目が覚めた、と思うより早くに秒針の音が聞こえていた。ぼんやりした意識の中で手を伸ばそうとして、その途中で腕に何かが当たって、あれ、と思う。眼を開けて毛布の中を見れば青銀。
 あれ、ともう一度思う。肘をついて体を起こして、それから毛布を剥いでしまわないように気をつけつつ青銀の頭を撫でつつ、頭の中には疑問符が浮かんでいた。確かフェルリナードは昼食後ラシエナが引き取って寝かし付けに行って、自分は少しばかりそれに遅れて自室として与えられたこの部屋に戻ってきて、夜に備えて仮眠をと、一人きりで寝台に入ってそうしたはずなのだが、どうしてここに幼馴染のところにいるはずの妹がいるのか。疑問に答えが出ないままでも手は動いていて、その感触にか小さい体が丸くなろうとしたのを見てから不意に思い至って枕元に手を伸ばした。時計と、繋げた鎖を手に巻き取って、まだ色々が判然としない視界に針の方向を写す。二十一時を越えて、四十三分。
 思ったより経っている、自然と目も覚める時間かと目元を押さえて瞬きを繰り返していると横で妹が動くのがわかって、目を向ければ小さい手が中着の裾を掴んだところだった。あくびが見えて、時計は枕元に戻してから青銀をもう一度撫でた。
「フェル、起きるか? まだ寝てても大丈夫だけど」
 薄く涙の浮いた目をこすろうとする手は軽く掴んで制して、かわりに指の腹で何度かなぞるようにして拭う。その間に小さく声を漏らしたフェルリナードが身体を伸ばして、手を離して少し待てば紫が見えた。彷徨ったあとに見上げて手を伸ばしてくるのには、身体ごと一息に抱え上げて膝の上に座らせる。抱きかかえるようにして支えて待てば、しばらく自分の意識を取り戻そうとする間があってから、眠そうな紫が見上げてきた。
「……おはよう、クロ……」
「おはよう。夜だからちょっと違うんだけどな」
 苦笑しつつ言えば、紫はすぐに窓を向いた。ややあって首をかしげるのにはその青銀を撫でて、先にと口を開く。
「エナと一緒じゃなかったか? 寝るとき」
「エナ、いっかいおきて、おやしきいくって」
 それで自分のところに来たのだろうか。ラシエナは、たぶん新しい弟のことだろう。披露目の日が新年の一日に決まったと言っていた。名付け親は披露目に立ち会って名を報せる役目があるからと、祭は昼頃に一旦抜けるとも。打ち合わせか何か、あるのかもしれない。
「……そと、くらい?」
「ん、まだ夜だからな。そろそろ二十二時」
「……?」
「明るくなるのは、朝の七時とか八時かな。……あ、寝たら朝になる、っていうのは、ちょっと違う」
「ちがうの?」
「違う。今までは二十二時くらいに寝て、起きたら八時くらいだったろ? 今日は夕方……十六時くらいかな、から、さっきまでだから。二十二時くらい」
「……とけいで、かわる?」
「時間で変わる、だな。時計は時間がわかる道具、時計が時間そのものじゃない。人が話してる言葉を文字にして書いても、それは声とは違うだろ?」
「うん。……はなしごえ、が、じかんで、もじが、とけい?」
「うん」
「わかった。……おまつり、きょう、から?」
「んーと、正確には明日からなんだけど。一日は二十四時まで、って前に話したろ?」
「うん」
「二十四時は零時とも言うんだ、一日がそこから始まるから、一時の前の零時。で、今もう二十二時になるから、き今日のおわりまであと二時間。零時になった瞬間からお祭りが始まる。時間見てないとわかんないな」
「……おきてていいの?」
「今日だけな。外が明るくなったあとは、眠くなったら寝ちゃって大丈夫だから、それまで起きてような」
「わかった」
「よし。じゃあ準備しようか」
 膝から敷布の上に青銀を下ろしてやれば、長い髪の所々が絡んでしまっているのが見えた。先に寝台から降りて机の上の箱を開け、中から櫛を取り出して寝台の端に腰掛ける。背中をと言えば素直に背を向けて座り直してくれて、青銀の髪を持ち上げて、引っかからないように少しずつ梳いていく。髪を傷めないように絡んでしまっているところも丁寧に解いて櫛を通して、さらさらとまっすぐ流れるようになったのを見て終わり、と一度頭を撫でてやる。ついでにと自分も髪を整えてから、フェルリナードを促して靴を履かせる。自分もそうしてから、よし、と呟いた。
