ようこそ、と顔を覗かせたのは当主その人で、背負った紫青がその声にもぞりと動くのがわかって振り返れば、ぼんやりと紫を開いたフェルがちまい手を伸ばしているのが見えた。途端に彼の相好が崩れる。
「覚えていてくれたか、フェルリナード。具合が良くないのかな」
「喘息がある模様です。今は熱は無い模様ですから、呼吸が整えば、乱れることがなければ問題ございません」
 軽く様子を見ただけなのにわかるのか、と少し驚いているうちに母が答えてしまう。ふむ、とオルヴィエスが僅かに眉根を寄せるのが暗がりに見えた。
「喘息が……ディアネルで手当を?」
「そのように考えています。そのことは後程」
「あいわかった。ではイース殿、後の案内は任せてくれるかな」
「はい。護衛として控えます、有事の際は子供を優先致しますが、ご寛恕を」
「当然の事だ、宜しく頼むよ」
 オルヴィエスが頷いて返すと同時に手首にかかっていたものの感触が消える。手を伸ばしていた紫青がなにかを訴えるように肩を叩いてくるのにはすぐに察しがついてその場に丁寧に下ろしてやれば、危なげなくオルヴィエスの足元に近付いて長い上衣の裾を軽く握って彼を見上げる。笑いながらの手が頭を撫でるのを目を閉じて受け入れて、手が離れると同時に駆け戻ってきて脚に抱き付いてくる。思わず苦笑した。
「怖くないだろ?」
「……うん」
「まだ緊張するのだろうな、そういうものだ。……そろそろ良い時間かな」
 緊張、というわりには素直に近付いて行った気がするが。思いつつも扉を開いてくれるのを見て、母に促されて手を繋いでその後に続いた。広く長い廊下に出て、そこをゆっくりと進む先導に従う。
「オルディナの家とは、しばらく前から親交があってね、勿論グラヴィエントとは不干渉を貫いているが、オルディナは王家や紫旗とは少々距離がありすぎる。だから仲立ちを申し出てね、その関係で私が案内をさせてもらうよ」
「そういったことでしたか……わたくしにはあの総長がまた妙なことを申したのかと気掛かりでなりませんでした」
「安心してくれたかな。オルディナの家は、通りを挟んだすぐのところでね、すまないが歩かせてもらうよ。馬車を使うには短い距離だし、訓練にもなるだろうからね。結界の外の冬は苛烈だ、慣れないとな」
「そうですね、……凍えないといいけど」
 紫青を見やれば、表情は変わらないながらも見上げてきた紫は疑念を浮かべているようだった。これは実感してみないとわからないよな、と思って軽く頭を撫でるだけにとどめる。
 妹は撫でられ好きだ。このところの暮らしでそれは判明している。長じればこの国の女性らしく帽子を被るだろうから、それまでには卒業させてやらないと、などと思っている間に広い空間に出た。屋敷に入ってすぐのエントランス、この屋敷には何度か訪れているがいつ見ても壮麗だよな、となんとなくその空間を見渡して、そうして誰かと目が合った。あれ、と呟けば屋敷の主人も気付いたのか、曲線を描いた階段の上に何人かの子供の影。当主が口を開くより早くに幼い声を上げて廊下へと駆け去っていって、次に聞こえたのは呆れたような声だった。
「息子たちだ、失礼をしたね。フェルリナードのことを新しい養子だと勘違いしなければいいが」
「養子、ですか?」
「うん。当家は代々養子として迎える子が多くてね。私の代までで五〇〇人は養子から、魔導師も騎士も、それ以外の才のある人物を送り出している」
「すごいですね……」
「代わりにラクトは少ないのだがね。妻が子育て好きでね、なんとも、目の付け所が良いのだよ、クライシェは」
 あ、これは惚気になるやつだ。思った瞬間母と目配せして、した瞬間に母がフェルのそばに片膝をついて外套の据わりを直し、首元にマフラーを巻く。それを合図にめいめいが準備をし始めたのを見てオルヴィエスは苦笑し、使用人が差し出した外套とマフラー、帽子を身に付けてから扉を開いた。
「さあ、雪も降り積もった後だが風はない。散歩には良い陽の下だ」
 開かれて見えた景色は真っ白だった。景色が目に飛び込んでくると同時に流れてきた冷たい空気に思わず首をすくめる。フェルの手が右手を握り締めてくるのには、そういえば手袋はしてこなかったなと握り返してから声を向けた。
「行こうか。ゆっくりでいいからな」
