しばらく待たせました、との母の声に顔を上げる。差し出されたものを見れば茶色の紙包みで、もう一度見上げれば頷いての許可。すぐに包みを解いて中を見れば、入っていたのは布で包まれた時計と、一冊の本の形をした来年用の一年暦。時計に秒針が付いているのにはほっと息をついて、それで母を三度見上げた。
「有難う、母さん」
「いいえ、構いません。欲のない子の初めての望みの品、選びに選んで当然のこと。……もう一つ、割れてしまった腕輪の代わりにこれを持ちなさい」
 母が言うそれに疑問符が浮かぶ。差し出されたのは丸い輪を描いた翠の腕輪。宝石、翡翠だろうか、と差し出されたそれを慎重に受け取る。――受け取って、その瞬間に目を見開いた。
 暖かい。それでいて涼しい風が吹くような。身体の奥底、未だに消えない火の勢いが減じていく。煽られるように八方に振れるその火がようやくひとところに据わっていく。
「一門の者が届けてくれました、わたくしたちの欲を満たしてくれるもの。お前が持ちなさい、母は父様に頂くことで満ちています。だからお前が着けて、自然に割れてしまうまでは」
「……母さん、一門って何?」
「わたくしたちの祖たる方々が、擁し、導かれ、共に在った一族。そしてその一族の許に集った者のことを、一門、と。様々な種が在ります、わたくしもその末席」
「俺は……」
「お前はいけません。お前はまだ目覚めが遠い、『コウハの子』が加わるには荷が重過ぎる。故に”グリヴィアス”でなければ役を負えません」
「なのに俺に?」
「一門の方々も、それを率いる『当主』も、人の為を是としている。それだけのこと。それだけを、直向きに成すが故の一門です。お前が”グリヴィアス”として望むのであれば仲立ちも致しましょう、ですが今はいけません。……良いですね」
 目は手に握った腕輪から動かないままの会話だった。しばらくして母の手が伸びて来て、左腕にその腕輪が通される。大きいはずのそれは淡く光をまとって収縮して、締め付けるでもぐらぐらと揺れるでもない形に落ち着いた。身体から、常に張っていた緊張が抜けていく。解けていく。溶けて消えていく、その感覚に我知らずのうちに息が漏れた。
「時折には草木にも頼りなさい、それだけでは保ちません。良いですね、クロウィル」
「……はい」
 答えて、腕輪を袖の中に隠す。すんなりと馴染んで違和感はない。顔を上げて母を見上げて頷けば柔らかい笑みで返されて、そして間を置かずに扉を叩く軽い音が転がり込んだ。予想していたのだろう、母がそちらに身体を向けた。
「お入りなさい」
 短いそれで扉が開かれて、入って来たのはフィズカだった。連れられた紫青が扉から覗き込むのが見えて、こちらを見つけて駆け寄ってくる。
 ディアネルの支部だ。ほぼ円状に広がる王都の南西、住宅が並ぶ区と小さな工場や加工場が並ぶ西区のちょうど合間の位置にあって、この並びには隊商が集まる広場がいくつもある。人の往来も多い通りだ。
 ヴァルディアに言われたように、神殿に行ってみよう、というのは早い段階で決まっていた。更に、それなら一度ちゃんとした形で王女殿下に謁見しておいたほうがいいということに昨日の夕食の間に決まって、それで王女の快諾が一時間もなく届いたために一度こちらに移動した、というのが昨夜の出来事だ。移動の際には、本部の表口から堂々と、自分とフェルリナードと、そして私服姿のレティシャが引率兼護衛としてついて来てくれて、三人でこの通りを歩いたのだが。いいのか、大丈夫なのかと聞けば、紫旗の本部に子供がいることは珍しくとも不思議ではない、とのことらしい。子弟がそうなのかと思えば、紫旗が任務中に発見あるいは保護した子供は引き取り手が見つかるまで、あるいは子供本人や親類が嫌というまでは紫旗の持つ施設の中で過ごすのだと言う。すぐに生家や養育家に引き渡しても、拉致被害に遭った子供は再び被害に遭う確率が高く、一度助けられても二度目は難しいからという事情もあると聞いた。貴族の子息子女が色狩りに遭うことは滅多にないが、あったときに奪還を依頼されるのは大概が紫旗になるという。だからフィエリアルも「久々だ」と言ったのだろう。その上王女が一芝居打ってくれるとなって、その仕込みの意味もあり、なおさら明確に登城を許されている、という状況を見せつける必要があった。
