退出も最後がということで、まずは国王と王女が貴族たちの大半を引き連れて行ってくれた。どうやら宮中でも宴を催すらしい。それでも残った人々はどうやら神官に用のある面々らしく、神使生や神官たちがその相手をして大神殿から別のどこかへと連れて行ってくれ、残ったのは白の子三人とその迎え、そして神官が二人だけで、今、目の前には、その白衣の片方がいて、腰をかがめて自分の膝の上のフェルリナードをまじまじと見つめている。
「……中々すごいのですねぇ。割と長年修行してきた身ですが、これを見破れるのは私か神官長か本人かの三人くらいでしょう。市井にどれだけ法力持ちがいるのかは知りませんが、これを見て取れるのであればとっくに神殿が把握しているでしょうし、今のところそんなの一人もいませんからね」
「……あの、」
「目に見える身体の色の一部を餌として食べる代わりに他の『隣人』が取り憑いたりこの子に悪さをしたりしないように護ってくれる『隣人』です。餌を与え続ける限り害はありませんし、最初の契約外のものには手を出さない。中々居ない類ですね」
「えっと、」
「ああ、紫銀だってのはとっくに分かってるので。詳細も必要ありません、オルディナが本当の生家かどうかにも興味ありませんので」
 開いた口が塞がらない、というのは、こういうときに言うのだろうか。流れるような感想と説明とその他。思わず幼馴染と顔を見合わせて揃って父を見上げれば、視線の先の人のはなぜか感心したような表情を浮かべていた。左隣の椅子からはミシュリアの驚愕の声。
「すごい、神官さんってもっと清廉な人たちばかりだと思っていたわ」
「まったく清廉ではないという評として受け取りましょう。事実ですし。私は元々魔導師なもので後ろみたいなのと同類じゃないんですよ」
「エルディアード様……」
 後ろ、と声だけで示されたもう一人、『エフェレツィス』の渡りをしてくれたレゼリスだろう声が呼びかけるが、それに対してもまったく反応を返さない。代わりにああ、と声が落ちた。
「そう、知ってるのは後ろのと神官長だけ、私は勝手に勘付いただけなので情報の拡散は私だけです。生徒たちも気付いたとしても何もしません、利がありませんから。その点はご心配なく」
「ちなみにだが、どこで気付いた?」
「『隣人』が喚いてたんですよ、今度の紫銀は非情だのなんだの。私と神官長以外の神官と神使生は視るので精一杯で聞くなんてできないですから他に気付いたのはいないか気付いていないふりしてるかですね」
「……なぁ父さん、やっぱりガバガバだって言って良い?」
「言ってから訊くな。法力だの神官だのは例外だろ例外」
「魔導師」
「魔法に関しては一流自称すっけど神殿周りは守秘派が強くてな」
「こちらとしては魔法使いの不躾に荒しまわるのを研究と言い張る姿勢は永久にご遠慮願いたいものですからこの姿勢を改める気もありませんね」
「なぁエルディアードとやら、お前本当に元でも魔導師か?」
「元でも魔導師じゃなきゃ言わないでしょうこんなこと」
 フードが父の方を向いて、言ってから溜息と同時に立ち上がる。それから手が持ち上がって、白いフードが肩に落とされる。視えたのは青い瞳に青い髪。視線は父と、『エフェレツィス』の母に向いていた。
「子供たちを祭りに送り出したいのは山々ですが、そうも言ってられません。わざわざ連れてきたということはそういう意味だと解釈しますが、一応聞きます。どうするおつもりで?」
「オルディナが受け負うのは生家の役割、先の言葉に虚偽を申した覚えはありません。『エフェレツィス』が望むのであれば神使生に、望まないのであれば我が家にて学ばせます。が、紫旗はオルディナに任せるつもりはありませんでしょう」
 ミシュリアが言えば、父は肩をすくめる。私服でその話はしたくないんだがな、と独り言してから息をつくのが見えた。
「……鏡に近づくだけで感応して龍神を召喚しちまえるようなのを、貴族とはいえ一般の家の自由にさすのは、俺らとしてはナシだ。必ず紫旗が介入して暴走しないように監視することになる。紫銀命色云々は抜きにしても、だ」
「では?」
「……そうポンポンと禁忌破られたら本人はともかく周囲への被害が大きすぎる。前のだって息子が巻き込まれて瞳の魔力丸ごと持ってかれた。連続でなればそれだけで死者が出る。神官……祭祀神官なら知識も持てる、危険性についても対処できるようになる。こっちではそう思ってるが?」
「ではそのように。神使生の下限は八歳、十か十一には一律での任官があります、祭祀の役に臨むのであれば任官までの修行を納めなければなりません。修行の内容は非公開。魔法を扱える分には構いませんが剣は必要最低限に抑えてください、鉄の匂いが染み付いた人間はいくら紫銀といえ純な精霊が忌避しかねない。エフェレツィス、その『隣人』の名は?」
「言っちゃだめだって。……ルト、ってよべ、って言ってる。けいやく? のこと?」
「ええ。決めてありますか」
「クィルネアスさまと、決めた。エフェレツィスのときは、眼の青で、フェルリナードのときは、髪の青、あげるって」
「ルトは納得していますか?」
「……ちょっとめんどくさい、って。いごこち、は、いいみたい」
「痛いところはありませんね」
「うん」
「宜しい。ルトのこと、ルトとの契約のことで何かあったら私かレゼリス、神官長のところに来なさい。裏に回れば裏庭から入れます、渡りをする必要もない。クロウィル君」
 何も言わないように、話に割り込んでしまわないように苦心していたところに声が飛んできて思わず声に詰まってしまった。青い瞳がこちらを見て、そして軽く息をついて見せる。
「何かと思うところはあるでしょうが、『特別扱い』をしなければ一般人の生活も望めません。まずはそこからですね、何か解らないことがあれば君も来なさい、エフェレツィスの引率のついででも構いません」
「……分かりました」
 ――苦手だ、この人。言い当てられたのは、恐らく大人たち全員には察されているだろうから不思議ではないが、全く何にも包まず言い切ってくれるとは。膝の上の赤い眼が見上げてくるのには苦笑して返して、それから純青のその人を見上げた。
「裏庭の、って、教えてもらって良いですか、まだこのあたり全然分からなくて」
「構いません。他の方々は先に向かわれた方が宜しいでしょう、二人は私が案内を。どちらの篝火に向かわれますか」
「真南の、だな、近くまで連れてきてくれれば使い魔で判る。頼んだ」
「ええ。では二人はこちらに。レゼリス、神官長に」
「はい、では先に失礼を」
「『エフェレツィス』の帰りの『渡り』は私が持ちます。行きましょうか」



