「こちらにいらっしゃい。レゼリス、クワントラッツェを持って来てくださる? 裏庭の雪室に埋めて、印を付けてありますからね」
「はい」
 席を勧める声と、白衣に向けた声がやわく耳に聞こえる。手招かれるのに素直にソファに近付いて、示された通りに老女の向かいに腰掛ける。フェルリナードは視線を少しも動かさず、こちらに気付いた様子は無い。
「今はね、急ごしらえですけれど、気を付けないといけないことと、絶対にしてはいけないことをお伝えしています。前に、地揺れがあったでしょう? あの時からの用意なんですよ」
「……知ってたんですか?」
「ええ。わたくしと、レゼリスと、エルディアードはなんとなくでしょうけれど、会ってそうと分かってしまっていますね。彼の眼はなんでも見抜いてしまいます。生徒の中にも、何も言いはしないけれど、気付いたらしい子も居りますね。神官も生徒も家名を捨てて役目の為と生きていますから、誰かに話すなんてしていませんけれどね」
 ふふ、と笑って言う。未だフードに隠された頭、髪と、紗に覆われた瞳。それが隣の紅青を見やる。
「エフェレツィスには、わたくしが預かっていた『隣人』をお渡ししました。聞きましたか、ルトの役目について」
「色を食べる、とは。他の『隣人』避けになってもいると聞きました」
「ええ、そう、その通り。彼は、代々の神官長、代々の神殿大公に依って生きて来た存在です。どうしても『隣人』を呼び憑かれ易い身を守り、対価として色を食べます。食べる色はどんな色でも、衣服の色でも、肌の色でも構いません。エフェレツィスは、瞳か髪の青を」
「……なんとも無いんですか」
「対価が色、というのが、既に害のように思われてしまうでしょうね。ですが彼が食べる色は見目の色。魂そのものの色ではありません。光が当たって照り返した光をなんの色だと目が受け取る、その色を食べるだけ。彼は口悪く、居心地の悪い場では騒ぎがちではありますが、憑かれた人がそれで多少気が散りやすくなる程度です。毎夜眠ろうとするたびに隙を狙う『隣人』に脅かされて不眠を患い、追って多くの病を得ることを防げるのです。その上見目を隠すことができる。安い対価とは思いませんか」
 神殿でも言っていたかと、記憶を辿って思う。一人寝ができない理由はそれだったのだろうかと思ったのも脳裏に蘇って、再び眼は紅青を向いた。瞬きすら、しているのかいないのか。
「……何を見てるんですか」
「精霊とルトの記憶を。過去の紫銀が、『隣人』や精霊とどのように渡り合って来たか、精霊と『隣人』の眼から見たものを。そして紫銀が、神々とどのような係りにあるのかを。……貴方は、泉が開かれたときに見たかしら。あのとき、わたくしには視えませんでしたけれど、多くの精霊と、水の神の顕現がありました」
 老女を見やる。口元には笑みをして、こちらを見ていた。
「地揺れのあったその日には、色彩神があの洞窟で一堂に会しました。そして今日は、水の神。魔法使いの方々は水麗神とお呼びします、総て流れるもの留まるものの主宰神」
「人と神は、って、教わりましたけど」
「そう、触れてはならない。ですが、この子と貴方は、地揺れの際に代償を差し出してあります。それも瞳の魔力という非常に大きな代償を、しかも貴方は事故という形で。ですから今日の日の神のお出でに際して、代償に見合うだけのものがあったはず。神々は天秤の不釣り合いを忌まれますから」
「どうしてわかるんですか、誰が来たとか、見たか、とか」
「わたくしが祭祀だからでしょうね」
 眉根を寄せた。あからさまにすぎたのだろう、老女が口元をおさえてくすくすと笑う。ゆっくりとしか空気の流れない中で、嘲るでなく少し嗄れた笑い声。