「行こうか、なんか特別に色々しないといけないみたいだから」
「とくべつ」
「いつもとは違って、とか、取り立てて、とか、そんなかな。お祭りはいろんな決まりがあるみたいだから」
「クロもしらない?」
「うん。俺もお祭りは初めて。一緒だな」
「うん」
 少しほっとした、という表情だろうか。あまり表には出さないが不安があるのかもしれない。離れないようにしようと手を繋げばすぐに握り返されて、それで揃って広間へと足を向けた。



 言えば、レティシャは少し困ったように眉根を下げた。
「一人だとまだ眠れないみたいなのよね」
「……そうなの?」
「ええ、部屋も一応用意はあるのだけれど。寝かし付けても、離れるとすぐに起きちゃって、すぐ近くにいても小さい物音で起きちゃうから、誰かと一緒に、ということになったの。苦しくない?」
「平気。……それで俺のところに……」
「そうなのよ。大人は大人で篝火の準備だし、ラシエナは緊張で寝れなかったみたいだし。様子を見ていてあげてね、朝の日の出までは、寝てしまうと良くないから」
「気を付ける」
「お願いね。……はい、いいみたいね」
 立襟の留め具をかけてくれたレティシャの手が軽く肩を押さえてくれて、それから離れていく。すぐ近くに立てられた姿見を見れば、裾どめの刺繍に重ねて四色の模様が縫い留められたゆったりとした白いローブが一番に眼に入った。自分の体を見下ろせば、膝より長い上着はローブと揃いの色と刺繍で、ズボンは濃い灰色。腰には織紐を組んだベルトを巻いて、そこに紫旗の子弟の証である短剣を吊っている。
「……なんか、魔法使いっぽい」
「神殿行事だから、そういうものよ」
 どうやら新年の祭の初日は、他の祭にはない特別な日らしい。神殿での行事はどの季節でも行われるが、参列者にまで規定と衣服を求めるのは冬雪祭だけのことらしいと、レティシャの言い方からするにそう思う。神殿行事に参列する、というのは先ほど初めて聞いた。急だよなあとは、思ったが口にはしなかった。しなくても団長は承知しているようだったから。
 この衣装も、どうやら他人に着付けてもらうのが作法らしく、ただ立っているだけのところに上着やらローブやらを丁寧に重ねられて非常に居た堪れない。商会での扱いに似ている、あちらはそういうものだと半ば諦めで割り切っているからいいもののここでされるとなんとも言い難い。思ううちに暖炉の方でもできましたよ、と声がして、目を向ければ同じような格好のラシエナ。ソファには自分たちよりもよほど飾られた紫青がディストに何事かを言い含められているのが見えた。どうしたのだろうと軽く首を傾げればすぐにレティシャの声。
「フェルリナードは、神殿の出入りは『渡り』でしょう? でも神使生でもない子が渡りをしていると人目を引きすぎる……というより、今までここで匿っていたのが全て無駄になってしまうから、市井の法力の子として神使生の次に神殿に入るの。他の参列者はそのあとになるから、それなら神官たち以外に知られることも無いし、ね」
「……神使生てなに?」
「神官の見習いの子供たちよ。大体が、六歳から十歳くらいかしら、今はもう数人しか居ないのだけれど」
「え、あ、神官って見習いとかあるんだ?」
「ええ。ちゃんと勉強して修行しないと神官にはなれないのよ。たまに、市井で法力を持つ人が特例で召し上げられることもあるけれど」
 法力を持っている人間が神官と呼ばれるのだと思っていた。その神官の中で訓練した人間だけが祭祀らしい、と、昨日の療師の解説を聞いてそう思っていたのだが。軽い衝撃と共にもう一度見やれば、いつのまにか席を外したはずの団長が増えていた。
「……あ、そうだ、紫旗って……」
「第一と第二は任務ね。休みじゃないのは、だけれど。あと、私は第一だけれど分隊を持ってフェルリナードに付くわ、見た目は誰も居ないけれどちゃんと見ているから大丈夫」
「良かった……」
