扉をノックする。すぐに、どうぞ、と聞こえて扉を引き開けば、見えた客間には様々なものが運び込まれて並べられていた。見えたその人は昨夜とは打って変わって白いローブ姿で、背には翼に薄紫の花が重なった紋様が丁寧に縫い取られている。振り返って、柔らかい笑み。
「引率ご苦労様です、クロウィル。おはようございます、フェルリナード」
「おはようございます、フィエルさま」
 シチューに苦戦しながらのこの子供に合わせてゆっくりとした夕食を進めながら、昨夜は敬称と尊称について教えていた。仲良し、というものが理解しにくいらしい、結局誰なら「さん」をつければいいのか、教える側もどう線引きしたら良いものかと教えあぐねて終わってしまったのだが。どうやら古代語の場合は発話者のその人に対する感情、尊敬なり侮蔑なりが直接出るらしい。それで問題にならないのか。とりあえず絶対的な尊称、殿下であるとか陛下であるとか、覚えておいて損はない敬称として「様」を教えて、『療師』という上位称号を持つ人としてとりあえずフィエリアルには「様」をつけて呼ぶ、という訓練をしている。覚えは良い、一度教えればすぐに覚えて、一夜明ければ既につっかえることもない。頭にはあの兎のフードをしながらのフェルリナードは挨拶を終えて、それから周囲を見渡している。微笑ましいと笑う柔らかい声と手招くのを見て、繋いでいた手を放して紫青がそちらへ行くのを見送る。
「フィエルさま、せいれい……つかいま、いない?」
「おや。いいえ、私にも使い魔は居りますが、ヴァルディアから君が怖がると聞いて下がらせています。会ってみますか?」
「……せいれいと、つかいま、なにが、ちがう……?」
「基本的には同じです。ですが、そうですね、使い魔本人から説明させた方が早いでしょうか」
 言う、そのすぐ横の空気が揺らぐ。なんだろうと思っているうちにその揺らぎの中に色が見えて、現れたのは炎を纏った大型犬だった。目を瞬いてそれを見ているうちに宙に浮遊していたそれは診察台にすとんと降り立ち、足を畳んで寝そべって紫を覗き込む。
『初めまして、天秤の子』
「……はじめまして……」
『どうやら我のようなものを恐れているようだが、我らは既に主を得た身。天秤の子に触れようとも害することはない。怖じて離れてくれるなよ、汝の姿が輝かしい故目を惹くだけよ』
 すす、と静かにフィエリアルを壁にしようとしたフェルリナードに、犬の姿をしたそれはくつくつと笑いながら言う。言ったそれを聞いて、紫の眼がこちらに向けられて、それで苦笑した。紫青を追いかけるように距離を詰めて、その使い魔に目を向ける。
「はじめまして。先に、名前を聞いても?」
『む。人の作法ではそうだったか。すまぬな、慣れぬのだ。主よ、子らの相手は仕ろう。準備に少しかかるのだろう?』
「ええ、そうしましょう。フェルリナードも、こちらへどうぞ」
 こちら、と言いながらフィエリアルが紫青を診察台の上に腰掛けさせる。靴を脱がして寝そべった犬のそばに座らせてやって、こちらには背のない椅子を差し出してくれるのには礼を述べて腰掛ける。診察台は低い、窓の壁側に置かれてはいるが周りはすっきりしていて、フィエリアルが向かったのは別のテーブル。そうだな、と呟く声には診察台の上、その炎を守った犬の方を見やる。精霊眼が無い自分にも見えるということは、見せてくれている、のだろう。
『先に我の名を告げておこう。炎の眷属トレーフォンだ、主が名付けてくれた名だ』
「トレーフォン」
『ああ。そちらの名を教えてくれるか天秤の、それに、深海のも』
「……フェルリナード、……こっち、が、クロウィル……」
『フェルリナードにクロウィルだな。覚えたぞ、これよりは名で呼び合うこととしよう。クロウィルは、使い魔を見るのは初めてか。父は我が主と同じ魔導師であろう?』
「あ、そういえば無い……俺精霊眼無いから見えないだけなのかもしれないけど」
『ふむ、秘密主義なのだな。では、さて。使い魔だが、端的に言えば、精霊の中でも、主たる魔導師との契約を交わしたものが使い魔と呼ばれる』
「けいやく」
『取り決め、決め事だ。魔導師はその精霊の力全てを得る代わりに、その精霊が生きるに必要な全てを差し出す義務がある。……難しいか?』
「たぶん、言い回しが」
 疑問符を量産している紫青に問いかけた使い魔、トレーフォンが不思議そうに問いかけるのには、横からそう言って代理で返しておく。むう、と耳を垂れた彼、だろうか、がぱたりと尻尾を一度振るのには、紫がそれを見下ろして、小さい盆に何かを並べて持ってきたらしいフィエリアルの声が入り込んだ。
