手を引かれるままに進んで視線を感じなくなって、それでようやく呼吸ができた。上から降りてきた手が頭を撫でてくれる。
「ヒセルスとフィオル、あと、クィオラか。それ以外に大丈夫そうなのいるか?」
 首を振る。駄目だった、ここは全て古代語で成り立っている。嘘はつけない。――怖いと思うそれを、否定することはできなかった。一度立ち止まった緑樹神がすぐ側に片膝をついて、緑の眼の方が低くなる。見上げてくるようなそれに、諌めるような色がないことに気付いて、呼吸が止まるようなことはなかった。
「お前、結構っていうより、かなり怖がりだな? 今も、俺のこと怖いだろ、他よりマシってだけで」
 頷くことはできた。自然ではない、かなりぎこちないそれを見て、ウィナは頷き返す。声が出ないのは、そういうことだ。
「何が怖いか、わかるか?」
 問いかけて、それには言葉が無ければ答えられないと、紫が泳ぐのもそのまま待った。代弁していては始まらない。待っているうちに唇が揺らいで小さな掠れ声が聞こえた。
「……ここ、……この場所、が……」
「うん。初めて来る所だもんな。他はないか?」
「他、……『音曲』、宝珠、無いから……」
「ああ、だな。お前の身体に宿してるものだからな、こっちまでは持ってこれなかったんだろう。ただお前の『子』はお前の影と一緒にこっちに来てる。今エシャル様が掬い上げて目覚めさせようとしているから、ちょっと待ってろ」
「子……?」
「俺たちは名を呼べないからな、便宜上そう呼んでる。お前から引き剥がす形になってるのは、悪い、使い魔だったらこうはなってないんだけど、魔法が魔法の形をしてる、っていうのは、俺たちも初めてだから対処も何もわからなくてな。智の頂点の『大賢者』が当たってる、時間はかかるかもしれないけどちゃんと連れて来てくれる、そうしたら少しは安心できるか?」
 それを聞いて、『子』の指すものが何なのかを理解できただろうかと反応を伺えば、紫は困惑を示していた。やはりそうかと思いつつ、立ち上がったウィナはもう一度頭を撫でてやって、それから手を繋いで歩き始める。
「とりあえず布選びに行くか。銀も紫も物質としては軽いからな、お前は重い方が良いだろ」
「布……」
「魂抜けしてこうやって神と対面した人間には、緑樹神が衣服を誂える、って決まりがあってな。お前の他にも、何人かは魂抜けして俺たちに会ってる。そういう時に作るわけだな。あんまり長居する奴は居ないんだけどなぁ」
 大人しく手を引かれて、それでも廊下の交差する場所や窓がある場所に差し掛かるたびにびくびくと怯えているのが手から伝わってくる。全て初めて見るものだ、――好奇心は結局、『人の意識』や『人の無意識』が創り出すもので、魂そのものには備わらない。
 それでも、話しかけながらのゆっくりとした歩みの中に、紫銀の唇が微かに呼気を吐き出そうとする音が聞こえて、不自然にならないように肩越しに振り返る。問いかける。
「どした、言いたいことがあったら言って良いぞ?」
「……どう、して、緑樹神が……?」
「布を織るってなったら、まず糸を紡がなきゃだろ?」
 震えそうになるのを必死に押さえつけている声音で、見れば空いた右腕は胸元に押し付けられて、拳は強く握りしめられている。今はそれには何も言わないで、ただ説明のために声を使う。この問いは知識欲からのものではない、何故それをその神が人に対して施すのかという、負い目や代償を恐れてのことだ。
「糸ってのは大概、植物とか木から取れる。まあ羊とかからも取れるんだけど、そういう動物を養うのも草だってので、ざっくりな分類として布とか糸とかってのは俺の管轄なわけだな」
 言いながら、明るい陽に照らされた外廊に出る。明るいそこに出た瞬間に握る手に力が籠るのには、苦い心地が浮かぶのを抑えて喉で押し殺した。



 急用だがと言えば、神官たちは嫌な顔も様子も見せずに準備してくれた。湯で身体を清めて、衣装を整える。ドレスではない、形は似ているが、神官の衣裳の刺繍が金に代わり、装飾も煌びやかなもの。頭を隠すフードもなく、床に引き摺るトレーンは長い。神官というよりは、神殿大公が公式の場に姿を見せる場合のような、それに近いだろうか。
 最奥に向かうというのに、障りがあるからと断ったから渡司の同行は無い。広い廊下、下り坂になったその先、長い道のその奥に石の両開きの扉が鎮座していて、顔を隠して真っ白の衣裳に身を包んだ門番が二人、片膝を突いた姿が立ち上がる。その姿に近付いて、歩みを止めないまま口を開いた。
