協会に帰ってきてからすぐ、フィレンスの部屋に顔をのぞかせると、すぐの場所に据えられたソファで部屋の主が沈んでいた。外はすっかり暗くなっているが、部屋の中は照明で明るかった。
「……フィレンス?」
 声をかけると、小さく呻く声。首を傾げた拍子に対岸に座っているクロウィルが眼に入って、フェルは扉を潜った。
「フィレンス、どうかしたんですか?」
「いや、眠いだけだろ。ベッド行けって言ったら睨まれたし」
 ああ、と呟く。見れば重ねたクッションの上に俯せるようにして、顔は腕に隠されている。クロウィルは組んだ膝の上に分厚い本を広げて、そのページを繰っていた。フェルは眼を瞬く。
「……何読んでるんですか?」
「攻撃魔法の中級構築理論」
 その返答を意外に思って、彼の座るソファの後ろに回り来んで、開いたページを覗き込む。数式と図式が並んだそれと、同時に見えたのはソファの上に放られた雑紙を数枚綴じた冊子のようなものと万年筆、そしてそこに羅列された計算式。全て魔法構築に関わるものの計算式だが、フィレンスの字では無い。
「やっぱり難しいのな、魔法って。ちゃんと勉強できれば魔法使いの相手すんのももっと楽になるんだろうけど」
「騎士がやる必要は無いと思いますけど……」
 言いながら、その纏められた雑紙を取り上げる。紙は高価とまでは行かないが、安いものではない。不揃いな形のそれの表のインクはまだ乾ききっておらず、裏は字が丁寧に塗り潰してあった。
 見慣れない字の計算式を追う。試行錯誤の後が見て取れるが、斜線の引かれていないものを追えばミスも無く、はっきりと理解して納得した上でのものだと見て取れた。ページを繰る音。
「……これ、クロウィルが?」
「式の結果、検算してないから間違ってると思うけど、一応な。理論の理解に必ず数式が付きまとうってどうなんだ」
「それが魔法構築理論なのでどうかと言われましても……」
 数学と紙一重ですし、と付け足しながらクロウィルの膝の上のそれをもう一度見やる。中級構築理論とは、中位以上禁忌未満の魔法の構築を分析、論じた物で、学院で参考文献の一つとして挙げられる事の多いものだ。つまり教科書にしては難しすぎる、と言う事なのだが。
 気付けばテーブルの上にはもっと大量の紙に数式が書き散らしてある。そちらには二人分の筆跡。クロウィルは本から眼を離す事無く口を開いた。
「俺数学嫌いなんだよ」
「え?」
「数字をこねくり回して何が楽しいのかが分かんないんだよな。理解しやすいって言うのは良いし、大概の問題の答えが決まってるって言うのも気が楽だけど、なんというかこう……根本的に嫌いだ」
「……でも出来てますよね?」
 フェルは冊子を見下ろす。黒い字のそれはこれと言ってミスも見当たらないし、構築式にしては寄り道をしている部分はあるが、数学としては完成されているはずだ。それ以前に数学はさほど理解しやすい学問でも無い気がする。
 フェルが、数学者ではないから細かい所までは分からないが、と眉根を寄せると、ああ、と彼は呟く。息をついた。
「学校でやらされただけ。教養科目の一つだったんだよな。文学と数学と外国語と、礼儀作法もあったし。俺は楽器はやらなかったけど、フィレンスはやってたんじゃないか?」
「士官学校?」
「そう。大変だったぞ、フィレンスと点数争いするの」
 え、とフェルは声を上げて、向かいで完全に寝息を立てているフィレンスを見やった。フィレンスの成績が良かったと言うのは色んな人から聞いている。卒業が最も難しいと言われる士官学校を一本で卒業したとかで、騒ぎになっていたからそれは記憶に残っているのだが。
 それと点数争いすると言う事は。
「……ちなみに何の桁で争ってたんです?」
「一の桁」
 即答にフェルは視線を泳がせた。顔が軽く引きつっている。
 実際、護衛師団でも蒼樹でも、学歴なんてものは誰も気にする事は無い。学力があった所で実力が無ければ意味が無いからだ。時折話題に登る事はあるが、ネタにして笑う程度である。
 しかもフェルは学校に行った事が無い。敷地に入った事すらない。
「三年で卒業できたのは良かったけど」
「士官学校って普通何年行くものなんです……?」
「留年無しなら五年。でも大概が二、三回昇級試験落とすからな、平均は六年とか八年とか」
 最短なら二年だけど、それは流石に化け物だろ。
 クロウィルは言って、ページを繰る。無表情に近いが、恐らく思考のほとんどを理論に持って行かれているのだろう。フェルは少し考えて、冊子を元あった場所に戻してから本棚に寄って行って、適当に一冊引き抜いた。古典文学の小説。ぱらぱらとめくると、部屋の主らしい小難しい固い文章が並んでいた。
 それを抱えて、部屋を見渡す。テーブルを挟む形で置かれたソファ、そして二つ空いている一人掛けのそれを見て、フェルはそこに腰掛けた。
 改めて表紙を見下ろす。ハードカバーのそれを開いて、書き出しの一文からゆっくりと文字を追った。