「わたくしは祭祀です。祭祀とは、日々地上に何があったか、どのような出来事があり、それに人々の心がどのように動いたのか、それを精霊や神々に語り申し上げる役割です。この声を、必ず天にお届けしなければなりません。ですからこの役に就く前に禁を犯します。禁を犯すが故に、祭祀は神殿にて一生涯を過ごし、外へ参るには外つ世の異形として渡司の手を借り、声を封じて参ります。ですから神殿の領域の内にしか生きることができません」
 言葉の最後に白衣の手と袖が動いて背後を示される。振り返れば青瞳青髪の神官。わたるつかさ、と口の中で繰り返す。
「只の人から祭祀と成れば、もう人ではありません。地上と天の間に在るひとつの部品。そして『紫銀』は、生まれながらの祭祀です。わたくしたちのように禁を犯すまでもなく、人として在りながら祭り祀ることができます。故に『紫銀』の祭祀には大公という爵位の座が与えられるのです。あなたは人だ、人であることを諦めなくていい、人として生きることだけを考えればいい、他の祭祀のような異形に成らずとも良いのだと、それを保障するための大公位です。その為だけの位階です。系譜を象り血族を模倣し血の繋がりの中に組み込む事も同じです。それを全て尽くしてようやく、この色の子は『人』として生きることができます」
「……できなかったら?」
「きっと研究という名の無法に晒されて、そう遠くないうちに事切れてしまうでしょうね。貴方が読んだでしょうあの通りに、あるいは、貴方も、もう既に感じたかもしれません。この子を見て。この子の周囲の人々を見て。それらの様子を間近に見て、薄気味悪い、と」
 ――何も言えなかった。言われて、妙に腑に落ちた。逆撫でられるような心地は何度もあった、急に予想もしなかったような行動や言動を見て焦ることも不思議に思うこともあった。妙なと思ったことも、理解が及ばなかったこともあったのではないか。大人たちの言葉を聞いて、あるいは聞き出して、それで気を落ち着かせて、『妹』が無事ならそれでいいと自分に押し付けてはこなかったか。
「紫銀は、ただ存在するだけでも余りに周囲を揺るがしてしまう。故に異形に映るのです。異形故に人に当然のものが認められない。拒絶されるわけではありません、ただのひとが紫銀をみて、それがひとであるという認知を得ることが出来ないのです。余りに慣れない色だから、余りに神に近過ぎる『モノ』だから」
 渦中に居ると分からなくなるのだな、と、頭の隅が吐き出した。そうか、これは薄気味悪いという感覚が正体だったのか。薄気味悪さが引きずって来た不安や苛立ちを、そうだと思って受け止めていただけで、本来は。
「法力を持つこと自体、常の人から見れば妙な、気味の悪いことなのです。精霊の存在に気が付くであれば良い、それは多くの人が知ることですから。ですが『隣人』の存在に目が止まるということは通常理解できるものではありません。あり得ないものを視るということは、その人自身があり得ないものに近いということです。精霊でもない、人に害するものを見、触れ、話す。その上祭祀とも成れば、人が触れられないはずの、触れてはならないと定められて居るはずの神々とさえ交流する。はたから見れば日の多くを虚空を見つめて過ごし、一言もなくあちらこちらを彷徨し、人には理解できない、正しい知識があったとしても理解されない理で動く。『異種』の方がまだわかる、そうとも言われます」
「神官長」
 背後、扉の方から制するようなエルディアードの声。老女は、ふ、と息を零して笑んだ。