 誰もつかないということだけは絶対に無いだろうが、しらなければ不安には思う。軽く笑った彼女に肩を叩かれて、そのまま話を終えたらしい団長の方へと彼女の声が上がった。
「団長、終えました」
「よし、こっちも大丈夫そうだ。ラシエナ、クロウィルも、花冠忘れるなよ?」
「はーい」
 ラシエナの返事を聞きつつ、忘れてた、と横のテーブルの上から青と翠の造花の輪を持ち上げた。長官としての仕事が新年からあるから、と、昨日の夜遅くに紫樹に向かったフィエルアルの指導の下、三人で揃って作った花冠は、白い細長い布を絡めて結びつけながら、余った部分は切らずに長く垂らしてある。そういえばこれもどこで使うのか聞いてないなと記憶を掘り起こす。まだ被ってはいけません、と言われただけ。
「そろそろ……半になるな、人が来るのには一時間くらい早いがそれくらい見といたほうがいいか。レティシャ、引率頼んだぞ」
「了解。それじゃあ、三人ともこっちよ」
 団長に応えたレティシャに手招かれて、長いローブを引きながら駆け寄って来たフェルリナードは手にしていた花冠ごと抱え上げて、それで幼馴染の隣で先導の背中を追いかける。広間を出て、門に向かうのかと思えばレティシャは本部の奥の方へと足を向けていて、それに疑問符を浮かべている間に腕の中から横のラシエナへと声が上がっていた。
「エナ、おやしき、だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫。私はあと、お昼頃に一回戻って、そのあとはまたこっちに戻れるよ」
「いっしょ?」
「一緒」
 良かった、と言わんばかりに青銀が息をつく。理由はわからないが、やはり緊張しているようだ。何かきっかけや原因があるのかと様子を見つつ疑問に感じながら腕で支えていた背中を軽く叩いてやる。あやすようにすれば身体を寄せて青銀の頭が肩に乗る。だがいつものそれもやはりどこか硬いような。
「フェル、何かあった?」
「……精霊、たくさんいる……」
「怖いか?」
「すこし……」
「精霊も祭の時ははしゃぐから、仕方ないのだけれどね。話せそうなら、少し落ち着いて、ってお願いしてみると良いわ、きっと聞いてくれるから」
 レティシャが振り返って言う。それから数歩して足を止めた彼女の後ろで足を止めて様子を伺えば、紫は虚空を見上げていて、少ししてその視線がどこかにか流れていく。だいじょうぶ、と頷く頃には力も抜けているようで、それで藍色を見上げればレティシャが両手を胸元まで持ち上げて口を開いた。
「はい、じゃあ三人とも、私の手をよく見ていて」
「?」
 なんだろう。思いつつ素直に見上げる。見上げた先で彼女の両手が動いて、
 ぱん、と手を叩く音に、我に返った。――我に返ったその感覚に強い違和感が湧いて出て、その違和感の正体がわからないうちにレティシャの声。
「はい、もう良いわよ」
「……え?」
 思わず声が漏れた瞬間に、その彼女の向こう側の景色に気付いた。どこか、紫旗の本部ではないどこか。横、ラシエナがあれ、と声をこぼして周囲を見渡していた。
「え、え!?」
「少し裏道を使ったのよ。まだあなたたちには明かせないけれど、今日は使わないと、どうにもね」
「え、でもさっきまで本部の中で、」
「今手を叩いたでしょう? 本部で一回、ここで一回、その間のことは、悪いようだけれど忘れてもらわないといけないの。裏道を使う紫旗……藍色でない人はね」
「じゃあ、」
 フェルリナードも、と思って腕の中を見れば。紫青は面食らったような表情で目を瞬かせていた。レティシャが苦笑して櫛を通しただけの青い頭を撫でる。
「びっくりしたかしら、急に景色が変わって」
「…………」
 紫は呆然とレティシャを見上げていた。自分も、ごく自然に『忘れてもらう』と言った藍色に思わず身構えそうになって、それを抑え込んでいた。わかっていたことだと自分に言い聞かせながら、ゆっくりと周りを見渡す。
 緑の生垣に囲まれた場所だった。庭園、その周囲をさらに背の高い緑で覆われていて、真冬のこの季節には珍しい土と葉の匂いのする風。レティシャが裏道と言うのなら、紫旗の本部と王宮を繋ぐそれだろう。だがこんな場所が王宮の中にあったのか。思う間にラシエナの声。