「ラシエナ・シュオリスだ。像の王に拝謁するに渡る故、開門を」
「は。ですが光の方、伴の無い故を」
「王に拝謁する為。他者を禁忌に触れさせる心算は無い」
「……畏まりました。我々も戸を閉じた後退出いたします故、お戻りの時には鈴を願います」
「諒解した」
 足を止める間もなく、扉が押し開けられる。見えたのはさらに深くへと降りていく薄暗い階段。足を掛け、何段も降りた後に背後の石の扉が閉ざされる音。それを聴いて、階段の半ばで足を止めた。視線を上げる。階段の両端には手摺、水の流れる音に、見える壁も天井も天然の洞窟のそれ。
「……王」
 呼びかける。口に出した瞬間に何かを『越えた』感覚があった。薄暗い洞窟、水面に沈んで伸びる石の橋に降りる。冷たい水は膝下までに及ぶ。この水も紫銀が無い時代には橋の下まで水位を下げるらしい。そのまま進んでいく先には、円形の空間。壁に沿うように立ち並ぶ石板は十、鮮やかな色をした布が巻きつけられた先細りの石板で出来た『像』。立ち並ぶ十の中央には金と藍、その後ろに黒曜石の巨大な石板があって、黒の左右には紫と銀。橋の先、丸い床には手摺がない。そのぎりぎりまで進んで、手を伸ばした。金が掛けられた石板。彫り込まれたのは『光』の印章が。
「光王……」
 呼びかける。冷たい石板に掌を当てる。そのまま目を伏せて俯いた。
 ――応えはあった。応える意思があることは判った。だからそのまま声を続けた。
「迎えにとは言わない、でも伝えたいことがある。言葉で、お願いしたい」
 躊躇うような間があった。次にあったのは、顔を、と返す声だった。目を開く。顔を上げれば、掌を当てた石板のその磨き上げられた鏡面に、金色の誰かが写っていた。手を下ろす、それでも消えない。石板は水晶のように変じていた。
『王は今手が離せない。陽光の三、己に先立つこのエレヴェィルが名代である。先に王からの問いを伝えたい、宜しいか』
「……有難い。先達つ方に見えるとは僥倖、我が名はラシエナ・シュオリス。急の問いにも関わらず応えが頂けたことに感謝する」
『良い。王の加護故。王の問いはまず一つ、状況はこちらもそちらも了解している通りか?』
「魂抜けた天秤がそちらに在ると。身体はこちらで医術師たちが維持している」
『あい解った。王の問いは二つ、来るとは言わぬのに何故王に拝謁をと願うのか』
「……魂抜けたはずの天秤の子が眼を開けた」
 言えば、そこには沈黙が返される。天には伝わっていなかったのか、そう思いながら精霊が何も言わないのを促しと受け取って声を続けた。
「私にそのようなことはなかったと聞いている。天秤の子にどのようなことが起こったのか、天は把握なされているのか」
 沈黙が返された。石板に写り込む精霊は視線を落として逡巡しているようで、それでも待っていれば再びその視線がこちらを向く。
『……子の中にある『者』を己は見たか』
「見た」
『であれば容易い。その者が天秤の子の身体を借り受けたまで。……眼を開けただけか?』
「神殿へ赴き、伝えよと」
『聞き届けよう』
「歌をと。子守唄をと、『あれ』は言った。……だが何故魂抜けた者の身体を別の精神が如何出来る」
 これにも沈黙が返されて、長い袖の中で拳を握った。表情にも現れたのか、精霊の表情が硬く変わる。僅かに間、そして声。
『……王には言葉のままに伝えよう』
「私の問いに対する答えは」
『己の知るべきではない。陽光の三として、我はそう判断する。追って王から声がかかろう、天秤の子の身からは離れるな、今は己の存在自体が楔になろう』
「……三年前からそうだ」
 声に怒気が浮かびそうになるのは、抑えて鎮める。精霊にも神にも、たとえ激怒しようとそれは癇癪としか容れられない。だがその答えが確実にそれを引き起こすと、この精霊も知っているはずだ。
「私が禁忌を破って許された最初の問いにも、神はそうとしか答えなかった」
『全てを真とせんが為』
「いつになったら知れる。いつになったら許される、私が死んだ後か。私が人ではなくなった後にしか明かされないのか」
『それを決めるのは王の意思』
「だから王の拝謁をと願った、なのに王が応えない。『神は虚実を語れない』、神自身がそう言った、今ここに王が現れないのは隠すために逃げたからか。何故逃げる、どうして隠す。知らないならそんなことはしないだろう、王は『あれ』が何かを知っているはずだ」
