刺繍読めない……」
「軍の階級章とかよりは楽だろ」
 白服の制服、襟には必ず騎士階梯を示す刺繍が施されている。だがそれは協会独自の模様で、つまり協会に入る前には目に入る事の無いものだったのだ。見てすぐに見分けのつくものなら、まだ良いのだが。
「だって線が一本増えた減ったで違うとか、絶対分からないですって」
「慣れ、だな。黒が無理に覚える必要も無いかもしれないけど、ある程度は分かるようになっておいた方が良いな、見て判断のつく所だし」
「……一覧とか無いです……?」
「無いなあ、それは」
 白服は苦笑する。なら白黒たちはあの複雑な模様の細かな差異をどうやって覚えたんだと思っている間に目当ての扉が見えて、クロウィルが片手を伸ばしてその扉を押し開く。それを見て、あれ、と思った。クロウィルを見上げる。
「鍵掛けてないんです?」
「盗られるようなものもないしなあ……。中入っていいぞ、剣の整備だろ?」
「です、短剣の」
 促されるまま彼の後に従って扉を潜る。戻ってくる道すがらに、いつも念の為と持ち歩いている短剣の様子を見て欲しいと頼んだのだが、それくらいならすぐに終わるからと手招かれたのだ。いつもは教えられた通りに自分でやっているのだが、やはり時々は本職に見てもらいたい。何か間違った事をしてしまっていても、自分では気付けないだろうから。
「その辺座っててくれ、これ置いたら道具持ってくるから」
「はい」
 示されたソファに腰を下ろす。どの部屋でも、大体の物の配置は同じだ。やはり扉から入ってすぐの場所にはソファと背の低いテーブルが据えられていて、クロウィルはそのテーブルの上に手紙の束を投げてから足早に中二階へと上がって行く。フェルが荷物を脇に丁寧に据えて、そうしてから上衣の下に吊り下げた短剣を持ち上げた。腰に巻いていた幅の広い組紐を鞘から解いて外して、白いその紐ごと短剣を膝の上に握る。華美な装飾など一つもない、ただ鞘に白い波打つような模様が刻んであるだけ、柄も素直に真っ直ぐで、引き抜いた刀身は細く鋭い。階段を駆け下りてくる音。
「最近使ったのか?」
「あんまり……出番無いので、時々調子見たりとかするだけなんですけど」
 フェル自身が剣に類する物を持ち、扱う事はほとんど無い。魔法があるからというのもそうだが、まずフェルが直接剣で何かをしなくてはならないという状況そのものがかなり危険な状態に追い込まれている事を示しているし、ここ数年ではそんな事もそうそう起こらなくなっている。『紫銀』を囮に使う事はあっても、最終的には護衛たちが何とかする。紫銀が直接の手を加えない事、が、囮協力の大前提だ。
 本当なら、その囮にも影を使うのが一般的なのだろうが。
「見せてみろ。あんまり使ってないのなら、研ぐ必要は無いだろうけど」
 向かいに腰掛けたクロウィルが手を差し出すのに、フェルはその短剣をそこに手渡す。自分が持つと多少持て余してしまうのに彼が持つと小さく見える。ぼんやりとそんな事を思っている間に彼は鞘を押さえたまま柄を握って、軽く揺さぶるようにして、そして僅かに眉根を寄せた。
「ちょっと緩んでるな……」
「……です?」
「少しだけだから、気にしなくても良いとは思うけど。……でも放っとくと何かの拍子に抜けそうだな」
 鞘から刀身を抜き、白い刃に布を巻き掌で押さえるようにして、柄を同じように左右へと軽く力を込める。それでがたつきが無いかを確認して、そうしてから傍らに置いた箱の中から何かの道具を取り出して、それを鍔の中央、少し下にずれた部分に宛てがう。
 飾り彫りの端に宛てがったそれに力を込めた瞬間に軽い音を立ててその飾り彫りが浮き上がった。眼を瞬かせるフェルのその様子にクロウィルは小さく笑いながら、薄いへらのような形をしたその道具を浮いた隙間へと潜り込ませて、彫刻を傷つけないようにしながら取り外す。外したそれをフェルに手渡しながら、クロウィルは言った。
「刀身と柄と、鍔とかはこういうので噛み合わせ強くして、それで外れないようにしてたりするな」
「そう、なんですね……長剣もです?」
「大きくなれば部品多くしたりする時はあるけど、俺の大剣はこれとほとんど同じ」
 掌に転がる彫刻の施されたそれは、裏側には杭のような突起が幾つか立っている。刀身に対してその突起を垂直になるように穴に差し込んでいるのだろう。そんな事を思っているうちにかたんかたんと軽い音がして、そちらに眼を向ければ二つに分割された鍔と刃の無い柄がテーブルの上に転がっていた。見やった彼の手の中には、柄の中から引き抜かれた刀身そのものだけ。