「あ、あれ、ここ神殿のすぐのところの庭園?」
「ええ、ここなら人目も無いから。行きましょう、すぐ着くわ。暗いからはぐれないようにね」
 あそこからよ、と言うレティシャが背の高い生垣の一箇所を示す。人が二人程度なら横に並んで通れるような切れ目があって、その奥もどうやら緑の道が続いているようだった。藍色の背を暗闇の中に紛れさせてしまわないように追いかけて足を進める。そうやって動き始めてようやく紫青が身動いだ。
「……クロ……」
「大丈夫。でもびっくりしたな、急に変わって」
「……へんなかんじ、する……」
「痛かったり、気持ち悪かったりしないか?」
「うん。……だいじょうぶ」
 言いながら身体を寄せて来るのには背中を軽く叩いてやる。緑に左右を封じられた道を歩きながら、三度分かれ道を曲がって見えたのはまた広い空間。暗い中では向かいの生垣もなかなか見分けられないが、その中に紛れてしまいそうな藍色はするすると進んでいく。
「なんだろう、迷路みたいな……」
「迷路よ。ここを手入れしている人が凝り性で、年々ちょっとずつ広くなって」
「すごいな……」
 陽のあるうちに散歩に来るのも良いかもしれない。藍色を追いかけながら思って、不意にこの背中の色も禁色の一つだったかと思い至った。藍は闇の色、夜の晴れた空の色。禁色の代表的な四色の中でも一番人間と親しい色なのにと、そう母に教えられた時に思ったのが思い出されて、それでどこか懐かしいような気持ちになる。そういえば母たちはいつごろ着くのだろう、聞いておけばよかった。父が知っているかもしれない、という可能性は、あまり考えなくていいはずだ。連れて来ると言って出て行った、と伝えたのは自分だが、想像通り自分がそれを伝えるまで何も知らされていなかった様子だったから。
 思う間無言で足を動かして、十七回目の曲がり角のあたりで不意に周囲が明るくなったような気がして空を見上げた。角を右に折れた、その先にほんやりとした光が、どうやら生垣の先から漏れているらしい。その灯を目指してかさらに三度分かれ道を進んで、その先に見えたのは明るい灯りを手にした白衣。暗い中で灯りを持たずにいたからかカンテラだろうその灯りだけでも眩しいと、目元に手で陰を作れば、気付いてか薄い覆いを下ろして光の量を減じてくれる。すぐに声がした。
「渡司の者です。市井の法力の子と聞き及んでおりますが」
 男性、若い声。フードで顔はわからない。声にはレティシャがすぐに応えた。
「この子です。エフェレツィス、降りられる?」
 振り返っての言葉に紫青を見れば、一度こちらを見上げた紫が頷く。注意深く雪の退けられた草の上に下ろしてやれば、やはりローブの裾は大きく地面に広がってしまう。白衣、神官がすぐにそこに歩み寄って、小さい手にローブの端が握られるより少し早く、その人が遠すぎない、近すぎない距離をおいて草に片膝を立てて腰を落とすのが見えた。
「渡りの間ご案内致します。扉の内に入ってしまえば、またすぐに兄上のお側にお返しします、それまでお手をお借り致しますが、宜しいでしょうか」
「……なまえ……」
「レゼリス、と。家名は主上にお預かり頂いております、名でお呼び下さい」
「うん……」
 小さくうなずいた紫が見上げて来るのには、肩を撫でて背を押してやる。足を踏み出す軽いきっかけを作れば、白い手袋をした彼の方へと少しずつ歩いていく。最後に差し出された神官の手にフェルリナードの手が重なって、それで神官が驚かせないようにだろうか、静かに立ち上がってフードの下の顔をこちらに向け直した。
「お二人は中でお待ちください。渡りにも作法がございます、お教えして追いますから」
 言われたそれに、確認のつもりでレティシャを見ればすぐに頷きが帰って来る。じゃあ、と幼馴染と顔を見合わせて、それから示された道の先、どうやら広い空間に出る緑の壁の切れ目に目を向けた。




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