 今度の沈黙は長かった。違うなら違うと真っ先に否定が入るだろう、精霊は己の神に忠実であり盲目的でさえある。逃げたなどと人間に言われれば、それが事実でない限りは反駁して然るべきだ。だから、事実なのだろう。王が追及を逃れるために天に籠もったのは。
 しばらく洞窟の中には何の音もしなかった。暫く、という言葉よりも僅かに長いそれを割って、精霊の諦観に似た声が響く。
『……己には神を糾弾する権が与えられている。故、その言葉も伝えよう。そして私見を述べるなら、己は禁忌を返上すべきだ』
「なに……」
『返上の儀を経るのであれば神と共に在ったという過去に対しての代償は免れる。お前の寿命も再び与えられよう、瞳もまた治癒を許されよう、故に』
「私が訊いたのはフェルのことだ、どうして私の話になる!!」
 とうとう抑えていたそれが喉を超えて声に変わる。洞窟の中に反響する自分の声に重ねて、強く、拳を握り絞めた。
「一時は命が危ういほどになった、今回でさえ『あれ』以外に原因の見えない狂乱を見せてそれを抑えたのも『あれ』だ、フェルの魂を蝕んでいるのも記憶を奪っているのも、」
『そこまで勘付いていて何故に尚問う。己は己に課した使命故に禁忌を得た。それ以上に何を望む。己は片の瞳を差し出して魔法を得、己は寿命の半分を差し出して天秤の子の治癒を願った。叶えられたそれらにあって、尚何を望む』
「治ってなんかない……!!」
 知っている。あの紫銀が語る『思い出』の数が少ないことには、もうとっくに気付いている。傍にいれば判る、あの子の語る思い出は常に空虚だった。名は口にする、それに対する感情は声として鳴る。それでも、『何が起こったのか』を語ることが減っていることは、これだけ長い間すぐ傍に立っていれば、解る。
 ――『紫銀』は紫旗に保護されてから後、他者によって二度記憶を奪われ、それをそうと認識していないだけだということも、解っている。今ある『記憶』が、断片的な外部からの情報でしかないと。だから三十年、己の命を半分に割り与えてでもいいからと、そう願った。
「エルシャリスの譜読みでもそうだった、フェルは今まで一度も『人間』になんてなってない! ずっとただの紫銀でしかなかった、私が『大賢者』に願ったそれは、いつか叶えると約束されてそのまま三年経った、なのに人になるどころか、このままじゃ……!!」
『君が何をしなくともそれは叶う』
 急に別の声が割り込んで、息を呑んだ。意識して身体を張り詰めた力を抜く、その間にも青年の声。聞き覚えのある声、声音。
『エレヴェィル、退がっておいで。ラシエナ、君もだ。少し場所を空けてくれるかな』
『王、許可なく現は……!』
『僕が僕の子に顔を会わせるのに僕以外の誰の許可が必要かな。陽光の三エレヴェィル、退がりなさい』
 聴きながら、ラシエナはゆっくりと石板から距離を置く。ゆっくり七歩、そうしている間に石板に写り込んでいた金色の光が失せて、代わりにその石板との間に燐光が立ち上る。瞬く間に人の形を成して色を纏ったそれは、伏せていた金色の眼を上げて、こちらを見返した。
「……王」
「うん。話は聞いていてね、やはり、不誠実に過ぎると判断したよ。それに、こちらの姿の方がやりやすいだろう?」
 言われる間に再び拳を握った。青年、金の瞳に金の長い髪の神。その言葉を聞き終えて即座に、勝手に身体が動いていた。
 水面が激しく乱れる音。振り上げた腕の袖が吸い上げた水の重さも何も関係なく、まるで獣のような息遣いだと我に返って気付いたのは、水の中に一度完全に没した光王が、頬に手を当てながら上体を起こしたところだった。ごほごほと咳き込んだのは、少しでも水を呑んだからか。
「――三十年」
 勝手に声が落ちた。神殿の、特に最奥の此処はそうだ。より魂に近付く場所。抑えるなんて出来なかった。
「私の寿命の半分、差し出した。その十分の一がもう過ぎた。私はいつまで神を信じればいい、どこまで信じればフェルは『普通の子供』になれるの」
 そう願った。魔法の力を得るのは、本当はそっちの方がついでだっただけのこと。残りの十数年前で死ぬ事を覚悟して本心から願ったのは、『フェルリナード=アイクスという一個人の存在証明』。
「記憶も戻らない、思い出せもしない、『あいつ』の名前、……『ツェツァルフィスィア』って聞くだけで錯乱して魔力乖離を起こして、こうなる。私はあの子の幸せが成るように願った、その為に魂を割った。漆黒も約束してくれた、なのに、なんで、少しも良くなってなんかない」
