「こっちだ、フィメル!」
 父が長身に片腕を持ち上げて声を上げる視線の先にまだ姿は見えない、が、はっとして色違いに向いた。
「エナ、フェル見ててくれるかな」
「え、うん、いいよ。どしたの?」
「ちょっと、身構えっていうか。フェル、エナと一緒にな」
「どこいくの?」
「どこにもいかないから大丈夫。怪我するかもだから、ちょっとな」
 紅青の背を押して、幼馴染の方へと小さい身体を避難させておく。二人して疑問符を浮かべるのには、すぐ分かるよ、と苦笑する。しながら一歩分距離を空けた、その動作が終わる寸前に耳覚えのある声。
「半月ぶりだ、父さん」
「もうそんなか?」
「二十日ぶりよ! 父さんたら母さんまで連れ出して!」
「悪い悪い」
 男女の声。それに応える父の視線の先が近付いてくる。焦茶が人の波の合間に見えた、見えた次の瞬間には、この白の衣装故だろう、ほんの少し空間を空けて周囲を流れている人垣の、その目の前が左右に割れた。
「クロウィル!!!!」
 割れたそこから、両腕を広げた焦茶が飛び出して来ていた。旅装も解かないままで、淡い赤を潤ませたその人が、頭上から影を落として飛んでくるのが見えていた。
 結果、身構えもへったくれもない全力での当身に次いで即座に肩に両腕が周り背中もしっかりと抱きこまれて、口から出せたのは落ち着いてほしい、という制止ではなく、ぐえ、という潰れた声ひとつだった。
 ぎし、と背骨が軋む音が聞こえる。コウハの剛力は男女問わずであって、つまりはそういうことである。
「二ヶ月ぶりだわすぐこっち行っちゃうんだもの怪我してない大丈夫!? ちゃんと元気にしてた!? 父さんはともかく母さんまで急に王都にって行っちゃうし心配したのよもうううううううう!!!!」
 言葉とともに順調に肺が潰れていくとともに口も鼻も旅装に埋れて的確に窒息に向かって進んでいく。唯一動かせる肘から下で彼女の背中の届く範囲を軽く叩く。締め付ける力が増して平衡感覚が一瞬消えかけた。なおも何かを言い募る声が遠くなって、そこでようやく父の手が触れて割って入る。
「怪我も病気もしてないんだから窒息さすなミア」
 わずかに力が緩んだのを見計らってなんとか顔を上げて息継ぎする。思わず空気に喘いだのが聞こえてなのか両腕が背から離れて肩に触れて、その間に咳き込んだ。上から更に声。
「あ、あっ、だ、大丈夫!? ごめんなさいクロウィルちょっと力加減がおかしくなって、つ、つぶれてたりしない? 大丈夫!?」
「だいじょうぶ……」
 咳き込みながらなんとか応える。相変わらずというか、袖で口を押さえながら見上げれば朱木、木の幹の色をした髪を丁寧に結って帽子を被った人。
「久しぶり、姉さん……」
「ご、ごめんねクロウィル、ちょっと感極まっちゃって」
「村でも会ったのに」
「だって半月くらいでいなくなっちゃうんだもの! 私なんか三年も待ったのにいいいい!!」
 再びガッと音を立てて抱き付かれる。今度は気道が確保されていたので大人しく抱き返した。人垣を割ってあとの二人が見えて、その両方共が苦笑しているのには遠い目になった。片方、同じ濃い茶の髪に青い瞳の兄が手を伸ばしてきて花冠を器用に避けて頭が撫でられる。
「久しぶり、クロウィル。父さんに引き抜かれたって?」
「父さんってより、団長。兄さんも久しぶり、御用達の門下だって王様に言っちゃった」
「う。なんで方々の国王と知り合いなんだ……母さん」
「連れ歩いた先がたまたま方々の国王が多い場だっただけのこと」
「それがおかしいんだけど……まあ今更か。ミア、警戒されてるぞ」
「はっ」
 姉がようやくそれで顔を上げて二度目解放される。バツの悪そうに指を絡めて視線を泳がせる姉は一旦放っておいて振り返れば、所在無さげにこちらの様子を伺っている幼馴染と、その陰に完全に隠れてしまっているらしいエフェレツィスの白い衣装の裾が見えた。ああまあそりゃ警戒するよな、元々人見知りだし、とは思いつつ先に幼馴染に二人を示した。
