水瓶は、子供が抱えられるくらいの小さいものだった。受け取った老女がそれをしっかりと腕に抱えて、それから数歩下がって会場に軽く頭を下げる仕草から続けて背を見せて、いつの間にか閉じていた扉へ向かっていく。向かったその目の前で、触れもしない扉が一人でに口を開くのが見えて瞠目する。老女はそこをくぐって姿を消して、そのいく道を他の目から隠すように水瓶を手渡した神官が寄せられていた紗をかけてしまう。水を汲む、と言っていたか。そのためだろうか、確かあの先には湖か泉か、それと同様のものがあったはずだから、そこからだろうか。
『そうだよー』
 肩が跳ねた。思わず身構えて顔を向ける。急な声、左側。見えたのは水のように透き通る髪を宙に流した誰か。何か。にか、と笑顔。
『君は声出しちゃだめだよ』
『クロは喋れないよ』
 感初入れずに返す声は聞き覚えがあった。右隣、フェルリナード。忠言を向けてきた『それ』を見上げているらしい紫がこちらを向いて、そして首が傾いた。その妹の向こうのラシエナの眼もこちらを見ているようだったが、そこまで気にする余裕はなかった。疑問符を浮かべた妹の声。
『……聞こえるの?』
 口は動かないまま。そっか、ともう一つの声が耳に入ってまた左の方を見れば、地面についていない両脚をゆらりと空を掻くように動かしながら、彼、だろうか、水の髪に恐ろしく軽装、南国のようないでたちのそれがふわりと宙を滑って正面に来る。
『さっきの魔石はそれだったんだ。一時的に感応が強くなって精霊眼が開いたんだね。ユゼも説明しないから急だよねえ』
『ラーヴァも、クロも見えてるの?』
『そだよー。クロウィル君は、話すのは急だと難しいか。僕はユゼの使い魔のラーヴァだよ。ちょっと前、って言っても始まってからだけど、天秤の子の話し相手をしてる』
 話し相手。では妹が花冠を手にじっとしていたのはと紫を見返せば、こちらを見上げた妹はこくりとうなずいて見せた。ん、と、思う。使い魔だと己を称した彼の声。
『あ、殻が無い方の子かな? 最近だとあんまり見ないけど、流石ユゼとあの人の子供だなあ。精霊や使い魔との会話は頭でするものだ、って、聞いたことないかな』
 あるようなないような。思いつつ彼の方を見れば、変わらず笑み。眉根を寄せる。それから、意識して頭の中に声を組み立てて、それを二人に『向けて』『発した』。
『もしかしてダダ漏れ?』
『お、そうそうそんな感じ。ダダ漏れではないけど、だいたいこんなこと考えてるんだなーってのは伝わっちゃうかな。隠すのは、自然の眼を持つ子は自然とできるものだし得意だけど、後天とか人工の眼の子は難しいかなやっぱり』
『それはダダ漏れって言うんじゃ』
『まあ、そうかな。一時的なのだから諦めて、だなあ、これは。天秤の子に伝わっちゃうのも今だけだから』
『今だけ?』
『ここの環境故、だねぇ。今はもう泉が溢れちゃってるから僕らの側はみんな揺れて混ざってて。害は無いから安心して、伝心しちゃうのもすぐ近くだけだし、ここの三人の範囲だけ。クロウィル君が見えてるのは、姿を見せてる使い魔くらいかな?』
 言われて、そういえば他には何も見えないと周囲を見渡す。前に父に見えるようにしてもらった時には、いたるところに色んなものが見えたのだが今はそれもなかった。
『精霊が少ない、とかではない?』
『ないねー。むしろ多すぎるくらい。生来の眼を持つ子も、見えすぎてて辛そうな子は閉じちゃってるね。ここの泉がこんなに溢れるって、ほんと数百年ぶりとか、前の紫銀以来じゃないかな。だから精霊とか使い魔のみんなもはしゃいでるね』
『……何で俺は、こんな限定的な?』
『さっき食べてたの、あれは人間の回路、魔力の通り路と、魔力を作り出す場所、自然の氣を取り入れる場所でもあるね、そこを活性させる魔石だったんだけど、活性させることが主目的で、少し目が開いたのは薬でいう副作用かな。だから力の強い、姿を見せてる使い魔しか見えないのだと思う。弱い子たちを視るなら強い精霊眼が必要だし、弱い精霊眼でも視えるような強い精霊は泉の中に姿を溶かして消してしまえるからね。天秤の子には、きっと空気そのものがきらきら輝いて見えていると思うよ』
 僕もそうだしね。そうラーヴァが言うのに紫青を見ればすぐに頷き。ついで声が伝わってくる。