「……こうして常の人が近くに居ないと、わたくしはもう人らしさというものを保てません。わたくしも、もうひとをひととして認識する術を失いました。もう何年も、できていた頃の模倣を繰り返すのみ。神事を終えたすぐの今でさえ、『フェルリナード』を連れて泉に入り、新たな祭祀が参りましたとお伝えしたくて、それを抑えてこうして座って居るだけで精一杯。わたくしは、常の人からどのような目でみられるか、あるいは殺されてしまうかもしれないことも、それが祭祀として正しいと感じたのなら、後先も考えずにそうしてしまうでしょう。少しも、かけらも恐怖せず、躊躇うこともなく、そうできることに満足したいという欲が強すぎるのです。……わたくしは八の頃からこちらに居ります。十に祭祀に任じられてからもう六十年、誰にも、止められることも諌められることも経験せずに居て、こうなりました。だから、兄だと貴方が言ってくれて、ほっとしたのですよ。この子がわたくしのようにならないで済むのだと思えました。わたくし自身に悔いは無くとも、続く例を作りたいとは思えません。ですからわたくしの後に祭祀を作ることは致しませんでした。何よりこの子が変わってしまえば、多くの人の心を裏切ることになりましょう、わたくしは、そんなことを天にお伝えしたくはありません」
 沈黙が落ちる。そういうものなのか、が、一番だった。無音に任せて黙り込んで、そのまま視線を紅青に移す。硝子の箱の中をずっと見詰めて動かない。指先も、爪先も。
「……あの実験の記録」
 勝手に声が溢れた。白衣はこちらを見たままらしかった。
「紫銀は、得体の知れないものだった、から?」
「……今も、でしょうね。だからあらゆることを尽くさなければなりません。この子が人ではない何かに成ってしまったとき、どうなるかは、誰にもわかったものではありませんから」
 衣擦れの音もしないと耳が聴いて、ああと思う。神殿の中の、あの時と同じ空気が、この老神官の周囲には張り詰めている。飲まれるような静寂、服従を強いるような気配の重さを、まるで白昼夢のように輪郭の溶けたものに変えて、それが充満しているような。人の気配のそれとは、まるで思えなかった。
 この人が嫌なわけではないのにな、と、浮かんだ。だが浮かんだそれは、親しげな様子から思ったものではないことも明白だった。人世離れしすぎているように見えるのだ、だから、自分の基準で好きだとも嫌いだとも言えないだけで。これが『そう』なのかと思えば、優しさにも思える。
 また沈黙に没していたのだろう中に扉を叩く音が転がって、それで目を上げた。目の前の老女がそれに嬉しそうな様子で顔を扉の方へと向けるのが見えて、硬直していたような、それでも水飴のようにゆっくり流れていたような部屋の空気がほどけていく。振り返れば、青金の彼が大きな盆を両手に持って入ってくるところだった。
「しっかり凍っているかしら、大丈夫かしら?」
「はい、十分かと。切り出して参りましたから、ゆっくりと溶けていってはしまいますが、雪は払ってお持ちしました」
「ふふ、出したばかりでは冷たすぎるかもしれませんね。こちらに。貴方と、エルディアードにも差し上げましょうね」
 なんだろう。白衣の一人が苦笑しつつ置いた盆を見れば、載っていたのは堅焼きパンを小さく薄く切ったものが何枚か、もう一つの皿の上にはこれも薄く切られた、何やら肉のようなもの。
「……?」
「クワントラッツェと言います。新年の十日までに食べると良いとされる縁起物です」
「ラミューツという特別な兎肉にハーブを擦り込んで、雪の中で熟成させて保存したものです。少し作法がありますから、待っていてくださいね。エレフェツィス、そろそろ戻っておいでなさい」
 すぐ横を向いた老女が、紅青の目の前でぱん、と音を立てて手を叩く。その拍子にようやく硝子の箱から眼が動いた紅――すっかり青味が抜けた鮮やかな真紅の眼が老神官を見上げて、それからすぐにこちらに気付いて目を瞬かせた。
「クロ」
「おはよ。忘れてたな?」
 俺のこと。にや、と笑って言ってやればあわあわと老女を見上げこちらを見返し、その様子にはこちらの表情がすぐに崩れた。
「どこか行きたい所あったら言ってな。危ないとことかあるかもしれないから」
「うん」
 こっくりと頷いて、それから硝子の箱をテーブルの上に戻す。そうしている間に神官長が布巾で丁寧に手を拭って、盆の上の皿に手を伸ばしていた。薄切りのパンに肉を乗せ、くるりと巻いて紅青の口元に差し出した。