「兄さんと、姉さん。村で暮らしてるから会ったことない……よな?」
「う、うん。お二人とも初めまして、紫旗でクロウィルと、子弟として訓練を共にしております、ラシエナ・リジェル・ディア=アイラーンです」
「フィヴクト=フィオン=フィオ・テス=コウハだ。これが妹のエルメア=フィオン=コウハ。クロウィルの兄と、姉にあたる、こちらこそ初めまして、母さんがああだから何かとあるかもしれないけど、宜しく」
「はい。で、えっと、」
 たぶんもう母に聞いていたのだろう、驚きもしていない兄の様子には、こちらの方が母親似だと思う、と何度目か思いつつ、ラシエナが完全に陰に身体を隠してしまっているエフェレツィスの様子を伺うのには苦笑した。少し開いた距離を詰めて覗き込めば、ラシエナの白い衣装を強く握りしめたまま硬直してしまっている紅青。父と母はどうやら傍観に決めたらしい、少しは止めてくれてもいいのにと思いつつ瞬きもできていない頬をつついた。
「フェル、大丈夫だから」
 声をかければ、ぎこちなくこちらを見上げてくる。それから幼馴染を盾にしつつ二人がいる方に目を向けて、それからもう一度こちらを見る。紅が怯えている様子なのが見えて、無理矢理引き出すのもな、と考えあぐねていると、兄の声が控えめに飛んできた。
「事情は聞いたけど、その子か?」
「あ、うん。人見知り強くて」
「仕方ない、ミアが暴走したからな」
「に、兄さんだってわりとわくわくしてたじゃない、会えるの久々だって、しかも妹が増えてって」
「態度に出しすぎなんだ、お前は。身内でも若干ヒくぞ?」
 会話が二人でのやり取りになったのを聞いてか、びくつきつつも青銀が揺れてその二人の方を垣間見る。声を荒げないでも静かにやりあっている二人の様子を見、三度目見上げてくるのに手を差し出せば、幼馴染の白衣を握っていた両手が離れてゆっくり握ってくれる。片手が衣装を握りつつも陰から出てきてくれるのを待って、それから兄姉の方を見れば、二人ともその場で膝をついてしゃがんでいた。さほど間合いが離れているわけでもないから目の高さを落としてくれるのは有難い。半身出てきて再び固まってしまった様子にこれ以上は無理かと察して口を開いた。
「エフェレツィス。ちょっと面倒に巻き込まれて保護されて、それで一緒に紫旗にいる子」
「妹だろ?」
「うん。ああ、刷り込みとかじゃなくて」
「疑うかって。こっち来……い、ってのは、流石に無茶か」
「兄さん顔怖いものー」
 にやにやと言った姉の側頭部に兄の肘が突き刺さる。すごい音がしたが大丈夫だろうか。コウハの骨もヒトに較べれば硬いらしいが、流石に小さい岩同士がぶつかった時のような音がするとびっくりする。手を握ってくれたエフェレツィスも肩を跳ねたらしいのが伝わってきた。見下ろせばやはり困ったような怯えたような表情。
「大丈夫、仲は良いから」
「……クロ、の……」
「うん?」
「…………」
 何かを言いかけて、そのまま口を噤んでしまう。心配ないよ、と顔を覗き込んだ幼馴染にも答えないで二人の方を見つめているようだった。目をやれば兄姉も難しそうな顔をしていて、ちらとこちらを見やった兄と眼が合う。数秒そのまま噛み合って、そしてよし、と呟いた兄が立ち上がる。旅装、分厚い毛皮のコートの留め具を外して袖を抜き始める。
「ミア、ちょっと持ってろ」
「あっずるい、毎回兄さんが先」
「長男特権」
「ずっるぅーー」
 言い合いながら続けて立ち上がった姉が兄のコートを受け取って、兄は上衣姿のそのままこちらへと足を進めて近付いてくる。なんだ、と思っているうちに自分より頭三つは高い背が屈んで、持ち上がった時には青銀がその腕の中に抱え上げられていた。
「えっ」
「うん? 随分軽いな。よしよし、怖がらんでもクロウィル取ったりしないから安心しろ」