『とても、光がたくさん。夜なのに光のがいっぱい居る、灯りがあるから?』
『だね、闇のはきっと外とか、闇いところにいるよ。彼らは明るい場所は苦手だし、人の気配から少し離れていた方がお互いに安心だからね』
『会えない?』
『夜に明かりを消して呼んでみれば、きっと来てくれるよ。あるいは木陰が彼らの寝屋だけど、外に行くときは必ずユゼかクォルクに相談するんだよ?』
『うん』
『よしよし。当代の天秤の子はとても素直だ。良い子だね。嘘はいけないよ、僕らはそれが大嫌いだからね』
『わたしも嘘は嫌。だから大丈夫。するときは先に言うから』
『それは嘘でなく建前とかって言うのだけれど、うん。そうしてくれると有り難いね。……っと』
 言う、父の使い魔の蒼の視線が段の上に向く。追って顔を上げれば、紗の間から姿を表した老女が水瓶を手に戻ってくるところだった。見てそう取って、白い神官服から水が滴るのを見て眼を瞬いた。彼女の足元にも、歩いて来た床にも水滴や水たまりの気配はない。何に濡れているのか、泉とやらの水らしいものにだろうか。思って、そういえば、となぜか満面の笑みで老女の様子を見ていた彼に視線を向ける。振り返ってくれたそこに問いかけた。
『泉、って何?』
『ここ……この国の国民からすると大神殿、になるのかな。ここは天然の鍾乳洞の入り口になっててね、あの扉の先は地底湖になってるんだ。王宮の地下はほとんどがその鍾乳洞、鍾乳洞の上に王宮の敷地が立てられてる、の方が正確かな。泉っていうのは、その鍾乳洞の地下から沸いている地底湖のこと。クロウィル君は、この国のあちこちにある玉泉って見たことあるかな?』
『遠くから見るだけなら、でもこの国じゃないけど。ラストゥールの玉泉』
『あー、あのあたりのはあんまり質良くないんだよね。僕らもあんまり寄らない。玉泉の水って、ものすごく純度の高い氣が混じってるんだ。ここの地底湖もそういう玉泉の一つなんだけど、ぎりぎり玉を紡ぐことがなくて、上質な自然氣の湧く場所になってるんだよね。人間もそのことはよくわかってるから、泉、氣の泉って呼んでる』
『ぎょくせん、って、なに?』
『透明水晶とか紅玉とか碧玉とか、宝石、って呼ばれるものを育てる泉。種になる特別なかけらをその泉の中に沈めておくと、数十年とか数百年かけて大きな宝石ができるんだ。玉泉の他にも金鉱泉とか銀鉱泉もあるけど、どれも数はかなり少なくて貴重な場所』
 見上げてくる紫が何度か瞬く。花冠を落としてしまわないように膝の上に置いて、手を繋いでいない片方の手で襟元から銀の鎖を引っ張り出す。鎖につられて出て来たのは細かな銀で、編まれた小さな丸い檻と、その中で転がる楕円の紫水晶。
『宝石、って、これ? 紫水晶だ、ってディア先生が言ってた。色のついてる、きれいな石』
『そうそう、それ。他の色もたくさんあるけど、紫水晶はやっぱり珍しいねえ。でも『それ』は、あまり人のいるところで出してはいけないよ。知らない人がいるところでは特に、ね』
『わかった』
 ラーヴァが制してくれてほっとする。同時に、これが妹の命石か、と思った。くすみの無いきれいな銀と、その籠の中の紫水晶。紫水晶は現存する鉱床も今はすっかり数を減らして、対機械大戦後の魔法黎明期にほとんどが掘り尽くされてしまったと聞く。原石のまま研磨したのだろう、色核の除去を行えば多少なりとも色が濁る。今のこの時代には金塊よりもよほど高い値がつくだろう、そして銀との組み合わせを見れば誰にでも『フェルリナード』の命色が理解できる。今はラシエナの陰になって、加えて段の上で老女が動いているからかこちらに向かう視線はない。背の高い、左右との間に隙間もほとんどない椅子もしっかりとその色を隠してくれたようだ。いそいそと命石を襟の中に戻して隠す様子を見つつ、段の上からいつの間にか姿を消していた老女が再び水瓶を手に現れて、汲んで来たのだろう水をテーブルの上の盆にゆっくりと注いでいく。量はそう多くない、これを合計で十二回繰り返すと言っていたが。
 見ているうちに、不意に、風が流れた。視線の先、垂れた紗がゆらゆらと動いて衣擦れが聞こえるほど静かなのに、何かが耳に入る。聴覚を刺激する。人の声や喧騒ではない、風の音のような、空気の擦れる音のような。囁くような、全く悪びれずにはしゃぐような気配。