「はい」
 疑念を浮かべたらしいエフェレツィスは、しかし差し出されたそれには素直に食いついた。ひときわ小さいそれは口の中にすっぽりと収まってもくもくと口が動く。どんな味なんだろう、生食できる肉には、海鮮以外であまり出会った記憶が無い。思っているうちに次の一つがテーブル越しにこちらに向けられて面食らった。
「え、っと」
「このままが作法です。手に触れてはいけませんから、気を付けて」
 横から青金の神官に言われて、ためらいつつ身を乗り出して口を開けば中にそれが入ってくる。行儀が悪いと叱られそうな、でもこのままでいいらしいような。ソファに座りなおして口を動かせば、パンの中に冷たい塊があって、しかしすぐに融けて柔らかくなっていく。肉質自体は硬めで、少し厚めの生ハムのような食感。塩味とハーブの香りが程よく、甘さもある。美味しい。
 見れば老女は神官二人にも同じようにしていた。これにも何か意味があるのだろうかと老女を見れば、彼女はにこにこと口元を綻ばせている。
「長生きできますように、というおまじないですよ。その場での最年長者から、歳の下の方に差し上げて、年長者にあやかろうというものですね。私ももう七十は超えましたから、中々のラーツェアでしょう?」
 ラーツェア。長寿とか年長とかの意味だったか、あまり聞かない言葉だ。飲み込んでからありがとうございますと頭を下げれば、はやりふふと笑う声。七十の人、それ以上の歳の人というのは、確かにあまり見かけない。ごく稀に畑仕事の風景の中にそれらしい人が紛れ込んでいたものを遠目にみたことはあるが、あれはたぶん、例外だろう。
「街の屋台にも、いくつか見えるかもしれませんね。さて、ではお父上様方にお返ししませんとね。随分長く留めてしまいましたから」
 神官長が言って、紅青の花冠の据わりを直し、長いリボンを丁寧に青銀に絡めてからその背を軽く叩いてソファの座面から下ろす。それを見つつ自分も立ち上がって、紅青がすぐに駆け寄ってくるのには右手を伸ばせば左手が伸びてきて手が繋がった。
「エルディアード、ご案内をお願いしますね。エフェレツィス、また会いましょうね」
「はい、クィルネアスさま」
 たぶん連れてくる役は自分だろうな、ラシエナも巻き込もう。思いつつ会釈して、こちらへ、と扉を開いて示してくれる青の人の方へと足を進める。廊下に出て扉に閉じられてようやく、あの重い気配がすっかり消えていることに気がついた。



 裏庭の扉の位置を教えてもらい、神殿から出て外殿に出、神官の後を追いつつ賑やかな王城の門を潜って外に出る。流石にちょっと寒いかな、と肩をすくめて襟元を寄せて、それではたと気付いて白衣の背中に声を向けた。
「このままの格好で大丈夫ですか?」
「眠ってしまうまではそのままでいてください。色の子はそういうものなので」
 フードを頭上に戻した頭が肩越しに振り返ってそう返してくれる。そういうものなのか。理由を求めるのはやめておいたほうがいい気がする、たぶんわからないまま終わる。眠るまで、の言葉にそうだと思って上着の中から時計を取り出せば、蓋の中の数字盤は四時の終わり頃、そろそろ五時になろうかという四十七分を指していた。思ったよりも経っている、夜の時間は早いとは言うが。見上げた空はまだどこも暗い藍色で、日の出の気配はまだ遠そうに思える。
「フェル、眠くないか?」
「だいじょうぶ。どこいくの?」
「篝火って父さんは言ってたけど……」