「精霊の扱う共通語は何故だか古びていますからねぇ」
『……我より長命な者に言われるとなんとも言い難いな。準備は終えたのか?』
「ええ、だいたいはね。フェルリナード、魔導師、というのは、分かりますか」
「まほう、を、つかうひと。まほうつかいより、きれい? に、つかえるひと」
「ええ、その通り。使い魔は、魔導師に力を貸してくれる精霊です。魔法の素になる魔力を貸してくれたり、共に戦ってくれたり。トレーフォンは白炎と呼ばれる精霊で、今は私が使う器具や道具の清浄を保ってくれています」
「そんなことまで……」
『色々できるのだぞ』
「ええ、本当に色々ね。病の検査を手伝ってくれる子も居ます、ですがフェルリナードの、……おや」
 言いかけてやめたその言葉に何かと思って視線を追えば、紫青の青。紫がじっと見つめているのは、ぱた、と一定の間を置いて揺らめく炎のような尻尾。
「……狙ってますね」
「狙ってますね」
『狙われているのかこれは?』
「ええ。フェルリナード、気になるようなら触ってみてもいいですよ」
『待っ、』
「ほら」
 言いながら無造作に尻尾を掴み上げる療師に制止しかけた使い魔の声が重なる。無視したフィエリアルが差し出されたそれに紫の眼は煌めいているようで、そこだけ別個のモノ扱いされた使い魔は何かを呻きながらぱたりと体躯を横倒しにする。弱点、というより急所なのかもしれない。思いながらも受け取ったそれを無心にもふもふし続けているフェルリナードを止めるのは憚れた。フィエリアルの笑う声。
「犬や猫を近くで飼うのも良いかもしれませんね。動物と暮らすことが心に良い影響を与えるとも言われますから」
「子供が生まれたら子犬を飼いなさい、ですか?」
「ええ。この国では、飼われるものといえば数としては馬や牛が多いですが、やはり家庭の中で触れ合える方が良い」
 家庭、とは心中で呟く。そういえばそれに類するものには遠いままなのか。家族が出来ても暮らすのはここのままだ。普通の暮らしというものには、自分も馴染まないままだが、やはりそういう体験はあった方が良いのかもしれない。王女殿下に相談してみようか、と思う間に潰れた声が聞こえた。
『主……主よ……早く……』
「あ。そうですね、フェルリナード、尻尾は気に入りましたか?」
「……ふわふわ。……あったかい」
 そうじゃないと潰れた声が小さく叫ぶのが聞こえてそっと目を落とした。ふふ、と笑った療師が青い頭をゆっくりと撫でる。
「そろそろ始めますよ。トレーフォンとの触れ合いはまた」
「うん。なに、するの?」
「健康診断です。病気があるか、身体の調子がどうなのか、本人が自覚できないところまでしっかり調べておきませんとね」
 とん、と額を軽くつつかれて、紫青は突かれたそこを押さえながら療師を見上げる。黄色はそれにゆったりと笑いかけて、それからトレーフォンが寝そべっているすぐ傍に枕を一つ置いて、そこに子供を慣れた手つきで横にする。頭の位置がすぐ近くに移動して、手が泳ぐのには右手で握ってやれば落ち着いたようだった。
「さて……よし。では始めましょうか。フェルリナード、少し眠くなるかもしれませんが、良いと私が言うまで寝てはいけませんからね」
「うん」
「宜しい。では、上の方から順に」
 言ったときには、既に片腕には画板に留められた冊子があった。時計を確認して時刻を書き込んでからか、万年筆を一旦左手に預けた右手が額に触れる。頭の下、枕に僅かに光を放つ文字の帯が見えて、療師の手元には丸い小さな陣が浮かんでいた。手を離した彼が紫を覗き込む。
「フェルリナード、幾つか質問します。わからなくても構いませんが、できるだけ考えて答えてください」
「うん」
「はい。では、まず名前を教えてくれますか。ロツェと、共通語の両方を」
「――――――――――。フェルリナード、アイクス」
「年齢……というのは、わかりますか? 自分が生まれてから何年経ったか、というものですが」
「……わからない」
「では、一番に会った人のことは覚えていますか? 思い出せる限り、最初です」
「クォルク」
「どこで会いましたか?」
「……樹? が、たくさん、あるところ……つちのうえで、すわってた。クォルクは、たくさん葉っぱのあるところから、でてきた」
「他には、誰かいましたか?」
「……ご、か、ろく、にん? くらい、いた。……そのあと、さむくて、おぼえてない」
