「如何でしょう」
「駄目だな、弟も馬鹿息子たちも帰ってこない。人質、というわけではあるまいが、私が行かねば対話の席も設けんという意思表示だろう」
 それを聞いて、おや、と思う。玉座の王は悩ましげな表情を浮かべていたが、それに触れるより先に問いが出た。
「行かせたのですか、王太子殿下も?」
「ああ、兄弟揃って行かせた。手を出した張本人は弟の方だがな……だがあいつらは謝罪のひとつもできんほどの馬鹿らしい、まさかディアネルに出向いてまで怒鳴ることしか知らんとは……」
「ですから私が参ります、と申し上げましたのに」
 別な声が混ざり込む。扉を開いて足を踏み入れたのは、ドレスを静かに揺らした少女。クォルクを見上げて、一度にこりと笑みを浮かべる。
「ごきげんよう、クォルク。ヴァルディアの件もあって貴方のこと、覚えておりましてよ」
「……返す言葉もございません、スィナル王女殿下」
「後悔しているのであれば精々わたくしの友人を可能な限りまで高い位置に押し上げてくださいな」
 そこまでを笑みのままで言ってみせる。この少女が一番『らしい』と思っていれば、すぐにその桃色の髪が揺れ、蒼の瞳は父王に向けられていた。
「父上、スィナルもディアネルに参ります」
 肘掛に頬杖で難しい顔をしていた王は、それには強く眉根を寄せて見せた。王女は既に笑みを消している。
「名代をお任せいただけませんか、陛下。どうあってもディアネルは王が動かぬ限り完全撤退を進めましょう、ですがここで王が動いてはなりません。いくら力持つ組織だとして、一国の主が傅く相手ではございませんわ」
「スィナル……お前はまた、そのような無謀を」
「私は今の今まで無謀を申したことも致したこともございません。紫樹学院の事でも、わたくしが王女であると知るのは一人だけでしたわ、命を狙われたこともございません。それに、陛下は兄様方に王の名代をお任せにはならなかった」
「当然だ、任せられるわけもない」
「ですからその肩書きをいっときお預かりしたいと申し上げているのです。宰相には既に「陛下のご判断に依るところ」と返答を頂きました。王の玉命を受けた子を侮る兄を助けに行くのではありません。落とし所を探るために行くのです」
「……殿下、であればその役は紫旗に」
「半日副長が張り付いて一歩も立ち入ることのできなかったことを、わたくしが知らないとでも?」
 ただ、失礼致しました、と腰を折った。内心に浮かんだのは安堵だった。弱冠十六、だが既に期待する声もある才媛。この姫が更に長じて兄達を抑えてくれれば良いが。
「ディアネルは身内意識の強いものと聞き及びました。それであっても紫旗の副長、ディアネルの身内である彼ですら立ち入れなかった場です。王の名代の肩書きがなければわたくしも叔父様や兄様と同じようになるだけとは容易に想像のつくことです。まずは声を交わさなくては膠着にすらなり得ません。ですが、……父上は慎重が過ぎますわ。ディアネルが兄様を殺すことなんて絶対にあり得ませんのに」
「……この国の女は肝が据わっているのかなんなのか……我が妃によく似ておる」
「お母様亡き今わたくしが女として踏みとどまらなくては男の専横が過ぎますわ、父上。……王が動いてはなりません。ですが王が動かなければなりません。兄様が事実上ディアネルに幽閉されている今、王の名代にはわたくしを」
「……任せるとしても宰相か紫旗の者にだ、お前はまだ若すぎる」
「わたくしのよりも幼い子供に玉命を授けられたのは父上ではありませんでしたか?」
 にっこりと笑いながら言うそれには何も言えずに目を落とした。王は口を噤んでしまう。王女だけが口を動かしていた。
「宰相が行ったのであればディアネルを政の前提にすると宣言するようなもの。紫旗が行ったのであれば事実上幽閉状態にある叔父上と兄上の奪還のための敵対と取られかねません。その点わたくしは王の直子でありつつ継承権すら最も下位の王族です。相手が札を切ったなら、こちらも札を出さねば不公平ですわ。商人が天秤を出して来たならせめて釣り合わせるためのものは出すべきです。そこから勝つか否かは話し合い如何のことですから、そこに至ってようやく父上の出番でございましょう?」
