朝議に紫銀、神殿大公の席が設けられることは珍しい。神殿と魔法院は政事には関わらない、これが原則だからだ。例外は神殿大公が王の許可を得て国民や他国へとの関わりを繋いだ時、四季の季節祭に関わる案件で神殿から各部署へ、あるいは各部署から神殿に要請があった場合、それに対する返答があった場合にのみ席が設けられる。それ以外には常に空座だが、今日は前日に貴族院と臣民院からの要請があり、女王が玉座に腰掛けるより少し早くに侍従長に伴われて真っ白な姿で現れた。
 下座には臣民院の議員の中でも何らかの役割を負った者も控えている。朝議で声を上げられるのは王と宰相、各大臣とその補佐、貴族院臣民院双方の議長とその補佐。場合によっては魔法院の長官と神殿大公、全て揃えば数十人。議会に諮る場合はまず朝議で王に申し立て、立案を命じられて協議する、が普段の流れであり、あるいは財政、治安に関しての協議が為される。だが今日は紫銀の席が設けられ、そのすぐ隣に客座すら据えられていた。腰掛けているのは女性、紅銀にキレナシシャスのこの王都には珍しい意匠の装束。
 紗で目元深くまで覆い隠した紫銀は、居並ぶ面々に多少の変化があるのを眺めながら、他の席とは十分離れていることを眼で測って小声で隣のその人に声を向けた。
「……注目されていますね」
「閣下が御目を引くに合わせてのこと。わたくしがというわけではございませんでしょう」
 王が玉座に現れるまで、朝議の場はいつもざわざわとした雑音、小声での会話が絶えることはない。それに乗じての会話は、一番近い座にあるキレークトでも拾いきれはしないだろう。それでも念のためと小声でと思えば、椅子の上にあっても姿勢の変わらないその人、『グランツァ・フィメル』はこの場にあっても緊張のかけらも見せずに返してくれる。フェルは苦笑した。
「そうでしょうか。私は、結構出てくることも多いんですけど」
「それにかけても、閣下を垣間見えるのならばと思う者も多かりましょう。普段であればこうして公で神殿大公の声を耳にすることもあり得ませぬ故」
「結構喋ってるんですけどね……抜け出したり、休憩に散歩に出たりで」
「それでも閣下はどうやら貴族方を嫌っていらっしゃる様子。庭園に出会したとして、声を交わせる者も限られましょう」
「……わかります?」
「ええ、すぐに。面倒とお思いの様子は見て取れましょう。よくよく隠してはいらっしゃるが、閣下は好きも嫌いも極端とお見受け致します故」
 何でわかるのかなあ、と両手の指先を合わせて呟く。すぐ後ろに控えた侍従長が屈むようにして姿勢を沈める。
「そろそろ刻限です。閣下、特にお声は必要ありませんと陛下から」
「分かりました」
 神殿の行動については王が責を負うという意図だろう、今の王は独断は控える性格だ、宰相もそれで良いと判断してのことならそれに甘えることにしようと頷いて、ついで侍従は客座に声を向けた。
「陛下からお声が掛かります。名告りを願います」
「あい分かりました。話は合わせます、陛下には御憂慮なされぬようにとお伝えを」
「畏まりました」
 空気だけが動く気配。紫旗が言伝してくれ、また伝えてくれるのだろうと思って紅の視線に頷き返せば、扇を開いて口元を覆ったフィメルが小さく笑んだ。
「愚息が役に立っているようで、安心しました」
「……兄さんですから」
「あれにも良い影響となりましたでしょう。甘え下手ではありますが甘やかしは上手です、存分に困らせなされませ。あれを兄と仰ってくださるのであればわたくしも母となりましょう、お声掛けくださればいつなりとも」
「……はい」
 この人は、甘い。商人としての気質は根っからのものでも、身内に対してはどれだけ損であろうと害であろうと必ず守るし甘やかすような人間なのだとは、昨夜にクロウィルとユゼが揃って言っていたが。とりわけ乱舞する扇も凄かったが、それよりもそれに順応している夫であるはずのユゼも息子であるはずのクロウィルも揃ってこの人と対等に渡り合っているのが凄かった。自分は無理だ。そう思うからこそ、こう言ってくれるのは有難い。レナが渡り合っていたのは、少々恐ろしかったが。