『……なんだろ』
『……ん、ああ、聞こえないのかな。今ね、集まった精霊たちが歌ってるんだ。地上に降りてしまってからは、僕らも中々天に帰るわけにはいかなくなってしまったからね。使い魔である僕は仕方がないけれど、他の役目の子たちとかはね、こうして人が神事を催してくれる時に便乗して、神々に会うんだよ。ただ会うだけじゃ不敬だし、捧げられるものも持ち合わせもないから、こうして歌を捧げる。人が声を上げてはいけない、と僕らが言うのは、精霊たちの歌の邪魔になったとき、精霊や神々にどんな報復を受けるかわからないからだね』
『こうやって話しているのは邪魔にはならない?』
『君が今こうして会話しているのは、人の声ではないから、大丈夫だよ。僕ら側、精霊側の言葉を使っているようなもの。だから精霊たちの話し声に紛れてしまう、平気だよ。……ああ、あと一つ。これは忠告だけど、今「神は本当に存在しているのか」とか「まるで神々が地上に現れるような言いぶりだけど」という疑問は、この神事が終わるまでは封殺して、考えないこと。過激派な精霊も居ないではないからね。聞かれたら何されるか』
『わ、割と物騒なんだな精霊って……』
『そりゃね。属性ごとの攻撃力が姿を得てふらふらしてるようなもんだから。精霊は使い魔になる、主に魔導師、つまりは戦闘の専門家のね。戦えない使い魔はいないし、使い魔にならない精霊はいない。そういうこと』
『……なるほど』
 道理だ。思ううちにさわさわと空気の擦れ動く音は増していた。音としては全く聴こえないのに、聞こえる、としか言いようがない気配の音。木の葉擦れが、強風で煽られる木々が目の前にあるのに、分厚い硝子で景色以外の何もかもが遮断された中にいる。そんな感覚。すぐ隣の妹を見れば、その表情は中空を上向いて、時折何かを追いかけるように視線が流れていく。フェルリナードは他の精霊たちも見えているだろうし、歌というのも聴こえているはずだ。なら手は出さないでおこうかとラーヴァに目を戻す。途端に、に、と笑う顔。
『短い間で随分としっかり目のお兄ちゃん』
『からかってるつもりかそれ?』
『まっさか! 褒めてるんだよ、僕らにとっても天秤の子は大事だからね、すぐ近くに護り手がいるのは心強いよ?』
『その割には遠巻きにしてたみたいだけど』
『う。色々知ってるなあ君は。嫌いで距離を取ってたわけではないし、害を為そうとしているでもない。どころか害意があるのは精霊たちで排除してるよ?』
『害意あるのがいたのか?』
『いたさ。君も会ったろ、あの両王子とかね』
『ああ……でも侵入されたりしてるよな』
『精霊たちも直接手出しをすると罰則があったりするからね。やったのは王子の目をくらませて天秤の子が見つかってしまわないように、だったらしいから。僕はその場にはいなかったけど、レティシャの麾下の子、使い魔から事情は聞いたから知ってる。あの二人、天秤の子を妻にしようとしてたって?』
『そこまで詳しくは知らなかったけど次回からは俺の全権限使って接近は阻止するよ』
 ラーヴァが頭を掻きながら視線を泳がせそらしていく。火に油、とは、独り言だろうか。もともとあの二人の王族に対しては好意に類するものは一つとしてカケラとして毛の先ほどとして全く少しも思っていないので追い返す自由が強化されるのは喜ばしい。相手が簡単に、単純にボロを出してくれる輩でよかった。これがあの王女相手になっただけでも相当な苦戦を強いられるだろう。――国王が相手だった場合はわからないが。未知数というよりは、苦労したとしてもしなかったとしてもさほど驚くようなことにはならないだろう、という予測が大半だ。今のところ、あの国王の「格好いいところ」を見た憶えはない。王女の剣幕に全てが呑まれてしまった、が本当のところだが。
『ま、まあ、いまんとこ他の人間には無いかな、害意とかそういうの。ユゼの同僚もみんな常識人を装うくらいは出来てるし、不穏分子の発見も無し。問題は天秤の子が広く知られてからだろうけど、ユゼたちも立てられる対策も謀も張り巡らせてるから、君が子弟の間は特に気にかけることも無いと思うな?』
『ほんとかそれ?』
