陽が差してきた。時計を見れば頂点を越えて三つ目の印を少し越えた場所。朝六時。
「負傷は?」
「流石にちょっと。セオラスとクロウィルは無事。レッセが張り切りすぎて体力不足気味で、エクサも消耗してるな。クラリスは休んでる、組み替えるか?」
「いや、そのままでいい。フィオナとシェリンは退かせてある、ここまで粘ってくれていたからな、流石に限界だろう」
「そりゃな。途中、俺たちはフェルの神名簒奪の効果で持ち直しはしたんだけどな、シェリンもフィオナもあっちこっち行ったり来たりであんまり効果受けてなかったらしい。むしろよくここまで保ったよあいつら」
「だな。……二十四時間継戦の必要は無いな、十二時間で終わらせられる」
「そりゃまあ学生はともかく俺ら精鋭ですから。ってかなんで丸一日って勘定したんだ、長官揃って全員」
「多めに見積もっておいた方が魔法院と軍からの貢納品が多いからだな」
 性悪、とはエーフェが呟きながら視線をそらせて行く。提案したのはフィエル様だ、と付け加えれば頭を抱えた。あの人は、と悪態をつく声。
「年々自由度曲線描いて跳ね上がってねえかあの人……」
「長官になって九十年も経てばそうなるだろ。むしろ今まで上がってなかった方が不思議だな」
 言いながら背後を見やる。絨毯の上で座り込んで目元を擦っている銀色と、その横でまだ倒れている金色を見て息をついた。
「……二時間経ったぞ?」
「……おもったより、つかれてた……」
「まあ二時間でそんなに進捗伸びてねえし必要な休憩だから問題ないけどな。フィレンス起こせるか?」
「…………」
 未だに眠そうな目をしたフェルが横を見下ろす。鋼が鼻先で突いて揺すって見ても反応がない。フェルが身体の向きを白に向けなおして、その肩を両手で揺すった。
「エナー」
 呼びかけてみると呻き声。目をこすりながらも片手でゆすり続ける。なんかあそこだけ微笑ましいなあ、と思っている間にエーフェはもう一度ヴァルディアに目を向けた。
「学生まだ残ってんのか」
「ああ。学生の枠の中で見るなら規格外だ。こまめに休息は入れていたが、眠ってもいない」
「……救出は?」
「必要ないだろうな、だが限界はそうだろう、使い魔をやらせた。そろそろ戻ってくる」
 背後では白が起き上がる音。寝すぎた、とぼやいている声にはヴァルディアは何も言わない。もとより白服はこの時点で二十六時間の継戦状態にあった、途中途中で休息が取れていたとしても蒼樹を出立してから緊張状態にあったのだから疲労が積み重なっていてもなんら不自然はない。むしろ今動けている白服がいること自体が、それこそ本当に規格外なのだろう。
 エーフェを見れば肩をすくめてその姿が溶け消え、鳥に変わって森の奥へと向かって行く。その雪の白と樹の濃緑の合間、影の端に別の色が見えて良しと思う、同時にヴァルディアは振り向いた。
「フェル」
「はい」
 まだ眠そうな声が、それでもすぐに返ってくる。立ち上がった黒服がばたばたとローブを軽くはたいて据わりを直しているところに、構わず声を続ける。
「最後の学生たちが拠点に戻ってきた時点で黒服全員での殲滅だ、準備しておけ。コウ、余力は」
 呼びかければ、くおん、と声。大丈夫そうかと見て、その間にフェルが両腕を組んで真上に伸ばす。欠伸とともに伸びをして、そうしてから一気に力を抜いた。左手に杖を顕現させ、長官のすぐ横に駆け寄る。
「どこまで使っていいです?」
「禁忌以外だな、お前は。二回の使用は流石に査定に落ちる」
「……魔石での諸々省略は……」
「駄目だ」
「駄目ですか……」
「査定は一回落ちると数ヶ月は灰色戻りだ、我慢しておけ」
「……はあい……」
「でもなんか時期早いよね、フェルの査定」
 眠そうな声が新しく加わる。フィレンスは乱れた短髪を撫で付けながら、フェルの髪の一部が崩れてしまっているのを見つけてそこに手を伸ばす。それで気付いたらしいフェルは頭は動かさないようにしつつも疑問符を浮かべた。
「そうなんです?」
「普通は半年任務だったり訓練だったりしてからだから、相当早いんだよ。なんかあったの?」
「魔法院にさっさと決めろと言われていたからな、已む無くだ」
 軽い口調の問いかけにはさらりと答える。フェルは溜息を吐き出した。
「……魔法院もいい加減諦めてくれませんかね……神殿ならともかく、私魔法院に何も協力もしてないですし籍置いてるわけでもないですし……嫌がらせはしてますけど……」
「してるんだ嫌がらせ……」