「うん」
 答える声がしっかりしているのに頷き返して、綺麗に雪が退けられた階段に向かう。十段程度のそれを降り切って、家令の老人が笑顔で送り出してくれるのには素直に門に向かった。護衛は無いか、と無人の門の先を見て思い、昼の貴族街で何か起こることも無いだろうなと思い直す。――しながら、母をちらと見上げれば、僅かな頷き。
 気を付けるだけ気を付けておこう、瞳の紫が珍しいのは変わらないから。アイラーンは良い貴族だと言われている、忠に厚く民を慮るはその声によく応え、故に様々な色が集まる。だから色格主義者には目の敵にされるのだ、金銀紫藍が集まるからと。なんだかなぁと思っている間に右手が揺れて、眼を向ければその紫が周りを見渡していた。門を出たところで足を緩めれば合図にしたようにこちらを見上げて来た。
「……つめたい……でも、ちがう……?」
「寒い、だな。あったかいの逆。でも陽が出てるから、広間とかの寒さとは違うな」
「うん」
「身体を動かしていれば寒さは気にならなくなる。だがあまりはしゃぐなよ」
「はしゃぐ?」
「走り回るのは駄目だ。今はな」
「……あと、は、いい?」
「医者に診てもらってからだ。その後ならいい」
「わかった」
 ヴァルディアが言ってくれるそれに、分かってないんだろうなぁと思いつつも言うのは野暮だよな、と思って黙っておく。ヴァルディアも何も言わなかった。そのまま先導に任せながらゆっくりと、石畳の敷き詰められた道を進む。道の中程は馬車の車輪が石を削って傾斜が出来ていて、歩道はそこよりも少し高く作られ縁石が細く並べられている。その様子も珍しいのか、足元のそれに気付いてからはじっとそれを見つめながら歩いている様子で、街並みや道の交差にはあまり目がいっていないようだった。しばらく先導の公爵と母、その二人の付き添いの年長者が雑談に興じているのを聞きながら、度々雪が除けられたといっても凍りついている場所が無いではない道に滑るようなことはないかと妹に目を向けて、特になんの波乱もないまま、さあ、と促す声に目を上げた。五分も無いだろうか、振り返れば邸宅が建ち並ぶ屋根の奥の方に、アイラーンの白く染まった屋根が垣間見える。目を戻せば、目の前で示されたのは貴族街には珍しい、さっぱりとして装飾の控えめな屋敷だった。
「オルディナの家だ。今日は要件を伝えてあるから、足止めはないと思うが、どうかな」
「公爵の訪いの足止めをなど王家とオルディナしか考えようとはしますまい、それだけの大事のこと。わたくしが取り次ぎましょう」
「良いのかな?」
「わたくしの顔はあの一派には知られております。失礼、前を参ります」
 言い切った母が、その屋敷の門へと滑るように進んで行く。相変わらずの早足、と思っている間に鉄の門が開かれるのが見えて、そして衛兵が直立不動にその左右に並ぶ。その様子を見てかフェルリナードの足が止まって手を強く握られたのには、すぐに足を止めて左手で頭に手を置いた。
「大丈夫、怖い人たちじゃないから」
 でも、と言いたげな紫がこちらを見上げ、もう一度衛兵たちを見やる。逡巡するのにはヴァルディアと目配せしてわざと何も言わずに待って、それから繋いでいた手が離されて、代わりに両手がこちらに向かって突き出されるのには苦笑してその身体を両腕に持ち上げた。そうしてから母と公爵を追えば、微笑ましいと言わんばかりの公爵の顔が迎えてくれた。
「やはり少し怖がりかな」
「オルヴィエス様には、結構早く懐いたみたいですけど」
「ふふ。なら嬉しい限りだが、さて。では夫人」
「ええ。案内を頼みます」
 母が向けて言ったのはしっかりとした衣服に整えた使用人、家令だろうか、胸に銀のバッヂをつけた一人で、その彼は静かな声でこちらへ、と屋敷の大扉を示した。



 通されたのは応接室だった。それは間違いないはずだった。
 ――それなのにどうして自分はカードを手にカルセックに興じているのだろうか。左隣のヴァルディアが手札から三枚を場に投げる。八から十の連番。
「『パード』」
「くっそ、回ってこねぇな……ナシだ」
「先程出したばかりです、ございません。クロウィル」
 ぐるりとテーブルを回って右隣の母に促される。溜息したいのを押さえ込んで、手札の中から絵柄の付いた二枚を場に出した。振られた数字は十三と一。