「えっ?」
 言う兄が自分の肩に青銀を寄りかからせるようにしながら後ろ頭を多少乱雑に撫でて、その言葉にはこちらの肩が跳ねた。思わず幼馴染を見れば知ってた、と言わんばかりの顔。
「うん……言えたことじゃないけどクロって結構鈍感だよね」
「はっ!?」
「うちの家系の男ってみんな鈍感なのよねー。兄さんのこれは経験則だけど」
「言ってやるなよミア」
「父さんだって鈍いじゃない」
「なんだと」
「いや父さんは鈍いだろ確実に……なあ母さん」
「さて」
 振られた先、母が目を伏して口元を扇で覆い隠す。自分はただ何もわからずに声を上げる人を上がった順に見上げるしかなかった。最後に兄に戻せば、青銀をあやすように撫でているその手が止まって、こちらに向かって来たと思った瞬間に額を強かに弾かれた。
「い、ッ!?」
「察しろ。いや察せてないからこれなんだがそれでも察しろ」
「なっ、なにを……!?」
 弾かれた額を両手で押さえて蹲りたくなるのを必死に押さえつつ声が漏れる。なんだこれは。横から幼馴染の慰めるような調子で肩を叩く手があってなおさら追い詰められる心地がする。本当に一体何がと色違いを見ればあからさまに憐れむような悟ったような眼。
「……あ、や、でもクロずっと一人っ子みたいなもんだったもんね……」
「え、なん、いやそうだけど……」
 それでどうしてこの流れに。というかエフェレツィスは、と見上げ直せばまた手が見えて思いっきり後退る。兄はまったく、と呟きながらその手で青銀の頭を撫でにかかる。姉がそこを覗き込んで、苦笑しながら手を伸ばす。頬を撫でているようだった。
「あああ、ほら、そんなじゃ冷えちゃうわよ。気にしなくて良いのよー、母さんが決めたんならエフェレツィスだって私たちの妹よ?」
「よしよし、大丈夫だから泣くな泣くな。いきなり姉さんまで増えてびっくりしたな。……ミアが暴走するから」
「うっ、わ、悪かったわ……で、でも、そうよね、ずっと二人っきりだったのに、いきなり出て来ても怖いだけよね。その上クロウィルが鈍いから」
「お、俺のせい……!?」
「五割くらいはな。……なんだ、まだ分からないのか?」
 言葉に詰まる。見合ったままぐ、と押し黙ったままでいれば、エフェレツィスに花冠が崩れてしまわないように注意深く毛皮の外套を被せて纏わせた姉が、何かを言ったらしい紅青に心配することないわ、と笑いかけている。幼馴染がふうと息をついてこちらを見るのがわかった。
「自分は貰われっ子で、引き取ってくれたところに懐いた兄弟がいても、その兄弟の実の兄やら実の姉やら出てきたら、取られるかも、とか、捨てられるかも、って、思う子多いんだよ?」
「――えっ」
「エフェレツィスは、お母様もいるし……あんまり会えなくなるかもとか、そういう不安。本当の兄弟じゃないから、って。兄弟っていつも兄弟でやってるでしょ、遊びにしろなんにしても。だから、お兄さんとお姉さんが来て、取られたり一緒に居られなくなるかもって、たぶん」
「えっ……ええ……?」
 なんでそうなるんだ。兄やら姉やら、人柄にもよるが増える自体は良いことなのでは。二人と抱えられた一人の方に目を向ければ、兄の肩越しに姉が紅青と額を付き合わせて笑っている。父と母の方を見ればあちらはあちらで何か話し合っている様子でこちらに視線は向かない。仕方なく兄に目を戻せば視線が噛み合って、またも言葉に詰まると同時にその兄が動いた。
「そら、泣き止んだら良い子だ。クロ兄のところ行きな」
 白衣の紅青が兄の足元に降ろされて、背中を押されるまでもなく一目散に白い衣装が走って来て脚にぶつかって抱き締められる。花冠を崩してしまわないように頭を撫でて伺えば、紅の目元は薄っすらと赤らんで瞳は濡れている。見上げて来た紅青は、だが何かを言いかけて兄姉の方を見、二人が頑張れ、と小声と大袈裟な仕草でやっている。一体何がどうしてこうなった。紅青をもう一度見下ろせば、二人の様子にあわあわしているのが見え、だが恐れや怯えは和らいでいるように見える。それからこちらを見上げた紅青が、小さく一歩距離を空け、握っていた両手を伸ばしながら口を動かすのが見えた。
