不意に手元が嫌いと意識に浮かんで、それで顔を上げれば部屋の中が薄暗い。背後の大窓に振り向けばすでに東の空が藍色に近づいているのが眼に入って、それでかと思って息を吐き出して背もたれに体重を預ける。
 少しの間目を閉じて無音を聴いて、そうしながらも僅かに意識を凝らす。町を覆う結界に揺れも綻びも無い事を確認してから目を開こうとして、その前に気づいたそれにはほんの少し息をついた。
「……ラクス」
『眠られるかと』
「寝るのならそう言う」
『おっしゃるのは私共に対してではありませんのに』
『主殿は我々には冷酷だからな』
「無視はしていない」
『するしないが基準な以上、知れている』
 笑うように言われるのが耳に入って、それでため息まじりに視界を開けば暗闇。すぐに目の上を覆っていた両手が離れていく。やはり部屋が暗いと見えた景色にそう思って、背もたれから体を起こして椅子を引いて立ち上がった。
「酷使をするよりとは思うが」
『使われる場面が無いのでは意義が問われる。主殿は戦いの場ですら我らを呼ぼうとしないのだから、こうも言う』
「どうするのか迷いはする」
 人間のそれと遜色なく聞こえる声には堪えながら、部屋の両脇に据えられた本棚の日撮るに足を向ける。本ばかりの他の棚とは違って、小物入れや、台座の上に浅い皿の上に根を張った小さな樹が鎮座している棚の中から厚紙で作られた箱を一つ取り出す。見た目によらず思いそれを一度机の上に置いてフタを外せば、中に入っているのはこぶし大の硝子の容器に閉じ込められた魔石だった。横合いから声。
『迷った上で即座に切り捨てられる身にもなってほしい』
「お前達を使うような相手が中々居ないのではな。……これで良いか……」
 いくつもの容器がきっちりと収められた中から一つを指先で拾い上げ、それのフタの留め金を外しながら扉の方へと足を向ける。
 その拍子に見えたのは長椅子に腰掛けた一人と、その向かいで本棚に寄りかかって背を預けた一人。もう一人、この場では唯一の女の声は背を向けた机のすぐ側から。
『そう仰ってばかりで、活用された覚えが本当に、数えるばかりのいくたびか……』
「お前達はそんなに契約主が追いつめられる状況が好きなのか?」
『そうではないが』
 扉のすぐ脇、壁にぽつんと備えられた小窓に手をかける。簡易な留め金を外して開いたその中、台座に硝子の箱から取り出したばかりの魔石を据える。
 ゆらりと日が立ち上がるように部屋の中に光が入ったのを確認してから小窓を閉じて掛け金を掛けておく。夜はこれがなければ話にならないと息をついて、それから明るく光の入った部屋に目を向ける。人とは違う風貌、鮮やかな色の髪と瞳に、纏う衣服は風によく舞う特徴的なもの。
「……何かあったか?」
『なければ消えておかねばならんとも聞いていないからな。一番に出たのはラクスだぞ』
 理由は無いと言っておきながら他の一つの所為だと言わんばかりの言葉には、水を向けられた一つが小さく笑う。白と紅の入り混じった、柔らかく波立つ髪を揺らして、ラクスと呼ばれた彼女が振り返った。
『私は、先ほど申しました通りの理由でございます』
「さすがにまだ休めはしないな……」
 ラクスと名指しされた女のそれには、部屋をぐるりと見渡して返す。長椅子に挟まれたテーブルの上に、臨時という名目で常設されている小机も未処理の書類で埋もれている。そろそろ木箱が出てくるかと他人事に思いながら、テーブルの上で書類の隙間に埋もれていたカップを見つけて手を伸ばした。
 拾い上げたそのまま、机に戻る。椅子に腰を下ろしてから冷え切った紅茶を一口の見下して、天板の上に広げたままの紙を指先で持ち上げた。長椅子の方にいた気配が背後に移動してきて、覗き込むのが判る。
『……人間の”仕事”とやらはいつ見ても不可解だな。何度見ても、どうしても最適解には程遠い』
「正着通りに事を運べる人間の方が少ないくらいだからな、回りくどくもなる」
『そういうものだと解ってはいてもな』
『主の身体に障るほどともなれば、使い魔の身であるこそ進言したくもなるというもの』
 今の今まで無言を貫いていた一人がようやく声をあげたと思った内容がそれで、ヴァルディアは息をついて書類を元のように天板に放った。肘を机に突いて片手で額を覆うようにしたところで、続く声が聞こえて来た。