 扉の前で杖を持つ従僕が咳払いをする音で広い空間のざわめきはなりを潜める。静まったそこに重い杖が床を叩く音。ついで扉の開かれる音が響いて、真紅の衣裳が見えた瞬間に全員が立ち上がった。
「揃っているわね。皆お早う」
「本日も麗しゅう、女王陛下。朝のご挨拶申し上げます」
「ええ」
 男爵の声に合わせて全員が跪礼を向ける中で、大公だけは胸に手を当て僅かに首を垂れて身体を沈めるようにする常の礼を向ける。玉座へと進み出る間に客座に手を向けて礼を制したそれに、フィメルはただ目礼だけを返した。女王が玉座の前に立って、足を止める。
「皆顔を上げ座りなさい。今日は皆の話を聞く前に皆に紹介したい方が居るわ」
 目配せがあって、扇を手にしたその人だけは腰を下さないまま。玉座を向く椅子の方向から少し体の軸をずらして、視線は場の全体を見渡して居る様子だった。
「客座の方は今回の神殿からの要請に快くも応えてくれた方。以前からの功労の大きさ故にこの場で皆に紹介するわ」
「お初にお目にかかります、陛下の膝元にあらせられる方々。わたくしはディアネル商会は惣領、『グランツァ・フィメル』と名告る者です。以後お見知り置きを。此度は神殿大公と女王陛下からの要請にお応えし申し上げ、この場に招かれてございます」
 言葉の最中からざわめきが起こった。あれが、と驚く声がほとんどかと思う間に彼女は続ける。
「わたくしの愚息にあり、又神殿大公の兄役をと先王陛下から賜った『グランツァ・フィーヴァ』もこの場におりますが、役目の為にお目見え出来ぬことの非礼はご寛恕くださいまし」
 言うなよ、という小さい呟きが後ろから微かに聞こえてきて、フェルは笑ってしまう口元を軽く片手で隠すようにして抑えた。それが何に作用したか、ざわめきの色は一気に感嘆するような色に変わっていく。紫旗の中でも第二部隊は少数精鋭で知られ、人員も知れている。加えて今名乗ったその人がコウハの衣装であれば、該当する人物は一人しかいない。ざわめきが落ち着かないのを見て女王を見上げたフェルに蒼桃は笑みで頷いて見せ、それを見やってからフェルは虚空を振り向いて声を上げた。
「ラウラス」
 僅かに間があって、観念したように藍色の制服の彼が『グランツァ・フィメル』のすぐ脇に現れる。胸に手を当てての立礼を向けた姿は顔を上げると同時にまた空気に溶け込むようにして消える。苦笑したフィメルに座を示してから、女王もようやく玉座に腰を下ろした。耳打ち。
《フェルあとで覚えとけよ》
「あとで、だと私寝てますから」
 囁きで返せば言い返す言葉の代わりに後ろ頭をつつかれる感触。それで気配は離れて、すぐ後ろに留まったと思えば周囲に馴染んで消えていく。紗の下の視線を戻せば女王の声が響いていた。
「先に議会に諮った通り、国内外に対して神殿大公からの使節及び神官の派遣を行ったわ。併せてディアネル商会の好意を持って支援団が編成されている。先にこちらの話を確定させて頂戴、緋樹を捨てないと決めた以上一刻を争う議題よ」
 視線を動かして見やった先、宰相は王の傍に立って控えたまま。そう見ている間に一番に声が上がったのは大臣の中からだった。
「ディアネルは緋樹の復興に手を貸してくださると?」
「ディアネル商会が主に拠点としているのはこの国です。またディアネルの商人たちも職人たちもこの国の民、多くが先の天災による犠牲に心を痛めておりましょう、何より商会にも犠牲がありました。これがこの先十年の商機とも判じてのこと、彼らの死に報いる為にも大公閣下のお声は有難い事でした」
「緋樹は今対価を差し出せる状況にはないが、それでも尚に?」
「対価は既に頂いております。この国に限らず、人民の為の活動においてこの先三年間、大公閣下の『雪割草』の紋章を借り受けております故、それ以上は過剰にも増して求め過ぎましょう」
「神殿の印を商会に預けなさると!?」
「そのようにと、閣下と陛下におかれましては確約を頂いております故」
 視線の大半はこちらに向いた。答えようと思うより先に、予期していたのだろう女王が動いた。