「クロに、い」
 ――まともな反応が出来るはずもなく。気付いたら抱き上げて抱き締めていた。兄姉の眼とかラシエナがいるのにとかそういうのも全部まるっきり無視をした。そんなものにかかずらっている場合じゃない。豪快に笑いながら背中を叩く兄の手。
「これでわかったろ、なあ」
「うっせ……」
「エフェレツィスも。フィヴ兄とか、ミア姉って呼んで良いのよ? ちゃんと全員で四人兄妹だもの」
「ミアね……」
「ん〜〜んんんかわいい……!! ぷわぷわでふくふくでかわいいって最強よ……!! 最強の妹よ兄さん……!!」
「舌ったらずとか点数高いよな」
「えっなんの点数……!?」
 暴走しがちの姉と真顔で妙なことを口走る兄にラシエナが丁寧に反応しているのが聞こえたがこっちは完全にフェルリナードを抱き締めて顔まで伏せてしまったから様子は全く見えなかった。
「クロ……?」
「……ん。大丈夫」
 顔を上げる。不安そうな紅に笑って、抱き上げたままの額に自分の額を当てる。
「怖くないか」
「へいき、あったかかった、から。……フィヴに、の、かっこう、クロにとにてる」
「コウハのだからかな。エナとか、紫旗のみんなとも結構違うだろ?」
「うん」
 花冠が落ちそうになってしまっているのに気付いて直して、青銀が少し乱れてしまっているのも指で直す。ラシエナが苦笑しつつ手伝ってくれるのに礼を向けて、大方大丈夫そうに見えてから赤らんでいる目元を拭ってやる。横から兄の手が伸びて来て頬を軽く摘まれた。
「よっし、じゃあ行くか。母さん、見ておくから」
「頼みました、フィヴクト、エルメア。クロウィル、エフェレツィス、お父様と母は方々に届け物をして参ります。日の出の後になら眠っても構いません、その時は紫旗に」
「わかった」
「フィメル、なん、にちか、いる?」
「ええ、しばらくは。フィヴクトもエルメアも居ります、長期こちらで学びたいと言いますから」
「門下って言っても村に閉じこもってちゃ腕上がらないからな。こっちの方が色々盗みやすい。ラシエナのお嬢さんはどうする、大事な時なんだろ、一旦屋敷戻るか?」
「いえ、やれることはやってきちゃってるので、今日は昼前までは。あと、私のことは呼び捨てでお願いします、フィメル様のご家族ならって母も言うでしょうし」
「そうか? 悪いな、よし、じゃあ屋台巡りすっか」
「あっそうだ母さん、お財布私のから出しちゃうわね、兄さん素寒貧だから」
「あっこらミア!」
「……フィヴクト、四日の朝に話を聞きましょう。エルメア、頼みましたよ」
「はあーい」
 両手で顔を覆った兄の横でにやにやと笑う姉が母に応える。幼馴染と目が合えば、たぶんぼったくりに遭った、とだけ言っておく。この兄は、ばっさりとした性格やら物言いやら母に似ている部分は多いのだが、天性のものだろう、商売に全く向いていないどころか消費者としても不得手を貫き通している。市場でも値切りできないもんなあこの人と思いつつ見上げればばつの悪い表情を浮かべてそっぽを向いてしまった。
 じゃあ後でな、と父が言い、父と母の二人が人垣の中に消える。一同で見送って、それからさて、と声を上げたは姉の方。腰に手を当て、任せろと言わんばかりに胸に手を当てて見せた。
「だらしない兄さんはほっといて、今日はお姉さんが奢るわ! 神殿行ってたならその間飲まず食わずでお腹空いたでしょ、とりあえず何か食べるものと、折角だからファヴァンサ探しましょ!」



 もくもくと串刺しにされたキノコのフリットを口に運んでいるエフェレツィスを膝にして、一息の言葉通りに身体から力を抜いて息を吐き出した。それに見上げて来た紅を見下ろして眉尻を下げる。
