最初は低く重い空気の震えが背と両肩に伸し掛かり、腹の底にまで響く感触だけがあった。
 少しの間も置かず次に襲いかかってきたのは巨大な音。耳元で空気がびりびりと音を立てて振動するほどの、強く大きな、鐘の音。繋いだ手が握り絞められるのには痛くないように握り返して、目が合うのには大丈夫、と口だけで言う。
 年を越えた、その合図の鐘だろう。最初と同じ音がゆっくりと回を重ねて六回。比べて少し軽い音が二回、その後にまた重い音が七回に軽い音が一回。そこまで聴いて、では年の数を示しているのかと気が付いた。六二七一回鳴らすわけにもいかないのだろうな、そう思ううちに鐘の音は遠くから聞こえるものだけに変わっている。街の方でも鳴らしているのだろうか、鐘楼はいくつもあったはずだから。
 握った手がまだ強張っている。気付いたのか、ラシエナが片手を伸ばして青銀を撫で肩を軽く抱き寄せるようにしてくれて、それで少しは和らいだように見える。花冠が膝から落ちそうになっているのをいそいそと抱え直して、大丈夫と言う代わりにか頷くのを見てから眼を上げれば、中央の通路には何人かが立っていた。先頭は背の曲がった人物。顔は神官服のフードに隠されて見えないが、おそらく相当な高齢だろう、背が曲がって、という歳のひとは稀だ。神官はこの大神殿でも数が少ないと聞いたが、老人が出なければならないほどなのか。随分としっかりとした足取りで進んでいく老人の、その後ろに眼を向ければ、見た覚えのある初老の男性。真紅――この国の象徴色であるそれを纏った人。国王ラディスティル。
 眼を外すべきかどうか迷う一瞬の間にその人の眼だけがこちらを向いて思わず身構えた。おそらく先んじて自分たちがここにいることは知っていたのだろう、王女も聞いていた様子だったのを加味すれば。すぐに目元と口の端だけで、にや、と揶揄するような表情を向けられて素直に目礼だけを返した。この人も揶揄い好きかもしかして。大人気なくないか。
 神殿などという異様なものがこの長い間ずっと保持されているのだ、王権の介入もあって当然だろうに完全に失念していた自分の、この場は敗けである。今後自分に関する噂は諦めるしかない。今のところは『グランツァ・フィーヴァ』としてでなければ、致命的なことにはならない、はずだ。
 老神官の先導で、国王は最前列を越えて先、数段を上がったその上に据えられた壇の前へと進み出る。よく見ればたった一つだけぽつんと置かれた、教壇のようなよく手入れされたその天板の上には、天井からの光を鈍く弾くものがあるようだった。老神官が差し出した布を受け取って、手袋の手が布を被せて持ち上げたのは、どうやら輪に閉じられた鍵のようだった。見聞するかのような間を僅かに置いて、顔を上げた王が広い空間を振り返った。
「皆に聞いてほしい」
 通る声が広がっていく。一瞬だけ動揺するような空気が満ちてすぐに引いていく。その中にも朗々とした声は続いていた。
「旧年のうち、王都に在った諸卿らには知る者も多かろうが、先日この王の都に大地の異変があり、地の土と水が揺れ動くにあっては不安を抱いたかと思う。だがあの地揺れは決して凶事ではない。諸侯諸卿に諸氏、皆には、たった今よりその証を目に留めてもらいたい」
 地震のことか、あの時はと思い返すのに合わせて妹を向こうとした頭の動きを寸前で止める。視線はそのまま王にと意識してそうしている間に奥の壁にかけられた紗が左右に引き開けられて、見えたのは一面に広がる彫刻。まるで浮き上がるかのように陰影を刻んだそれは男女合わせて十人が、まるで宙に舞っているかのような。王が正対したのはその彫刻の下部、壁一面のそれに較べれば小さく質素な片開きの扉。奥には白い長い廊下と、さらにその先には泉があるはずで。
 王が鍵を差し込む様子がここからでも見える。取手も何もない、透かし彫りの装飾だけのそれを手で押すのが見えて、音もなく壁と扉に隙間が空くのが見えて。
 次の瞬間にはまるでその扉を力の限り叩きつけたかのような鋭い音が耳に届いて、眼に見えていたのは、扉から吹き出す大量の水と、それがうねって走って、頭の上から覆いかぶさろうとしている景色だった。