「『新種魔法の実験』っていう体の良い紫銀の研究に真っ向から凍った雪玉投げつけてるくらいです」
「それ雪玉じゃなくて氷玉ね」
「こまかいー……」
「はいはい。……よし、髪直しといたから大丈夫だよ、眼もちゃんと紅いし」
 顔を覗き込んで言ってくれるのには、フェルはほう、と息をついて胸に手を当てた。ピアスで恒常的な効果を得ているとはいえ、何がきっかけで割れてしまうかはわからない。だからとそのピアスがちゃんと嵌っているかと指先で確認しているうちに、結界の中に数人の臙脂が駆け込んでくるのが見えた。数は七、半端か、と見て、だが抜き身の剣を持った姿が四と見て納得する。五人編成が不可能なら七人編成が妥当だ、より広範囲に目が届く。その分魔法使いの疲労は増すが。
 拠点の結界の中に駆け込んできた七人は一度そこで足を止めて、どうやら息を整えているようだった。少しの間そうと見えて、そして間も無く揃ってこちらへやってくる。フィレンスの手が肩を引いて、それで背を向けて少しの距離を取った。その間に聞き覚えのある声。
「これで、全員です」
「負傷は?」
「医術師の方の、手を煩わせるほどではないかと」
「分かった、一応診てはもらえ。……期待以上だ、よくやった」
「っ、ありがとうございます!」
 応えた彼が頭を下げる。眼を向ければ四班と十班の混成、ちらと一瞥してそれを確認して、それで背の髪を両肩に流してフードを被り直した。学生たちが連れ立って医術師たちの方へ向かって行く合間、気付いたハシェラエットとサシェル、リヴィエラとイライザが小さく手を振ってくれるのには同じように小さく振り返す。それから改めて長官を見上げた。
「どう動きます?」
「エーフェに準備させている。補助に回れ。あとフィオナからの伝言がある、「できる限り張っておいたので樹の上をどうぞ」だそうだ」
 相方と揃ってすぐ後ろに腰を下ろした鋼を見上げた。くおんと小さく鳴いて、額を頬に擦り付けてくる。
 ――任せてくれ。
 ――お願いしますね。
「他の黒は全員行かせた。白は無理して行かなくても構わないが……」
「寝てたら終わってた、っていうのは嫌だなあ」
「お前は純な白ではないから行け」
「……長官」
「なんだ」
「言い方」
「覚悟の上だろう。行け、お前たちが合流した段階で開始だ。良いものが見られるぞ」
 良いもの、のその言葉には疑問符が浮かんだが、更に重ねて促されれば流石に憚るものの方が大きかった。体躯を伏せた鋼の上に尾の先が白と共に押し上げてくれて、そして鋼が動いたと感じた時には目線の高さは人間のそれではなく、そして巨大な翼が羽撃くにしては静かな音を立てて上下する。
「そういえば、どうやって飛んでるんです?」
『飛ぶ時は、風が運んでくれる。高くまでと思うと、魔法か魔力か、精霊たちの協力が必要、だが』
 開始の時とは違ってゆるりと、それでも素早く宙を舞う鋼は言いながら最後に残された一枚だけの膜、結界の中心へと向かっているようだった。浮遊感と共に高度が落ちて、そして静かに着地する感触と同時に鋼の上から滑り降りる。翼を潜る間に青い炎が立ち上って、その先に黒のクローク姿の一人。
「おう、おはよう。来たか、学生全員戻って来たか?」
「はい、おはようございます。残った七人は特に負傷も見当たらずな感じでした」
 言いながら、あれ、と思う。振り返った彼の肩に何かが乗っている。思いながら返答を優先させれば、工学師はに、と笑った。
「良いな、今度か来年の拝樹試験は楽しいことになりそうで。今『妖精』達に準備させてる」
「あ、はい。……えっと、あの」
「これは拾い物。……物? いきもの」
 これ、とは肩に抱きつくようにしたそれを指差して言う。腕なのか、首元を覆うように回された翼は白に灰色の斑点。宝石のように一色で染まった大きな眼に、ふわふわとした棉のような髪からは枝分かれした触覚のようなものが後ろに向かって二本垂れている。なんかどこかで聞いたような特徴の、と首をかしげたところに、肩に跳び乗って来たコウの声。
『……翼使?』
「なんだよなあ、どうみても。まだ小さいから幼生なんだろうけど、五層にいた超高位『異種』が抱えて遊んでてな、聞いたら「ここで見つけた」っての。だからどうすっかなーと思ってとりあえずこうなってる」
「魔法生物、ですよね。……図書館に……?」
「報告はしなきゃだな、絶滅危惧種だし、魔法院に渡すつもりはねえけど館長……図書館長な、あの人なら無碍にはしないだろうし」
