王女殿下すごいなあ。呟くことで意識を逸らそうとして失敗した。
 例によって、門を閉じ案内を拒否した衛士も、そして野次の声をあげた張本人も広場に残っていたのだ。恐らく袖にされていることを期待していたのだろう、あれほどの花を運び入れさせるほどの相手ではないと思い込んでの事だろうがと思わず視線が遠くなるのは押さえ込んだ。戻って来たところに声を浴びせかけようとでも考えていたのだろうし、衛士の足元にはご丁寧に小さな石が小山に積んで寄せてあった。そしてそこに到達して、侍女は少しお時間を頂きますと宣言し、衛士の記憶をどうやら魔法で取り出し、このことは客を招いた王女殿下への侮辱であると言い渡し、いつ連絡してどこから来たのか紅の制服姿の軍人たちが素晴らしい手際で不届き者たちを連行して行ってしまった。衛士の他にも数人が捕縛されていたし、捕縛を指示する声もあったから、きっと全員捕まえる気なんだなというのは確信した。その事態が進行する中で白い制服に白い頭巾という出で立ちの別の衛士に、こちらに、と促されて東を向いた門を潜ったのである。
「殿下は色格主義を嫌っておいでですから」
 そう言って口元に笑みを見せた衛士にはどう反応したものかわからなかった。その上母が平然としているのはまだしも、ラシエナまで当然だという顔をしているのには驚いた。おかげでフェルリナードが脚に抱きついたまま氷の如く硬直したままである。
「……どうしてこうなった……」
「よくあることだよ?」
「よくあるのかよ……!?」
「うん。外殿でも命色が銀の人とか紺の人とかの意見書とか提出書類とか、銀の子供の出生届とか、受け取らなかったりすぐ捨てたり燃やしたりが続いて、去年かな? 書類に火をつけた官吏が銀の子連れて来てた親にそれ投げつけて、子供は助かったけど、って事件あって。もともと法律では色を理由に他人を傷つけることはあってはいけないって明記されてるのに、しかも王宮の中でそんなのがあって王家も公爵家も怒っちゃって。王族と、高位の貴族が見ている場面には限られちゃうけど、摘発がものすごく厳しくなったの。だからこんなことないと思ってたんだけど……まだ締め付け緩いのかなあ……罰は一貫して命色に関わるもの、だから、重いはずなんだけどな」
「うわぁあ……」
 苛烈だ。流石紅の国。厳罰での統治は成功した試しが無いと言うが大丈夫だろうか、というかあの王がそんなことやってたのか。もっと慎重派だと思っていたのだが。フェルリナードがこれ以上固まってしまうのを避けるためにゆっくりと丁寧に頭を撫で続ける。侍女が後を紅の制服たちに任せて門を潜って来るのにはラシエナが先んじて声を向けていた。
「大丈夫そう? ちゃんと捕まったかな」
「はい、無事に全員収容に至ったかと。近頃は嫌銀狩りが横行しておりますから、それもあって自重せよとは常々言って来たのですが……教育が行き渡らず申し訳ございません、フィメル様」
「構いません。王女殿下と国王陛下のご意志を面前で拝見できただけで十分。銀持つ人間には安堵なこと」
 侍女は深く頭を垂れる。すぐに、お時間を取らせてしまいました、と門の先の廊下を示してくれる。案内を再開してくれるのにはありがたいと思いつつ、青銀から頬に手を動かしてそこを撫でた。
「びっくりしたな、フェル」
 声をかけて頬を撫でれば、わずかに間があって頷くのがわかる。頷こうとしたのが手に伝わって来た、が正しいだろうか。更に少しして脚にすがった両腕が動いて、花を片手で握ったままの両腕がこちらに伸ばされる。すぐに抱き上げて腕の中に据えてやれば首元に頭を押し付けて来て、怖かったかなと頭を撫でつつ侍女を向いた。頷いてから廊下を滑らかに進み始めて、その間にラシエナが紫青を伺うように覗き込む。
「フェル、大丈夫かな? 怖かった?」
「……こえ、おおきい……」
「大声だったもんね両方……フェルに向けてじゃないから平気だよ」
「ん……」
 やはり恐ろしいものに対しては硬直して声にならないようだ。背を叩いてやれば、少し力が抜けただろうか。大丈夫そうかな、とその様子を見てラシエナが安心したように言うのと、石畳の道を超えて建物の扉を侍女が引く、その中へと足を踏み入れた。
「……?」
 なんとなく、入って足を止めて、周囲を見渡した。ほんのりと明かりが点在する長い廊下の奥ではどうやら折れた先があるらしい。見渡す間に母が見えて、どうやらその紅も同じように周囲に向いているらしかった。