 何かを考える間も無く体が動いていた。紫青と、紫青を庇うように抱きしめる緑紅に手を伸ばす。透明な水がくすれて白く折り重なる波濤と二人の間に割り込んでまるで決壊したような轟音に全身を固く身構えて強く目を閉じる。
 予想していた衝撃は、だが思っていたより、はるかに軽かった。まるで真上からいきなり押し付けられたかのような重さが首と背にのしかかる、それでも髪と服が大きくなびく感触とともに、流れていく。
「え、」
 思わず零して顔を上げた。強風の日のように真横から全身を押す力がある。だが水のそれとは思えないほどの、それこそ霧を含んだ風のような。上げた目に見えたのは同じように思わずだろう、立ち上がりあるいは椅子の上で身を庇うようにした子供達と、その奥で床を蹴って立ち上がり驚愕の表情を浮かべている人々。金色が腕の下で動く、ラシエナの声。
「っ、なに、クロ平気……!?」
「大丈夫、それより、」
 何だと、目を上げたそのまま周囲を見渡して、遅れて声が出せることに気付いて目を見開いた。両手を見る。袖と裾を見ても、どこも濡れていなかった。水の感触もない、どころか春頃のような暖かさが漂って流れていく。肌に当たるそれは水と同じようなのに。何がと王が居たそこへ目を向ける寸前、椅子の上で身を縮めていたらしいフェルリナードが、何かに向かって身を乗り出した。
「かみさま」
 白い袖の両腕が伸ばされている。抱きかかえて欲しいと仕草で言う時のように。誰が、何がと思わず紫が見上げる先に顔を向けて、そうして、瞠目した。
 強い風のような水の流れの中で、女性の姿が浮かび上がっていた。人のそれではない、水が重なって光を弾く、その薄い眩しい光で描き出されたかのような、輪郭だけなのに『そう』と判る存在が、フェルリナードと向き合うようにして両腕を差し伸べている。
 ――あちこちで声がする、それに気付いたのは、人でない『それ』の腕に抱かれて抱き返した紫青が、光でできたその人が消えるに従って手を離し、そしてこちらを見上げた声に呼びかけられてからだった。
「クロ?」
 は、と、我に返る。フェルリナードに疑問符を浮かべている以外に異変は無いと見て幼馴染に向けば、色違いにも驚愕と困惑がありありと見て取れた。自分も同じようなものだろう、だが遠くの方からの声に悲鳴が混ざらなくなるまでには少しもかからなかった。そして風のような水が急速に薄れていくと見えた時には朗々と声が響いていた。
「この大神殿の泉に息吹が満ちた! 精霊眼のある者には見えただろう、今流れた水は地揺れを境とし神を迎えんとして集った精霊が生んだ光帯だ。知る者も居るだろう、この息吹が見えた過去のどの事例においても、この国は絶大なる繁栄を得た!」
 僅かな無音。息を呑む音があちこちから響いて、そして爆発かとも思うような歓声が全身にぶつかって空気が震える。まさかと思って見ていれば、鍵を神官の手に渡した真紅の国王の視線が一瞬だけ噛み合う。たしなめるようなそれに歯を噛んで、フェルリナードの様子を伺いながら椅子に腰掛けた。幼馴染の不安そうな表情には、あとで、と喧騒に紛れていっておいて、そうこうしているうちに歓声の波が退いていく。そこに被さるようにして王の言葉。
「だがその繁栄とは与えられるものではない。精霊や大地の我々への期待であり、試練でもある。諸侯諸卿、そして皆の者もこの景色をよくよく胸に刻んで励むよう、私もそれを期待し望んでいる」
 は、と短く答える声が谺する。頷いて返した王が、そこで相好を崩した。
「さて、新年早々に長話ではな、後は神官たちに任せよう。すまないな神官長、皆に声を上げさせてしまった」
「まったくでございます、陛下」
 答えた声は、やわらかく掠れた老女のそれだった。背の曲がった白い神官服のそのひとの手が王を壇上から席へと促して、王もそれに苦笑しつつしたがって席の方へと戻っていく。その間にフードのない白衣、神使生というのは彼らのことだろうか、その一人が老女に歩み寄って銀盆の上の鈴を差し出す。吊り下げの形をした鈴の持ち手を受け取った老女が、こちらに、広い空間に身体を向けた。