 紅青に変わったフェルリナード――エフェレツィスの手を引きつつ、純青の背を追いかける。大神殿の西側正面、白い通路につながる紗の壁の他には南を向いた扉が一つあって、そこをくぐれば左右両面に大きな窓と硝子越しの暗闇の景色。渡り廊下らしい、少し進んだ先にも扉がもう一つ。
「君は、魔法にはあまり親しくないのでしょうか」
「……ずっと商隊で、外国にいたので」
「ああ、それで……」
 自分が話しかけられているのだろうと思って返せば、妙に納得したような声での呟きが聞こえて来た。見えていた扉がその人の手で押し開かれて、その先には小綺麗な屋敷の内装が見える。
「君は『紫銀』の身内ですから、そういう反応になるのは理解します。ですが身内だからこそ、何がどうしてこうなっているかという物事に対する疑念は解消しておいた方がいいですね」
「……理屈はわかります」
「ですが納得はしていない」
 言われてしまえば否定のしようがない。押さえてくれている間に扉をくぐれば、何やら冷たい、だが寒くはない空気。繋いでいた手が揺れたと思えば目を向けるより先にエフェレツィスの手が離れてしまって、声を零す間も無く花冠に飾られた青銀が揺れて廊下をどこかにか駆け出していく。
「フェル、」
 意識せずに追いかけようと乗り出した身体は、しかし横から神官の手に肩を抑えられてそれ以上進まない。見上げれば冷たくもあるような動じもしていない瞳。
「好きにさせなさい、ここであれば身の危険は無い」
「でも、」
「幼い『紫銀』は言葉で諭しても学びません。ああやって直感で理解し今一番求める場所に向かいます。神官長の所にでも行ったのでしょう、あの子に今必要なのは神にまつわる知識でしょうから」
 君はこちらに、と肩を押されて逆の方へと押しやられる。エフェレツィスが行ってしまった方に目を戻しても、もう影も無かった。押されるまま別の部屋に押し込められれば真っ暗な場所。埃っぽような空気の中でその人が動いて、唐突に明かりが視界に入り込んできて思わず手で目元をかばう。カンテラに火を入れて持ち上げた彼の声。
「君は中々に強情なようですから、早いうちに正しい情報を知らされるべきでしょう」
「強情って……」
「否定する要素がありますか、お父上のことも信用できないで」
 明かりに当てられて見えたのは本棚だった。睨め付けても表情の一切を変えない神官は、来なさいと言うなり棚と棚の間に足を進める。逆らう意味はないかと判断して、その後を追いかけた。
 広い部屋、図書室らしい。灯りがカンテラ一つきりでは心許ない。しばらく無言で灯りと、灯りに照らし出された彼の輪郭を追いかければ、相当奥まった場所で足が止まって。火の立ち上る音と共に周囲に灯りが点って影が払われていく。神官は迷いなく左側の本棚に手を伸ばして、その中から一冊を取り出した。
「過去の記録です。当時のものを今の言葉で書き写しただけのものですから多大に古めかしい文体ですが、内容を理解するのに支障は無いでしょう」
 差し出されたそれを受け取れば、本の形をしていない、書付を綴じただけのような冊子。何の記録を見せようというのか、表紙には何も書かれていない。開いて中を見れば、据え付けのカンテラに照らされた中に箇条書きのような短い文章が並んでいるのが見えた。二段組のその冒頭に目を通して、そして眉根を寄せる。