 と、いうのは、王家と紫旗の事情である。こちらは特に何も気にしなくていいと王女自身からの言付けもあったので気を抜いていても大丈夫なはずと、駆け寄って来た紫青を両手で迎えた。
「おはようフェル。寒くなかったか?」
「フィズカ、が、いっしょにしてくれた、から、だいじょうぶ。おはよう、クロ。フィメル、も、おはようございます」
「ええ、おはようございます。良い朝ですね。フィズカも」
「はい、朝のご挨拶申し上げます、『グランツァ・フィメル』、並び『グランツァ・フィーヴァ』。昨夜は僭越ながらわたくしが務めさせていただきました。お嬢様は創世記がお好みのようです、すぐにご用意致しますね」
 見るからに嬉しそうな笑みでフィズカが言う。この人も子供好きだよなとフェルリナードの頭を撫でて居るうちに、妙な単語が聞こえてそのフィズカに目を向けた。後ろから母の声。
「創世記ですか。確かに知っていて損はありません、古代語のものも一冊用意なさい。対訳も必要になりましょう、妙な解説のないものを選ぶよう」
「はい、フィメル様。王宮に向かう馬車は準備を整えさせております。その間にご朝食を」
「じゃあフェル、行こうか」
「うん」
 頷いた青銀の髪はゆったりと編み込まれている。ドレスは首元から指先までしっかりと覆うもので、どうやら母がディアネルの職人に言い渡して特別に作らせていた衣装らしい。薄桃色のスカートに春草の丈の長い上着を白い中着に重ねて、胸下にはスカートと同じ色合いのリボンが結ばれて、歩くたびに背中の蝶がふわふわと揺れる。足を取られて転んだり、というような様子はないが、数歩のうちに咳き込むのが見えてわずかな焦燥が浮かんだ。
 どうやらフェルリナードの喘息は、今のところは小康、というだけで、症状自体は重い部類に入るらしい。療師が団長や、主にフェルリナードの周囲に居る団員たちに注意事項を伝えるその場にいたが、細かな見落としが発作に繋がりかねない、その一言が重かった。昨夜も本部を出て少し歩いた頃に喘鳴が聞こえて、ほとんどは自分かレティシャが抱えての移動になった。今のところ発作らしいものはないがと、意識してゆっくりと食事室に向かえば、ちょうど準備を終えたらしい食卓とフィズヴァが見えた。
「ありがとうフィズヴァ」
「当然のことです、お気になさらぬよう」
 双子でもこの彼女の方は表情が動かない、抑揚の無いいつも通りの声音。フェルリナードが身体を強張らせているのには頭を撫でてやって、それで椅子の上に押し上げて座らせてやる。座面の高いそれが用意されているのは準備が早いと内心で苦笑しつつ、自分も椅子に腰掛けた。最後に母が向かい合う位置に腰掛けて、手に持っていた扇を帯に挿した。
「では、頂きましょう」



 王宮は王都の中心にあり、敷地は北へと伸びて歪んだ形を成している。高い城壁の中の北には王族の住居が、南側には行政施設が、西には王族でも傍系の人々の住む離宮や管理された獣の住処としての林があり、東側はその全てが神殿の領域だ。王宮の四分の一が神殿の敷地となる。王宮に入るための一番の門は南にあって、第二の門までの建物と敷地が外殿と呼ばれる。市民が足を踏み入れて、街や町の意見書を提出する窓口や出生管理の窓口、つまりは役所の役割を果たしているのが外殿だ。地方の都市や村々の情報も最終的にはこの外殿に集まるらしく、書類を積んだ馬車も見かける。
 第二の門を潜れば内殿。王家の客人は西の門を潜って応接用の宮に通され、議員や政務に関わる管理は北を向いた門を潜って王宮中央の仕事場に向かう。北の王家の居住と応接用の西の敷地は奥で繋がっていて、今回目指すのはちょうど北西の境を越えてすぐの王女の棟。東を向いた門は神殿に関わる人と神殿へ向かう人のみのもので、今は衛士が二人立っているだけだった。
 内殿へと足を踏み入れるその三つの門を見る広場でなんとなく三つを眺めて、これが、と思っている間に全身ががたんと揺れた。揺らしたのは馬車が止まる時の揺れで、それで馬車はここまでだということに思い至った。馬車はいつ乗っても慣れない、荷馬車の方が、と脳裏に呟いているうちに横の一人の様子に気付いてその顔を覗き込んだ。