「陛下のお言葉と、瑞兆のことですので、今ここを以って仕切り直させて頂きたく存じます、皆様。神殿の者が鈴を持って参ります、ご着座いただいております席の列ごとに、瞳を閉じて音をお受けくださいますよう。今神殿の中は天の気が強うなっております故、皆様の身と心をお護りする為とご理解くださいませ」
 言う声が終わらないうちに白衣たちが動き出していた。老女は言い終わってすぐに紫の色の子の方へと足を進め、どうやら一人ひとりに対して鈴の音を降らせているようだった。色の子の列は横に四列、自分たちの座っている左側から白、銀、紫、紺と最前列は並んでいる。白衣のその人は紫から順に銀、紺と鈴を子供の数だけ鳴らして、それからこちらへとゆっくり歩み寄ってくる。それを見る間に袖が引かれて妹を見れば、向かってくるその人とこちらを交互に見上げて、その様子に声を出してしまって良いのかと迷っている間に神官服のフードの下から柔らかい、少し笑みを含んだ声。
「鈴の後は声を出してはいけませんよ」
「いま、は、いいの?」
「ええ、少しの間なら。ですが……そうですね、あなたとはあとでまたお会いすることになりましょう。先程のあのお方のお話は、その時に」
「はい」
「はい。年長はどなた? 歳の大きな子から鈴を鳴らしますからね」
「あ、はい、私です。同じ歳ですけど、私が夏で」
「では、貴女からですね。目を閉じて、少し顔を伏せて……」
 ラシエナが声を、それでも控えめに抑えて言えば、手袋をした神官、老女が額に手を伸べる。言われた通りに目を閉じて軽く頭を垂れた金の前髪を押さえるように指先が乗って、その上から鈴が一振り涼やかに鳴る。不意に思い出す、この音は鉄や銅のそれではなく、硝子の鈴の音だ。高い濁りのない音が長く尾を引いてよく通る。
「さ、貴方も」
 次に手が向けられるのには素直に幼馴染に倣う。額の少し上、髪の上からそっと触れるだけの指先の感触に鈴の音が重なる。手が離れてから顔を上げて目を開ければ、向けられた手に身体を退こうとしている妹に老女が小さく笑っていた。響かないように小さく落とされた声。
「今は嫌かもしれませんが、貴女にも必要です。終わればすぐに解きますから、我慢できますか」
「せいれい、が、うた、って」
「心の中でするのは、大丈夫ですよ。ですが声はいけません。できますか」
 初めて見るような、と思う間の会話だった。フェルリナードが大人に言われたことに、軽くでも抵抗を見せるのは、初めてか、それくらいではないか。なんとなく眼が紫青から離れないうちに頷いた妹の額にも同じように指先が乗って、鈴がもう一度振り鳴らされる。
「はい、では、そのままにお願いしますね。花冠も持っていてくださいね」
 言われてはっとした。左手を見れば腕に通した花冠は変わらずそこにあってほっと息をつく。妹も幼馴染もどうやら手にそれぞれ抱えているようで、なぜかラシエナはそれを見ながら不思議そうな表情を浮かべていた。どうしたのだろうと思いつつも声は出せない、後で聞こうかと思う間に老女は数段上った壇の前に戻っていた。他の色の子は他の神官が回って鈴を鳴らしているらしい。すぐ後ろのところと、遠くからの音で反響しあって響いている。残響の方がよく耳に届く、硝子の鈴は、あまり大きな音はしない。鉄や金属を使わないのはフィエリアルが言っていた理由からだろうか。
 鈴の音が消えれば、次には中央の通路に、木の椅子に座っていた人々だろうか、正装に身を包んだ貴族たちが一人あるいは二人で並んでゆっくりと進んでいく。段を上がった先で一つきり置かれた壇に左手で触れ、そこに先の老女が水で濡れた指先を向け、眉間にそっと何かの記号か形かを描いているようだった。一言も漏らさない、誰も口を開かない広い空間の中で靴音と衣摺れだけが聞こえる異様な空気で、しかし違和感も緊張も浮かぶことはない。真冬の深夜なのに寒さもなく、灯りが煌々と照って明るいのもあって時間感覚も乱れているように思う。日の出まで、と何度か言われたからその時間までここにいることになるのだろうか。冬の日の出は随分と遅い、明るくなるのは六時ごろでも、太陽が見えるのは七時半ごろを回る。朝焼けが陽の無いまま長いのだ。この理だけは母も知らないようだった。国や土地によって日の出日の入りの時間が違うのはわかるのだが。これでもキレナシシャスは秋冬と春夏では時計を変えている、太陽の動きと時間が離れすぎるようなことも無いようにはなっているのだが。