「……どういう組み立て方……?」
「ああ、柄の所に切り込みあるだろ? そこに刀身の、ここ差し込むんだ」
 ここ、と言いながら刃に巻いた布を取り払う。鞘から抜けば見える刀身の真逆の側に、真っ直ぐに伸びた部分がある境の所には小さな穴が二つ。柄を取り上げたクロウィルはその部分を柄に空いた穴に差し込んで見せた。柄の端の部分にも二つの穴が空いていて、差し込まれた鋼の穴とぴったりと重なる。
「で、この柄と刀身を留めるのに鍔のをこの穴に差し込んで、その上からその飾り彫りので留める。かなりきっちりつくるから、釘とか螺子とか無くても大丈夫なようになってるな」
 解説されるそれには、フェルはへえ、と、小さく零す。普段から持ち歩いている物ではあっても、剣の事にはやはり疎い。最低限の手入れの方法は教わっていてもそれ以上は知らないままだ。騎士は、皆知っている事なのだろうか。
「刀身が歪んでるわけでも柄の方が負けてるわけでもないから……ちょっと開いて来てるんだな、鞘の方が。刀身は問題ないけど、鞘走ると問題あるだろうから、ちょっと押さえるの付けておくか。鞘作り直すほどじゃないし」
「剣そのものの方は、問題ないです?」
「ないな、大丈夫。手入れもしっかりしてるし」
 フェルが良かった、と零すのにはクロウィルは軽く笑って、そうして分解した短剣を手早く元のように組み立てていく。テーブルの上から鞘を持ち上げて、箱の中から赤い組紐を取り出して白い組紐が通された飾り彫りの部分にそれを通し、結び目を幾つか作ってくるくると巻き付け、刀身を鞘に納めてからそこにも引っ掛けるようにして、そうしてから差し出されたそれをフェルが受け取る間に次の声。
「紐の端引けば解けるし、戻す時は輪に引っ掛けて片輪に結べば良いから」
「はい。有り難うございます、……クロウィルはこういうの、やっぱり家で習ったんです?」
「ん、剣の構造とかはな。俺の家は装具だけど、伯父さんの家は刀剣類だし……村全体が鍛冶職人だしな、コウハは。見慣れてる」
「騎士の必須では無い?」
「手入れは必須だけど、整備まではやらないな、流石に。変なことすると壊すし、やっても刃を研ぐとかそれくらい」
 そうなのか。ひとまずそれで終わり、という声で元のように白い幅広の組紐を腰に回して結びつけ、上衣に隠れるようにしている間にクロウィルは道具の入った箱の蓋をきっちりと閉じて、そうしてから立ち上がった。
「俺このまま夕飯の手伝い行くけど、フェルはどうする?」
「あ、と……とりあえず荷物置いたら行こうかな、って思ってます」
 横に積んでいた荷物を腕に抱えて、彼に続くように立ち上がる。厨房のある方向へと少しだけ眼を向けた。
「夜は支度もゆっくりだから、練習にも良いからってディナさんに言われて」
「ああ……そうだな、流石に……流石に、林檎くらいは剥けるようになっといた方が良いな、そろそろ……」
「……ずっとやらせてくれなかったのあなた達じゃないですか」
「鍋の中身全部蒸発させるような奴に包丁持たせられるか?」
 途端にむ、とフェルはきつく眉根を寄せて唇を尖らせる。だが事実だから何も言えないままで、結局二人連れ立って廊下へと扉を潜った。



 あら、と、声が聞こえて、ヴァルディアは目元を擦った。起き上がった膝の上にわだかまったままだった、被せられていたコートをソファの背に投げる。
「お目覚めでしたか、長官」
「…………紅茶」
「すぐにお持ちします」
 喉が渇いた。外で雪が降っているからだろう、暖房が強い。ここは主棟の中でも中心部分に近いから、この真冬だと言うのに、じんわりと暑い。眠っていれば尚更だ、喉も渇く。
 ぼんやりともう一度目元を擦る。視界がぼやけてはっきりしない。欠伸も出ないでそのままぼうっとしているうちに、目の前、テーブルに茶器が据えられた。湯気の立ったそれを持ち上げて、吹き冷まして一口含む。時間をかけてゆっくり嚥下して、一息吐き出した。
「……時間は」
「まだそれほどは。二時間ほど眠っておられました、十八時を少し越えた頃です。本日の急を要する事案は既に終えておられますが、お起きになりますか?」
「あともう少し片付ける、……明日にも何かしら山になって来るんだろうしな……」
 投げたコートを掴み、立ち上がる。紅茶のカップだけをもう片方に持ってから机に向かって、その椅子の背後、壁際の外套やら黒いローブやらが掛けられたそこにそれを加えて、そうしてから椅子を引き、座面に丸くなった鋼色を見付けて息をついた。
