目を開ければ、白い紗が幾重にも折り重なった天蓋の上に、精緻に組み上げられたタイルの模様が見えた。上向いた身体の下には硬い感触。
「……起きられたか」
 声は横から聞こえた。動かしにくい首を曲げてそちらに視線を向ければ、少し離れた場所に椅子に腰掛けた人。足を組んでいるのか、刺繍やレース、宝石や真珠で飾られた豪奢な黒いローブの裾からは靴の爪先が見えていた。落ちすぎた視線を上向けようとして、なんとかそれが叶って見えたのはやはり黒。――黒髪黒瞳。
「ややも眠ったままかと思って居たが、目覚めたのなら良し、か。お前が魂駆けてこちらに来るのは初めてだな、龍神どもが騒いでいる」
 よく、解らない。言葉は聞こえている。理解もできているように思う。だが――ひとにありえない色を持つその人が言う言葉は、よく、解らなかった。だからか、なにも言葉が浮かばない間にその人が立ち上がって、そしてこちらに距離を詰めて来る。紗の天蓋をくぐり抜けて、顔のすぐ横に手をついて覗き込んで来る黒い瞳は、なぜか懐かしそうにしていた。
「紫銀神というのは今空位でな、その上今お前を特にと守護する神は表舞台には出られない。だからぎゃあぎゃあと騒ぐ龍神は黙らせて私が来たのだがな、その顔は全くわかっていない顔だな。意外に思うか、『黒』を持つ神が居ることは」
「……大賢者さま……?」
 喉を使おうとも思っていなかった。ただすんなりと浮かんだ言葉が声に変わっていた。それを聞いてか、その人――女性は、黒い髪を揺らして笑った。笑んだ。華やかな女性の笑み。
「ああ、ようやく声が聴けた。初めて見えるな、天秤の子。ジュセの阿呆にはもう会ったらしいな、私はアレの上司だ。『大賢者』とは称号でな、名はエシェルティア、エシャルと皆は呼ぶ」
「エシャル、さま……」
「そうだ。さて、己は名告れるか」
 言われて、瞬いた。浮かんだのはひとつだけだった――フェイリェル・レスィアレナィアディア=アーカシャード。不意に気付く。このひとが、この黒の神が口にしているのは古代語だ。応えた自分の言葉もそうだ。だから意識して口にしようとして、出来なかった。唇は動く、舌も何かの音を象ろうとする、なのに音未満の音しか成らなかった。しばらくそれを繰り返して、不意に黒の目元が和らぐ。
「無理をさせたな、許せ」
 もう片方の手が伸びてきて、頬を撫でられる。暖かいと思って、それで気付いた。自分の体は冷え切っている。それでも寒いとは思わなかった。『いつもこう』だ、だから気にならない、いつもならそのはずなのに。
「さて、目覚めたなら衣を用意させねばな。まだ起き上がらずともいい、……いや、やめておけ、の方がいいか」
 ぼんやりと思考が動いている間のその言葉に、疑問符が浮かぶ。見てわかるようなそれだったのか、苦笑した黒の手は頬を離れて肩に触れた。何の遮るものもない、肌同士の感触。
「魂とはそういうものだからな。さすがに神が相手といえど裸体を晒そうとは思うまい?」
「……え、……え、ここ、」
「ようやく追いついてきたな。ようこそ天界へ、だ。少々不本意な形ではあるが、歓迎しよう、天秤の子」
 膜が張っていたような思考が瞬時に晴れた。瞠目する、黒の神、天界。
「……わたし、魂抜けして、……?」
「ああ、落ち行きそうなお前を見て月神が掬い上げてここに据えた。随分と長らく眠っていたが、おかげでこの天界の空気にも慣れたろう。下界の様子は判らぬが、戻れるまではここで過ごせ。それしかない」
「……なん、で、わたし、フィエル様と話して……」
「様子を見ていた精霊も共に戻ってきている、お前の『子』も付いてきているようだから、ひとまずは話が出来るようにせねばな」
 言う彼女が繊細に、豪華に飾り立てられた上着を脱いで体の上に被せてくれる。肘を硬い、石だろうか、それに突いて上体を押し上げれば、白い一枚の布が身体の上に被せられた以外にはその黒い上着しかない。その黒い上着を胸元に押さえてくれながらふふと笑う声。
「魂抜けにして此処に至った者の衣は緑樹が作り具えるが習わしでな。ひとまずはそれに袖を通しておけ。龍神どもが今か今かと気が急いてあの扉の向こうに固まっているようだからな」
 言われるまま、彼女の手が言葉と同時に動いて黒が背中から全身を覆ってくれる。恐る恐る袖に手を通して、そうしているうちに胸元の留め金を留めてくれる。甲斐甲斐しい、そう思いながら何となく所在無く俯けば、すぐに掌が頬に触れて上向くように支え上げられた。