「……ここは……」
「神殿に向かう道の中にある、待機のための棟になります。神殿に赴かれる方の多い時代には、この棟にも収まりきらなかったほどとも聞きますが、既に古の伝承でございましょうね。五十年前に再建されて以来、神官が清浄を保つために足を運ぶ程度で、他には無人です」
 侍女が言いながら、その廊下を先導して歩いていく。綺麗に磨かれた窓の外、東の方角には緑の庭園が広がっているようだった。その手前、南には何かの建物が。顔をめぐらせれば窓の反対側には閉ざされた扉が一定間隔で並んでいる。自分たちの足音以外には何も聞こえない。
「誰も来てないの?」
「神殿には、今も通われる方は多うございますよ。ですが年初以外に神事の公布も無し、四季節祭も街のものが盛大ですから……神殿の中に入れないほどの人が集まることが無いのです」
「……そうなんだ……」
 私は神殿好きなんだけどな、とラシエナは両手指を合わせながら唇をとがらせる。それを横目にしながら、なんだろうとほんの少し眉根を寄せた。
 自分たちの他に誰かがいるような、そんな感覚がある。この棟に入ってからずっとだ、振り返れば人の姿が見えるような、無音の群衆の中にいるような。
「クロ」
「ん、どうした?」
「……いたくない?」
 疑問符浮かべれば、フェルリナードが手を伸ばす。その小さい手が頭に触れて何かを払うように動いて、肩にも同じように手を伸ばして何かを払い落とすようにする。精霊か『隣人』だろうかと思って、手を止めた紫に歩きながら問いかけた。
「何かいた?」
「……あたま、から、赤いの」
「……?」
 頭が赤いもの。いや頭「から」とは何だろう。紫は背後に向いて、そして小さく手を振ってから元あったように腕の中で落ち着いた。精霊のことなら精霊だと言うだろうし、『隣人』の方だろうか。思っている間に曲がり角を右に折れて、すぐの扉を潜り抜ける出した先は広場のように整えられていて、広場の奥には常緑樹に囲まれた真白の建物が遠くに見えた。
「こちらが神殿になります。中に入るには、左右からの下り坂を通って胎道を抜けます。正面の上り坂には入られませんよう、特別な神官のみ許された道です」
「胎道?」
「はい、そのように呼び習わしております」
「……なんでだろ」
「私もよくは知らない……神殿が異界だから、って、聞いたことはあるけど」
 異界か。常緑樹の森林に囲まれて、左手を見れば手の込んだ庭園が広がっている。確かに大切にはされているようだが。そういえば今まで、この国の中で神殿を見かけたことはあっても中に入ったことはないなと思い至る。そういう意味ではフェルリナードと同じだなと紫青を見れば、紫をその建物をじっと見詰めているようで、気づいてかこちらを見上げて口を開いた。
「おりる」
「わかった、離れないでな」
 言いつつ、石の敷かれた広場の地面に紫青を降ろす。花を両手で握りながら紫はすぐに神殿を向いていた。行こうか、とラシエナが促すのに頷いたのを見て侍女が再び先導として歩き始める。向かうのは神殿を正面に見て右側の、曲線を描く下り坂。作法か何かがあるのかもしれない。だが近づくにつれて違和感を覚えて眉根を寄せた。
 下りも上りも、坂道には土ぼこりや枯葉が散っている。だれかが最近通ったようにも見えない。ラシエナと眼を見交わせば、幼馴染の表情は不満のそれに変わった。
「神官があんまり居ないんだって、今。王宮の大神殿なのに5人くらいだって、前来た時に聞いたんだけど……神殿の中を綺麗にするので精一杯だって言ってた」
 それなら、なぜ無人のはずのあの棟は異様に整えられていたのだろう。神殿そのものを放置してあの建物に手をかけているわけでもないだろうが。思いながら侍女の後ろについて、横に二人並べるだろうかという狭い下り坂に足をかけて、それとほぼ同時にラシエナの声がした。
「フェル、どうかした?」
 振り返れば、すぐ後ろについて来ていた紫青が離れたところで立ち竦んでいるのが見えた。短い距離を駆け戻ろうと体を向けたその時に、紫が瞬くのが見えた。
「行けない」
 滑らかな発音でのそれに、思わず動きを止める。紫青が首を振る。
「そっちは駄目。行けない」
「フェル?」
「潜れない」
 声音が変わって聞こえる。はっきりと言い切るそれに不審が浮いた瞬間、姿勢が言い終えた瞬間にその体を翻して走り出していた。向かうのは今は自分たちの目線より上、さらに上へと伸びる上り坂。