 そういえばこれも詳しくは聞いていない。いいかもう、きっと一回体験すれば済むことだろうし。記憶喪失の推定六歳児と帰国したばかりの八歳児なら大概のことは許されるはずだ。周りの視線を集めているような気がするのも大部分は神官の存在が故だろうし、色の子だわ、と嬉しそうな女性の声が聞こえたのは聞こえていないことにした。白衣は南を向いた門を出て、そのまま南へと伸びる道を進んでいる。東西南北にまっすぐの大通りだ、二頭立ての馬車が擦れ違うのに十分以上の横幅がある道は、まるで朝市のように人で溢れている。エルディアードはゆっくり歩いてくれているが人混みの中ではぶつかって振り解かれてしまいそうなと思って、紅青を引き寄せて腕の中に抱え上げる。
「はぐれそうだしな、咳が出ても嫌だろ?」
「うん。……人、おおいの、ちょっとこわい……」
「大丈夫、下で立ってると壁みたいに見えるけど、これなら平気だろ?」
「だいじょぶ」
「父さんの使い魔見えたら教えてな」
「わかった」
 確かそんなようなことを言っていたから。思いつつ白衣の背中との距離を詰め直して追いかける。どうやらこの大通りの左右にはあちこちに屋台が出ているようで、さっきから何やら美味しそうな匂いがしている。姿は人で隠れてしまって見えないが、この人出は屋台目当てが大半だろう。
「ああ、見えましたよ」
 前から声がして、白衣が足を止める。手で示されたのは人垣の壁からはまだ距離のあるだろう場所に、太い鉄の格子で組まれた柱と、その上で火の粉を噴きながら燃え上がる大火。思わず目が遠くなった。篝火とは言うが。
「……火事だよこれ……」
 上空へと登っていく火の手と煙の量が半端じゃない。油でも燃やしてんじゃないかあの黒煙。思っている間に紅青が虚空を見上げて視線が動かなくなる。
「見つけたか?」
「うん、ラーヴァいる。あっち」
 指差す方に顔を向けてみるが、やはり周りの大人たちの上背で隠れてしまって見えはしない。白衣がほんの少しフードを持ち上げて口が動いた。
「いらっしゃいますね。行きましょう」
 肩を押してくれ、フェルリナードが指し示した方へと人を割って進んでいく。何階建てか、おそらくは住居のそれだろう建物の窓が上から二つほど見えた頃合いで、一瞬通った視線の先で真っ白な一人と父の紅が見えた。まだ距離はあるが向こうも気付いたらしい、すぐにこっちだと声が聞こえる。さらに進んで最後の人垣を超えれば、一団。
「ごめん、お待たせ」
「気にすんな、フィメル待ちもあるからな。神官殿、すまんなここまで」
「いいえ、留めたのはこちらです。祭りの間は迷子が急増しますから、お気を付けて。エフェレツィス、クロウィルもまた後日」
「はい」
 応えれば、会釈した白衣はすぐに人垣の中へと姿を消してしまう。父の声。
「なんかあったのか?」
「いろいろ教えてもらった、のと、神官長とフェルが」
「クィルネアスさまに、おにく? もらった」
「お。クワントラッツェか、良かったな。回数制限ないから見かけたら食べとけ、身体にもいいからな」
「おいしい」
「だろうな」
 言う父の足元にフェルリナードを下ろしてやって一息つく。横からラシエナが顔を覗き込んできた。
「おつかれさま?」
「なんか緊張するな、あそこ」
「よね。今の人って、エルディアードさんだよね?」
「そう。……ああ、うん、少しだけど読んできた。いろいろ教わったし」
「そう? クロ時々いらいらしてそうだったらちょっと心配だった、平気?」
「平気。あんまり気にしすぎないようにしたから」
 した、というか、するように決めた、というか。言えばラシエナはそっか、と指を絡めてほっとしたといわんばかりの顔になる。どうやら自分は自分の気分や機嫌を隠せていないらしかった。それはちょっとな。訓練しなきゃだな。エフェレツィスは、どこから持ってきたのか、何かの空箱に腰掛けたミシュリアの方に寄って行って膝に抱えられて抱き合っている。ミシュリアの猫可愛がりぶりがすごい。なんとなくそのままぐるりと面々を見渡して、タヴァスチスとライラシュクがいなくなっているのには少しほっとするようなしないような。フェリスティエが見えないのには、純粋に疑念が湧いた。