「気に病むな。魂抜けはどのような人にも起こり得る、お前は紫銀だ、我等とも近いのだから尚更のことだ。ラシエナなどは何度もこちらに来ているだろう、この頃は魂抜けする者も多くてな。さあ、立てるか」
 背に手が当てられて促されるのには、黒いローブの前をかき合わせながら慎重に裸足を下ろす。どうやら石で作られた台の上に寝かされていたようだと、その縁に腰掛けても爪先が届かないのには、苦笑した漆黒が両手で腋を抱えて降ろしてくれる。何となく気不味く思えてしまって、俯いてローブの前を掻き合わせている視界が暗くなって見上げようとした時には、目の前は真っ黒なものに埋め尽くされていた。
 背中に両腕の感触、頭を撫でるように手の感触。思わず目を瞬いても見上げられないほど強く抱きしめられていた。
「……エシャル様……?」
「……うん、やはり天秤の子は良い。私の色に一番近い」
「あの、天秤、って……」
「人の子の紫銀のことをこちらではそう呼ぶのでな。両極の子、全てにおいて高次の中庸を保つ者。まあ渾名と思え」
 さて、と区切りをつけるように言ったそれと同時に手放される。右手を左手で握られて、ローブを引きずってしまいながら、脚が出てしまうのが恥ずかしくて左手で何とか見えないように隠し隠し、扉へと向かう黒い背中についていく。見上げた黒髪は、どこかからの光を弾いて、きらきらと様々な色に輝いていた。こんな黒は見たことがない、と、呑気に見とれているうちに、一旦その神の足が止まって、ふむ、と息をつく音。振り返った彼女は握った手を一度撫でるようにしてから放して、それから少し押さえた声音で言った。
「ここで待っていろ」
「……は、い……?」
 扉までは十歩、あるだろうか。その距離をかつかつと素早く埋めて、黒の神は一旦足を止める。腰を落として片足を軽く引く動作が見えて、あ、と思って二歩下がった。す、と一度深く息を吐く音、吸い込む音が聞こえて、フェルは訪れるであろう衝撃に黒い布地を握って身構える。次に見えたのは、思った通り、引かれた片足が宙に舞い、黒い髪が滑らかに曲線を描く光景だった。
「はッ!!」
 明らかに巨石を磨いて文様を彫り込んだのだろう巨大な扉が、轟音を立てて蹴り開けられる。身体の軸に一切のブレのない見事な回し蹴りだ、と、そう見ているうちに同時に種々様々な悲鳴と叫び声。黒の神はかつんと踵を鳴らして凛然と姿勢を正して、広い廊下に散らばった十色を、特に完全に倒れ伏してしまっている数色を睥睨しているようだった。
「何をしている馬鹿ども。働け」
 完全に倒れ伏しているのが茶と翠、緑と藍で、離れた場所であわあわと挙動不審に陥っているのが蒼。蒼のさらに奥、廊下の壁に凭れて目を逸らしたのが赤で。その他の色たちは、苦笑なり、気まずそうにしていたり。唯一からからと笑っているのが青だった。
「く、はっはっは、ああ面白くてたまらぬ! 地も風も木も増して闇がこうも倒れ伏しては天秤の子の前で何とも格好の付かぬ事か!!」
「うっ、せ、ヒセルス……」
「エシャル様……建造物破壊は……平に……」
「たかが女人のケリ一発で壊れるかこの頑丈な戸が」
「そうとしてもわざわざ集まって様子を伺っているからと岩の戸で龍神を吹き飛ばすなどやはり漆黒はなさることが過激であらせられるなあ! 楽しゅうて堪らん!」
「楽しいでやるか享楽主義め。さてそこの男ども四人。反論があるなら一応聞いてやる」
「……物理はだめです……」
 呻いた翠にかつかつと詰め寄った漆黒は俯きに転がったその背に足を落とした。潰れたような声で呻いたそこに冷徹に声が降る。
「働け、と言い置いて来た筈だが?」
「だって言う割には何の監視も゛ッ!?」
 再び踏み込まれた翠がそれで完全に沈黙する。ヒセルスが耐えきれない、というように声を抑えながらも火焔の肩にすがるのをよそに、『大賢者』はそこをぐるりと一望して、そうして見つけた方に向かってか口を開いた。
「ロス、オフェリア。お前たちの色の子だ、世話を見てやれ」
「え、いいの!?」
「オフィー、はしゃぎ過ぎですよ。畏まりましたエシャル様、中に入っても?」
「ああ。フェル」
 水を向けられた時には完全に身構えが硬直に変わっていた。名を呼ばれた、そう思った時には肩が跳ねていて、それを見て彼女は笑う。
「気にするな、いつものことだ。十色は知っているだろう、残りの二色だ」
