悪夢の一つや二つくらい、どんな人でもあるだろうし、見るだろう。
 それでも自分は一つしかなかった。草叢の中、蠢くそれを指差して、自分は兄と姉に向かって言った。
「へびがいる」
 脚に鋭い痛みを覚えたのはすぐ後で、そのあとは、よく分からない。
 気付けば父に抑え込まれて暴れていたし、どうして自分の体がそうなるのかも分からなかった。
 それでもその後に残った恐怖は、簡単に拭えるものではなかった。三年、三年かかってようやく、その姿を見ても錯乱することは無くなって。
 ――それでも『黒い蛇』は、駄目だった。克服などできていなかった。どうしても、抑えきれなかった。
 『妹』は、――『フェル』は、怖いと、思ったのだろうか。



 ただいま、と、躊躇いながら広間を覗き込んで言えば、一番に振り返ったのは幼馴染だった。
「クロ! 大丈夫だったの!?」
「ちょっと、風邪引いてたけど、ちゃんと寝たら治ったから平気」
「まーだ病み上がりだ、意地張んな」
 駆け寄って来たラシエナの良かった、という声と、後ろから頭を小突かれながらの父の声。手が勝手に服の襟を引き上げているうちに、駆け寄ってくる足音が聞こえて視線を落とせばフードを被った銀色。
 先んじてその場にしゃがむように膝をつけば、それなりの強さで飛びかかってくるかのように両腕が首に回される。両手で抱いてやって、苦笑した。
「ただいま」
「おかえり、なさい」
 目を瞬く。少し遠くの方に見える金色を見やれば、さも当然だというような視線が帰ってくる。夕食はもう終えている時間だ、最後の勉強中だったかと『小さいの』を抱き上げてそちらに運べば、長い髪を括りも編みもしないまま垂らしたヴァルディアが椅子を示す。座るといい、という言葉と同時のそれにありがたく腰を下せば、『小さいの』は膝に横座りしたまま胸元に抱きつき直してくる。右手で背を支えて左手で銀を撫でれば、横に座ったヴァルディアが肩から落ちてきた髪を面倒そうに払いながら口を開いた。
「ずっとうるさかった」
「え?」
「ひとり足りない、と。よほど気に入られているらしいな」
 おかげで会話も出来てきているが、と紅茶を傾けながらのそれには銀色を見下ろす。フードが背中に落ちてしまっているのに苦笑して、それを元通りにかぶせ直してやれば、それで気付いたのか手が離れていってフードを撫で付けるようにして押さえている。
「急に休みって聞いてびっくりした、もう平気なの?」
 テーブル、目の前に紅茶が差し出されて、そうしながらの幼馴染の声にはすぐに眼を上げる。あからさまに心配している、と言わんばかりの表情には頷いて返した。
「ありがと、体調は大丈夫。でもぶり返すかもって、あと何日かは訓練禁止って父さんが言うから」
「当然言うだろそりゃ。恐妻家庭舐めんな」
「……父さんほんとどうやって母さん口説いたの?」
「ほんとなんで口説けたんだろうな俺。若気の至りってすごいぞ」
 ――気になる、と思うと同時に、あまり深く立ち入らないほうがいい、と脳裏に警告が鳴る。ラシエナも聞きたいけど聞きたくない、という自身の中でせめぎ合いをしている様子が見えて遠い眼をした。彼女の母も、それなりに、それなりだ。なんせあの『グランツァ・フィメル』が生涯の友と言う程なのだから。ラシエナの母であるクライシェ夫人がアイラーン公爵家の妻でなければ、姉妹妻にでもなっていたかもしれない。
 思っているうちに、下から手が伸びて来る。頬に触れたそれが小さく冷たくなってしまっているのにすぐに眼を下ろして腕の中の顔を覗き込めば、紫はしっかりとこちらを見上げて、そして瞬く。
「……クロウィル、かぜ? て、きいた」
「うん、体調崩してた。治ったけど、まだちょっと様子見かな」
「……まだ、わからない?」
「うん」
 上達している、という感想を抱くと共に頷けば、小さな手が伸ばされて前髪のあたりを軽く押さえつけられる。不器用に動かそうとしているのを感じて撫でられているのか、と気付いて苦笑しながらフードの上から頭を撫で返す。
