吹雪の音に紛れて馬の嘶きが聞こえたように思えて、クロウィルは顔を上げた。気付いたラシエナがそれを見やって、そして首を傾げる。
「どした?」
「……団長達かな。帰って来たみたいだ」
「あれ、早い」
「な、五日かかるかもとか言ってたのに」
 ぱた、と音を立ててラシエナの手からペンが離れ、白い紙の上に転がる。窓の外の真っ暗な様子に目を向けていたクロウィルがその音でそちらを見やれば、幼馴染は椅子の背凭れに全身を預けて天井を仰いでいた。小さく笑う。
「エナ、外国語苦手だよな」
「苦手ーすっごく苦手。クロはすごいなぁこんなのできて、こんなたくさん覚えられてて」
「実際に使ってるだけ。母さんがすごく上手だし、その言葉使ってる人のところにいたし」
「こんがらがったり、しない?」
「する。すごーくする」
 向いた眼には真面目な顔を作って答え、そして二人で笑い合う。本の見開きに向き直ったラシエナに対して、クロウィルは一度椅子から立ち上がって窓の方に駆け寄った。少し高い位置にあるそれを、背伸びして外を見やる。
 雪は真白く降ってはいるが、風は止んでいた。勢いも随分緩んでいて庭の様子もよく分かる。騎乗した数人の姿、何人かが慌てた様子で馬から飛び降りる様子に眼を瞬かせる。馬房にも寄らないで屋敷の中へと入ってくるそれを見てすぐにテーブルへと駆け戻った。
「急ぎみたいだ」
「あ、じゃあ片付けちゃおうか。端の方置いといたら良いかな」
 この広い屋敷の中でも特に広い、丸テーブルとそれを囲む椅子が幾つも置かれた、大広間という名に相応しい場所。これでもここを本拠地にする人員をようやく収められるといった程度しかなくて、出入りが黙認された子供達は、二人でその端を間借りするので精一杯だ。それに不満があるわけでもないしと、二人揃って本を閉じて紙を箱の中に仕舞い、ペンとインク瓶とを揃えてその横に据えておく。テーブルから落ちてしまえば割れるか溢れるかだろうから、引っかかったりしないようにと配置しているうちに、ざわざわとしたどこか騒がしい音が屋敷の中に入って来て近づいてくるのが分かった。
 紫旗の本部は、王宮の北にある。正しくは王宮の囲いの外の大邸宅を本拠地として改装したものがそうで、その屋敷の一部が王宮内の離れの詰所に繋がっている。だから実際は同じ屋敷の中のようなもので、子供達には出入りを禁止された一室がある、という感覚だった。
 その部屋の方まで騒がしく感じるのは何故だろうと首を傾げたところで大広間の扉が開く。入って来たのは団長で、腕に何かを抱きかかえているようだった。
「団長おかえり、早かったね?」
「ああ、ただいま。起きてたか、もう遅いだろ」
「冬だし日の入り早いだけだよ」
 ドレスを翻して駆け寄っていくラシエナも、しかし怪訝そうな表情が首を傾ける仕草にも表れていた。団長、クォルクは暖炉のすぐ近くの椅子を引いて一番暖かい場所に据えて、その座面に抱えていたものを注意深く降ろす。明るい暖炉の火に照らされてそれがようやく藍色のクロークだと分かって、何かと思っている間に彼が床に膝をついてその包みを覗き込むのが見えた。
「……団長?」
「……ラシエナ、クロウィルもちょっとこっち来い、お前らにも伝えておかないといけない事出来たからな」
 言いながら紫色の瞳が二人の子供を見やって、言葉と共に手招かれる。何かと思いながら歩を進めて近付いて、すぐ近くで立ち止まる。椅子は背を向いていて、何が据えられているかは分からない。
「守秘義務、って分かるな?」
「絶対に他人に言ったらいけない事」
「暫くの間お前らにもそれ守ってもらう事になる。出入り禁止にしても良いんだが、急にじゃ勘繰られるからな。良いか?」
「……良い、というか……」
 言い淀んだ緑紅が青翠を見やれば、少年は眉根を寄せていた。少しの間、そして憮然とした声が応えた。
「それって、こっちに選ぶ権利無いよな」
「まあな、嫌だっつったらいくら公爵の娘でも地下送りだな」
 うわ、と呻いた少女が数歩足を引いて少年を盾に隠れようとするのを見て、クォルクは苦笑する。不可抗力でも急は急だから、反発はされてもおかしくない。それでもと返事を待っていれば、不安そうな少女と不満そうな少年の間で何度か目配せがあって、それから頷き合うのが見えた。ラシエナが両手を握り合わせながら、今度は明確な声を上げる。
「守るよ、ちゃんと。追い出されるの嫌だし、紫旗の迷惑にはならないようにする」
「というか、それ駄目だったら最初から出入りしたら駄目なんじゃないかって思うんだけど」