 もしかしたら父が知っているかもしれない。思ううちに参列者たちの行き来もだいぶ進んでいた。やはり時間がわからないがすでにそれなりに長く立っている気がする。退屈ではないだろうかとフェルリナードの方をちらと見れば、なにやら両手で花冠を持ち、それを見つめている。時折指先で造花をつついたり、あるいは掌を上向けてそこを見下ろしたりをしているようだった。距離が多少でも近づいたという精霊だろうか、黙りきりでじっとしていると眠気が出てしまうだろうから、話し相手がいるのであれば良かった。自分は素直に進行を眺めるしかないから気をつけないと。
 神官の下に進みでるのは、次第に貴族よりも良家のその人たちへと変わっていた。手を引かれた子供の姿もあって、その一人ひとりが壇の上に触れて眉間に水を受けて戻っていく。気になることばかりだが、神殿のことはどうやら魔法使いも、長年教師として教えているフィエリアルでさえ親しくないらしいから、訊くならその相手は神官だろう。フェルリナードもおそらく色々と聞きたいだろうから、先に神官に言われたことでもあるし、やはり今後何度か通うことになりそうだ。神殿そのものとは、やはり少しでも距離を取っておきたいと思ってしまう、何か隔たりを覚えることは事実だが。識れば不信感も多少は拭われるかもしれない。
 ――異界だという話も、様子を見ていればなんとなく理解できるように思う。キレナシシャスの国民は、基本的にはあまり大人しくない。元が軍国主義だというのもあるが、この大陸の歴史を全面的に信用するのであれば、対機械大戦での英雄、そして魔法の再発見者であるとされる『レティエル』の後を継ごうと声を上げ行動したのはこの国の初代王が唯一であって、反対者や抵抗勢力を魔法の力で制圧して立国を果たした、その出来事が国民性を物語っているというか。発言をためらわず、そしてこれでもかというほどの行動力とそれを実現させてしまえる結託力と。とにかく何かを新しく作る、組み立てる、あるいは学問として深める、ということに特化した人物が多々あり、それが良しとされている。
 そんな、他人の言うことを唯々諾々と受け容れることを恥とも見るような人間たちが、このようにして全く違う規範を容れ、従うことを許している、と言う景色は、おそらくそう見れたものではない。外交の場でさえ「キレナシシャスは紅を枉げることをしない」とまで言われ、そう言われることにすら絶対の自負を強める人種だ。とにかく我が強い。母がいい例だ。それをこうまで手懐ける手腕を、神殿はどうやって手に入れたのか。
 この国のことだから記録はあるだろう。図書館にでも行って探してみようか。神殿の興りや歴史には素直に興味が湧く。あるいは、やはり神官に訊くのもいいかもしれない。列が粛々と進み流れていくのを見つめていた眼を動かして周りを見渡せば、人々に水を向ける老女以外の白衣はほぼ全てが壁際に静かに立ち並んでいる。そういえば、と更に振り返れば、木のベンチの腰掛けた人々は、どうやら互いに合図しあって列を作り進んで、そして戻っていくのを、誰の先導も案内もなく行なっているようだった。整った服装の、という印象を受ける男女が今は列の過半を占めていて、小さい子供を腕に抱いて連れている人もいる。どうやら胸元にあるのは揃いの証紋のようで、その形がなんだったかと記憶を掘り返しながら壇の方へと眼を戻す。
 列の進みは早いが、誰も一言も漏らさない空間というのはやはり異様で、それなのにそれで当然というような空気、不思議にも思わない雰囲気のようなもので満ちていて、ともすれば流されそうになってしまいそうでもある。抵抗する必要も無いのかもしれないが、先の出来事に加えて神官の口から万が一があることを明言されては、気を抜くことにはためらいが浮く。いや姿が見えいないだけで周囲には紫旗が居るのだが。彼らが居るなら自分の緊張の有無などどちらにせよ無いのも同然で、もっと言えば紫旗が神殿での「万が一」に対処できるのかどうかすら危うくて。あれこれ何かあった瞬間に手詰まりになる可能性高くないか。