「大丈夫だから、心配しないでな。共通語に慣れるの早いな」
「がんばっ、た。……がんばった?」
 疑念を呈しての視線は金色に向く。魔導師の彼は表情は変えないまま手を伸ばしてフードの上から頭を軽く撫でて、そのまま膝の上の本の見開きをイースに示していて、『小さいの』は撫でられた頭を両手で押さえていた。はにかむような表情が垣間見えて微笑ましく思う、この黄金の人はそうそう「褒める」ということをしないだろうから。
「きょうつうご、できたら、たくさんはなせるって」
「うん」
「えっと……だいじょうぶ? はなせる……?」
「大丈夫。ちゃんと話せてる」
 まだ所々拙いが、ヴァルディアが来てから四日ほど経っているだろうか。もっと時間があればと思う反面、四日でここまでになったなら習得の素早さたるやというところだろう。ヴァルディアはあと三日、厳密には明後日の夜までしかここにいられない。それは純粋に、勿体無く思えた。彼本人は、そのような様子は見せていないが。挙動から判断するのは不可能だろう、母ならなんとかなったかもしれないが、自分にはまだ無理だ。
「……あ、そうだ、母さんの」
「お、っと、そうだ忘れてた」
 荷物を別のテーブルに置いていたユゼが、椅子から立ち上がって鞄の中を漁り始める。取り出したのは本が一冊、からからと音を立てる背の低い硝子の瓶。テーブルの上、すぐ目の前に置かれたそれが見やすいようにと『小さいの』を抱え直せば、テーブルの淵に両手を掛けてそれを覗き込む。
「ディアネルの土産だ。瓶のはクロウィル、こっちの本はフィメルから。フィメルのは渡すの随分遅くなって悪い、って伝言もな」
「……フィメルから、の、……?」
「お土産。遠くに出かけたりした時に、そこでしか売ってないものとか作られてないものとか、そういうのを買って帰って来て家族とか友達とかにあげるんだ。母さん、ここに来る前に一周ぐるっと回って来てるから、これなんかはこっちだと貴重品かな」
 言いながら硝子瓶を指差す。白い粒の中に蒼や桃色、黄色の粒が混ざり合っている。ユゼが瓶を持ち上げて『小さいの』の手に渡してやるのには、重さに負けて落としてしまわないかと片手を添えて『小さいの』の膝に置いてやる。傾ければからからと軽い音。首が僅かに傾くのが見えて、それには瓶の蓋をつついて示した。握り手は丸く作られていて、鮮やかな色の紐飾りが揺れている。『小さいの』がそれを握って蓋を開けて、からからと鳴るそれを覗き込んで、疑問符が浮かぶ様子が見えて小さく笑う。
「……クロウィル、の?」
「俺からの。というか、母さんにちょっと頼んで在庫から回してもらっただけだから、お土産って言うのも変だけど」
「……石……?」
「食べ物だよ。東の方の国でしか作ってないお菓子。金平糖」
 寝台に軟禁されている間、母と話し合っていて見つけたのがこれだった。甘さを控えても駄目だったなら、もともと柔らかい甘さのものを用意すればどうだろうかと。『小さいの』は甘いものを「嫌い」とは言わなかった。現にホットミルクに蜂蜜を垂らしたものは、却って好んでいる様子だったから。
「甘いお菓子だけど、パイとかミフュレとかとは違う感じの甘さだから、果物食べれるなら大丈夫だと思う」
「……また珍しいものを持って来たな」
 横から、様子を見ていたのだろう、ヴァルディアの呟きが聞こえる。確かに珍しいものだ、極東の皇国アヤカシコネでしか作られないものだから。
「親が行商人ってほんと便利……ってか、あれ、俺がディアネルの人間だって言ってたっけ?」
「いや、初耳だ。成る程な……図書館が沸いてたのはお前が原因か」
「え?」
「図書館所属の魔導師は大概が偏屈な上ほとんどが平民出だからな。『貴族院が慌てふためいて東奔西走しているのが楽しくてたまらない、仕事が手に付かない』、……と、友人が言っていた」
「……ヴァルディアさんの友人って……」
「変人ばかりだな。スィナル含め」