『第九号 通称カメリア
 生後一ヶ月で生家により降誕報告。神殿神官により命色鑑定ののち紫銀と決定。
 報告義務を怠った罪により生家一族は断頭処分。
 家名を王家に準じるものと決定。発表することはないだろうが、形式上必要らしい。
 生後一年まで奥宮での生育を決定。教育内容の選定急務。赤子を軍国主義に染めるのは骨が折れる、必要ないと言っても上は聞く耳を持たない。

 生後五ヶ月、容体が急変。原因の特定を急ぐ。

 二ヶ月後、重度の霊化症の発症により急死。
 降誕の触れを出す前で助かった。しかし何が原因だ? 予兆は一切見えなかった。赤子が、魔法的要素を持たない乳幼児が霊化症を発した例は無い。
 念のため乳母の尋問を実施、情報を得られなかった為処分。ヴィルスティードとエルドグランドの紫銀の例を見るに敗因は見当たらない。幸い泉はまだ枯れていない、スザナの紫銀の一人か二人を拿捕し研究に回すべきかもしれない。あの一族は自死に対する垣根が低すぎるのが問題だが、死体でも利用価値は十分だろう。』

『第十号 通称なし
 生後間も無く生家により降誕報告。神殿神官の命色鑑定ののち紫銀と決定。
 生家には規定通り報奨を与えて記憶処理を施し解放。
 十年と空けずに次の紫銀の捕獲に成功したは良いが、先例が気にかかる。かといって七号のように民衆に担がれて暗殺されても困る。やはり最初から研究目的の試験体として扱うのが妥当か。とはいえ生育には支障の無いように手配しなければなるまい。

 生後六ヶ月を数える。今の所は問題無いように思われる。先例は魔法型故の人体崩壊か?