「……コウ」
 呼び掛ければすぐに目を開き、床へと飛び降りる。入れ替わるように腰掛ければ視界の端で青い炎が舞い上がり、そして机に向き直って紅茶を一口飲み込み置いたところで左膝の上に軽い感触。
 ヴァルディアはもう一度嘆息して、左手で膝に顎を乗せた鋼の頭を撫でながら右手で書類を持ち上げた。
「……合同の方は?」
「黒達が……主にセオラスが調整に回ってくれているお蔭で、学院側の擦り合わせも順調です。当該学生への通達も完了し、特別訓練に入りました」
「明日に様子を見に行く」
「了解しました、調整致します」
「任務の方は、やはり増えているか」
「先年と一昨年の同時期に比べて、数で言えばおよそ三割程度、数値は増加しています。数だけで言えば五割に近いのですが、所属も増えていますから」
「なんとか、と言ったところか……耐え切れれば良いんだが」
 左手が羽毛の中に埋もれる感触を追いかけながら、思考する。さりさりと音を立てる鋼は毛足の長い羽で覆われていて、一見するだけでは普通の犬猫のそれと変わらない。指先を沈めてようやく、羽の軸の役目をしているのだろう甲殻、鱗のようなそれに僅かに触れるだけ。時々羽が生え変わるように抜け落ちるそれは、やはり一つだけを見れば羽毛のそれによく似ていた。
「……紅軍の配置が終わったら東と北から人員を借りる事になった、正式に。白黒合わせて七十だ、半数同士になるよう調整してくれている」
「時期は、何時頃になりますか」
「遅くとも十八日後。早ければ五日後……フェルには伝えておかないといけないな」
「ですね、常時の何かがあれば良いのでしょうが……」
「難しいだろうな……紋章で錯誤は起きるようにしているとはいえ、二度見れば気付くだろう。そもそも指定範囲が協会外だ、他協会の所属に対して作用するのか……」
「一時的に蒼樹の所属になる、とも考えられますね」
「……命色変化の紋章は編むのに一月はかかる……」
 声を出しているうちに次第に思考がはっきりしてくる。あの紫銀に持たせた紋章は、変化薬が無くとも一度くらいであれば見た人間に錯誤を起こして、色の認識を曖昧にさせる。隠しているのは紫の方だけだ、顔を隠した銀髪の人間がいれば、眼は藍か赤かと思うのが大半だからそれで事足りる。蒼や翠と思う人間は少ない。
「……エーフェに作らせるか……」
「作るでしょうか、彼が。宝珠だって柄じゃないと言って、幾つかしか」
「交渉条件に入れる。紫銀が蒼樹にいるとは知られたくない……余計な火の粉が増える」
 低く鐘を鐘を鳴らしたような、折り重なって響く控えめな声に気付いて、止まっていた手を再び動かす。目を通していた資料を脇に置いて鋼の頭を軽く叩くようにしてから手を離し、別の書類を持ち上げてその内容に目を通し万年筆を手に取る。街の工事の認可を求める一つ。
「……最近多いな」
「老朽化が目立ってきている様子ではあります。『異種』の襲撃による住宅や街路の被害はありませんが、人が多い分、どうしても。地下はそろそろ大きく手を入れる頃合だと、敷設技師達からも意見書が届いています」
 手元の書類、おそらくは目録だろうそれを捲りながら秘書が言うのには頷き返す。そうしてから不意に脳裏に思い浮かぶものがあって、そして蒼のインクで確認欄に署名を書き記しながら息をついた。
「着工出来るものはすぐに始めてしまって良い、技師達の許可が無いものは先にそちらに通すように。……この辺りも少し手を入れたいんだがな」
「そうですか? 特別、痛んで来ているようには思いませんが……」
「壁が薄い」
 部屋の中を見渡すように視線を巡らせたクラリスが、それにははたと長官を見やる。そうしてから、やおら苦笑した。
「何か、紐かなにかお持ちしましょうか」
 沈黙で返されたそれに更に小さく声を落として、秘書は背を向けて扉を潜る。片手を伸ばして、もうぬるくなりはじめている紅茶の一口を口に含む。やはり時間をかけて嚥下する間に竜の声。
「何だ」
 眼を向け無いままで問いかける。膝の上から顎を除けた竜は代わりに前肢をそこに載せて、そうしてから身体を伸ばして左耳のすぐ上を鼻先で突く。溜め息を吐き出して手の甲で軽く首元を叩いてやれば、すぐに小さく鳴いて元の通りに膝に顎を乗せて眼を閉じた。溜め息を、もう一つ。
「……具合が良いからな」
 ぱす、と音を立ててその頭を撫でる。そのまま、仕事の方へと思考を向けた。




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