 本人が言うのか。思いながら膝の上に座った『小さいの』の方に眼を向け直せば、膝に抱えるようにしたそれを眼の前にして固まってしまっていた。後ろ頭しか見えないから表情は伺えないが、おそらく、ものすごく迷っているのだろう。「甘いもの」と言われて。
 ちらと見上げたユゼは腕組みしていて何も言わず、眼が合えば少しばかり笑ってみせる。それから黄金の方を見れば、『小さいの』の様子を伺ってはいるものの口出しはしない、というていを取っているようだった。結局そのまま、誰も何も言わずに待つ。
 しばらく固まったままだった『小さいの』は、やおら右手に持っていた硝子の蓋をテーブルの上に押し上げた。右手はそのまま瓶の方に戻っていって、不器用に白い一つをつまみ上げる。
「……いし、みたい……?」
「形が特徴のお菓子だな、棘みたいにごつごつしてるだろ? 噛むとちょっと硬いかも」
 言ってから、また少しの間待つ。この沈黙は観察ではなく逡巡だ、なんとなくでもそう確信できて苦笑を抑え込んでいるうちに、その『小さいの』の手が動いていた。
 お、とユゼが小さく声を落とす。そのまままた少しの間固まっていた後ろ頭が、唐突に不自然に揺れたのには疑問符が浮かんだ。どうしたのだろう、と思って『小さいの』を抱え直しているうちに、父がくつくつと笑っているのが聞こえた。眼を上げれば、父は悪戯っけに笑っていた。
「びっくりしたみたいだな?」
 そう声がかかって、フードに覆い隠された後ろ頭がそちらを見上げて、もう一度瓶を見下ろす仕草。からからと瓶の中で金平糖がぶつかり合う音。
「……あまい」
 びっくりした、と父の言った通り、珍しく明確に驚嘆の声音だとわかった。嫌がるそぶりを見せないのには内心で拳を握る。両手が瓶を持ち上げて、金色の方に差し出される。
「ディアせんせい、も」
「いいのか」
「うん」
 確認の声に問い返した金色に、『小さいの』はすぐに頷く。魔導師の彼が白い一つをつまんで口の中に入れるのを見届けて、『小さいの』は瓶を抱え直したようだった。少しして、ああ、と彼が呟く。
「……確かに甘いな」
「うん」
「だがお前の苦手な『甘いもの』ではないな、これは」
「うん、食べても、つん、て、しない。……ふしぎ」
 会話するのを聞いて、そういえばヴァルディアも甘いものは苦手だったかとファリマの言葉を思い出した。何気にこの二人は共通点が多いのでは、と思っているうちに、『小さいの』は自分から二つ目に手を伸ばしていた。
 アヤカシコネの菓子は、「やわらかい」ものが多い。味にしろ、そのものの硬さにしろ。自分は実際には行ったことはないが、現地に派遣されたディアネルの職員の報告書は読んでいた。曰く「キレナシシャスやエルドグランド、ティパフェリア等の知られた国の菓子と比較して、突き刺さるような甘さはない。ツツジという、この国にしか咲かない花の蜜に似て爽やかな甘さ、果物のようなもの」だそうだ。それが不意に浮かんだからこそ、母に手配を頼めないかと訊けば、在庫があるはずだからと荷物の中に包んで入れてくれた。安いものではない、何せ二つの大陸を渡らなければ手に入らない珍品なのだから、むしろかなり、相当、それこそ王家への貢納品としても通用するようなものなのだが。
 そのあたりについて母は「自分の子に貢いで何が悪いんですか」と言い切ってくれた。もう完全に娘として認識しているらしい。なんにしろ平和に落ち着いたよな、と思っているうちにユゼの手が伸びて『小さいの』の頭を撫でていた。
「長持ちするやつだから、急いで食べなくてもいいぞ。蓋だけしておけば、何ヶ月かは保つからな」
「……だいじ、に、して、へいき?」
「おう」
 最初は怖がっていた父の手にもずいぶん慣れたらしい。頷いた紫銀はテーブルの上から蓋を持ち上げて、慎重に蓋をして、その瓶をテーブルの上に押し上げる。
「……だいじ」
 好きだからとっておく、という意思表示だろう。好きなものは残しておく方なのだろう、慎重なところも見える。硝子瓶をテーブルに置いた手には、今度は一冊の本が差し出されていた。しっかりと皮で装丁されたもの。表紙に書かれているのは『十と二の色』、文字の手習を始める子供が、特に文字と共に色の意味を知る意味で用いられる、所謂教科書の一つ。だがあまり普及しているものでもない。