「……では王との対話の場を作るために、王の名代をと?」
「その通りでございますわ。とりあえず一回『グランツァ・フィメル』と会ってみたいという好奇心もございますが、父上を追い詰めるようなことにはならないと思われますのでご安心なさってくださいまし。『グランツァ・フィメル』にはまず登城を願い出ます。その為に陛下にはご一筆頂きたいのですが」
 如何でございましょうか、と、数分前自分が放った問いと同じ、意味はまるで反対の問いを向けられて、王は大きく息を吐き出した。



 正装って緊張するな。そう呟けば、襟元を整えてくれていた彼女が小さく笑った。
「そう緊張なさらず。『グランツァ・フィメル』は、朝のうちからそれはもう楽しげでいらしましたよ」
「母さんなら楽しめるだろうなあ、この状態。昨日から父さんすら入れなかったって聞いたけど」
「ええ、旦那様は何度も何度もいらしていましたが、おかげで予備の扇が無くなってしまわれました」
「…………」
 なんか聞いたことある。父が母に何度も何度も言い寄った最後、母が「これでもよすがになさいませ」といつも手にしている扇を叩きつけたという話を、項垂れた父から聞いたことがある気がする。結局は母が根負けしてこうなっているらしいが、どうして結婚したんだろうあの二人。そんなに惚れ込んでたのか父さん。というか本気でってそういう意味だったのか母さん。
「さあ、整いました。ご立派ですよ、『グランツァ・フィメル』もお喜びでしょう」
「う、うん……馬子に衣装とか言われないかな……」
「何を仰います。次期惣領、『グランツァ・フィーヴァ』に相応しいお姿ですよ」
 言われて自分を見下ろす。高襟のシャツに刺繍の施された上着、ゆったりとしたズボンは革靴を半ばまで隠しているように見える。裾の長い、刺繍が細かく複雑に、それでも眼には混乱しないように色味を抑えた長衣を二枚重ね、短帯を絞めている。右腕の上腕には白い長い薄衣が銀の輪で留められて、背に流れて左の腰で帯に結ばれていた。
 頭には何も被らない。代わりに銀細工がいくつも揺れる髪紐を丁寧に編み込んでいるだけ。最後に左肩にかけられた外套を押さえて、左肩から右の腋に組紐を更に組み合わせた帯を通して金具で留める。この一揃いでコウハの正装だ、ディアネル商会はコウハから生まれた組織だから、所属する人間の正装も当然コウハのそれになる。言っても、母自身はコウハの生まれではないから多少ちぐはぐではあるのだが、コウハの一族が母に依頼して作った組織なのだから間違いでもないのだろう。たぶん。
「……うん、よし。とりあえず母さんのところ行って……」
 言いかけたところで扉を叩く音がして振り返る。すぐにフィズヴァが扉に向かって、少しだけ開かれたそこで誰かと何かを言い交わす。すぐに振り返った彼女が口を開いた。
「『グランツァ・フィーヴァ』、申し訳ありませんがすぐにご移動を」
「え?」
「王の名代が来られました、『グランツァ・フィメル』がお会いになると。ご同席を」
「……わかった、すぐ行こう」
「はい。こちらへ」
 扉が開いて、フィズヴァが先導して歩き始めるのを追いかける。向かっているのは応接室ではなく惣領の執務室。進む速度を落とさないまま開かれた扉を潜れば、既に母は机の前に鎮座し、その目の前にはドレスの後ろ姿があった。
 ――名代なら宰相や、あって貴族院の一位か紫旗の団長ではないのか。思いながら口を開いた。
「急で驚きました、『グランツァ・フィメル』」
「わたくしもです。こちらへ」
 椅子に腰掛けた母が自身のすぐ横を示すのには、ひとまず先にそれに従って母の横、少し下がった位置に足を止める。それから目を向ければ、桃色の髪に控えめな冠、蒼い瞳のそのひととちらと眼が合う。あれ、と思うとほぼ同時に母の声。