「フェル!?」
「いけません、お嬢様!!」
 ラシエナの教学と侍女の制止が同時に飛んで、紫青はすぐに坂に隠れて見えなくなる。侍女が素早く坂を駆け下りていく間に開かれる音がして、呆然としている腕を母に掴まれた。
「クロウィル、お前はこちらに。わたくしたちは渡ってはいけない」
「母さん、」
「判ったことは後に伝えます、今は妹を優先なさい」
 何もかも理解が追いつかない間に、幼馴染の金を追いかけて走っていた。狭い道を通り抜けて階段を駆け上がって見えたのは無数の椅子が並べられた広い空間で、壁には薄い紗が折り重なりながら垂れていた。フェルリナードはと見渡して見つけたのは右手側、一箇所だけ崩れて揺れる紗で、広い部屋の一番奥、何も置かれていない二つの台の間のその奥には扉が隠されていた。駆け寄ってその扉に手を突く。透かし模様の向こう側でさらに奥へと走って行く青銀、なのに扉にはとっても何も無い。押してもまるで岩のように軋む音すら立たずに。
「フェル、」
「――下がりなさい!」
 鋭い声に思わず身体が跳ねて手を引いた。反射で眼が向いた先、真っ白な装いの人。すぐにラシエナの声。
「あ、あの! この奥に女の子が、」
「聞いています、神官でない者が扉に触れてはなりません、下がりなさい」
「けど――」
 言い募ろうとして、最初に出たその音だけが声として出た。出て、それ以上が言えなかった。
 足元から最初に聞こえたのは何かが呻くような、何か巨大なものを引きずるかのような低い音で、それに気付いた時には衝撃が増したから突き上げていた。
「紫旗……!?」
 転がり回る視界の中で男の声が聞こえた。次いで聞こえたのは団長の。
「渡司殿すまないが追わせてくれ、あの子供は紫銀なんだ!!」
 ようやく感覚が戻って来たのは白と藍が扉を越えて奥へと走っているのが見えた時で、母が幼馴染を抱き上げて磨かれた床に座らせているのが見えた時だった。地震、と母が声を漏らす、まだ手を突いた床が細かく震えているように感じられて、だがそれに疑念も不安も浮かばせる時間もなく走り出していた。火の音も匂いもしないのに明るく照らされた正方形の道は長く、白と藍色は既に遠い。その中に男の声が反響に反響を重ねて響いている。言葉までは判らない、そのまま走り続けて二人の背が近くに見えた時には左右の壁と天井は無くなっていてまるで橋のように洞窟に架かる足場だけが残されていた。その先は階段になって下へと伸びていて、階段の先の丸い広い足場に紫青が見えて。
「フェル、」
 切れた域の中で呼びかける声が勝手に漏れて、即座に藍色の手にその先を封じられた。何をと一度団長を見上げて、それから開けた広い空間の中央に目を向け直して、――そうして見えたものに、眼を見張った。
 紫青のすぐ傍に銀と紫があった。形のある雲のようなそれが姿勢を抱き締めるように腕を伸ばしている。そしてその三つを背に守るようにして、杖を手にした灰色の眼の老人が立っていた。その目が動いて射抜かれた瞬間に、全身が硬直した。指先どころか呼吸までもが硬く思い通りにならなくなった。表情には嘲笑。
「は。やはりこの地は異様よな、場さえあれば眼を持たぬ子ですら我らを見て取るとは」
 喉が凍る。老人は嘲笑に侮蔑を含んでさらに嗤う。
「声すら出ぬか。精霊すら視えぬでは当然か、なあ、クォルシェイズよ」
「……二度と会いたくなかったよ爺さん」
「は、『色嫌い』が言いよる」
 ――いや、これは人ではない。人のはずがない。こんな、眼にしただけで逃げ出したくなるような気配の圧は人間のそれではあり得ない。まるで空気の一つひとつが意思を持って全身を押し潰そうかというのに屈して膝を突くことすら許されない。呼吸がどうなっているかわからない、ここに呼吸に適う空気があるのかすら。
「……代償はもう明け渡したはずだ、あんたが持っていくならあとは俺自身だけだろ」
「左様。此度は貴様に用があって降ったではないわ、故に控えよ。……よくもここまで隠し通してくれたが、このまま逃げ果せるとでも思ったか陽の者」
「何の事だか。俺は見つけただけだ、連れ去るつもりならここに来ようってんのに黙りゃしねえ、やろうと思って人間相手に子供一人連れて逃げられないとでも?」
「ふむ……だが、そうか。貴様が魂を割れるでもないか」
「ああそうだよ。……さっさと返してくれ。今の人間にとっては大事以上なんだ」