『ほんと。君が不審がる理由もわかるけど、ずーっと観察だけだったユゼが参謀に入ったからね、ようやく。君が見ることのできないところまでしっかり防護が為されてる。紫旗の庇護下にある限りは安心していいと思うよ』
『ようやく、ね』
『……君ってけっこう根に持つ方の人?』
『基本は「ふーん」で流せるんだけど、流せなかったら、っていうの、大体みんなそうじゃない?』
『そ、そうかな……』
『自分では根に持つ方ではないと思うけど、忘れない、っていうのとも違うだろうし』
 言いながら、何度目か段の上に目を戻す。慣れて来た、明確に言葉として向ければそれとして伝わるし、そうでないものは自分自身に向ければいいらしい。自分を相手に話す、というのは中々に奇妙な感覚だが。
 老女は変わらず水盆に水を注いでいる。もう何回目だろうか、自然とそのまま眼は留まったままで、二回目を数えた頃には周囲のざわめきは無視できないほどのものになっていた。紫青を挟んで右隣のラシエナと目が合う。不安そうな表情には大丈夫だと手振りで伝えて、それからラーヴァを向く。
『ラシエナは、話せない?』
『んー、無理かなー。あの子は精霊眼はかなりしっかり閉じちゃってて、魔石での感応上昇とかで開くことはまずないし、開いたら開いたで今度は他人の声がわからなくなるくらい色んな声を拾ってしまうだろうからね』
『どういうこと?』
『精霊眼には、主に二つの種類があってね。よく言われてるのは、精霊を視る眼。あんまり知られてないのがもう一つで、氣を視る眼。これは両方を持ってる人もいるんだけど、氣を視る眼を持つ人は、微精霊の声を良く聴くことが得意でね。今みたいに総出で歌ってると、もしかしたら耳が壊れたりしちゃうかも』
『種類なんてあるんだ……』
『あるある。だから、自衛として閉じてるのを、防御なしで開いちゃうのはねー』
『そっか……じゃあ説明は後でかな』
『そうだねぇ。っと、そろそろ僕は戻らないとだ』
 ラーヴァの視線が段の上に向く。追いかけて見上げれば、老女から一人が水瓶を受け取って、もう一人がテーブルの上の水盆に手を伸ばしているところだった。
『あと少しだから頑張ってね。じゃあね、天秤の子も』
『うん。ありがとう、ラーヴァ』
『こちらこそだよ』
 紫青と言い合って、使い魔は姿を消してしまう。その間に老神官が水盆を持つ一人を従えて段を降り、まずは紫の三人の前に立つ。老女が差し出した手に王女が花冠を差し出すのが見えた。受け取った花冠を水盆の中に沈めて、丁寧に引き上げられたそれを、滴る水もそのまま王女の頭上にゆっくりと据えて、垂れた細長い紫の布のリボンを、結われずにふわふわと波立つ桃色の髪に絡めていく。そういえば髪を結ったりまとめてしまったりという色の子は自分を含めていないようで、自分たちも髪をまとめていた紐を解いて櫛を通しただけだ。王女は老女の掌が向けられるのには白衣を見上げて目を伏せる。老女、神官はその額に手を当ててしばらく動かなかった。手が離れれば王女の右隣の子から花冠を受け取り同じことを繰り返す。紫の三人の後には通路を挟んだ反対側、銀の三人。ほんの少し灰がかった衣装に銀糸の刺繍がされた三人は、何やら少し怯えるようなそぶりを見せつつも順に花冠を差し出して額に掌を受けている。なんとなくそれを目で追いつつも、周囲で起こり続けていく騒めく気配に気が散って仕方がない。銀の三人が終えて次は逆端の藍色かと思えば二人の白衣がこちらに足を向けて思わず姿勢を正した。
 老神官は口元に指先を当てて、まだ声は出さないようにと示してからラシエナに両手を向ける。ラシエナが花冠を開け渡せば、受け取った手が傍の水盆の中に丁寧に沈め、ゆっくりと引き上げる。水に濡れた花冠はそのまま金色の頭の上に据えられる。白い紐を金の髪に絡ませて左右の肩に流して、それから顔を上向かせて額に手をあてがう。白衣に隠されて見えない目元、その下の口が動いていることにそこで気付いた。だが周囲に満ちた空気の擦れあうような音の無い喧騒に紛れて、発されているはずの言葉が聞き取れない。妙な心地がする。まるで頭の中に直接それらが入ってきて、それで意識が取られて他のことに集中できないようにされている、そんなような。