「ちょっと疲れたな」
「ん。……ひと、たくさん」
「昼越えたらって聞いたけど、ちょうど寝てる頃だしねえ」
 ガシャ芋のフライとベーコンの刻み焼きに溶かしたチーズを掛けたシャットロットに串を刺しながらのラシエナが、どことなくほけほけと和やかな空気を纏っている。案外庶民っぽいものを好むらしいこの幼馴染もさすがに眠気に耐えかねて来たんだろうな、とその様子を見て思いつつ、テーブルの上から貸し出しの木のコップを持ち上げた。一度どこかで飲み物を買うとこのコップで渡されて、あとはどこの店でもこれと代金を出せば注いでくれるらしい。帰るときにどこかの屋台に返しておけば良いと聞いた。合理的だ。
 篝火から少し離れた屋台と屋台の間に休憩所として設けられた椅子とテーブルの揃いに腰掛けて、というところである。そういえば夕食抜いたんだった、と自分とラシエナが呟いて、兄と姉が目を剥いてすっ飛んで行った、がより正しいか。エフェレツィスも空腹を覚えていたらしい、今ももう二人がすっ飛んで行く前に買い与えられたフリットの串に集中している。胸焼けしたりしないだろうか、揚げ物を与えるのはまだ二回目なような。
「屋台って結構安いんだな……」
「ん、お祭りの間は子供のお小遣いでもお腹いっぱいになれるように、って、ほとんどは値段の一番上が決まってるの」
「そうなんだ?」
「そうだよー。お屋敷とかでも、お祭りの間は使用人もみんなお祭りに行って、料理とかできないから。お祭りに合わせて王都に来る貴族とか多いけど、みんな屋台ご飯」 「全然そんな気しないけどな……」
「気にする人は年を越える前に作り貯めておいてもらって、それ食べるって。でもあったかいご飯の方が良いよねぇ」
「だなあ。寝るなよ?」
「すっごいねむい」
「そんな爽やかな笑顔で言われても」
 やっぱりそうだったか。コップの中のかぼちゃスープを少しずつ減らしつつ人垣の方を見れば、屋台を巡り巡っている人、出し物に興じている子供の一群も見える。本番は日の出からだ、と聞いていたが、これ以上に人が増えるのだろうか。というよりこんなに人の多い都市だったのか王都。キレナシシャスは確かに大国だが、王都と四樹の都市、四大公爵直轄地の九都市にそれぞれ人口が分散している印象だった。というよりもその九都市も十分以上に人が集まっているように見えたのだ。朝市だけでなく商工街がきちんとあって、店が並ぶ通りがあって。
 もしかしたら街が小さいんじゃなかろうか。人垣に目を向けながら思っている間にその中に見たことのある色が見えた気がして視線が追いかける。水色の瞳に桃色の髪、紫の花冠と衣装。
 見なかったことにしよう――というか出てこれたのかあの人。王宮の中でも宴があるとかなんとか言っていたのに。思って、そういえばと時計を取り出して蓋を開けば七時を越えていた。エフェレツィスと兄姉の初遭遇に結構な時間を使ったのか、それともこのテーブルを見つけるまでの間に寄ったいくつかの屋台で思った以上に時間が過ぎていたのか。日の出まであと少しだろうかと空を見上げれば、住居の屋根に隠されてとても地平線までは見通せない空も、どうやら東の側は藍色が薄れて白が滲んでいる。テーブルの中央に設置された皿、これはどうやら持ち出しが起こらないようにテーブルにしっかりと据え付けられていたものだが、そこに綺麗になった串を置いたエフェレツィスがはふ、と音を立てて背中を預けて来るのには視線を落として問いかけた。
「どうだった?」
「……ちょっと、にがい……?」
「キノコは別のとは違う味するよな。どんな、ってなかなか言葉にはできないけど」
「えぐみ? 好き嫌い出るよね、あのちょっと変なの。私はキノコ類好きだなあ。すっごい分厚いキノコあるの、クロ知ってる?」
「分厚……ああ、ガムシェル・ディトかな、あの、ステーキにするやつ」