 生後一年の季節を迎えてさらに六ヶ月。言葉を覚え始めている。だが異常に発達が早く思われるのは気の所為か。既に単語短文だけの会話では無い。ひとまず教育時期を前倒しにして指示、反魔法派に染まられては困るどころでは無い。

 生後二年、霊化症の兆候が現れる。先例に照らせばずいぶん遅いが、やはり、といったところか。九号以前の記録が残っていないのが悔やまれる、生育段階にこれほど難があるとは。魔術師、医法師の配備済みが功を奏して対処済み。原因報告を待つ。

 原因報告。人体の門と魔力回路の不均衡が発生しているらしい。通常では見られない症状とのこと。封印式は負荷が重すぎるとして起案自体を許可しない。殺すわけにはいかない、次の実験体が手に入るまでは生きていてもらわねば困る。

 生後三年、降誕の触れ。現在に至るまで異変なし。魔術師が言うには精霊の過度な手出しがあるようだが、精霊眼を閉じさせて経過観察を行うことに決定。
 早く基準体重を満たしてくれないものか。実験が出来ない。』

「実験、って……」
「名の通りです。紫銀の能力把握の為のね」
 目を上げればカンテラに照らされた青い眼が先へと促しているように見えた。紙面に目を戻す。嫌な予感がする。兆しを覚えても、どうしようもなかった。

『生後三年五ヶ月で基準体重を満たした為実験開始。
 薄紫銀の調達が間に合っていないが、暗部がどうにかするだろう。

 準備として精霊眼を開かせ、魔術師たちに調整させつつ限界まで魔力を回復させる。所用三日。通常の人間の門の機能を遥かに凌ぐことは明白。数値計測は計測能力外のため不可能だったが、魔術師たちに所見を求めて記録。その後麻酔を施し実験開始。

 眼球を摘出し魔石化を試みる。失敗。
 肉の質量に対して魔力が多過ぎれば、切り取った瞬間に霊化症の最終段階を示して崩壊するらしい。居合わせた医師、医法師、魔術師が暴発に巻き込まれて七名が死亡。紫銀は結界内に居た為無事。瞳だけでも暴発を示すのは興味深い、自我と魂の所在が暴発の起点だという説は否定されたが、この実験の結果を公表できないのが残念だ。
 研究員を入れ替えて実験続行。

 血液を採取し魔石化を試みる。成功。肉でなければ良いらしい。紅玉様の魔石となったが既存のどの魔石とも性質が一致せず。属性は全を示す、黒曜石と同様だが性質はこちらの方が上だ。この紫銀が生きる限り黒魔石よりも上質な魔石が得られる目算が高い。増血剤の調合を急がせる。

 実験体の容体悪化のため後の実験は日を空ける。やはり魔力の消費が体重に比して多かった様子だ、回復には数日かかるとのこと。時間を早めることができないものか。

 実験再開までの間に諸事を済ませる。
 気が重い、というよりは、面倒が先に立つが。王には瞳の病のため失ったという報告書を作っておく。どうせ女児の紫銀など王が囲うか他国に売るしか価値がないのだから、丸々研究所に回してくれた方が有意義なのだが。人工紫銀の作成研究も停滞している。今更言っても遅すぎるが■■■組み替えの技術が失われたのは痛手だ。■■■■作成は後一歩というところまで進んでいたらしいが、悔やんでも仕方がない。魔術師に期待する以外には無いだろう。

 切開術の手順について、医法師との再確認を行う。反対派の数名は一八三番の檻に落としておく。一八三番の腹具合によるが死体が残らないというのは楽で良い。

 魔力量の測定装置の調整を技師に指示。前回の眼球のことを鑑みるに測定不能に陥りそうなものだが、上からの指示だ。仕方ない。

 実験項目の再整理。髪、両手指、残る瞳、左右両腕の魔力回路、人体の門の切除及び■■。最終的にはどの部位も兵器運用の部材として使用できるように、九号の死体に■■■を施し■■を試みる。上手くいけば良いが。』

