次に眼を開けたと思えば、半身が水に浸かっているようだった。冷たさは感覚としてある、寒さに身体が悴まないのはあくまでこれが現実ではないからなのか。
 硬い床、岩盤の地面に腕を突いて立ち上がる。水に浸かっていたのは半身なのに全身が水に濡れている。眼鏡に水滴が伝って視界が歪むのには眉根を寄せて、一度外して水滴を払ってからかけ直す。溜息を吐き出した。
「毎度潜るたびに思うことですが……振り回されますねぇ……」
 魂の階層。夢物語以上に奇妙なものがこれだ。体感はあるのに実感はない、起こるだろうと想像ができるものの大概はここで体験できる。ようやっと第四階層、人格の核のそこだと思って周囲を見渡せば、広い、ひらけた空間だった。硬い岩盤の床、遠くに壁が見える。上向けば、やはり遠く高くに天井らしき岩の境界が見えた。足元は、踝は覆う程度の水が一方行へと流れ続けているようだった。ちょうど身体を向けた方向に空間は続いている。振り返れば、岩を削って磨いた両開きの扉。
 足を向けて手で触れてみる。力を入れてもびくともしない。取っ手や、手がかりになるような窪みもない、そう思って眉根を寄せている間に後ろで流れる以外の水音。
「無駄だ、何をしようとこちら側からは開かない」
 男の声。振り返れば、ゆったりとしたローブを纏った長身の一人。色は紫銀、階層の中でもここまで紫銀が多いのはさすがに、と思っているとその男は静かに目を細めていた。
「……縁の無い者だな。にも関わらず『無意識』も『原風景』をも越えてきたか」
 ここは『人格の核』の場所のはずだ、順繰りに潜るしかないのだから。だがこの男が核のようには見えない。少なくともこのような品定めの眼を、あの子供はしない。だから迷って、それから問いかけた。
「……貴方は、夢の守ですか?」
「さてな。お前たちがそう呼ぶ者は別に居ただろうが私は知らぬ」
「なに……?」
「ここは『水獄』だ、それ以上でも以下でもない、核は居ない。水獄が生み出された以上正常なそれとは違う。何を探しに来たかは知らぬ、関知する気も無い。が、さっさと戻れ。大方この娘の記憶でも探りに来たのだろうが」
 言う、その彼が振り向いて奥へと向かう。案内する気ではないのだろうがと思いながらもそのあとを追いかけるように足を向ければ、彼は嘆息したようだった。
「無駄だと言っている。戻れ」
「目的があって来た以上、それが不可能と解るまでは抜けられません」
「此処は水獄だ、核は居ない。そう言った」
「では貴方は」
 返答はない。何故と思う、それが積み重なっていく。『原風景』にも異様なところは多かった。深層は表層に影響する、『人格の核』の在るべき階層にそうでないという者が居るのであれば『原風景』にあの本持つ少女が居たのも頷ける。そもそもどうしてここにこの男がいるのか、という疑念は解けないが。思い起こされるのは十年前、始めてあの『紫銀』を診た時の。
 男は答えないまま、水の流れの方向へと迷うことなく進んでいく。そのあとについて進むごとに左右の壁が次第に狭まっているのに途中で気付いて、それにつれて水の流れる厚さが増していく。膝下を水が覆うようになった頃には、流れる水の重さを感じるのに歩行に難のないことを有り難く思った。そういうところで現実的ではない、そういうものであるはずなのに、想定していた通りのことが起こっていることに疑念を抱くほどには異様続きだった。
「……貴方は『原風景』をご存知なのでしょうか」
「それが?」
「何者かが居ました、それに紫銀の双子が。他には誰も居ませんでしたが」
「当然だ。この娘はそれしか知らない」
「知らない……?」
「この場所。この場所を封じ込める村。自分と弟、村の外の森。父と母の存在。それを知っているだけだ。知るだけなら誰でもそうだろう、覚えていなくとも己に父母があることくらいは知っている。弟を夢想しても不思議ではない」
「『フェルリナード』には弟が?」
「『フェルリナード』には居ない。お前の方がよく知っているだろう」