「こちらはこれで揃いました。そちらは」
「わたくし一人ですわ。紫旗も護衛も右腕も助手もございません身ですから」
「そのような方が王の名代とは恐れ入りますね。わたくしが『グランツァ・フィメル』、これがわたくしの後を継ぐ『グランツァ・フィーヴァ』」
「申し遅れましたわ。キレナシシャス今上陛下は三子、王女の位にありますスィナル・テティ=キレナシシャスで御座います。本日は父の名代として参りました、以後お見知り置きくださいまし」
 王女、聞いていた通りの色だと思うと同時に不審に思う。彼女の周りには誰もいない。王女は市井にもあまり知られない存在だ、その彼女、十六の少女に名代を任せるとは。思っている間にぱちりと扇の鳴る音。
「王女殿下は政にも商にも遠い方とお見受けいたします。それが王の名代とは納得いきかねますね」
「政にも商にも遠いからこそ参りました。それと、先に申し上げておきますが、わたくしの叔父と兄がこちらにお世話になっているとか」
「ええ、昨夜より逗留いただいております。それが?」
「その助けに参ったのではありません、ということを一番にお伝えいたしますわ。王弟殿下はともかくあの馬鹿兄共は『グランツァ・フィメル』のお好きなようになさってくださいまし。簀巻きにでもして川に流していただければ下流で拾っておきますわ。その頃には死体でしょうけど」
 ――驚いた、という表情を隠すので必死になった。王の名代の言葉は王そのものの言葉と同等だ、しかも王女が兄王子に対してそれを言えるのか。ぱらぱらと音を立てて開かれた扇が母の口元を覆う。それに対して王女はにっこりと笑ってみせた。
「父もわたくしも到底アレがあのままの場合、次の玉座を任せる気はございませんから。事故死でもしてくれるのが一番です」
「……王家も随分なことを言いなさる。それは政のこと、わたくしに明かす札ではありませんね」
「はい。ディアネル商会、そして『グランツァ・フィメル』に王家が差し出す手札はこちらになりますわ」
 言いながら、王女は上掛けの内側から一枚の書類を取り出す。三つ折りにされたそれを見て、ぱちん、と、扇の閉じられる音。『惣領』の笑みが垣間見えた。
「……なるほど。ひとまず内容を確認させて頂きましょう」
 扇を持たない左の手が差し出される。『剣』を持つ事のない手を上向きにして。笑みを浮かべた王女はその表情を更に深めて、数歩の距離を詰めて母にそれを手渡した。すぐに開かれる音、母がそれを読む間に王女を見れば、今度は明確に視線が噛み合った。にこりと笑みを向けられる。
「……誰の発案です?」
「わたくしの独断に、父の許可を得、王宮の辺り一面を巻き込んだ結果です」
 言う二人の声の合間に一枚きりのそれが横手に差し出される。受け取って見れば短い条件が箇条書きにされているだけ。だがその内容に、軽く目を見張った。
 第一。来たるべき時より後は『グランツァ・フィメル』に御用達の紋章を与うること。v  第二。ディアネル商会には品目種別規制の無い自由交易の権限を与うること。
 第三。『グランツァ・フィーヴァ』に与えられた玉命の自由破棄を許すこと。
 第四。王家の致した不敬に値するだけの申し立てを王家・貴族院・人民院は拒否しないこと。
「こちら、王家がまず提示致しますのはその四つ。ですがこちらの都合によるものであることは否定致しませんわ。ですから、」
「より良い条件を引き出したくば登城せよ。それを言うためだけに名代の肩書きをと言い出したのも貴女ですね」
「はい」
 眼を上げる。王女は笑っている。自然な笑みでは無い。あからさまに整えられすぎた表情の中で、眼だけは真っ直ぐに相手を見据えている。
 賭けに来ている。そう感じた。書状を元の通りに畳んで母の目の前、机の上に戻す。合間にその蒼がこちらを見るのが分かった。