「エナ、フェスティさんは?」
「んと、お義姉様の迎えにって、お邸に。十月の子がいるからお義姉様は神殿の方にいらっしゃらなくて」
「あ、お子さんいたんだ?」
「うん、いるよー。フェス兄様、結婚するの早くて、十八でお義姉様迎えられたから」
 へえ、と納得しかけて、あれ、と思う。そういえば、フェリスティエは紫旗に入って七年だと前に聞いた。成年して子供がいるのも早いなりに当然だろうが、しかし。
「……あれ、一番上のお兄さん今学院にって……」
「うん。ん? あ、そっか、えっと、フェス兄様はリア兄様よりも歳上なの、三つ上。リア兄様は前のお母様の子で、フェス兄様が今のクライシェお母様がお父様と結婚する前の子。お父様とお母様、両方とも再婚なんだって。それで、お母様が連れてきたのがフェス兄様」
「……え、なんで次兄……?」
「リア兄様が生まれた時にスィナル様と婚姻の約束があったから、って聞いてる」
 だから今のところうちは嫡男はいるんだけど次の当主になる嫡子は決まってないんだよねぇ。のほほんと言う幼馴染に絶句した。そんな内部事情が。言ってもいいのか他人に、そんなこと。思っているその表情に気付いたのかラシエナが苦笑する。
「有名なの、お父様とお母様のこと。お母様は子爵家の方だからって相当言われてたみたいだし、再婚されて初めての子の私が女だしで。あ、でも今はもうないよ、フェス兄様は学校卒業して紫旗入って退団してすぐの今は軍司令補佐だし、リア兄様は学院で歴代の記録上書きして荒らして首位卒業確定だし。お父様も相当戦ったみたいだし、……お母様強いし……」
「う、うん、それは、分かるけど」
 あの母から、柔らかい、心の底からの笑みをああも容易く引き出す人が弱いわけがない。いつか見た中庭の風景を思い起こしながら思う。――というかアイラーンって確か嫡子の妻には必ず騎士称号を求めることで有名だのなんだの聞いた覚えがあるのだが。アイラーンで育つ子供も、軒並み騎士称号を名に付しているはずだ。魔法使い以外は。
「……ちょっと訊いていい?」
「なに?」
「クライシェ様ってなんかの称号持ってる……?」
「教導騎士のはずだよ。剣騎士とか盾騎士だと子供産めなくなっちゃうから、代々の女当主はみんな教導騎士。……リア兄様が学院いく前、お母様負かしてたけど。剣で」
 どうなってんだお前の家。言おうとして、やめた。思えばこの目の前の令嬢もどうなってんだの張本人だし、自分も言えた立場ではない。紫旗の子弟は通常十四前後でないと認められないと最近知った中で、自分は八になった直後、しかも帰国して一ヶ月でだし、ラシエナは八になって半年もなく正式な子弟と認められてしまっている。しかも理由は明かされないままだ。幼馴染は自分から言って短剣を預けられたらしいが。自分は、団長に少しでもその気があるのなら、と言われてのもの。
 縁故なわけないしな。思いつつ視線が流れていく。ラシエナも両手の指の先を交差させながらなんとも言い難い、納得を無理やり作ろうと言う表情を浮かべているのが視界の端に見えた。ちらと見れば眼が合う。無言のまま右手の掌を合わせて軽く叩き甲を軽くぶつけ合ってから腕を交差させ相手の右肩を二度叩き合う。友よ。足元に来て上着の裾を握った紅青が見上げてくる。
「なにしてるの?」
「確認」
「確認だねえ。フェル、お母様は?」
「足をいためると、わるい、って、おむかえきて、かえっちゃった」
「この中じゃあな……」
 一段から視線を外せば周囲は人でごった返している。少し歩けば二歩ごとに肩がぶつかりそうな。あまりない人出の多さは新年だからだろうかと人の流れを眺めていると、不意に父がどこかへと手を挙げて、こっちだ、と声をあげるのが聞こえた。




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