 なんとなく、二つ隣の幼馴染を見れば、どうやら列の中に度々知人がいるようで、会釈を交わしているのが見える。列の向こう側では王女が同じように会釈を笑みと頷きで受けて居るのが見えた。そういうのは良いのか。意外だなと思いながらそのまますぐ隣に眼を向ければ、フェルリナードは変わらず片手に花冠を持って、その少し上の方を見つめている。眠ってしまうようなことはないか、とその様子には一旦安堵して、視線を下のように段の上のやりとりに戻す。そのまま眺める。
 ――暇だ。随分長いこと無視していた感想だが、これは暇だと疑いようもなく思う。神殿、大神殿とも言われていたか、相当な数がこの空間には入るだろうから、単純なように見える動作に限ったとしても時間がかかるのは目に見えている。式次第を訊くのも忘れたな、とまた一つ忘れ物を思い出してため息しそうになるのは飲み込んだ。新年の数時間がこんなので大丈夫だろうか、せっかく用意してもらったというのに時計も持ってこなかった、着替える時に置いてきてしまったそのままだ。子弟の短剣だけは忘れずに持ってきているが。いつ頃終わるのだろう、と、これから何をするのだろう、の二つの疑問の中で浮いてきた思考を流れるままにこねくり回す。今はそれくらいしかやることが無い。
 通王の通路を進んで戻っていく列は、次第に平民のそれに変わってきていた。平民と言ってもこの国の王都の民だから、他国に比べれば違いは衣服だけではない、腕輪や耳飾りの装身具も身につけていない方が少ないくらいだ。何も富裕層だけではない。都市民のほとんどがそうだ。特にこの王都は商業都市、農業や酪農を営むよりも商人や技術者、職人やそれを抱える工場主や加工場の取り仕切り役、あるいは荘園主といった特殊な職の人々が集まり、あるいはそういった仕組みを支えることで給金を得て暮らす人も多い。生産に従事せずとも生活が可能なのだ、服飾も纏う空気も、やはり他国に暮らす人々を見たあとでは、大国という評は簡単には崩れそうにないという感想に始終してしまう。これについては母だけでなく父からも小言が飛んできそうな、雑な物言いだが。それでも豊かな国だとは否定し難い。現に静かに列を作って順に額に水を受けていく面々は、その行為の意味を了解して居るようだし、共通認識に則って行動することに苦を示すでもないように見えた。
 民度が良い、と言うのだろうか、これは。学校が普及しているとか読み書きができる人がどうこうでなく。集団行動ができると言うのは集団の優れた一面だ、結託の強さが表れているのかもしれない。
 そうやってただなんとなく、思って時間が経つのを待つ。その片手間に進んでいく作業を見ていれば、不意に左肩を軽く叩かれる感触。あれ、と思う間に左手に何かが触れて硬いものが握らされる。紫旗だろうかと左手を開いてみれば、置いてきたはずの時計、紙の切れ端が一枚。織り込まれたそれを開く音にか青銀が顔を寄せてくるのが手越しにわかって、紫にも見えるように文字を空気に晒した。短い文章、筆跡は父のもの。
『緊急処置用。中の一つ口の中に入れとけ。溶けたら追加で二つ。』
 疑問符しか浮かばなかった。時計の蓋を開けば小さい音を立てて小さな粒がそこに入っているのが見えた。赤い、宝石のような。なんだと疑問に思うのはひとまず横にして、書かれた通りに一つ、指の先ほどの大きさもないそれを摘み上げて口の中に入れる。あまり目立たないように気をつけながらそうすれば、口に入って舌に触れた瞬間にそれは跡形もなく消えてしまった。首を傾げて、とりあえず紙に書かれていた通りに残りの二つも続けて口の中に入れてしまう。なんなのだろう、と思いつつ片方が消えてしまい、残った一つを口の中で転がした。紙を見下ろしているままの紫青には左手で文面がよく見えるようにしてやりつつ視線を戻す。
 どうやら列の最後尾が、見えているその人らしい。最後の一人が額に水を受け、静かに戻っていく。僅かな足音が通り過ぎて遠くなってから、次に見えたのは、段の上、皆の視線が集まる中で、進み出た神官の一人から老女が小さな水瓶を受け取る手だった。




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