『何も苦言のために実体したではないが、せめて寝むくらいは人のようにとは言わせて頂きたい』
『然り。第一進みが遅いでもないのにこれほどとなる方がおかしいだろうに、何故それを人の誰も言わないのか。これでは主殿が怠惰のように見えるではないか』
「手遅れだ。……言うなら、フィビュル、頼みがあるんだが」
『何か?』
「手紙を二つ任せたい。至急の上に確実に届けたいものだから他人には任せられない」
『……それで主殿は?』
「精神的に一つ荷が降りて楽になる」
『寝ろと言っているのが聞こえんのか主殿よ。何日仮眠と言ってわずかばかりしか横にもならずにいるのを我々が黙っていたかと』
「…………」
 沈黙で返しながらも顔を上げ背後にある窓の外を振り仰げば、今度こそ藍色に染まった空が見えた。暗い街のあちこちに灯樹が灯っているのを何となく数えているうちにその視界を遮るものがあって、渋々見上げれば目にも鮮やかな黄の眼と髪の男。細身の体躯に軽装とも言えないほどの身軽な装いのそれは冬には寒々しくも見える、人の男のような姿をした精霊、使い魔のひとつ。
『主殿が我々の言葉を容れるのであれば否む理由もないのだが?』
「フィビュル……」
『……私が主様の使い魔にとなりましたのは最近のことでございますから、それ以前のことは存じませんが、主様はフィビュルにだけは弱くていらっしゃいますこと』
『お前達が言わないから代弁しているだけだ。弱さで言うのであればタヴァディエにこそ主殿は逆らわない』
「主を何だと思ってるんだ」
『少なくとも我らの主は手足である我らよりも人の子を優先し尚の上己のことは二の次でも三の次でもなく最下位に据える程度には世話好きだとは思っている』
『保護者の位置に据えると自滅する人柄と理解しているが』
『……さらに付け加えるほどのものはございません』
 立て続けのそれにはさすがに閉口した。何も言わないまま机に向き直ろうとして、その寸前に男、フィビュルの手が万年筆を攫ってしまう。取り返す気にもなれずに力無く頬杖に代える。こうなると使い魔といえど思う通りにはいかない。もとよりは彼らは同体であり手足だとしても、一心ではない。以心伝心がそうであっても、だからこそ使い魔の意思が強く出る場面もある。
 そうして今主に前に姿を見せたのは三つ。雷鳴と白炎、寡黙な姿勢に戻ったのは岩窟で、あとは影の中に潜ったままだ。白炎はともかく、雷鳴と岩窟は口煩い筆頭と頑固の筆頭だ、だからそれ自身の意思として姿を見せることも多くはあるが。
『終いには『音曲』にも打診して動かなくしてしまおうか』
「死期が迫るから今日のうちはやめてくれ。『音曲』がお前達に便乗すれば街の結界が消える」
『それがどうしたと?』
「運良く『異種』の襲撃でも起これば自動的に私の首も飛ぶだろうな」
 意味を正しく解した雷鳴、フィビュルが腕組みに沈黙する。そこにむかって 手を伸ばせば、渋々と万年筆を返してくれた。書類に向き直って作業を再開すれば、すぐそばから息を吐く柔らかい音。
『主様は危機に疎くていらっしゃる』
「これでも察知はできるようにはなっているんだがな」
『死ぬほどのものにしか対処もなさらないくせに』
「死ななければ安い」
『だからと真正面から受けているだけを見ていろと?』
「避けてはいるだろう」
『致命傷は確かに外しておられるが、何事もないことをこそ望んでいる』
「なら私に言うな。仕掛けてくる方を何とかしてくれ」
『それは命令か主殿よ。やって良いであれば殺ってくるぞ?』
「……どうして神より精霊の方が人に対しての殺意が高いんだ……」
 逆だろうとため息を吐き出す主には白炎が苦笑する。雷鳴がそれに対して何かを言おうとしたのか、口を開きかけたところでその視線が別の方向を向いた。
『……誰か来る』
「誰だ?」
『あの変わった子も共にとなれば、一人しかありませんが……』
 白炎の声に疑念が浮かぶのが聞こえれば手が止まった。精霊や使い魔が見る世界は人のそれとは違う、物理的な障壁など壁にすらならないはずだと浮かんだそこに扉を叩く音が耳に入って、万年筆に蓋を被せながら外に聞こえるように声をあげた。
「入れ」
 言えばすぐに扉が開く。顔を覗かせたのは見慣れた銀髪の黒服。
「セオラスさんに報告よろしくって押し付けられたので来たんです、けど」