「こっちはフィメルからだな。これが読めるようになったら共通語も一人前だ、ってな」
 皮の装丁でも、華美なものではない。書物そのものが貴重なこの国においては本の形をしているだけでも価値はあるが、内容といえば貴族家の子女であれば眼を通すことはあるかもしれない、そういった位置にある一冊。色の意味は幼少、言葉を扱えない頃から自然と教えられ、学ぶもの。――返せば、この『紫銀』はその知識が欠けていると判断した母の選択であり、紫旗に対する注告でもある。
「……十、と、二の、……しき?」
「『いろ』、だな。しきとかしょくって読むのは熟語の場合だ」
「じゅくご……えっと、……ふたつが、いっしょのやつ」
「三つとか四つのときもあるからな、ひとつっきりじゃない場合はだいたい熟語だ。この本の名前は『十と二の色』。本文の方は、色の意味、属性の意味、あと神様のことなんかが書かれてる」
「……神さま、は、ひととはちがうところにいる、って……」
「知らなくていい、という意味ではない。知っていた方がいい。……そうだな、例えば」
 言葉を挟んだヴァルディアが、言いながら虚空を見上げる。その視線の先に手が伸ばされて、何かを掌の上に乗せるような仕草。その手がそのまま『小さいの』の方に差し出される。
「こういうものが何なのかもわかるようになる」
 聞きながら首をかしげた。父の手に肩をつつかれて振り返れば、目元に手がかざされる。小さな声で何かを呟くのが聞こえて、その手が外されたのに疑念を浮かべれば、面白そうな顔をした父は黄金の方を指差した。なんなんだ、と思いながら示されるままヴァルディアの方を見やって――そして、眼を見開いた。
 先ほど、数秒前に見えていた姿とは何もかもが違っていた。金の髪が流れる合間には新緑の蔦が這って赤い花を咲かせて、頭頂にはその蔓と葉と花の冠があった。質素だったはずの紺色のローブには種々様々な色で刺繍がなされて、だが一定の模様を描いて止まっているわけでもない。まるで布地に縦横無尽に刺繍糸が這い回って模様を描いているようで、椅子に腰掛けた足元には兎や猫、背凭れの後ろには雄鹿が体躯を伏せているのが見える。思わず眼をこすっても変わらない、そして差し出された手には紫色の蝶が羽を休めていた。
「……精霊を見るのは初めてか?」
 その黄金の瞳がこちらを捉えたのにはたじろぎながら頷く。そうしているうちに紫の蝶は飛び去っていた。テーブルの上を見れば木の天板に根を張るようにして立ち上がった小さな木に、その木陰には極小の人の姿をしたものがいくつも見える。父を見上げれば、明らかに虎であろう巨大な生き物がその身体に甘えるように頭をこすりつけていた。
「……えっと」
「精霊は精霊眼が無いと見えない。これは知っての通りだが、原則精霊眼を持たない人間はいない、とされる」
 思わず溢れた声に、ヴァルディアが口を開く。解説してくれるのかと思って眼を向けた先では、虹色の花冠から十二色の紐が長く垂れ落ちて肩や膝にわだかまっているのが見えた。見ているうちにも牡鹿が立ち上がって姿を消し、代わるようにテーブルの上にはどこからか子犬が現れて紅茶のカップを覗き込んでいた。ヴァルディアはそれを見咎めて、カップを少し傾ければ子犬はその水面を軽く舐めとり、魔導師の手に身体をすり寄せて消え失せる。
「精霊眼を確実に持たないと判明しているのはエルク=ラインの一族だけだ。他の人間はどんな強度どんな程度であれ精霊眼を持つ。一般に言われる「精霊眼を持っている」というのは、精霊眼を開くことができる、という意味であって、人間の大多数が精霊眼を持ちながらそれを開くことができないだけだ。魔法や魔法薬、状況や環境によっては見えなかった人間が突如見えるようになったり、逆に見えていた人間も閉じられてしまう場合もあるな」