「緋樹の復興、並び難民の保護と今後の生活の確約を第一にせよと私は皆に命じたわ。その為に必要な札は切る。『雪割草』を貸し与える旨は私から提示した条件です」
「それでは他国からの眼が変わりましょう、万が一にも今敵対国を作るわけには参りません」
「……案外と、見くびられたもの」
 隣の席のその人が落とした声に、水を打ったように音が消え失せた。思わず背筋の冷える感覚に陥るのを何とかなだめて、傍目にはわからないように平静を取り繕う。立ち上がるのが視界の端に見える。肩を押さえてくれる手があるのには安堵して、その間に冷徹に響く声。
「『グランツァ・フィメル』が他の国に於いてどのような存在であるかを知らぬとお見受けする。となればこの国に関しても同じこと、わたくしがディアネル商会の惣領として『雪割草』を借り受けると心を決めたのは何もキレナシシャスのみを見据えてのことではありませぬ。ディアネル商会が紫銀の割印章を持つ、これが何を意味するかご存知か」
 応える声は無い。現れそうにないと見てか、そこでようやく宰相が口を開いた。
「ディアネル商会、及び『グランツァ・フィメル』は他国においても多大なる功労を納めている。そしてこのキレナシシャスを拠点に選んだといってもキレナシシャスという国に属する組織でも無い。そのディアネル商会と『グランツァ・フィメル』がこの大陸にもたらす影響は多大であり、その商会が神殿大公、『紫銀』の割印章を持つことはエラドヴァイエンのみならず、『グランツァ・フィメル』の息のかかった国の全てに影響を与える。キレナシシャスにではなく、神殿大公に、良い意味で」
「陛下と宰相殿がそう理解なされておりますのは結構、しかし当人を招いてこれではキレナシシャスの仰る『根回し』にも懐疑を覚えますね」
「当人を招いてこそのこの会話と見てのことよ、初めて『グランツァ・フィメル』を目にする人間もここには多いから。……我が国として、まずは紫銀、神殿大公の権威を高めます、そしてキレナシシャスにのみ影響する存在ではないことを知らしめます。大公は未だに国外に積極的にその手を延べたことがなかったから。またこれに関してはキレナシシャス王家は以後関知しない。全て神殿大公本人と『グランツァ・フィメル』の協議によって事を成す。それが『雪割草』をディアネル商会に預ける最低条件です」
「国から神殿を切り離すと?」
「ええ、その通り」
「ですが大公は王女殿下であらせられる。切り離すと言っても……」
「『王女』の身分は私的なことと心得ています」
 口ごもる声には即座に返した。誰かは知らない、だが明言せずに勘違いされるのだけは避けたかった。『グランツァ・フィメル』の視線に微かに頷けば彼女は静かに客座に戻る。その合間に言葉を継いだ。
「そもそも私が紫銀であるという理由のみで王家に列せられたことに、私自身が納得していません。あくまでも私的にそのような位置にいるだけです。大公位にある限り王女のそれよりも大公としての責を果たすべきと考えます」
「不敬にあたりますぞ。先王陛下の御遺言に背くとは」
「承知の上です。先王陛下には感謝しておりますから御遺言には従いましょう、ですが勅令を以ってまで人の心を動かせますか」
 言えば、席次からして大臣のどれかだろう、諫言しようとした彼は押し黙る。もともと当代の紫銀は概ね王家に従順であっても、自分が王家にあるとして扱われることを嫌うことは知られている。今まで貴族たちが積み重ねてきた紫銀への行いの程は知れている、だからか、声を上げたのは臣民院の次席だった。
「大公の責としてディアネル商会の息のかかった全ての国の民を抱えなさるおつもりか?」
「大公の責として、使えるものは全て使い切ると言っているのです。ディアネル商会も手段の一つ、そして最も力のある切り札です。私一人でことを成せるわけでもなし、使えるものは全て使います。『使い切り』ができるのはこの国の中では私一人だけでしょう。陛下にも魔法院にも不可能です。陛下が成せば政、魔法院が行えば魔法派の専横と取られかねない。政にも魔法院にも関知しない神殿大公の位と『神殿』そのものは本来国に属すものではありません。故にこの国だけは紫銀の無い時代も神殿を守り続けてきた。違いますか」