「何を。我らが天秤の子を殺し尽くしたのも汝らであろうが、今更『大事』とは片腹痛いわ」
「現代の地の民に罪は無し、そのことは時の御方であれば継がれなさっているはず」
 母の声が追いかけるようにして背から聞こえる。だが振り返ることはできなかった。声が聞こえても言葉は解らなかった。まるで全く知らない国の言葉であるかのように音から意味が抜け落ちて消えてしまう。灰色の瞳から眼が離せないままでいるうちに誰かの背中が顔の前に現れて、灰色が見えなくなって、ようやく息を吸うことができた。
「尚も罰をと仰せなら、その子の任を解かれませ、時空の神」
「……一門か」
「我らが祖たる樹が枝の一振、枯れ落ちた”グリヴィアス”に在ります」
「なるほど片割か。よく生き残ったものだ、暁の血の者」
「再興は望まぬ一族故、暁の異名は樹の当主に預けてございます。……疾くその天秤の子をこちらに戻されますよう。精霊に命じて天にとは、当代の時空の神は誓約をご存知ないとお見受けする」
「戯け、時は我一代よ。暁の血の者に言われるまでもない、紫神銀神共に天秤の歪みを正さんとしているのみ、これではあまりに護りが薄い」
「神が地の子に触れられますか」
「純な地の者になど触れはせんとも、穢らわしい。生まれ落ちて十二年、それが境界。見知った理よ」
 老人の声が言って、そして沈黙が聞こえた。水の滴る音、衣擦れと空気が動く音。
「……説いて聞かせたのは天秤と精霊の在り方よ、これで精霊に憑かれることも怖れられることも、『隣人』とやらに弄ばれることもあるまい。貴様らが扱いをしくじらないうちは、だが」
「心得ております。感謝申し上げましょう、送り歌を知らぬ身故に橋架けの無い事はお許しを」
「無くとも還るくらい出来るわ。あんなもの時間を引き伸ばしたい奴らの無用の足掻きにすぎん」
 声が途切れて、反響までが消えて音が絶える。鉛のような空気が音が消えるに連れて薄れて、肺の奥の凍った息がようやく吐き出せて、その音が合図になったようだった。
 膝が折れそうになる、俯いた顔と弛緩した全身に汗が吹き出る。荒い呼吸の中でそれを自覚したと感に水の音がして、顔をあげれば母の背の向こう側が見えて、銀が水面に落ちていくのが見えた。
「フェル」
「いけません」
 手を伸ばそうとしてその肩を押さえられた。押さえた腕の力は強いわけでもなかったのに振り払えない。母の声がする。
「お前はいけません、今のあの水に触れてはなりません」
 その意味だけは解った。階段の先、ここは洞窟で、あそこには水が溜まっている。丸く足場が大きく張り出すように作られていて、今まさに真白の人が水に沈んだ足場から銀を引き上げていて。
「母さ、」
「『忘れなさい』。この場にあった人も会話も、『この場に限って全て忘れなさい』。お前は記憶してはいけない。いつか思い出すことがあろうとも『今は忘れなさい』」
 どうしてなのか解らない。だから紅が見えても首を振った。今はそんな事より。
「お前の妹は無事です、だから従いなさい。記憶してはいけません、お前は代償を負うには早すぎる、だから『忘れなさい』」
 水に濡れた銀が抱えた腕から溢れてしまっている。神官から妹を受け取った団長が顔に安堵を見せて、それでも不安は消えなかった。その紫が母を向く。
「フィメル、あんたは……」
「それはこちらの言葉です、クォルシェイズ。……クロウィル」
「……今の、なんで」
 呻くような声が言葉になっていた。ゆるゆると思考が軋みながら動き始める。
 ――母はあの老人に対して何と呼びかけた。老人は神とその言葉の中で口にしなかったか。何故、母と団長はあの老人を知っている。その三つに頭の中が支配される。その上にかぶさって聞こえたのは神官の男の声だった。
「水が……この洞窟はおそらく水没します、早く地上へ」
「フェルは先に運ぶ、渡司殿、悪いが」
「説明はこちらで持ちます。紫銀降誕の兆しが出てしまった、ほかの方々も……人が来る前にどこか」
「なら部下に運ばせる、それまで奥宮に」
 声にならないまま聞いていた、その音が歪んだ。それに気づいた時には視界は歪みきって溶けていた。地面が前後左右に揺れる。手が浮いて髪を握ってを押さえつける。
 頭が割れるように痛い。




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