 ――声にならなかった。わからない、知らない単語が出てきたのにも全く意識が向かなかった。気付かなくとも付されていた図解と素描で知れた。
 ページを繰る手が止まっていたからか、白衣の手袋が手の中からその冊子を引き抜いていく。本棚の中に収め直される音、淡々としたような、抑揚に欠けた声。
「この記録は科学者とやらが生き残っていた時代のもの、大陸歴に正せば一〇〇〇年代のものを、今の言葉にそのまま翻訳し足りない語は当時のものを書き写して当てたものです。方法、手法、立場や実施者の違いがあれ、これと同等以上のことが十七代目まで続いたという記録が残されています。そして先日、王と王女が、今君が読んだもの、それに続く全記録を確認していきました。王女は途中で退室していましたがね」
「ありえない、こんなの、」
「君は命色の研究が現在もどの様にして行われているか知っていますか」
 眼があげられないまま知らないと口走った。知りたくない、の方が良かったかもしれない。この次に何が来るのかなんて分かり切っていたのに。
「死体を切り分けるんですよ。髪を削いで溶液に融かして質を問い、頭蓋を割って脳を引き摺り出してさらに切り分ける。瞳も舌も内臓も骨も全て切り出して染み付いた氣や魔力の精査を行う。調べられるもの全てを調べ尽くすんです、あるいは人の味覚にどの様な影響を与えるのか、色によって味が変わるのかさえ」
 聞きたくない。なのに耳を抑える前に口を抑えなければどうにもならなかった。素描画が視界にこびりついている、あれが人体の『中身』であることは知っていた。それが色を持ち動いて見えることにえづきそうになる。もう片方の手は感覚が消えていく両脚に耐えかねて本棚を掴んでいた。白衣が何を見ているのかもわからない。
 気味が悪い。気色悪い、胸焼けがする。気持ち悪い。言葉に引きずり出された脳裏の映像に胃が縮む。腹の中身が捩れていく。これを、生きていれば動いたとわかるこれをそうするのか、そう勝手に思考する頭の中も膿んで腫れたかのように熱く重いのに、全身は冷え切っていた。
「普通の色の人間であればそれで済む。死体でいい、貴色は少ないが居ないわけでもないから。では紫銀は? 二十そこらで姿を消す、表向きには決して殺してはならない紫銀の身体をどうやって調達するのか。単純明快ですね、生かしたまま切り分ければいい。事故だ事件だ誰それが殺しに来ただのそれらしい理由をつけて脚を切り腕を切り、少しずつ身体を削って少しずつ試せばいい。肉であれば時間をかければ再生しますからね」
 やめてくれと制止することすらできなかった。喉を締め付けているはずなのに舌に嫌な味が広がっていく。カンテラに照らされただけの薄暗い空間を見ているはずの両眼が渇いて見ているはずのものが掠れている。
「……そういう思考の持ち主たちが作り上げてきた国です、ここは。だから紫銀を守りたいのであれば、政にも商にも情にも、紫銀が殺されては困る、紫銀が不随不具に貶められることを許容しないという有力者有権者を作れるだけ作っておく必要がある」
 口を押さえている手に何かが触れる。反射で肩が跳ねた様に感じたのに、動いたのは左足だけで、ほんの少し後退るだけだった。あるいは体重がほんの少し傾いただけで、身体は一切動いていなかったのかもしれない。たったそれだけがわからなくて混乱が始まる中に右手の手首が抑えられて口から引き剥がされる。代わりに分厚い布が当てられる。
「王はともかく王女は『実験』には加担しないでしょう、あの様子では。気質的にはアイラーンも。商ではすでにディアネルが動いている様子もある。オルディナの当主が姪だと言い張るのであれば情も足りている。あとはあの子が暮らし成長していくのに必要なものを揃えるだけ。神殿は必要なものの一つでしかない、果たせる役目も教導のみであってそれ以外には何も無い。不服に思うのは理解しますが君がどう思うよりも安全な配置でありどれも不可欠な歯車です。紫銀は縛ればすぐに窮して死んでしまう、本人や周囲の人間が動ける場をより広く構えて、あとは好きにさせるしかありません。そう十何人も殺してきた記録が言っている。諦めなさい」
 口のはしから唾液が溢れていくのが布に吸われていく。吐いてしまいなさい、そう言われて両目をきつく瞑って舌で追い出せば酸のような生臭さが多少は薄れて、それでようやく空気が喉を滑り落ちていく。えづきそうになって思わず上向こうと体が動けば襟足を押さえられて逆に下を向かされて、また溢れた唾液と呻きが吸い取られていく。乾いた視界が滲む。