「フェル、大丈夫か?」
 訊いても喉を詰めた呻きしか返ってこない。まずいな、と母を見れば、いつも通りの眼をしていた。
「外の空気に触れれば、多少は良くなりましょう。抱えてやりなさい」
「うん。……フェル、こっち向けるか?」
 うつむいて呻いているそこに手を伸ばす。あまり揺すってしまわないようにと気をつけつつ膝の上に抱えればぐったりとした様子で肩に頭が乗る。向かいに座ったラシエナが困ったように笑った。
「乗り物酔いするんだね、フェル……」
「動くハコというものも初めてでしょう、耐性がないのも当然、致し方のないこと。時間はかかりましょうがそれほどの距離でもなし、帰るには徒歩に換えましょうか」
 外で御者が台を用意している音。帰りは紫旗の本部に向けてだ、そういう予定で組んでほしいと紫旗伝いに王女から聞いている。――一芝居、の、その内容がとてつもなく気になるのだが、きっとこの後巻き込まれるのだろうなと思ってあえて何も訊かなかった。フェルリナードがスィナル様に会える、と聞いて明らかに目を輝かせていたのを邪魔したくなかったというのもある。なぜ懐いている風なのか。自分の知らないうちに会っていた、という可能性は十分以上に考えられるが、とにかく自分が知る限りあの王女とフェルリナードが顔を合わせたのは、自分がこの国の趨勢を握っている、国王を含め三、四人を脅した、あの時の一度きりのはずだが。
 馬車の扉が開かれて、母が先に台を踏んで外へ。その次にとラシエナに促されて、青銀を取り落としてしまわないように慎重に台を踏んで石畳の上に降りた。
「伺っております、……こちらへ」
 西を向く門の衛士が、ラシエナが馬車から降り立つのを見届けて腰から提げた何かの書類を手に言う。槍を左手に持ち替えて右手で門を示し、そうしながらも声音が異様に硬いのはすぐに気付いた。ちらと見上げれば、衛士の表情は険しく、視線は母に向いている。正確には、母の銀の髪にか。
 やっぱりな、とは思いながら青銀の背をあやすようにやわく優しく叩き続け、何も言わずに歩を進める銀の背を追って門を潜る。潜った先は無人で、後ろの喧騒とは裏腹に静かに沈んだ薄暗い中に分かれ道が幾つか見えるだけの廊下。案内がいるはずではと振り返るよりも先に門が閉じる音がして、閉じられたその向こう側からは明確な嘲笑が聞こえていた。
「構いません」
 足を動かす前に母の声が割り込んだ。でも、と言いかけた幼馴染を制した母の表情には、したりという笑み。
「言いたい輩には言わせておけば宜しい。ああも表立って言えぬ度量の低さ度胸の無さを、私たちが丁寧に教えてやる意義もない、それだけのこと」
「でも、周りにもわざと聞こえるように……!」
「銀は確かに強い色。それを理解せぬ者と理解できぬ者だけが笑うのです、己の色は弱くない、銀は忌まれるべき色だから何をどう言ってもいい。そうとしてしか己を肯定できぬのです。斯様に単なる思い違えをする人間の多いこと、一つひとつ気にしていてでは気疲れします」
 いつも通りだ。だからこそ口をついて出そうになった溜息を押しとどめる。門の向こうから門扉を叩く音、硬い音は石だろう。ちらと見遣った先、母の手は扇を持つ形を少しも崩していなかった。
 ディアネル商会を立ち上げる以前、母は父と結ばれてからずっとコウハの村から少し離れた林の中で暮らしていたという。だから商人になったのだろう、商人相手は楽だから。彼らは不利益に敏感で、増して利益には従順だ。だから銀の髪を晒しての商談が出来る。不信や不審を露わにする人間も多いが命色を隠しての商談ほど話にならないものも無い上、一度信用を取り付けてさえしまえば色など関係無しに信頼が結べる。色を全て明かすのは信用しているという態度を明確にするためだ、だから、商人相手は楽なのだ。だからこの人は、商人以外の、自分に関わりのない人間が苦手のまま。
「エナ」
「えっ、う、うん。ごめんなさい、案内ですよね。こっちです」