 小さく布同士が擦れる音がして眼を上げると、僅かに眼が痛む。瞬きを繰り返して誤魔化して、それで改めて視線を向ければ、赤と緑が見えた。
「起きました?」
 声をかけると、その眼が緩慢に動いてこちらを見る。しばらくの無言。
「……あれ、フェル……いつ来たの……」
「結構前に。おはようございます」
 ぼやけた声に苦笑とともに返す。フィレンスは一度俯せになってから、クッションを押すようにして上体を起こした。眼がまだぼんやりと帆空を見つめている。クロウィルが顔を上げて、そして息をついた。
「……お前本当に一度寝ると起きないよな」
「……うっさい」
「はいはい。顔洗って来いよ」
 フィレンスは言われるままに立ち上がり、回廊に出るのとはまた別の扉を潜って一度姿を消す。クロウィルはフェルの持っている本に眼を止めて、あれ、と呟いた。
「そういうの読んでるの、珍しいな」
「えーっと……私文学とか理解し難い部分がありまして」
 小説や説話集と言ったものは、普段から手を出さない方だ。遠ざけていると言った方が良いかもしれない。とにかく『主人公』とやらがいて話の筋があって、というものが苦手で、細かい端々まで疑問に変換されてしまう。都合のいいように進んで行くのも好きではないし、運命やらなんやらと言う言葉が頻繁に使われるのも好きではなかった。
 小さい頃から読む本と言えば、魔法と関わりのあるものばかりだったのだが、だからかもしれない。技術書や論文を読んでいる方が楽しいのだ。そもそもストーリーというものにたいした興味を抱く事ができない体質らしい。
 実際、論文なら数冊読めている時間を費やしてようやくクライマックスの前段階。しかも感慨が湧いてこないのだから我ながら文学との適正の無さに感心してしまう。文字を追う事自体は苦痛ではないから、読めはするのだが。
「フェル、童話とか興味なかったもんね」
 扉を開けて戻って来たフィレンスが、髪を適当に整えながらソファに腰掛ける。さすがに冷水は堪えたのか、もう眠気は完全に抜けているようだ。その彼女の言葉に、中級理論を読破して上級構築理論に突入していたクロウィルは眉根を寄せた。
「興味ないって、ほんとに見向きもしなかったもんな。気付いたら創世記読んでたし」
「……いや、だって、団の書棚ってそういうのしか無かったじゃないですか……」
「いや、あったよ? 童話とか、説話集とか……そういう軽い読み物は、私とかイースとかが大量に紛れ込ませておいたんだけど、綺麗にスルーされてちょっと悲しかった」
 言われて視線を泳がせた。記憶に無い。恐らく題名からして『それらしいもの』に全く手を出さなかったのだろう、きっと意識から除外させていたに違いない。自分でもどういった本を読んでいたのかがもう思い出せないのだが。
「……きっと根本的なところでスルーする能力が身に付いてたんです」
「だろうね」
「な」
 言い訳がましく言えば一言で肯定され同意された。更に気まずくなる。
 クロウィルは息をつくと、テーブルの上に投げられていた紙を集めはじめる。フィレンスがそれを見て、うわ、と呻いた。
「……ほんとにやってたんだ」
「お前が途中で寝落ちたから、途中から完全独学状態だよ。魔法って本ッ当に面倒なんだな」
「まあそれが魔法だそうだからねぇ」
 言ったフィレンスが横目でフェルを見て、見られた方は何故か言葉に詰まった。苦い顔で顔をそらして、そして話題を逸らそうとテーブルのそれに眼を向けた。そしてふと疑問に思って、そのうちの一枚を横から攫った。眼を通して、首を傾げる。初級構築理論。
「……もしかして一日で全部やってたんですか」
「一日と言うか、半日。さすがに無理あるから明日もだな。かなり飛び飛びで時間も掛けてないから、どっかで見直ししなきゃだろうけど。初級はフィレンスからの口頭だしな」
「何それ……まるで信用無いみたいな言い方はやめてよね」
「ああ、いや、そういう意味じゃなく。聞き落としあるとまずいって意味だ」
 フィレンスとフェルが眼を見合わせて、フィレンスが肩をすくめる。息をついてから彼女は口を開いた。
「フェル、率直な感想は?」
「……ものすごく意外です」
 クロウィルが眼を上げて盛大に眉寝を寄せた。軽くねめつけられてフェルはたじろぎ、クロウィルはそのまま視線を数式へと戻す。律儀に右肩に書かれた数字を元にばらばらの順番を揃えながら、息をついた。
「誰も勉強が嫌いともできないとも言ってないだろ」
「……でもなんか、印象と言うか」
「先入観。それならフェルが文学できないって言うのも他人から見れば意外だぞ」
 再び言葉に詰まる。助けを求めるようにフィレンスを見れば、彼女は苦笑していた。
「まあそうだろうねぇ。傍目には常識に溢れてて教養も深そうだしね」
「常識はある、つもりです」
「断言できないでしょ?」