 老女も幼馴染もしばらくその体勢のままで、不意に皺の手が離れて、緑の目が見えた。ラシエナが頷く、それに頷き返した老女が袖の中に手を引いて、それからこちらに向かってくる。目の前で足を止めたその人が手を伸ばしてくるのには、ずっと左手の手首にかけていた花冠を差し出す。そっと持ち上げていった指先が水盆の中に沈められていく。かすかに水の音、引き上げられた花の冠からは豊かに水滴が落ちていく。落ちきる前に頭上にそれが掲げられて、素直に頭を差し出すようにすれば髪を伝って冷たい雫が襟の中に入り込み衣装に吸われていく感触。据えられてから手が向けられるのには老神官を見上げれば、すぐに冷たい掌が額を覆う。我知らずのうちに眼を閉じていて、そして少しの間を置いて声が聞こえた。
「――そう、それを貴方たちは贄と呼ぶのね」
 聞こえた瞬間、総毛立った。背が凍る。眼が開けられない。声は、だが穏やかなに耳に届いた。
「貴方たちは、守護には陽があります。とても強い太陽の光。闇夜を払うかがやかしいもの。その為に貴方たちは渇きを覚えるのね。陽の故に暁の者。『暁』は全ての目覚めを促す大切な陽の役目、支えるための血を贄と呼ぶのは悲しすぎる、その言葉に流されないで」
 そこで言葉が終わったのだと理解したのは、掌が離れたからだった。眼がようやく開く、見上げれば、口元には笑みと指がひとつ。
「これは予知ではありません。これは預言ではありません。ただ貴方の守護たるいづれの方がわたくしの口を介して語っただけ。他の誰にも明かしてはなりません。他の誰にも問うてもいけません。私はいつでも此方に居ります、何かあれば私の許においでなさい」
 それを聴き終えて、そこで完全に終わったのだと、なぜかそう確信した。老女はフェルリナードへと体を向けて手を差し出していて、繋いでいた手を離した紫青が花冠を差し出しているのが視界の端に映り込む。自分は、何にも触れていない左手で時計を握りしめていた。――金属の軋む音で我に返ったときには、紫青は離れていく手を見上げているところで、老女はそれに頷き返して背を向けていた。紫青の手が伸びて右手に触れる、思わず大きく震えてしまって、そうして声が聞こえた。
『クロウィル、どうしたの?』
『……大丈夫、少しびっくりしただけだから』
『寒いの? 手、冷たい』
『ちょっとだけな。濡れたから』
『ん。ここ、あったかいけど、濡れると寒い。凍らない?』
『どうだろ、平気だと思うけど、外に行く前にちゃんと拭わないとだな』
『うん』
 会話の間に怖気をなんとかやり過ごして、右手でフェルリナードの左手を取る。すぐに握り返してくれる小さい手が暖かい。いつの間にか辺り一面の喧騒は戻っている。思考から漏れ出てしまいそうで考えることすら怖くて、混乱する。考えるなと自分の頭に言い聞かせる間に湧いた赤が中々消えない、それに歯噛みしかけたときに右手が揺れる。
『痛いの?』
『……痛くはないけど、痛かったときの、思い出してる』
 フェルリナードはそれ以上何も言わないで俯いてしまう。何を言えばいいのか、だろうか。時計を手放した左手で頬を軽くつついて撫でてやれば顔を上げる。その眼を覗き込んだ。
『赤い、か?』
『……うん』
『俺にとって赤って大事なんだ、だからかな。怪我したわけじゃないから、気にしないでな』
『……わかった』
 言い交わしている間に、老女は逆端の三人にも同じことをし終えたらしかった。随分早い、思う間に壁際の白衣たちが一斉に動くのが見えた。老女と水盆を手にした神官の二人が段の上へと戻って行く。扉の前で老女が水盆の中から、何か――丸い板のような、厚みのあるものを持ち上げて紗を潜り扉の向こうの白い通路に消えていく。白衣の他の人々は、どうやらこの大神殿の後方の空間に向かったらしい。かすかな足音が後ろに遠ざかって聞こえなくなる。ややあってから聞こえたのは木と石の軋む音。扉の開く音らしいそれと同時に暖かい空気が音を立てて背後へと引いて消えてしまって、首筋に冷たい空気を感じた瞬間水に濡れた部分が氷のように感じられて、首をすくめるよりも刹那の間早かったのは鐘の重い音だった。




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