「図書館長……えっと、フィエル様の双子の弟さんの、レスティ様?」
「そうそう、シェリンかなんかに聞いたか?」
「一度お会いしたことはあります、でも、……その、ヴァルディア様の養父とは、シェリンさんに聞きました」
「だろうな。あんま気にしないで良いぞ、あいつレスティ様のことは隠してないからな」
 そうなのか、と知ると同時にほっとする。勝手に何か秘密でも知ってしまっていたかと思っていたから。それで、と続ける声には気を取り直して彼を見上げた。
「周辺警戒は他の奴らがやってくれてる、フィレンスはそっち行ってくれるか」
「了解。魔法使っても影響無い?」
「無いように作ってるから安心して連発して良いぞ。フェルはここで補助頼むわ、古代語で書くのが一番効率いいんだけど、俺オフェシスできねえから」
「あ、はい。わかりました。なら、コウはフィレンスと一緒に」
『そうか?』
「オフェシスは書いた段階で魔法なので、『異種』が寄って来やすいんです。寄せられてくるのだけ妨害していてください」
『分かった』
「陣と詠唱護衛ね。了解」
 言った白を青火が包み込んで、その残滓がと思った時には遠くの上空。エーフェが左手に杖を顕現させるのを見て思わず目を瞬いた。――銀の杖。蔦が這うような意匠に、杖先には小さな鐘がからんからんと乾いた音を立てる。
「……工学師でも杖は使うんですね……」
「そりゃまあ工学師以前に魔導師だかんな。書いて欲しいのはこれだ、屑石で印はつけてある。円形に囲うようにして書いてくれ」
 腰袋の中から数枚の紙が取り出されて渡されて、そうして雪を固めて作られた地面の上、少し離れた場所に曲線を描く宝石のかけらの線を指さされる。随分と広い、と思いながら渡された紙を広げてみれば、見覚えのない詠唱文。共通語で書かれたそれをオフェシスに翻訳してほしいという意味だろうとざっと内容を確認しながら問いを向けた。
「属性と効果はどんなです?」
「全属性、俺の使役している『妖精』をほとんどを解放する、まだここには大量に残ってるからな、地中にも空気の中にも隠れてる。俺らだけじゃ無理だ」
 思わず見上げた。解放、の意味は、『異種』に戻すというそれだろう。彼は肩を竦めて見せる。
「やったら完全に『異種』に戻っちまうけどな。大丈夫だ、コウには作用しない。全部で一〇五体、それに対して人間や精霊、『妖精』に対する攻撃を許さないとする為の部分拘束魔法だ。だから古代語が必要なんだがな」
 それで、意味は通じた。だからそれには触れないで、結局、逃げるように別の話題を口にする。
「……エーフェさんが古代語出来ないの、結構意外です。やってそうなのに」
「やったけどダメだったの。思想とか諸々込みで受け付けなかったんだろうな。頼むわ」
 肩を叩かれて、促されてそうか、と思いながら円形を描いたそこに向かう。なんか変なところあったら勝手に変えちゃってくれ、と後ろから聞こえた声には肩越しに振り返ってはいと返す。陣の為の記述ではない、『言語の形をした魔法』の効力を以って陣とその魔法に付属効果を与える意図であることは判る。
 文章は語りかけるものだった。穴は作らない方がいいだろう。最後には完全な環で終えたい。思いながら、左手に呼び出した杖を右手で握って、固められた雪の床に文字を描き始めた。
 ――諸悪は人に在り。
 『異種』を魔法に戻す、その方法を探る工学師らしい書き出しだった。だからその言葉に忠実に円形の線に沿って、外側に文字の層を積み上げて行く。完全に輪に閉じない層は一文を外にずらして穴の無いように、一文の連なる文章として成り立つようにと重ねて行く。雪で作られた地面は文字が描きやすい。手早く訳してロツェに換え、そのロツェを更にオフェシスに翻訳して書き取る。魔法の勉強を始める前から何度も繰り返してきたこの翻訳作業は苦痛ではなかった。むしろ己の中に常にあるこの言葉を扱える、扱う場があることに安堵すらする。
 一枚目を終えたところで文字の層は三つになっていた。二枚目を捲って次の層を書き始める、その合間に、自分のものでは無い構築陣が広がって行くのが足元に見える。一度顔を上げて見た先、瞑目しての詠唱は微かで聞こえない。だがその彼の周囲に大小様々な核が浮かんでは揺れているのが見えて、それで杖先を動かすそこに目を戻す。二枚目はそれほど長くはない。すぐに書き終える。円の半周と少しで書き終えたと見て、それでも手は止めなかった。
 ――私は魔法を憎まない。私は誤植を憂い私は異形に絶望しない。私は総て『魔法』が人と在ることを望み、願う。