 問いかけの答えを聞きながら、療師は手元に浮かんだ陣の中に浮かぶ文字列を見、冊子に何かを書き込んでいる。どんな文字列が浮かび何を書き加えているのかは解らない。質問は更に続いて二十個を数えて、十二個のあたりからは紫の瞳が落ちる瞼を何度も追い払っていた。眠気が出てくると先に言っていた、それだろうか。問いかけの最中に使い魔が姿を消しても、紫青は気付いた様子が無い。
「……はい、宜しいですよ。あとは眠ってしまっても構いません」
「あと、は、なにするの?」
「身体の調子を確認しましょう。身体を動かすと咳が出るでしょう? 息が苦しくなって」
「きのう、のど、へんになった?」
「ええ。それを楽にできるように、ですね。あちこち変な感じがするかもしれません、力を入れたり動き回ったりはしないようにお願いしますね」
「うん」
 療師の手がフェルリナードの顎を少し持ち上げ、喉首に掌を当てる。小さな光の玉が浮いてほのかに光を発するのが窓から差し込む朝日の中に見えて、やはり魔法だと、そうわかっても何をしているのかは分からない。紫が瞬いて黄色を見上げるのには、彼はその眼を和ませて笑んで応えて、それから手は胸元に動いた。
「話すのは、あまり得意ではないようですね」
「うん……」
「気にすることではありませんよ、少しずつ慣れれば良い。……そうですね、フェルリナード、このあたりが重いような、そんな感じはありませんか?」
「……おもい?」
「うまく動かないような、引っかかるような。なければそれでも大丈夫ですよ」
「……わからない……」
 その返答を聞いてかフィエリアルは一度手を離して、すぐの場所のテーブルに並べられた器具の一つを手に取った。頭を動かさないようにと言い含めて、額の上に透明な、小さく平たい丸い板を置く。手は離すように言われて一度撫でてから手放す。硝子だろうか。次いで療師はフェルリナードの右手に同じものを握らせ、右脚と左脚の上、左手に握らせ、最後の五つ目が心臓のあたりだろうか、そこに据えられる。フィエリアルの指先はそのまま青銀の中に隠れた右のこめかみに触れて、それから数秒も経たないうちにフェルリナードが眉根を寄せて身動ぎするのが見えた。
「、ぅ、」
「動かないで。どこが嫌か、教えてください」
「あし、こっち……」
 息を詰めての声に療師を見れば、彼はすぐに腕に抱えていた冊子を別のテーブルに預けて、空いた左手を伸ばしていた。フェルリナードが目で示してほんの少し診察台から浮いた左脚、その上の硝子板の上から丁寧に脚を診察台に押さえ付ける。そう見えたその瞬間に、ピシリと割れる音がした。え、と呟いて音の方に眼を向ける。心臓の上、硝子板に罅の線が走っている。
「クロウィル、フェルリナードの手を握って」
 即座に言われたそれには思考よりも早く手が動いていた。小さく呻いたフェルリナードが身を捩って丸いそれが診察台の上に落ちていく音、ほぼ同時に幼い顔が苦しそうに歪む。
「フェル、」
「誰かすぐに工学師をここに。フィメルに黒曜石の用意ができないかと訊いて来てください、クロウィル、君はこれとフェルリナードの手を握って離さないように」
「何が、」
 押し付けられた小さな石のようなものを握りながら口は無意味に問いだけを口にしていた。妙なことが起こったのだとは療師の様子でわかった。それが良くないことなのだともすぐに察された。医術師の最高峰であるはずの彼が別の魔法使いを呼び、まして黒曜石を求めるなど普通のことではない。だから何が起こったのかと黄紫に問おうとして、不意にフェルリナードの手を握った手に違和を感じて、何だと眼を落として、そしてその眼を見開いた。
 弱々しくこちらの手を握る子供の指は細い。その細い指が白むほど硬く緊張していて、そしてそのいたるところに、血を吐き出す裂傷が走り回っていた。
 ――目で見た視界からの情報に理解が追いつかない。青銀が揺れて台の上でフェルリナードが身体を縮こまらせる。横向きに傾いて上向いた右の頬にも、まるで皮膚の内側から誰かに切り裂かれたかのように口が開いて血を吐いていた。
「クロ」
 声が聞こえて意識の一部が醒める。もう片方の手が伸びてきて袖が握り絞められる。手同士で握り合わせていた指の間に血が溢れて流れるのを感じて、止まったままの思考はそのままに、全身に火がついたかのように熱くなる。
「くろ、いたい」



 ――次に見えたのは光に縁遠い暗闇に覆われた高い天井で、強い血の匂いが充満した中だった。
「……落ち着かれましたか」
 誰かの声が聞こえて、頭が働かないままその声の主を探す。眼で周囲を探って、見えたのは腕に白い布を巻きつけた男性が一人。暗闇の中でその顔を見上げて、藍色の制服のその人が誰なのか、唐突に脳裏にその答えが浮かび上がった。