「まあ、確かにな」
 素直が一人に捻くれが一人、と脳裏に浮かべておきながら、にしりと笑って返す。紫旗に慣れ親しんだ二人だから、この屋敷の中の口約束がどれほど重要なものなのかもよく知っている。なら、と、クォルクは椅子の上のそれに手を伸ばした。
「暫くとは言ったがいつまでになるかはわからん。……『この子』が此処に居る事は、この屋敷の外では一切喋るな。家族にも、王族相手でもだ」
 できるか、と、念を押す事はしなかった。その代わりに、疑念を大きく膨らませた二人に見えるように、クロークの覆いを慎重に剥がしていく。
 銀が見えた瞬間に息を呑む音がした。一瞥もくれず、クォルクは開かれていた紫に、小さく安堵を漏らした。頬に触れれば、冷たい全身が微かに震える。
「起きてたか。すぐにあったかくしてやるから、少し待ってろな」
 声に『紫銀』は視線を上げて、そして音も無く俯いて身体を縮こまらせていく。



 暖炉の前には絨毯が何枚も重ねて敷かれて、その上に毛布を肩から掛けた背中が見えた。ユゼが音を立てないように、それでもわかりやすく距離を縮めれば、その背中が動いて、翠が振り返った。
「父さん」
「おう」
 声量を控えた呼びかけに、そのすぐ横に膝をつく。そうしてからユゼは紅の眼を向けて問いかけた。
「どうだ、その子は」
「寝てる。……しばらくずっと泣いてたんだけど、泣き疲れかな」
 翠瞳の子供の腕の中には銀色が収まっていた。そちらにも肩から毛布が掛けられていて、ずり落ちてしまわないようにと片手が押さえていた。
 『紫銀』は紫旗達が何を何度問い掛けても何も答えなかった。言葉を理解するに幼すぎるというようには見えない、一人で支えも無く立ち上がって危なげなく歩く事も出来る。だが何故一言も漏らさないのかと怪訝に思った、その空気を察知したかのように泣き始めてしまったのが二時間ほど前の事で、それをイースがあやして落ち着かせ、団員達が報告や再度の調査に散ってからは子供二人が『紫銀』を預かっていた。
「……よーするにさ」
「うん?」
「俺らに子守りさせたくてだよな、皆が居ない間の。守秘義務とか言うけど」
「うん、そう。人手不足でなあ、これを知っても問題無くて本部にいつも居座ってられる、ってのが居ないんだよ」
「俺らまだ八だぞ」
「出来んだろ? ……ラシエナは寝ちまったか」
 ユゼが言えば、翠は横を見下ろす。絨毯の上に金の長い三つ編みが転がっていて、その色の持ち主は絨毯の上に転がって丸くなっていた。丁寧に毛布が掛けてあるあたり、八の子供でもある程度は問題もなさそうに思えると、ユゼはわざと楽観して様子を見ていた。
「疲れてたみたいだ、昨日東から来たばっかりって言ってたし……父さんは、大丈夫? 王宮行ってたんじゃ疲れてるんじゃないの」
「多少はな」
 手を伸ばして青い頭をぐしゃくしゃに撫でる。されるがままになりながら眼を細める表情には苦笑して、そうしてからユゼは大きく息をついた。
「……あんま話も出来てなかったからな。どうだった」
「唐突だよなぁ。……楽しかった、かな」
 クロウィルは頭に乗ったままの手を振り払いもせずに、言葉の通り唐突な問いにも素直に答える。先を促す沈黙にもすぐに気付いて、それで腕の中の銀を撫でながら言葉を探した。
「……商人、良いかも、って」
「……そうか。きつくはなかったか?」
「大変ではあったかな、母さんにくっついてただけだったけど。コウハの装具ならどこに行っても通用するし、それも良いかもしんない」
「母さんなら来年からまた出るっつってたな、今度は東南だそうだが。ついてくか?」
「んー……」
 迷うような声音の揺れ。もう一度頭を掻き混ぜる感触に顔を上げて見上げれば、紅青は笑っていた。
「まあ追々な、そこらは。俺はどっちでも構わんし、どっちかにしろとも言わん」
「ちょっとは言ってくれた方が決めやすいんだけど……」
「それこそ八の子供には早い。村に入るにしても、母さんの方に行くんでも、十八でも遅すぎるって事は無いしな。お前の事だ、俺が決めることじゃあない」
 クロウィルは二度瞬いて、元の通りに銀を抱きかかえながら沈黙した。ぽんぽんと叩いてから、ユゼは膝を押して立ち上がった。
「少ししたらイースかレティシャか戻ってくるから、したら交代して寝ろよ」
「わかった、二人以外には渡さないようにする。……父さんも」
「色々あんだよ、心配すんな」