 呼びかければすぐに察して言ってくれ、左手に折れる廊下を示してくれる。先を失礼します、と言って先導してくれるのには母が目を和らげるのがわかった。
「クライシェの大事な時に、感謝します、ラシエナ」
「いいえ。お母様のお言葉ですし、初陽の日ですから名付け親でも部屋には入れなくて。なんだか待ってるだけでそわそわしちゃってて落ち着かなくて……西翼はよく知ってるので、ちょうどで良かったです」
「名前は決まりましたか。アイラーンは、三子からは長子、次子と順に名付けをするのでしょう」
「決まりました! お母様にももうお伝えしてあるので、終夜の日の明けにはお伝えできます」
 案内も明かりもない、重い屋根と天井に陽を遮られた薄暗い廊下を、ラシエナを先頭に歩きながらの会話。案内役は『銀』を見て役目を放棄したのだろう、よくある話だ。ラシエナもわかっていながら何も言わないでいてくれる。それには純粋に有難いと思いながら、思考とは別の会話のそれに疑問符が浮いた。
「名付け親? エナが?」
「うん。リア兄とフェス兄は、父様と母様から名前を頂いたんだって。私はリア兄からで、ユヴィがフェス兄から。ディマは貰いっ子だから別になっちゃってるけど、その次の子のは私が決めるの」
「叔父さんとか叔母さんとかじゃなくて?」
「アイラーンって親戚すっごいいっぱいいて、みんな仲良いんだけど、何代か前のときに次の当主になる子供の名付け親を誰がやるか、で大揉めに揉めて、親族内戦になりかけたことあるんだって。だから名付け親は家ごとで区別して、父親母親で一人ずつ、三人目からは兄姉の上からの順でつける、で落ち着いたんだって聞いた」
 争いしてたのかアイラーン。そこに驚いた。議題は平和なのに手段が平和じゃないあたりは流石の大貴族というべきか。アイラーンの系譜大量に溢れてるからなあとは取引先の顔を脳裏に並べながら、何度目かこの幼馴染もなんだよな、と思う。なかなかラシエナが、という意識が作れない。本人は姫扱いはやめてほしいと公言しているから良いのかもしれないが。
「……難しくない? 名付けって」
「正直めちゃくちゃ悩みました」
 しんみりと言ってみせる。それでいて満足そうだから、達成感というやつだろう。そうか、とは小さく呟く。弟か妹かはまだわからないが、既に弟がいるにせよ、この調子では溺愛まっしぐらだろうな。思っていると、腕の中でじっとしたまま動かなかった紫青がもぞりと動いて見上げてきた。
「……なづけおや、って、なに? おや、なの?」
「ん、新しく生まれた子供に名前つけるんだ、その考えて付けた方の人のことを名付け親、って呼ぶ。普通に言う親は、父親と母親のことだけど、そっちの親は魂と身体の親。名付け親は、名前の親。全部勝手に生まれるものじゃないから」
「……うまれる、って、なに?」
 思わず口を閉ざしてしまった。そうかそれがあったか。どう言葉にしたものか、という気持ちを込めて、ええと、というなんの答えにもならない声を漏らす。悩む理由は、コウノトリの所為にするかどうかである。
 何をどこまで説明すれば良いのか。フェルリナードは割合現実的な説明を好むらしいとは療師が薬を作っているところにずっと張り付いてあれこれ聞き出している様子を見て思ったことだが。自分は理解しているからいいがと思ってラシエナの方を伺おうとして、やめた。見なくてもわかる。
「新しい人とか、物事がこの世にでてくる、こと、かな。ちょっと難しいんだけど」
 とりあえず普遍的に言えることをと思っても、改めて説明しようとすると難しい。迷いなく廊下を進んでいくラシエナが、曲がり角をこっち、と示してくれるのにはそれについて歩きながら思考をつつきまわしていると、廊下を左に折れたそこで紅がこちらをちらと向いた。即座に白旗を挙げればわずかに笑みの色を強めて母が口を開く。
「魂あるものの多くは男女双方の協力によって実ります。人の場合は母が自身の胎に子を育て産む。母が子を産むことを人が生まれることだと言います。人以外のもの、木々や草花、野の動物もまたそれぞれの方法で生まれます」
「おなか?」
「ええ。クライシェに見せてもらうのでした、貴女は初めてだったでしょうから」