「そうそう」
 南国の方で採れるキノコだ。『大陸最大のキノコ』とも言われ、その名の通りのガムシェル・ディトと呼ばれるもの。子供がやっとひと抱えできるかという柄に、大人五人が手を繋いで円を作ったような巨大な傘に。商人にとっては「荷車を圧迫しまくる難敵菌糸類」だ。天日で乾かしてもやはり子供一人分くらいの質量は残ってしまう。結果としてガムシェル・ディト専用運送業が成り立っているくらいだ。
 食用としては、季節を問わず森にぽつぽつと生えているため生産費用がかからない、乾かしておけば長期間の保存が可能、水で戻せば元通り、四人の家庭の半月の食卓をも賄える程の凶悪な量等、非常に優秀だとして保存食に好まれる。当然切って乾燥させたものしか出回らないため実物のこれでもかという凶暴なまでの威圧感を知る人は少ない。
「水で戻して一回油通しして、一日タレに漬け込んでゆっくり焼くと、脂っ気の少ない淡白な味がしておいしんだよねえ。あれは苦手な人少なそうじゃない?」
「かもなあ、キノコって森の肉だし。……なんでエナそんな詳しいんだ?」
「えへ……一時期お母様に黙って厨房に入り浸ってて、そのとき厨房長に教えてもらったんだ。クッキーとかスコーンとか、まだ全部一人では難しいけど」
「よく入れたな」
「厨房長が優しい人でねー。見せてもらったり手伝わせてもらったり」
「へえ……ああ、じゃあ朝の準備慣れてるのもそのおかげ?」
「だと思う。うん、私よりも上の子でも、そこそこ良い以上の家の子だと、子供は包丁とか見たことないと思う。ナイフとか、あと切られてない生野菜を見たことない子とか、結構いるんじゃないかな?」
「……フェルももうちょっとしっかりして来たら厨房手伝おうな」
「? おりょうり?」
「ファリマのお手伝い。ごはんはいっつもファリマたちが作ってくれてるからねー、今すぐは難しいけど、そのうちね」
 シャットロットを串に刺して、言うラシエナが紅青の口元にそれを差し出す。すぐに口を開いて迎えたエフェレツィスは、もくもくと小さいそれを咀嚼して嚥下して、それからぱ、と顔を上げた。
「しょっぱい……あまい? 濃い、のが、する」
「ん。チーズかな?」
 一本の串を器用に操ってチーズを絡め取って、それが再びエフェレツィスの口の中に消える。すぐにこくこくと頷いて、飲み込んですぐに声。
「これ。おいしい」
「溶けたチーズはひとしおだねえ」
「チーズ」
「うん。これは……ラクレットチーズかな? チーズにも色んな種類あるから、機会があったら試してみよっか」
「たくさん?」
「それはもう。チーズは色んなものに合わせられるから。専用料理とかもあるし。だから全部制覇するのは時間かかるかもなあ」
 言いながらラシエナの眼がこちらに向いて、追いかけて紅が見上げて来るのには早々に白旗を揚げた。とりあえず主な品種から探すなりしてくるか。あんまりゲテモノ臭のしないものに特定して。カヴァンカサッハとか絶対に食べさせられない、食べる人がいないのに何故今も生産されているのだろうかあのチーズ。母が言っていた奇声をあげるチーズとやらは記憶の底からほじくり返して捨てておきたい。フェルリナードが覚えていませんように。
「……クロに?」
「ああ、いや、ちょっと黄昏てた」
 そうやら妹は「にい」や「ねえ」という発音はまだ難しいらしい。自分はそう呼んでくれるのは嬉しくてたまらないが、この様子を見られたら団員たちには色々言われまくるだろうなぁ、と、傾けたコップの中を干してしまう。
 ――自慢してやるか。色々と偶然に偶然が重なり多数の画策が挫かれた結果の現状だが、得られた権利身分はそのおかげで盤石に見える。少しくらい自分の幸運を大手振って宣伝しても許されるだろう、きっと。




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