「『クルーヴァス』。次の手が無ければ親変わって更に倍賭け」
 げ、と呻いたのは総長で、口元に手をやって考えているふうなのがヴァルディア。扇の中の手札を見下ろして嘆息したのが母である。
「……『サシェス』で降りましょう。『ユルグーレ』で立てておくべきでした」
「手無しで投了だな、『パード』以上を出せる気がしない」
「粘りゃあ『カルセック』いけたが、『クルーヴァス』じゃ無理だわ、俺も手無しで降りる」
 めいめい三人が言って手に残っていたカードを表にして場に示す。三人目、総長が言い終えてカードを晒して、そこでようやく、息を吐き出した。残った二枚、貴婦人を描いた一枚と道化師を描いた一枚、共に数字の記載が無い二枚一組。
「じゃあ一〇七万点で最後に『トリックスター』。勝ち点三倍で俺の勝ち抜け」
「なんで倍賭け仕切りと勝ち抜け同時に持ってんだよぉおお!!」
「喧しいこと。先に申しましたでしょう、誘うのは自由でも後悔する、と」
「……普通はそう言われたら夫人を警戒するものでは……?」
「商いする者は基本的には賭けを致しません、それ故の不得手である、それだけのこと。……息子が長じているのはわたくしにも不可思議です」
「いや教えてくれたの母さんでしょ……」
 カードゲームである。しかも現金を賭けて行う賭博のルールのひとつ『カルセック』である。一から十三の数字札が六属性ごとにあり、更に属性ごとに魔法使い、騎士、小姓、国王の絵柄のみの札、そして属性も数字もない貴婦人と道化師。これらの札で手を作り、場にある『舞台』を盛り上げることで得点を得る。得点とは即ち賭けられテーブルの上に積まれた札束なのだが、今は所謂練習用の仮想通貨がその役割を果たしている。
 ――自分たちは応接室に通された。話はとんとん拍子に進んだ、フェルリナードの生家の役割はオルディナが受け持つこと、オルディナでの名はエフェレツィス・レヅ=オルディナとすること。エフェレツィスは先日病で亡くなった当主の弟の子とすること、亡くなった本人もそれで良いと言ってくれているとの伝言もその妻から受け取り、フェルリナードも新しい偽名の意味を母に丁寧に教わり頷いたところで、わん、と鳴いたものがいたのである。
 総長が飼っているという犬は、それまでじっと椅子の側に身を伏せていて、話が終わった途端に一声を上げた。そして紫青が、もふもふとしたその大型犬に吸い寄せられるかのように近付き、触れて、をおそるおそる始めた。それに数人が苦笑して、雪が綺麗に除けられた中庭にと誘ってくれ、アイラーン公爵もそれについていくよと言ってくれ、それに乗り遅れて残った自分と、母とヴァルディアが総長が取り出したカードの相手にと指名されてしまい、餌食と仕返したところである。
「……えーっと、で、整理したいんだけど」
「おうよ」
「オルディナの当主の姪が、当主に預けられることになったけど色狩りの連中にその姪が拐われて、それを紫旗が見つけて、こうして引き渡し完了、で、良いんだよね?」
「おう。親探ししてる間は紫旗に保護されてて、紫旗に居た歳の近い子供に懐いた、までくっ付けていいぞ」
「ありがと。で、えーと?」
「懐いた結果離れなくなったので、記憶喪失の治療と二次被害からの保護も兼ねて紫旗の医療部に預けることにした、だな。紫旗の病院は貴族御用達だし。人脈辿ってって紫旗の医術師に依頼したって形になってる、王様の書類も揃えてあるぞ?」
「で、結局、フェルリナード……エフェレツィスが暮らすのはここじゃなくて紫旗本部、ってことでいいんだっけ?」
「そういうこったな。本人が懐いた輩と引き離されるとどうなるかわからないからっていう理由付きだ。なんか気になるか?」
「……よく通ったよな、って」
「通さざるを得ないしなー王様も」
 扉の音と声がほとんど同時に聞こえて、振り返れば白髪に黄瞳の青年。大型犬が軽快に主人の側に駆け寄って腰を下ろす間に、青年が抱えていた紫青が絨毯の上に降ろされる。膝をついてその紫青のあちこちについたままの雪を払い落としながら彼が続ける。
「あとはなあなあで、フェルを名目上紫旗の子弟にでもしてもらえれば、いざ紫銀って発表したあともいろいろ融通効くだろ、って目算込み」
「……そこまで?」