 行ってから踵を返す。そのまま広間の扉を潜って何処かへか行ってしまうのを見送って、それでクロウィルは暖炉に眼を戻しながら息を吐き出した。
 まだ少し緊張する、とは、声に出さないで呟いた。横をちらと見て幼馴染が変わらず眠ったままなのを確認して、それから暖炉の火をなんとなく眺めに戻る。手は、ずっとゆっくりと銀を撫でていた。『紫銀』は眼を覚まさない。すっかり深く寝入っているようだった。疲れてしまっているのか、安心してくれているのかもわからない。
 三年か、と、頭の中で勘定する。五歳になる少し前に、初めて会った母親にそのまま連れられて村を出て、三年間一度も帰らずに母親の行商について回って、その間に読み書きも計算も言葉も知識も、時間があれば山程詰め込まれた。その生活が終わってからもう半年も経ったのに、三年間声も聞かなかった父親と話すのに、どうしてもまだ他人行儀が抜けないところがある。そう自分で思う。まだクォルク団長の方が、気の良いおじさんのようで顔をあわせるのに負担が無い。
 思っていると、不意に腕の中の銀が動いたような気がして、それで意識が引き戻される。起きたわけではないらしい、寝返りかと息をついた。紫色の瞳がしっかりと見えたのは少しだけで、あとは泣いて濡れてしまっているか、こうして眠ってしまっているかだった。
「……なんで一人だったんだろうな」
 いつの間にか止まっていた自分の手を再び動かしながら、呟く。そうだと聞いた、一人で森の奥に取り残されていたと誰かが誰かに話しているのが聞こえた。凍えないように結界が周囲には張り巡らされて、鞄の中にはほんの少しのパンと水筒とが残っていて、それだけが側に置かれていた、と。
 銀にも金にも聞こえてはいないだろうから、語りかけるような声音も結局は独り言だった。もしかすればと脳裏を掠めた思い付きは、そのまま思考の奥底に封じ込めた。きっとあの父親は、そんな事はしない。
「帰るところ、あるといいな……」
 触れる銀髪は艶やかで、拉致されて売られたようには思えない。『紫銀』を捨てるような親がいるとも思えない。父が、副団長が団長と揃って王宮に行ったのであればそこで会ったのだろう人も限られる、だからこの先親が見つからなければ、きっとそうなるのだろうとも予想が付く。歴代の紫銀も多くがそうだったと、母が語ってくれた歴史は、どの歴史書にも否定されてはいなかった。
 ――そのまましばらく、火だけを見詰めて銀を撫で続けている間に、藍色の衣装が何人か立ち寄って、『紫銀』の様子を見て、少し話して立ち去っていく。やはり紫旗の団員達も気になるのかと思いながら、二人目にディストが来てラシエナを部屋に運んでくれて、七人目にレティシャが来た頃には眠気との睨み合いが始まっていた。
「ごめんなさいね、長引いてしまって」
 覗き込むようにした彼女の茶色の三つ編みが入り込んできて、それで声に気付いた。銀を離してしまわないように抱えながら、見上げれば金色の眼。
「ん、……一旦、終わった……?」
「ええ、有難うね。後は私が見ておくから、寝んで頂戴な、明日も見てもらうんでしょう?」
「明日……ん、でも、大変そうだし」
「そうじゃなくても眠そうだもの」
 頬を突かれて、そんなにだろうかとぼんやり思う。レティシャが腕の中から銀色を丁寧に素早く攫っていくのには素直に明け渡して、自分の肩に掛かった毛布を両手で寄せて身体に巻き付けた。
「……あ、のさ……」
「駄目よ、ちゃんと寝台で寝ないと、折角寝てもちゃんと疲れが取れないもの」
 言う前に言われてしまって言葉に詰まる。これではここに居座れないかと観念して、それでクロウィルは立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、クロウィル」
 どうして『紫銀』を、どこか眠るのに適した部屋に連れて行かないのかと、ふとそんな事が気に掛かっても、なんとなくそれを彼女に問い掛けるのは気が引けた。だから毛布を肩から下ろしてそこに畳んで置いて、そのまま自分の部屋に向かう。
 子供が使う部屋は、間借りも同然だから小さなもので、寝台と机、本棚が一つと衣装棚が一つきりしか入らない。それでも粗末とは言い難いしっかりと暖かい寝台に夜着に着替えて潜り込んで、すぐに眼を瞑る。何も考えないようにして、そのまま寝入ってしまえるようにゆったりと呼吸を繰り返す。
 それでも眠れたのは、それからずっと経っての事だった。




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