 いつものことなのかこんな騒動、とは浮かんだが言葉にはできなかった。それよりも残りの二色、というそれに疑問符が浮かんで、大きく開かれた戸の端に新しく二人が見えて、それで、え、と声を零した。
 見えたのは長い真っ直ぐな銀を揺らした長身の女性と、癖のある紫の髪を高い位置で一つ結びにした男性。――紫神、銀神の存在は魔法学では認められている。だが人間の誰一人として、その存在を確かめられたことはないと。その片方、女性、銀が、細身に仕立てられたドレスのようなローブを翻しながら駆け寄ってくる。髪と同じ銀色の眼は、好奇か歓喜にか輝いていた。
「やっと会えたわ! 今まで貴女に会える機会なんてほんとに無くて、ヒセルスやウィナに恨み言ばっかり積み上げていたのだけれど!」
 うまく反応出来ないうちに、駆け寄ってきたその人に両手が握られる。嬉しそうに頬を上気させたその人は、まるで子供のように笑う。
「初めまして、ね、フェル。そう呼んでいいかしら」
「、え、と、あの、……」
「オフェリア、急すぎますよ。まず私たちが何者か名告らねば」
「はっ。そうね」
 後ろから追いついてきた長身の紫が、銀の上から覗き込むようにして言う。見上げた銀は、はぁ、と悩ましげに片手を頬に当てた。
「そうよね、初めてなんだもの。もー、舞い上がっちゃってだめだわ私」
「オフィーは中々暴走しますからねぇ。初めまして、天秤の子。こちらは月神、銀を総括する邪の神です」
 紫の眼は柔和で、高すぎる視線を下げるためにか腰を屈めて銀を指し示す。示された彼女は明るく笑った。
「オフェリアよ。称号は月神で良いわ、正式なのは長ったらしくて私自身覚えてないから!」
「そんなに長くもないでしょうに……正しくは銀凛環麗神、龍神たちともまた違う種類の神です。私はロスティアーノ、陽燦環芳神、太陽神の位にあります。今の天秤の子には、私たちが二人で守護に当たることになるのですが、……龍神とは違って私たちは揃って地上に触れられる機会も薄く、貴女には不満や不安もあったでしょう。申し訳ない」
 二人の手が持ち上がって、同時に頬に掌が当てられる。同じようにして撫でられる。何も言えないままでいれば、腰を屈めていた方、太陽神が、さて、と声を上げた。
「そのままの姿では、流石に無防備に過ぎますね。黒を纏う事に関しても少し、差し障りがありますから」
「……えっ、と……」
「まずは、着替え。そしたら、ご飯。魂だけでも食事は必要よ、じゃないと身体の方が保たなくて死んじゃうわ」
「えっ」
 ただ聞いているだけしか出来なかった中で、それだけには反射で反応出来た。再び頬に手を当てた月神は、頬の上気はそのままに、優しく、嬉しそうに笑む。
「食事を抜いて身体が死んでしまっても、そうしたら、貴女はずっとここに居られるから、私はとても嬉しいのだけれどね」
「え、」
「オフィー、駄目ですよそういう微妙に怖いのは」
 微妙どころじゃない。思っても口を挟めなかった。銀の視線が紫を見上げる。
「あら、怖いかしら」
「ええ、怖いです。貴女が用意していた鎖やらなにやらは処分しておきましたからね」
 低い舌打ちが聞こえて思わず半歩引いてしまう。銀はすぐに気づいてかああ、と声を上げる。
「私は貴女の守護だもの。貴女に害があることは可能な限り避けたいの。だからそれが少しでも改善するまでは……と、思っていたのだけれど」
「神にも序列があってね」
 続けるようにした紫神の声は低く、まるで内緒話かのようににこにことしながら言葉は続く。
「属性神で言えば、頂点は僕とオフィー、オフェリアの二人。でも属性神の管理とか総括とか、そういうのは全部『賢者』様のお役目なんだ」
「『大賢者』様は漆黒の血統、神の中の神と崇められる方なの。だから『賢者』様よりもっと上。どんな色どんな性質の神をも統べる御方。その上には創世神と創造神しか居られないけれど、あの方々は私たちが触れられるような方ではあらせられないし……で、その『大賢者』様が、貴女が自然に戻れるようになったら戻す、と決定されているから、私たちがいくら守護でもそれには逆らえないのよね」
「実際には『大賢者』であるエシャル様が守護に立たれたようなもの。ですから気負いせず過ごしなさい」
「ええ、精霊も属性以外の他の神たちも、天秤の子を拒否することなんてあり得ないから、そこは安心して。でもまずは、やっぱり着替えね」