 今度こそ何も言えなくなった。度を超えた箱入りだと言う事は事実だから、否定しようも無い。教養云々も文学ができない時点で問題外だ。恐らく自分は学校や学院でやっていけないだろうとは常々思っている事だが、理由はそこにある。なんせどの教育機関でも教養は必須科目だからだ。
「……というか私って思ってみれば正式な教育とか全然触れてない気がするんですが」
「気がするどころか完全に、だな。団でほとんどやってたし。一回学院かどこか行く行かないって話が出て来てたような気もするけど」
「ああ、それうちの馬鹿長兄の暴走。緋樹の学院だよ、次兄と私と弟で殴ってやめさせた」
「うっわ……」
 またしても記憶に無い話になって、フェルは他人事のようにそれを聞いていた。フィレンスの長兄、四つ年上のアイラーン家長子リアファイドは現在の緋樹協会の長官である。つまり緋樹協会に付属する形で設立された学院の学長でもあるが、その関係ではないだろうかと一人で憶測を立ててみる。恐らくその流れで、フェルが一時期剣を習っていた時には、教えてくれた面々の中に彼もいた。
 あれ、でもリアファイド先生が長官に就任したのって四年前じゃなかったか。
「……フェル、どうかした?」
「……ちょっとこんがらがってるんですが……」
「あんまり考えなくて良いと思うよ、あの馬鹿の事は」
 言ったフィレンスに眼を瞬く。そしてフェルはふ、と淡く笑んだ。
「本当に先生の事嫌いなんですね、フィレンス……」
「あそこまで合わない人間は他にいないだろうと思うよ。なんで肉親なんだか」
 ひどい言い様だ。端から見ていれば兄妹がすさまじく間違った次元でじゃれているように見えなくもない、とはクロウィルの談だが、フィレンスは否定している。本物の剣で斬り合う様をじゃれるなんて表現の仕方もどうかと思う。
 フィレンスは時々本気で殺しにかかっているのではないかと思う事があるが、それを笑って受け流し、適度に相手をして最終的にはあっさり負かしてしまうリアファイドも相当性格が悪い。あの兄にしてこの妹あり、とは団長の言葉だ。更に言えば、フィレンスが剣を選んだのは多分に彼の影響があったからこそではないかとフェルは思っているが、言えば自分の身の危険が眼前に迫りかねないのであえて言わない。その事に関しては本当に容赦がないのだから。他人に八つ当たりするなとも言いたいが言ったら以下略。
「とにかくあれの事は措いといて。フェルは結局学校行かなくても大丈夫って判断だったんだよ、確か。周りにそこらの教師よりもよほど良い教師がいたしね」
「……まあ、たしかに、今まで困った事あんまりありませんけど」
 それもすごいよな、とクロウィルが呟いた。フェルは首を傾げて考える。すごいというのは、勉学の範囲で言うのなら二人の方がよほど『すごい』のでは無いかと思うが。
 そしてそれを考えてから、ふと数時間前の会話が蘇った。フィレンスを見る。視線が合ってから、フェルは首を傾げて問いかける。
「フィレンスって楽器できるんですか」
 瞬間彼女はクロウィルを睨み付け、クロウィルは無関心を装って受け流した。あれ、と思って二人を交互に見るフェルに、フィレンスは溜め息をついた。
「……一応ね」
「ヴァイオリンとハープシコードだっけ?」
「締めるぞ」
 うわあ、と呟いたのはフェルだ。そんなに嫌なのかと思って再び彼女を見れば、視線に気付いて苦い表情を浮かべた。
「……士官学校行く前は家庭教師だったからね。楽器は必須だったの。好きは好きだけど、ここまで来ると恥ずかしいでしょ、流石に」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ」
 そうなのか、と思いつつ彼女の対岸に眼を向ける。律儀に最初から検算をしているクロウィルは、ペンを持たない右手をひらひらとそよがせた。
「俺は門外漢」
「楽器は、教養?」
「そう。選択みたいな感じだったけどね、私は簡単に終わりそうだからやっただけだし。……やっぱり学校とか気になる?」
「……少しは」
 本当はかなり気になる所なのだが、今更行くとか行かないとかの話ではないのは分かりきっているので控えめに言っておく。フィレンスは苦笑して、クロウィルが顔を上げた。
「でも気になる事あるんだったら、ヴァルディア様に聞いてみるの良いと思うぞ?」
「長官に?」
「蒼樹にも学院あるだろ? あれの学長、ヴァルディア様だからな。頼めば連れてってくれるんじゃないかと思うぞ」
「そんな暇あるんでしょうかあの人」
「さあ。でもかなり頻繁に行ってるみたいだしな。時々白黒も講師として行ったり……セオラスとか常連だな」
 そんな事があるのか、と思う。なら今度それとなく聞いてみようか。




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読書と学校と勉強の話。



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