「考えといたほうが良いだろう、って予測な。なんにせよ紫銀なら剣か魔法かの訓練は必要だし、馬鹿な家庭教師よりも紫旗のが良いだろだぶん。ほら、飲み物もらってこい」
「うん」
 促す声に答えて、こほ、とちいさく書き込む音を立てながら紫青が駆け寄ってくる。両腕を伸ばされるのにはすぐに膝の間に抱え上げてやって、テーブルの上のカップを持たせてやれば少しぬるんだ紅茶を大人しく飲み始める。ゆっくりと追いかけてきてテーブルの上を覗き込んだ彼が、うわ、と呻いた。
「大敗じゃねーか親父」
「うっせーよ。そっちはどうだ、叔母と従姉妹との顔合わせ」
「叔母さんはお袋と気ぃ合うぞたぶん、今は公爵と世間話してる。フェル喘息か? 息変だけど」
「その様子はたしかに見受けられます、紫旗が言うには見落としていた可能性があるとのこと」
「子供の喘息きついって聞くからなぁ、軽いと良いけど」
 言いながら手を伸ばして青を撫でる。フェルリナードはすっかり慣れたようで、その彼の手も逃げずに受け止めていた。
 オルディナの当主、グラヴィエントの総長の一人息子のスフェリウス。以前ディアネルとグラヴィエントが同盟を結ぶにあたって顔を合わせて以来だが、その様子は変わらずだった。総長に似て粗雑に見せるが、魔法を扱うという、それに相応なのか、理知な空気は明確だ。適当な、気の抜けた風な中に隠そうとはしているが。
「で、諸々の話は終わったのか?」
「ひと段落はつきました。そちらは如何ですか」
「どうってもな……特に何も、ってか。俺よりフェルのが先じゃねぇの?」
「先?」
「使い魔が妙なこと言うもんでな。助けたいけど助けられないとか、助けたくないとか云々」
 唐突なそれに、眉根を寄せる。誰を、というのは、今膝の上にいる紫青のことで間違い無いだろう。スフェリウスは椅子には腰掛けないままで腕組みする。
「回路が弱ってる。今も氣失寸前だろ、早いとこ精霊味方に付けておかないと面倒だぞ?」
「説得はしているんだが、野良の精霊は入れ替わりが早すぎて効果がない」
「ならさっさと使い魔付けてやるとか」
「魔法自体を知らない状態からでは長すぎる」
「……少しも使えねぇの? 剣のなのか?」
「まだ分からないが、魔法型だろうな。……使い魔の移譲を?」
「考えるだけは考えた、けど俺の使い魔嫌がって引き受けねぇから他の奴探さねぇとだな。そっちもだろ」
「ああ」
 ヴァルディアとの会話の最後に悩むように天井を見上げて唸る。紫青はそれを見て、不思議そうにこちらを見上げてくる。難しいな、と呻いて母を見れば、少しの間を置いてからその紅がこちらを向いた。
「説明してあげなさい。己のこと、知っていて損はないでしょう。知らずして損害に繋がる可能性も無いとは言えません」
「……って言われてもな……ええと……」
 詳しく把握しているわけではない。何と言えばいいかと思って言葉を探しているうちに、膝の間に抱えた紫青が動いてこちらを見上げてきた。
「……せいれい?」
「うん、精霊の話。フェル、精霊苦手なんだっけ」
「にがて……こわい、から、つかいま、は、にがて……せいれいは、すき。でも、さわれない」
「触れない……使い魔は、なんで怖いのかとか、わかるか?」
 訊いてみても、悩むような沈黙があるだけだった。想像通りのそれにどうしたものかと魔法使い二人に目を向ければ、その二人も考え込んでいる様子だった。しばらく思案する沈黙、その中で紅茶を揺らした総長が息子に向く。
「お前の工房見してやったら良いんじゃねぇの」
「あー……まあ、それもそうか。魔導師には見せられないけど」
「道理だな。魔力を帯びたものを見せた方が良い、というのは賛成だ、任せる。紫旗は性質上隠しているだろうからな、接点もほぼ無いはずだ」
「よし、ならフェルと、クロウィルも来いよ」
「……俺も?」
「お前もあんま知らないだろ、魔法のこと。妹が魔法型ってんなら知っといた方が役に立つ」
 言い切って、それで白髪の彼はさっさと扉へと向かってしまう。どうする、と紫青を見れば疑問符を浮かべていて、なら、とその身体を絨毯に下ろして自分も立ち上がった。




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