「ですね」
 紫の長身が急に沈んだ、そう感じた次には急激な浮遊感に襲われて息を詰めて身体が硬直する。黒が捲れて脚が晒されるのには月神がすぐに黒のローブを整えて隠してくれて、二重の衝撃には心臓が早鐘を打っていた。抱え上げた両腕、太陽神が苦笑する。
「先に星見の部屋に行きましょう。仮でも衣服を整えませんと、安心して話もできませんからね」



 では、と確認の声に、フィエリアルは硬い表情で頷いた。
「十年前の検診結果も確認しました、間違いありません。『ツェツァルフィスィア』と名を持つ者が、フェルの中に在ります。恐らく人格の核の場所に居た男……」
「クウェリス」
「こちらでもそう『見た』わ。白と黒の翼を持って眠った核、その側に居た紫銀の男。反芻していて気付いたの、人格の核のあの場所には、壁に何か彫り込まれてる。恐らくは文字。フィエリアルの記憶でもぶれてしまっていたから判別は難しいけれど、一文だけは読めたわ」
「内容は」
「古代語、アーヴァリィ=オフェシスでの筆記。ロツェに言い換えれば『――――――――――』、意味は、『私は紫銀ではない。』」
 スィナルは、眉根を寄せていた顔を僅かに伏せて、微かに息を吐き出した。
 魂抜けは防げなかった。魔力乖離は今は落ち着いて、それでも医術師が何人も付きっきりで容態を監視し、治療を続けている。
「……生死は」
「今は落ち着いています、魔力の再構築を行なっています。自然循環が始まれば、魂が帰って来るのを待つだけ。ラシエナを迎えに遣らせる事も考えて、彼女には神殿の最奥に問い掛けるようにと言いましたが、彼女は拒否しています」
「何故?」
「『魂抜けしたなら理由がある、無理矢理戻しても悪化するだけだ』と。……彼女は何度も魂抜けを経験しています。重度から軽度まで十回以上。私自身も魂抜けはありました、ですが天に昇った記憶はない」
「魂抜けで天界に行けるのはごく僅か、あるいは天界に行けてもそこで眠ったまま過ごして帰って来るか、死んでしまうかが殆どよ。ラシエナは違う、あの子は天界で『過ごして』来ている。その彼女が拒否するなら強制はできないわ。神に如何を問うことが出来たとして望む答えが返されることはない。十中八九ね」
「……経過を見るしかないのね」
「ええ」
「何日で帰ってくる?」
「分かりません。とにかく個々の症状如何で変わる」
 言いながら、扉の先の物音に気付いてか療師が寝室を見やる。立ち上がって見遣った先、扉が開かれてキレークトが姿を見せた。
「如何」
「落ち着かれました。施術は終えました故、結界内の香を消去して結界を解きますが」
「お願いします」
 聞いた女王に彼は即座に返して、療師が問いに答えれば軽く一礼を残してキレークトは扉の中に戻っていく。少しもしないうちに結界が崩れ落ちていく音が耳に聞こえて、女王が立ち上がる。迷いなくその部屋に入っていくのを見て、療師が後を追えば、早足に寝台に寄った女王がその寝台の端に軽く腰掛けていた。手は伸びて、真っ白な顔に触れている。
「シーナ」
 呼び掛けたのは杖を手に後を追って来たクウェリスだった。溜息の音、僅か、肩越しに振り返ろうとする桃色の髪が揺れる。
「……レナ達と、クロウィルを呼んで。ラシエナと、クウェリス、貴女も居てくれる」
「わかったわ。何かあればすぐに報せるから、貴女はちゃんと『王』をなさいな。リアファイドがあれ程踏みとどまって頑張っているのだから、ね」
「……そうね、直系は私しか残してないものね」
「自虐は王には似合わなくてよ。揃いも揃って、若いのに無茶をするから」
「貴女に言わせたら誰でも子供じゃないの。……この子、帽子を被りたがらないの。でも刺繍したのは好きなのよ、普通の刺繍。誰でも、着けられるような……」
「そう、なら、そうしておくわ。さあ、落ち着いたらまたいらっしゃいな、セヴェルゼフィアの花舞台とあって、王宮は賑やかな様子よ」
「もう……賑やかなのは好きだけど、煩いのは嫌いなのよ、私は。……お願いするわね、クウェリス。有難うフィエリアル、部屋に戻って休んで頂戴」
 軽く身体を傾げて礼を向ければ、女王は最後に娘の頬を撫でたようだった。それから立ち上がって、視線は既に王のそれだった。
「火急にセヴェルゼフィアの粛清を行います」




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