「でもこれから先にもしかしたら、がありますから」
「そうですね、身近にきっと」
 母の目がラシエナに向いていて、幼馴染は肩をすくめて恥ずかしげに笑う。そうしながらまた別の曲がり角を右に。それなりに歩いているが、王族の暮らしている宮殿というから相当に深い場所にあるのだろう。入り組んだ道を覚えられるか不安が見え始めた頃になって、ようやく人の気配が見え始める。それから更に歩いてようやく廊下の先に見えたのは綺麗なお仕着せ姿の女性だった。誰かか、どこかの部屋付きの侍女だろう、下げた紅茶の揃いを盆に載せたまま滑るようにこちらに向かって歩いてくる、その途中でこちらに気付いたその顔が驚きに染まるのが見えた。
「ラシエナ様!? 門からの知らせは、」
「案内の人がいないから入ってきちゃった」
「そん、伴の者はどうされたのです」
「門潜った直後に衛士に門閉じられて引き剥がされました……」
 あ、と思う。そういえばこの幼馴染、屋敷に拾いに行った時に侍従が一人御者席にと付いてきているはずだ。それに公爵家の令嬢、王宮の侍女に知られていても不思議ではないし、なんならこの国で三番目に位の高い女性だったかとも思う。二番目はこの幼馴染の母である。王女とは以前から親交があるのだろうな、と思っている間に侍女は眼を尖らせて内殿の門の方を睨め付けていた。
「あのタダ飯喰らいたちはお客様の色も覚えずに……ッ!! すぐにお取り次ぎいたします、本日はどちらに?」
「今日は私はおまけなの。この方と、あとこの子に会いたいからって、スィナル王女殿下からのお召しで」
 声のない悲鳴が上がるのが聞こえた。王宮の侍女とか侍従とかってもっと冷々淡々としているものだという印象があるのだが。見ればお仕着せも上等な生地と丁寧な刺繍、首には小粒とはいえ瞳に合わせた石がフリルタイを留めている。位階の高い侍女かとなんとなく見ていると、不意に胸元を小さく叩かれた。眼を下ろせば紫。
「? どした?」
 訊けば紫は侍女の方を見て、ラシエナを見て、それから戻ってくる。何かと思って両者を見比べれば、侍女がどこかに向けた呼びかけの声に応じて、ばたばたと何人かが駆けつけてくるところだった。一度首を傾げて、思い至ってああと口を開く。
「エナは公爵、っていう偉い人の娘さん。あっちの人はここで働いてる人で、母さん……フィメルとフェルがお客さんで、エナが案内役だから、大切にしてくれてる」 「……クロは?」
「俺は、フェルのお付きかな」
「おつき」
「気になるから付いてきた」
「……ん。……おりる」
「ん」
 気にさせてしまっただろうか。最初の侍女が盆を別の一人に渡して、ご案内致します、と深く腰を折って、それから廊下を示す間に紫青を下ろしてやれば、降り立って何かに小さく頷いたようだった。右手が伸びてくるのには左手で握り返して、子供がいるからだろう、ゆっくりとした先導に従って進んでいく。少しもしない間にあちこちの部屋から楽器の音や話し声が聞こえるようになり、そこを通り抜けて一旦外へ。石畳が敷かれた道を渡って更に北に位置する離宮の大きな扉を潜る。質素に、だが上品に整えられたエントランスを進んで階段にとなった時に左手を見れば、紫青の呼吸は多少深くなっているか。
 振り返った母には頷いて返した。発作は確かに怖いが、まだ喘鳴はない。療師も場合によっては命に関わるからと、古代語で本人に忠告もしてくれている。だから大丈夫だとは思いたいが。階段を上がって二階、西側に廊下を進んて、南側の扉を侍女が軽く叩く時には足を止めて、紫青ははふ、と音を立てて呼吸していた。
「殿下、お客様をお連れ致しました」
 すぐに扉が内側から開かれる。侍女がそれを大きく引いて手で抑えながら一礼するのを合図にラシエナが母を促して、その母の後ろについていきながら紫青を前にと背を押してやる。フェルリナードが少し戸惑った様子を見せながらも扉を括ったのを見て、それから顔を上げれば。
 ――見えたのは、『ものすごい』空間だった。




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