 否と返す声はどこからも上がらない。玉座の女王も何も言わないまま、ただ視線を向けているだけ。宰相も何も言わない、そこまで見て、では誰も何も言わないだろうと小さく、隠すように息をついた。
 紫銀は神に触れることのできるほぼ唯一の人間。だからその紫銀を『神殿』に納めることで、神殿を各地に置き神官を配して神に間接的にでも触れる機会を作ることで、最後には国民一人の声でさえ紫銀を通して神に繋がる。神と人とが完全に分断されないように、その名目でキレナシシャスは神殿を守り、紫銀をそこに納めてきた。他国に対して『この国は紫銀によって神と繋がり続けている』と言外に主張するために。そのような国にある紫銀を害せばまず精霊の怒りを買う。精霊の怒りは彼らを統括する神の怒りになりかねない、神殿によって紫銀は常に精霊とも神とも繋がっているから。だから他国はキレナシシャスに攻め入って侵略しようなどとは考えない。考えられない。窮地に陥らない限り。
 紗の下で目を凝らす。いくら遮られているからといっても妙なぼやけ方をすると思って、そろそろか、と思いながら声を放った。
「貴族院、臣民院には『グランツァ・フィメル』と神殿大公の協力に関して審議を願います。利点と懸念の洗い出しを。こちらで用意した資料はこの後に、議長ご両人、宜しいですね」
「……畏まりました」
「願ってもないことです。必ずや皆の総意を取りまとめ、後日ご報告申し上げます」
 初老の侯爵、彼は南の。その短い言葉に続けたのは若い男性、しっかりとした衣服に身を包んではいるが勲章を持つ貴族ではない。大臣や主な役職はやはり貴族が多い、その中で怖じもせずにはっきりと言い切ってくれるのは良かったと内心に呟いた。それから視線を玉座へ向ける。
「陛下、私からはここまで。これ以上は控えます」
「……ええ、わかったわ。各部署、これについて何か問題がある場合は直接神殿に通すよう。キレナシシャス王家は神殿大公の独断を静観します。臣民にもそれを求めます。宜しくて」
 否の声が上がらず、ほとんどの人間が礼を象る。それを見ながら、できる限り不自然にならないように左腕で探った肘掛を掴む。横から視線が向けられるのがわかっても反応は返せなかった。早い。思ううちに身体に力が入らなくなっていく。女王の声は続いていた。周囲に気づいた様子はないだろうかと目をやってもぼやけて何も見えはしなかった。
 遅効性と言っていた、だが進行がここまで早いとは。このところ毒に触れていなかったからかと思いながらも紫旗を呼ぼうと唇を開きかけて、途端に迫り上がるものに思わず右手で口を押さえつける、同時に横の女性の声。
「閣下?」
 さざめくような音が一気に襲いかかってくる。前傾した身体が落ちていく浮遊感、即座に伸びてきた腕が捉えてくれても半身が床に叩きつけられた。
 すぐに抱え上げられた。血臭、血を吐いたのかと思ってただ反射的に抑えようと喉に力を込めて、それを制するように身体を俯せにされて口をこじ開けられた。
「飲み込んではいけません、吐きなさい! 陛下!!」
「クライディオル、医療部を! キレークト、フィエリアルは!?」
「登城していらっしゃるはずです、院と医療部以外の皆はこの場から退がりなさい! エフェス、ラディクド、部屋か図書館かどちらかにいらっしゃるはず、すぐに」
 声だけは聞こえる。応えることはできなかった。喉が鳴る音が聞こえる。口の中に冷たいものが触れて、すぐに離れていく。
「毒です、すぐに処置を」
「紫旗、すぐに運びなさい! エレィヴァ、ラスディス、侍医を連れてすぐ処置なさい! クライ、すぐに全門の封鎖を、紫旗の第三から第五、予備隊も使って昨夜から王宮に出入りした者の全てを確保なさい!!」
 女王の声。被さるようにありとあらゆる指示が飛び交う、その中で身体を持ち上げられる浮遊感。なんとか目を凝らせば藍色と深い青。
 話と違う、唾棄する声になぜか安堵が浮かんで、眼を閉じた。




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