「加えて申し上げるのであれば、『グランツァ・フィーヴァ』は玉命により紫旗の密務に関与しております。そうした王の命をもってしたことを愚兄が散々に侮辱したことは、王家に連なる者として謝罪致しますわ。ですが生粋の商人に言葉だけの謝罪でとは道理に適いません。そのために王にもこの件を呑んで頂きました」
「一つ確認をしましょう」
「はい」
「『来たるべき時』は何時になるのか。王は『紫銀』の存在をいつどのように公布なされるか、その御心算は如何に」
「……状況からご説明いたしますわ。まず、紫銀は孤児として紫旗に発見、保護されております」
 横目が向く、軽くこちらに顔を向けた母には頷いて返す。明かすのか、とは王女に対して思ったが、明かさなければ手詰まりの見える王家は、どうやら切れる札は全て切るつもりらしいと、王女に眼を向けなおす。
「幸い紫銀に病や怪我、障害は無く、今は父母の捜索に紫旗を当たらせております」
「手応えは」
「ございません。紫銀の噂がある地域すら、国内には見つけられておりませんわ。このまま父母がないままであれば、次の春、春華祭には紫銀帰還の報を内外に広くお知らせになるとのこと」
「確定事項ですね」
「王はそのように仰いましたわ。二言がないことも確かめてから参りました、ですから確定事項です。次の春華祭以後、紫銀にまつわるありとあらゆる品は全て、御用達の紋を持つディアネル商会を通すことになりましょう」
「……あいわかりました」
 椅子を引く音。立ち上がった惣領が、壁際に控えて一言も漏らさないフィズカに目を向ける。
「馬車の用意をなさい。応接室の三人は同じ箱にでも詰めて載せさせなさい」
「畏まりました」
 王女の表情に笑み以外が初めて現れる、嬉しそうなそれに向かって、母は微笑んで見せた。
「『グランツァ・フィーヴァ』はわたくしの伴を。……この条件、乗って差し上げましょう、王女殿下」
「……ええ、感謝いたしますわ、『グランツァ・フィメル』」
「ただし会談にあたってはこちらから条件を設けます」
 ほっとした、と言わんばかりに胸に手を置いた王女が、それには明確に疑念を示した。そうして今度は母の笑みが、強く浮き上がる。
「条件に加味するのであれば紫銀を場に加えること。そして先日、わたくしどもディアネル商会はグラヴィエントとの同盟を成しました。故、グラヴィエントの総長も同席させますが、よろしいですね」
 眼を見開いたのは王女だけではなかった。自分もそうして、見上げた母は、したり、と扇を広げて口元を覆う。上向いた口角を隠すように。
「商人が手を出すものが商いだけとは思いなさらないことです、王女殿下。己が命を天秤に掛ける覚悟があらば、頷かれるだけでよろしい。そうでなければお引き取り願いましょう」
 沈黙が落ちる。声を上げようとしたのは先んじて手で制されてどうしようもなく言葉を呑んで、そうして桃色の髪が揺れるのが見えた。
「先に貴女様が仰った通り、わたくしは政にも商にも遠い者。ディアネル商会が手中に収めようとグラヴィエントが命を取ろうとこの国は揺るぎは致しません。王家もわたくし一人が死のうが意にも介しませんでしょう、その覚悟は既に固めて参りました。――故に今の言葉は王家に列するわたくしを侮り辱めるものと受け取るがよろしいか」
「……いいえ」
 一瞬にして温度の下がった、硬直した空間に落ちるには、そしてこの惣領が口にするにはやわらかい声だった。凛としたまま紅を見据える蒼は少しも揺れはしない。憤怒はそこには見えなかった、ただ強い意志と誇りだけがあった。母の手が動く、何時ものように右手に扇の軸を持ち、左手を支えるように添える姿勢。そうしてからいつも通りの『惣領』の声が聞こえて来た。
「試す価値のある人間だと判断したからこそのこと、侮辱の意はございません。商人とはこういうもの、他者を欺きもすれば試しもする。そういう者が『グランツァ・フィメル』であるとご承知置きくださいませ、……本心としては、その眼が見たかっただけですよ、スィナル王女殿下」




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