「では、『ラフィエツィア』には」
「見た通りだ。この娘はそれを『一番の安堵』として認識している、ただそれだけのことだ」
「……フェルリナードの本来の名が『ラフィエツィア』ですか」
「違う」
「ではあの名は」
「あの名が『原風景』となった。それだけだ」
 空間は急に窄まって、通路のように変わっていた。男が足を止める。何かと思えばどこか、諦めたような声が聞こえた。
「……今のこの娘は違う」
 男の髪は伸びるがままなのか、毛先は奔放に跳ねている。それが動いて見下ろしているのだと判ってその男の横に回り込むようにすれば、見えたのは幾つかの岩が丸く突き出たそこに、寄りかかるように体躯を伏せた一人。俯せに両腕を緩く組んで、そこに銀の頭を預けて眼を瞑った彼女。
「……フェル……?」
「……この奥に『人格の核』が居たであればこれだろう。だがこれは眠り続けている。これが『記憶』を管理するでもない。これが核だ、そうとしかありえない。だが眠っているのであれば核足り得ん。故にこれは核でもない」
 言う声を聞きながら水音を立てて近付いてすぐ側に膝を突く。冷たい水の中にあるには心許ない薄い紗を重ねた衣裳に、銀の髪はとりどりの色をした傾いた花冠で飾られている。腕は肌が剥き出しのまま、伏せられた顔の頬に触れれば生きているとは思えないほどに冷たい。まるで魂抜けしたようなと思うと同時に、気付いた。視界の端に視線を向ける、青い空間、水と冷気と岩盤に岩だけのそこに、水の中にゆらゆらとゆれるもの。――黒。少女の背から垂れた翼の、風切羽の漆黒。
「一つ教えてやる」
 男の声。見上げた胸倉を掴まれて押しやられる、引き剥がそうとする暇さえ無かった。
「この娘は有翼だ。この娘はそれであることを誇りとして思っていた。……せめてそれだけでも教えてやれ」
 突き飛ばされる。水に転がると思った予想は裏切られた。見開いたそこに見えたのは崖の上の男、流れ落ちて瀑布と変わる水。
 長い浮遊感の最後に身体中を強く叩きつける衝撃があって、それに耐え切ることが出来ずに、意識が途切れた。



 次は、視界よりも先に耳に何かが聞こえていた。小さな声で、囀るように歌う声。
 やはり倒れているようだった。『原風景』まではすんなりいっていたものなのだがと思いながら腕を突いて身体を持ち上げようとすれば、くす、と笑う声が聞こえてきた。
「こんなところにまで……彼の手酷さに嫌気が差して、帰っていったかと思ったのに」
 女性の声。立ち上がって眼を向けて――瞠目した。眼を見開いた。白い空間の中に、巨樹の枝に手を伸ばした横顔に埋まった瞳は黒い。白い衣服は先に見た核の彼女のそれと似ている、そこに流れる髪の色も黒。何も言えないままでいれば、こちらを向いたその表情はやわく笑みを浮かべた。
「なぁに、お化け見たような顔をして」
「……いえ、失礼を。魂の中に黒がいるとは、思わずに」
「『外』では珍しいものね、この色は。こんばんは、かしら。でも眠っているとしてもそう言うのには早い時間かしら。あなたの名前は?」
「……フィエリアル=ホルス=コド。この子……フェルリナードに魔法を教えたうちの一人です」
「こんにちは、フィエリアル。私はラフィエツィア。ラフィエツィア=ラヴィニア=シャナクァーア。此処は夢の守だった場所」
 眉根を寄せた。あからさま過ぎたのか、彼女は口元に手を当ててくすくすと笑う。
「そんな、頭から嘘だって決めつけないでくれると嬉しいわ。嘘は嫌いなの、私が夢の守だったのは本当だし、名前が『原風景』のあの子と同じなのも本当よ」
 だが面立ちが違う。いや、長じればこうなるのだろうか。柔らかな目許、通った鼻梁にふっくらとした唇。耳に髪を掛けながら、彼女は枝を見上げる。巨樹の枝垂れた枝は長く、葉は多い。
「でもね、私がそうだったのは昔の話。『夢の守』は必要なくなったの」
「……何故?」
「この子に記憶は要らないから。あっても邪魔なだけだから。溜め込む海を失ったから」