 その最後の一文だけを繰り返す。四度繰り返して完全に環が閉じたのを確認してから軽く杖の石突を雪面に突いて、眼を伏せた。
「――Res viaj phomie.」
 『これは私の意志でもある』、そう呟く。同時に杖を伝って魔力が流れ込んで行く感覚。ゆっくりと眼をひらけば、文字列は淡く光を発していた。色は虹、全属性。オフェシスの文字は一つ一つが属性に分類され、その組み合わされた単語一つで魔法一つと同等だ。それが集まった文章の層は五にまで重なった。杖を両手で水平に支え持ち、その場に片膝を突く。構築陣は既に自分の足元も超えて巨大、その先、離れた周辺には白黒が散っているが、自分はそこに加わることはできない。次に何が起ころうとも、この文字に宿る力を安定させ、失わせてはならないから。
 ――集まって来ている。脳裏に聞こえた声には減らして、とだけ返した。青い炎は背の方向、見えないのは不安でも、解ったとすぐに返してくれる鋼の声には安堵する。眼を向けた先、浮かぶ核の数は工学師の姿を覆い尽くすほど。新しく浮かんだ燐光は詠唱とともに核の姿を取り戻しているのだろう。『妖精』には『妖精』の名がある、魔法名よりも重い意味を持つ名だ、少なくとも人間にとっては。
 だが『妖精』たちにとってまでその名の重さはわからない。彼らの個々で性状が違うのも識っている。だから万が一が起こらないように。最も危険なのは術者本人だが、そこまでは庇えなかった。書いてくれと渡されたのは『妖精』たちへと語りかけるもの、そこに命令を差し挟むことはできない。語りかけたところで人間たちへ向けられる攻撃性を宥めきれるかもわからない。魔法を魔法で縛っても、縛られた方が強いのならば縄が切れるだけ。
 深く深呼吸を繰り返す。信じていないわけではない、それでも万が一の為に身構える。視線の先、紅桃の口が噤まれて、そしてからんと、乾いた鐘の音が聴こえた。
 途端に濁流が噴き上がった。そのように見えた。強い気配は唐突に突如として面前に現れたそのまま構築陣を踏み越え八方へと散って行く。眼だけは瞑ってしまわないようにと奥歯を食い縛って、異形、『異種』たちが雪崩れ至近に迫るのを見据え――外套とローブがはためく、フードが落ちて舞い上がった銀の髪の幾つかが異形の体躯に触れてかふつりと切れるのは微細な痛みによって認識して、波が越えたと判断して即座に立ち上がった。
「エーフェさん!!」
「悪いちょっと維持に気ィ割いてくれ俺は大丈夫だから!!」
 工学師はその場に蹲っていた。杖を支えに立ち上がろうとする、その合間の声にその場に踏みとどまる。血の赤は見えない、なら傷はないはずだ。魔力を使い過ぎたのか、暴発寸前に見えると思っても、足元に広がる文字を踏んでしまっては意味がない。結局、元の通りに雪面に膝をついて文字から光が失せてしまわないように集中するしかない。古代語は言語の形をした魔法だ、だが言語の形をしているからこそ、音と声と思考でその効果は容易に揺れる。
 だが見据えた先、工学師の更にその先。暫くの時間をただ待つだけに費やして見えた景色に、思わず、目を見開いた。
 最初に姿を見せたのは『紅鬼』だった。犬の姿をした影の塊のそれは、ゆるゆると尻尾を振って工学師のすぐそばに立ち止まり、そこに静かに腰を下ろす。見やったエーフェの口が動いて、それで真っ黒なその『異種』が頬を舐めるような仕草を示したのを見て瞠目した。影の頭を撫でた彼の手に、影の中から核が『差し出される』。『異種』が自分の意思で以って己のそれを差し出して、そして影は霧散した。
 次に飛来したのは炎を纏った巨大な鳥だった。身体を工学師の背に擦り付けるようにした後に『紅鬼』と同じようにその姿が掻き消える。黒いクロークは燃えているでも焦げているでもなく、彼は雪面に転がった二つ目の核を拾い上げていた。
 良いものが見られると、長官は言っていた。このことかと、杖を握っていた手から力が抜けた。
 ――万が一など起こりようがない。この文字列もきっと自分以外の白黒に被害が無いようにとしただけで、解放した使役者本人の苦しさも魔力の負担が大きいだけで。次々に戻ってくる『異種』たちが核を残して消えていく、その様子をずっと見つめているうちに、いつのまにか最後の結界も崩れ落ちて消えていた。




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