「ああ……お前も行っていたのか」
 昨日から立て続けに学生達の様子を見に行っているのだと聞いて、それで調整をしていたがと思いながら手招く。すぐに入ってきたそのすぐ後ろにもう一人が見えて、それには眼を瞬いた。
「……早かったな」
「中央までは陣使わせてもらったから。向こうにいてもあんまりやる事ないし……」
「状況は?」
「緋樹の街は、外周がかなり。道だけは修復を急いでて、地下もかなり危ない状態だから人はある程度は他の都市に移して、って聞いた。兄さんとは会えなかったから詳しい事はわからないけど……」
 ではやはりあの男は街から離れもしていないのかと嘆息する気持ちは押し止める。今この相手に示す事ではないと、ただ頷き返した。
「分かった、しばらくはこちらからも必要になるな……フェル、学院の様子は?」
「医療班の方が心配です」
 返されたそれには端的な評価だと浮かぶ。扉を閉めて机に近づいてくるまでの間に言ったフェルが部屋のあちこちに視線を向けて疑念を浮かべるのが見えれば、脇に控えたままの雷鳴が声を落として、控えている、とだけ零す。だからかと脳裏に呟くだけにしておいて、差し出された書類を受け取った。紐で綴じられたその表紙をめくる間にフィレンスの声。
「意欲があるのが半分、自分は大丈夫だと思い込んでるのが少数、残りはよくある『よくわからない』層かな。私も医療班の方が心配」
「医務室の担当も連れて行きはするが、それ以外は黒服の間で持ち回り診ていくしかないだろうな……」
「全部魔法で処置するにしても、とは思うんですが」
「軽傷はともかく、重傷は即座に送り返すくらいでも良いんじゃない? 戦線離脱でもさせないと、大丈夫だと思い込んでる輩は死ぬまで止まらないよ」
「そうだな……そのあたりは?」
 ざっと総評に眼を通してから顔を上げて問いかければ、肩をすくめる騎士と、苦笑を浮かべる魔導師。
「殺そうと思えば殺せちゃうくらいなので、なんとも……」
 つまりは人相手にも通用しない者が大半という事だろう。だから上の横暴は面倒だと思案している間に不意に気にかかるものがあって、それで眉根を寄せた。視線の先、フェルが首を傾げる。
「……どうかしました?」
「……コウは?」
「何だか、入っちゃいけない気がする、って言って廊下に……」
 扉の方を向いて言うそれにさらに眉根を寄せる。傍で呻くような音がして、溜息を吐き出した。
「……フィビュル……」
『お、おれが何を言ったわけでは』
「同じような事だ。……使い魔だ、今は控えているが」
 言えば、疑問符を浮かべていた二人が揃って納得した、と言わんばかりの表情を浮かべる。使い魔が実体していると言っても段階がある、主に姿が見えると言っても他の人間には見えないように姿を隠している事の方が多い、それは精霊眼のあるなしに関わらない。魔導師にもなれば、その気配の片鱗を感じ取る事もあるだろうが。
 白炎が何も言わないでも宙を滑って扉の外に向かう。程なくして扉が開く音がして、少年の姿をした鋼色が黒服に駆け寄ってその背に抱き付いた。首を僅かに傾げれば、竜の青い瞳は他者には見えないはずの使い魔の姿を的確に捉えているのが見えた。
「気にしなくていい。こいつらも気紛れにこうしているだけだ」
「そう、だろうか……そう、なら、良いんだが」
「ああ」
 この竜はどうやら精霊に対しても気負いをするらしい。『妖精』というものは使い魔にとっても変わった種であるのは本人達の言葉を見れば分かることだが、それ以上の敵意も擁護も見えないのであれば、恐らくはさして双方に違う部分も無いのだろうが。白炎が元の定位置に戻るのを待つ前に、表紙の付けられたそれを片手で軽く持ち上げた。
「確認しておく。お前達は今日は良い、明日に軽いものを渡すから準備が出来次第来るように」
「了解。……フェル大丈夫? 疲れたでしょ」
「疲れたというかなんというか……長官、あの圧迫結界ちょっとやめときません……?」
「ああしないと思い上がった学生が学院の中で『異種』を作りかねないからな、抑止として設置している。そんなに窮屈だったか」
「魔法使う度に直接身体にくるのはちょっと……」
「そういう結界だから仕方ない。次は領域を作って回避しろ、それが一番手早く済む」
「次があるんでしょうか私……」