 延びた手が葉の一つを戯れにちぎり落とす。葉は白い空間の中に落ちて消えていく。千切られたはずの葉は瞬きの間に元通りになっていた。
「彼はね、苦しんでいるわ」
「彼?」
「あなたがさっき会った『彼』。彼は長引かせたくないの、核のあの子が泣き出してしまわないうちにと思っている。『彼』は恐怖も後悔も悲哀も教えなかった。なのに、誰かがその邪魔をした」
「……その『誰か』を貴女は知らないのですか?」
「知っているわ。『ラフィエツィア』にとっては大好きな人。『フェルリナード』にとっては命の恩人。けれど、『彼』と、彼と同じ場所で待ち続けている『彼女』にとっては怨敵よ。あの人のせいで、彼も彼女も幾つもの季節を逃した。その所為で、結局は『フェルリナード』も苦しんでいるわ。けれど彼女は恨まないでしょうね、そういう子だから」
 教えてくれる気は無いらしいと、人の形をした『夢の守』を見つめる。言葉は止まないまま流れていく。
「だから私の『夢の守』は必要無いの。『フェルリナード』に恐怖も悔悟も悲哀も無いの。『彼』がそう望んでいる、私もその方が良いと思っているわ」
「フェルリナードは己の所為で他者が死んだと思っている。そしてその人々を覚えていない事を悔い、自分を責めている。人として当然の情動では?」
「そうさせたのは、あなたたちでしょう?」
 枝には蕾が付いているらしい。大きな花になるだろう、今にも咲かんとしているのに、だが生気は感じられなかった。
「『フェルリナード』にそれを教えたのはあなたたちでしょう? 持ち合わせていないことを、忘れていることを、そうなっていることがおかしいということを、あなたたちの価値観を押し付けて異常だと決め付けたのはあなたたちでしょう? 気付く前はこのままで良かった。『フェルリナード』は『フェルリナード』として生きる道を進んでいれば良かった、それで全てが崩れ去ったとしても。なのにあなたたちが暴こうとする。そうなるように『フェルリナード』を差し向けて誘導する」
「フェルリナードがそう望んだ」
「望ませたのよ。あの人たちが。『忘れている』ことに執着させて、『記憶が存在しない』ことを暴かせようとした。そしてあなたもそれに乗せられて此処まで来てしまった」
「なにを……」
「『フェルリナード』の記憶は無いわ、蓄積する器が奪われて溢れたものは行くべき場所へと行ったから。『ラフィエツィア』の記憶は無いわ、あの人に狩られて『彼』の格ごと奪われてしまったから。残っているのはあの子が身体に刻み込んだ魔法だけ。魔法だけで良かった、魔法だけで生きていけたのに、あなたたちがその可能性まで奪ってしまった」
 黒のその人は、いつの間にか表情を失っていた。枝を見上げていたその視線がこちらを向く。ゆったりとした動きの最中に瞠目して、眼が合った瞬間に総毛立って半歩足を引いた。
 ――何だ、『これ』は。
「『彼』がひとつ教えたのなら、わたしもひとつ教えるわ。『彼』がほんとうを教えたのなら、私もほんとうを教えるわ」
 存在感が強い、視線が強い、そんな低次な言葉では済まされない。距離を置いての視線なのに、まるで全身を絡め取られて、心臓の動きひとつでも全て彼女の手中にあるかのような感覚。
「『フェルリナード』は『嘘』よ。そんな名の人間は居ない。存在しない。求められていない。『ラフィエツィア』が望むのは『ツェツァルフィスィア』を解放すること。いつだってそうだった。その為に生まれて来た。その為に生きて来た。シェルヴィスィアを守る為に、父の願った通り、母の想った通りに一族を治める為に、その為だけに翼を得た。そう生きられることを誇りに思っていた。ただひとつ弟が寂しがるのだけは不安だったけれど、きっと儀式が成れば樹である大人たちが育ててくれると信じていた」