「紫銀たちが思い思いに、他の色から見れば野放図にあちこちを駆け回るのは、先例の多くにもある性質です。彼らはその様にして自分の色を生かす術を身につけていく、まるで天に従うかの様に最善を選び続ける。多くは幼少期にそのようにして、十も過ぎればなりは潜めるようになる。生き抜くための彼らの本能です、数年くらいは待ってやりなさい。君の言葉も表情も気配も行いも、全てあの子には最も重いものになりかねない。身内、兄とはそういうものでしょう」
 背中、肩の後ろが三度、身体中の緊張を解くように上体を揺らして柔らかく叩かれる。音を立てて呼吸していると気づいた時には、口を押さえてくれていた布は消えていた。唇を合わせて引き締める。歯を強く食いしばって、袖で乱雑に口を拭う。顔は上げられないまま前かがみになっていた姿勢だけ持ち上げれば、花冠の据わりを直してくれた手が肩を叩いた。
「続きが読みたければ次回以降になさい。あの公爵令嬢の様に吐いても読み続けるような気の強さを発揮されても困ります」
「……ラシエナは……」
「最後まで読んでいきました。十二月の中頃……十五日あたりですね。よくもまああんな根性のある女児が居たものです」
 遠回しに根性無しと言われている気がして眉根を寄せた。むっとした、そう感じたことになぜか自然と安堵が浮かぶ。様子を伺うような間があって、行きましょうかと白衣が言うのと同時に周囲の吊りカンテラから灯が消えた。彼が持っている灯りが唯一になって、それを掲げて背を向けた彼を追いかける。
 またしばらく無音のまま足だけを動かして、最初に潜った扉を抜ける。深夜のはずなのにふんだんな照明に当てられて眩しい廊下で、白衣はすぐに動き始めていた。
「きっと神官長のところでしょう。ついて来なさい」
 言われるままついていく。渡り廊下の扉を右手に見送って、それから同じ右手側に見えた階段を上へと登る。
「……名前、訊いてもいいですか」
「エルディアードです。私に口調を整える必要はありませんよ」
「……なんか気になるので、このままで。神官って普段は何してるんですか」
「神殿と待機棟、この宿舎棟の掃除整備維持と、季節の花や食物を神の像に差し上げる供儀。加えて祭祀が日々の感謝を伝える祀り。今は主にその三つですね、大公が在ればまた変わるでしょうが、今は神殿に寄付するような人間もほとんど現れませんから書類仕事もありません。残った時間は庭いじりですね」
「大公?」
「神殿大公。爵位の一、公爵の上に位置する一代限りの位です。神殿を掌る役職にあり、過去には大体の紫銀たちが叙されてきました」
 階段を折り返して二階に上がる。更に上、三階へと向かいながらなんとなく明るい廊下に目をやった。人気のない、冷たい空気。
「神官は、今は神使生を含めて七人しか居ません」
「少ないんですね」
「居なくならないだけ、まだこの国は色と魔法に対する一定の理解が望めますね」
「人嫌いですか、エルディアードさんって」
「さてね。ひねくれているだけでしょう」
 段を上がりながらのやりとり。見上げれば後ろ髪をきっちりと一つにくくった頭が見える。歳の頃は二十後半か、三十前半か。
「ひねくれてるのに神官に?」
「なりたくてなったわけではありません。元々は魔法界にあったものが、追放されて流れ着いただけですから」
 踏み込んだことを聞くものではないなと、段を上がる足元に目を落とす。これでは意趣返しにもならない。数秒もなく、苦笑の気配。
「最近は八歳児はませてますねぇ」
「ませっ、……え……?」
「同じ歳の標準的な子供はやっと放牧の世話が見れるくらいのでせいぜいでしょうから。学院生や学校生には及ばないとはいえ十のあたりには思えます。あまりあの子を引き上げすぎないように気を付けなさい、無条件に甘えて居られるのは子供の間だけの特権ですから」
 白衣が言う間に三階の床に足が着く。視線が上がってすぐ見えた扉に向かって軽く握った拳が戸を叩く。中から扉が押し開かれて、隙間から見えたのは青金の白衣。十四、五あたりだろうか、中へ、と促してくれる声はレゼリスと名乗った神官のもの。そういえばどうして命色を隠すのだろうと疑念が沸きつつもエルディアードの後に部屋に入れば、老神官がソファに座っているのが一番に見えて、その横、すぐ隣に紅青が座って、膝の上の硝子箱を見下ろしていた。




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