「……アルティエさん」
「はい。本部の地下書庫になります、療師と妹君の所から、こちらにお連れしました」
 言うそれが耳に入って、ゆっくりと言葉の意味が解って、それでぼんやりとしていた思考が一瞬で晴れた。床に腕を突いて飛び起きる。
「フェルは、」
「ご無事です。……よく、抑えられました」
 言われたそれに、は、と音を立てて息が漏れた。同時に血の匂いが強くなる。この匂いに嫌悪を抱かないことが腹立たしいと不意に思い立つ。その中で彼は、笑んでいるようだった。
「フェルリナード様はご無事です。診察の最中に負傷なさったのは、低下していた門……魔力の生産の働きが急激に活性したために魔力回路の強度が足りず、間に合わなかったため、というのが理由のようです。今はもう血も収まり、傷も療師の手でほとんどが治癒されました。……ご子息は、そのご様子を見届けられた後、私がこちらに御運びしました」
 聞きながら袖で乱雑に口元を拭う。暗い中でも濃い色が服についたのが見て取れて、それでアルティエを見れば、彼は自身の右腕を少し持ち上げてみせる。制服の袖を捲った腕、手首よりも少し上の位置に、巻きつけられた白い布。そこに濃い色がにじんでいるのが見えた。
「……最近は、補給はされていらっしゃらないのですか。非常に、飢えていらっしゃる」
「……ごめん」
「良いのです、私は貴方がたの為の従属種。既に失ったはずの役目を果たせることに不満など。ですが、補給は可能ならば三日に一度は。紫旗は人の血に溢れています。私にとってすら衝動を覚えることもある、”グリヴィアス”には耐え難いことも多いでしょう」
 言いながらの彼が、脇の盥の中から布巾を取り出す。固く絞ったそれで顔や口元、喉のあたりまで拭ってくれながらのそれには、無理矢理視線を逸らせた。
「……母さんに抑えてもらってるから、それで」
「”グリヴィアス”同士では、声は互いに打ち消し合ってしまいます。直後には効果があっても時間で摩滅し薄れて消えてしまう。……草木で構いません、人の血を嫌厭なさるのは理解します、ですが補給は必ず行ってください。貴方はまだ『コウハ』です、お母上とは違う。貴方は”グリヴィアス”の血の影響が強いとはいえ、まだ完全には呑まれていない。望まれない覚醒を抑止することも我々の役目です、ですが我々だけでは」
「……嫌なんだ」
「お気持ちは理解致します。ですが飢えこそ覚醒の引き金となります。人の血を求めることは忌避して当然、それでも目覚めてしまえばそれ以外には無い。ラシエナ嬢やフェルリナード様を手にかけてしまうことも有り得るのです、耐えてください」
 言われるそれには、視線を落とす以外にはどうしようもなかった。そのまま沈黙をしばらく聞いて、その中に不意に息遣いの音。手を離して、それでいて呆れや諦めのそれには聞こえなかった、だから上目に表情を伺えば、彼が浮かべているのは苦笑だった。
「ひとまずは、今日お渡しした分で二ヶ月は持ちましょうから、今回はそれで良しとしましょう。もし足りなければお声掛けを。協力的な精霊が依る草木の在り処をお伝えするくらいなら、いつなりとも」
「……うん、……わかった、ごめん。……気分悪かったりしない?」
「問題ありません、フォスフェンは頑健のみが取り柄ですから。……先に戻ります、着替えてから広間に。血の匂いに酔って気分が、ということにしてありますから、そのように」
「わかった」
 叱言も目的だったのだろうなと思いながら、背を見せて立ち去る彼を見送る。エディルドに連れられて顔を合わせたのは少し前のことで、紫旗に『従属種』がいるとは思っていなかったから、かなり驚いたものだが。まさかまだ生き残っているとは思っていなかったのもある。
 臣下として振舞われるのには慣れない。自分より母の方が仕えるには相応しいだろうにと息を吐けば、それでまた血の匂いが広がる。ああと思って意識して口を閉じた。すっかり舌に馴染んで鉄の匂いのするそれを、何度もなんども喉の奥に押しやる。押し込む。そうする事に嫌悪も何も浮かばないのがなおのこと嫌だった、自分にとっては『これ』は必要不可欠な行為なのだと突きつけられているようで。
 ――ただの吸血族なら良かった、それなら隠す必要もなかっただろうに。
 だがそれが、いつまで続くのか。いつまで続けられるのか。声を失ったままである方が、良かったのではないか。




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