 視線から逃げられないでいるうちに、黒は此方へと足を向けていた。距離が縮まる、身体は必死に逃げようとしているのに逃げられなかった。――動けなかった。恐怖ではない。ただただ、『彼女の眼が自分の眼を見詰めている』という状態を崩したくなかった。それが欲求だと気付く間も無く、黒の彼女の手が胸に当てられる。
「『フェルリナード』に伝えて。『ツェツァルフィスィア』はずっと、貴女が気付くのを待ってる、って」
 手に胸を押される。それだけで息が詰まって、身体の均衡は容易に崩れたのに視線は外せなかった。落ちる。白い空間のどこへへか。彼女の声。
「二度と来ないで。これで道は決まってしまった、来る必要も無いでしょうから」
 言い放って、黒の視線が外される。それに少し遅れて、白が全てその色に染まった。



 先生、と呼ぶ声がする。肩を揺すられる感触。がくがくと骨の関節がずれるような感触に左手が浮いて、それでそれは一旦止んだ。
 次第に視界に色が戻ってくる。ゆっくりと重い倦怠感が同時に自覚されて、大きく息を吸って一気に吐き出した。
「先生」
 応えようとして、喉がつっかえて咳き込んだ。右袖で抑える、四肢の感覚が戻ってくる。見えているのが自分の膝と床、寝台の端とまで見えて、肩を支えてくれる感触に気付いた。咳き込みながら、手を伸ばしてその手を軽く叩く。何度か深呼吸を意識して繰り返して、その終わりにようやく声になった。
「……何秒程、死んでましたかね」
「、すみません数えてはなかったです、でも、数十秒は息も心拍も……」
「ああ……そうですね、死ぬようなのは久々でした。大丈夫ですよ、ヴァルディア、もう戻ってこれましたから」
「……何度死んでるんですか、先生……」
「十数回ですよ、まだね。どの時もちゃんと生き返ってるので無問題です」
 言いながら顔を上げる。まだ視界はぼやけていたが、溜息したヴァルディアの手から杖の消えるのが見えて苦笑した。こうして誰かしらが蘇生術を施してくれるから、幸運にも死に戻り生き返りを繰り返しているのだが、言えば今度は放置されかねないと口にはしない。
「……フェルの様子は、どうですか」
「まだ眠っています、特に変化も無く。……何があったんですか」
「……ひとまず記録を取ります、忘れ物がないようにしなければね」
 立ち上がろうとすればぐらりと揺れる、息を詰めて寝台の端に手を突いてなんとか転倒だけは免れたと思った時には、両手に椅子に戻されていた。
「無茶しないでください、本当に死なれたら堪らない。何があれば良いですか」
「……結構疲れてますねえ……衰えを憶えます」
「三〇〇前はクウェリスの前例がありますから冗談として成り立ちませんよ」
「エルシャリスは無駄に頑健なんです、コドはどうも衝撃に弱いところがありますねぇ……」
「先生」
「はい。……書くものを。文机に、一式揃えたものを持ってきていますから。侍従方に、白湯と湯冷ましを用意するように伝えてください。レナ殿もしっかり休ませませんと」
「こちらでやっておきます」
「お願いしますね」
 顔を上げれば、金色が小さめの画板とちょうどの大きさの紙、見慣れた万年筆を差し出してくれる。受け取って万年筆の蓋を外して、まだ輪郭のはっきりとしない視界の中に構築陣を刻む。手の中の万年筆がそれでふわりと浮き上がったのをよしと息をついた。
「『全てを文字に象る法』」
 呟いて眼を閉じる。初めから、彼女の中に潜り込んでから全てを順繰りに脳裏に思い浮かべていく。疑念は差し挟まない。万年筆がそれを文字にしていく音。
 暫く記憶を辿ることだけに集中して、し終えてから眼を開けば鮮明に絨毯の柄まで見える。それでも違和感に眼鏡を外して目頭を揉んで、それから画板に眼を落とす。浮かんだままの万年筆を取り上げて蓋をして転がして、九枚に及んだそれを持ち上げた。
「……こういうのの分析は、レスティの方が得意なんですがねぇ……」
 時計を見やる。潜ってから既に四時間が経っていた。




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