「恐らくはな。……そうだ、セオラスかクロウィルを見かけたら朝に来るように伝えてくれ」
「解りました」
「御苦労だった」
 下がって良い、と言外に告げれば、鋼色に抱き着かれたままの黒服が騎士の袖を握って促し、揃って扉へ向かうのを見送る。合間に岩窟が手を伸ばして竜の頭を撫でて送り出すのには相変わらずだと脳裏に浮かんで、それから扉が閉まるのを待って息をついた。
「……そういうものなのか?」
『元来我らは『異種』に対しては敵するものとして扱っているからな』
『私達は、純な精霊であった頃に『異種』と出会う事はありませんでしたが』
 言葉ながらに思案するような声音に思えて、それを意外に思いながら見上げれば、白炎は不思議そうに首を傾げているようだった。
『『異種』としてであればやはり、互いに敵対するより他に無かったと理解しております。かりそめであれ生命を得た魔法の変種が、その齟齬を正されたと言うだけでここまで違うとは、私も己の感覚を疑いそうにもなりますが』
 では先ほど使い魔達がわずかに見せた不審なものを見るような言葉はそれが原因かと思って頬杖を突く。やはりそれまでに違うものなのかと問いかけようとしたところで再び扉を叩く音がして、顔を上げるのと同時に声を待たずに蝶番の軋む音が聞こえてきた。見えたのは蒼砂、書記官のクラリス。
「失礼します長官」
「構わない。何かあったのか」
「王宮より火急の書簡が……『紅比翼』です」
 眉根を寄せて立ち上がるのと距離を詰めた書記官がそれを差し出すのとは同時だった。受け取ったのは薄い封書が一通、その表書きには自分の名が連ねてあって、裏に返せば紅の封蝋に二羽の鳥が描かれた印章が捺されている。
「スィナル……?」
 国王が使う印章だ。しかも公文書に準じるもの、私信とは言い難い、その封を破ける者を限定するもの。何事か起こったのかと蝋を砕いて、中からたった一枚きりの便箋を取り出して広げれば、あまりに端的すぎる短い文章が、確かに彼女の筆跡で残されていた。
「それと……これが」
 瞠目した事に気付くより早くクラリスの声が聞こえて、見ればもう一通の封書。宛名は、長い、国名を末尾に備えるのは王族の証の。
 暫くの無音の後に、息を吐き出した。
「……届けさせたのは」
「紫旗です、紫旗の第一部隊……至急、確実に届くようにと私に直接渡されて、そのまま」
 逃げたかとは胸中に呟くだけ。クラリスは、表情には焦燥と、わずかに不安を浮かべている。この内容は知らないままのはずだ、今知らされているのは、蒼樹の中では自分一人だけなのだから。
「……あの、また、何か……?」
「……客間の準備をさせておいてくれ」
「は、い?」
「近く正式な使者が来る。それを渡すのはその時で良い」
「ですが、比翼の印章は何を措いてもが原則では」
「こちらに、そう書いてあった」
 ひら、と、一枚だけの便箋を片手で泳がせる。そうしてから書記官の手の中のもう一通を受け取って、机の上に転がせた。椅子に腰掛けて、一度大きく息を吐き出す。少し考えてから、付け足すように書記官を見上げた。
「……部屋の準備を。使者は若い女性らしい、そのように」
「……畏まりました、手配させます。……他には、何か?」
「取り立てて急ぐものはないな。……ああ、仕事はある程度は片付けて書記達に渡しておく。お前は今日は下がって休め、二日程度息抜きでもして来い」
「ですが」
「私は連日ここに閉じ込められていても構わないが、筆頭書記に倒れられれば閉じ籠りようもなくなるからな。使い魔が騒ぎ始めたくらいだ、お前もそろそろだろう」
 言えば、クラリスは何かを思案するようにわずかに顔を俯けて自身の顔に掌を当てる。何かを確認するかのように指先であちこちに触れて、そうしてから、ふ、と苦笑気味に息を吐き出した。
「……流石に何年も内務だけでは体力も落ち目ですね」
「前線復帰なら歓迎するぞ。少なくとも数ヶ月は訓練漬け確定だろうが」
「いいえ。そんなところで体力つけ直したらまた良いように酷使されるだけでしょうから、お断りします、長官様。……では書記達に引き継ぎをしておきます、ご不明点などございましたらそちらの方へ」
「ああ。ご苦労」
「失礼致します」




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