「……え、じゃあ、今のって」
「そ。俺が魔法で一時的にお前の精霊眼開かせただけだな」
 振り仰いだ父が肯定してくれる。そんな軽く、と思って黄金に眼を戻せば、今度は花冠が消え失せた代わりに緻密に刺繍のされた紗のベールが頭頂から広がっていて、腰元には組紐と宝石で作られた飾り帯、足元は小さな草原と化していた。
「……ごめんちょっと意味がわからない」
「……ああ、俺の今のこれはいつも通りだから気にしないでいい」
「いや気にしないってのが無理」
「魔導師で精霊眼を生来開いていた人間は精霊に群がられる宿命だ。精霊は精霊眼を開いている人間しか視認できない。地面も、この床も、例えばテーブルであり壁であり、そういった物理的なものは精霊の視界や移動の邪魔にはならない。触れられないからな。代わりに足を止めて休める場所が少ない。精霊眼を開いている状態の人間とその周囲は、精霊が休憩地にするに唯一の場所だ。紫旗でなら、レティシャの方がすごいぞ。どれだけ弱い精霊眼でも開いている状態では「何がどうなっているのかはよくわからないが光の塊が動いている」としか見えない」
「……的確な表現ありがとうヴァルディア」
 声が聞こえて、瞬間ヴァルディアの金の眼があらぬ方を向いた。自分は声が聞こえた方を向こうとして、そして、口を噤んだ。一秒休み、二秒考え。
「……父さん」
「おうよ」
「なんか太陽みないなのがいる」
 瞬間『光の塊』としか見えないそれの一部分が動いて額に衝撃。掌で強かに叩かれたと理解したのは、『小さいの』を抱える片腕だけは何とかそのままを維持して、片手で痛みを訴えるそこを抑えて俯き呻いた時だった。
「――ッ、ってか、なんでこれでレティシャだって判断つくんだ……っ!?」
「私が普段精霊眼をあまり使っていないからよ。だってこの有様よ? 私も前なんか見えたもんじゃないんだから」
「……ああ、そう。生来精霊眼を開いている人間は意図して閉じることもできる者が多い。閉じてしまえば精霊からも見えなくなる。全開にするのは稀だな、かといって常に閉じているでもない。常に薄眼程度は開いておくものだ」
「薄眼でもこれだからやんなっちゃうわよ」
 言うそこを見上げれば、光の塊がさらさらと崩れて、見慣れた藍色の制服に茶色の髪をきっちりと編み込んで纏めた彼女の姿。額を片手で押さえたまま、呟く。
「……ほんとにレティシャだった……」
「ちなみにヴァルディアは『薄眼』でこれだから、完全に開いたらヴァルディアだって光の塊よ」
 彼女が指差す方を見れば、今度は片方の肩には豪奢な真紅のクロークが被せられ、ローブの上にも黒い上着が追加されている。すぐに姿が変わるのは、様々な精霊が入れ替わり立ち替わり彼を休憩所にしているということだろうか。
「……レティシャ、も、つかいま、いる……?」
「ええ。ちょっと仕事してくるわ、明後日ごろには帰ってこれるはずだけど、カルドとイースと、クロウィルとラシエナと一緒にね」
「……しごと、だと、つかいま、ひつよう……?」
「使わない人もいるわ、私は、そうね、居てもらった方が楽だから、協力してもらってるわ」
 会話しながら、『小さいの』は本を抱きかかえるようにして身体を硬直させている。精霊、使い魔。脳裏に浮かんだのは『小さいの』が使い魔を恐れているような様子を見せた、あの時の。
 思って膝の上の『小さいの』に視線を向けて、不意に強い違和感を覚えて眉根を寄せた。『小さいの』はレティシャを見上げている。その姿に何の変化がないことに気づいて、表情が変わりかけたのは何とか抑え込んだ。
 この子供は『紫銀』だ、精霊眼も持っている。開いているはずだ。
 なのに、『小さいの』の周囲には何一つとして変化がなかった。視線をめぐらせれば自分の肩にも小鳥が羽を休めているのが見える。それなのに、『小さいの』に精霊が依り付いている様子がないのが、いやに不安を掻き立てていく。




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