「禁忌を破る人間は、原則、悉くが無力の人間だ」
 背を丸めて蹲っていた彼が、立ち上がりながら言う。垣間見えたのは頬の赤い跡、唇が切れた血が滲む色。自分が座り込んでいる事には、胸元まで濡れている事でようやく気付いた。
「無力な人間は、大抵、どこかで無茶をする。君の場合は禁忌だった。そして意識していようとしていなかろうと、君は確実にその『禁忌』に対して期待している。神が味方していると」
 目の前にローブの模様が見えた。頭に冷たい、濡れた手の感触。撫でるように動く。
「それは、良い。僕らは君の味方だ、それは良い。でも、『紫銀』は違うんだ。紫銀は紫銀だからという理由だけで、眷属には含まれない。いくら僕らが紫銀を好いても、いくら紫銀が僕らを好いても、君には無い一線が紫銀には明確な壁として存在する。それは僕らだって、漆黒だって同じ事だ」
「……だったら、どうして、」
「君が願ってくれた。そのおかげで、抜け道が出来た。でも壁がなくなったわけじゃない、僕らが直接フェルリナードに触れて如何することは出来ない。でも、君が願い、君自身の魂を彼女に注いだことで、彼女の生は確実に延びている。……本来ならもう死んでいた」
 どうやら俯いているらしいと、揺れる水面に気付いて思う。波紋が幾つも重なっているのは、濡れた神の衣裳がそうしているのだろうか。
「……長官たちが」
「うん?」
「……ディアさんと、クウェリスとエーフェが、五月まで、って、言ってた、……信用していいの……?」
「……僕らは、代償を負う覚悟のある人間には協力する。彼らもそうだ。君もそうだね、でも君はもう何も差し出さなくていい、君が何もしなければ一年もなく『フェルリナード=アイクスの存在証明』は成される」
「……それは、もう決まったことなの……?」
「……僕らにも未来予知なんて力はない。地上ではほぼ絶えてしまった星魔法で、少し先の未来を予知するだけ。でもそれは人間の言う予測と、精度はさして変わりない。可能性は幾つもある、常に多数。その大部分の選択で、存在証明は成されると結論された。その条件のひとつが、君は何もしないこと、だ。そしてフェルに知られてはならない事がある。これらは全て、それぞれが各々の役割を知り、それ以上を知り過ぎない事が前提だ。僕は今は、これしか言えない」
「……フェルは、フェルの思う『幸せ』に、ちゃんと、辿り着けるんだよね、その為に私、」
「不安だろうけれど、我慢して待っておいで。フェルの近くに在る人間の殆どは彼女の幸福を願ってる、その為に最大限が成されている。……それとも、後悔してるかい、三年待っても何もしてくれなかった神に命の半分まで差し出して」
 首を振った。後悔などしていない、それは心の底からそう思う。願い、地上に戻ってから再び顔を合わせた紫銀は、禁忌を破る前に較べれば明らかに『正常』へと近付いていた。禁忌に怒りを示してからは、記憶のことは変わらずでも、表情も動くようになった、感情を取り戻したように見えた。「あたたかい」という、あの子の最上の安寧を、ようやく見つける事が出来た。――寿命、魂を割った本来の理由を隠し続ける後ろ暗さはあっても、それで良かった。幸せになって欲しいという、ただ一人の欲で、紫銀が紫銀としてではなく、ただ一人の人間としての幸福を覚えられたなら。
 そう、と、頭を撫でる手が止まる。嬉しそうにそうだね、と呟いた彼の腕に身体を抱かれて、眼を閉じた。
「……君は自分を不幸に貶めてでも、見つけてしまった弱者に対しては無感動ではあれない、無力な馬鹿者だ。だからこそ僕らがその無力を補うと契約した。だからこそ君の分まで『フェルリナード=アイクス』を援けようとしている。君は願い、差し出した時からもう役目は終えてるんだ。不安も不満も、怒りも悲しみも全部僕らになすりつけていい。だからあとはもう、フェルの親友として、良き理解者として、時に反駁する悪友として、そしてなにより彼女の姉として振る舞えば良い。フェルに『家族』を作ってやりたい、それが最初だろう、君は」
「……うん」
「フェルだけじゃない、君も疲れているようだ、少し休みなさい。あの子も自然に戻れるまで、こちらでちゃんと世話を持つから安心なさい。伝言も確かに受け取った、だから休みなさい、良いね」
 激していた根を吐き出したからだろうか。諭すように言われるそれに反抗する気は起きなかった。頷いて返した時には随分と冷たい水の寒さが睡魔にすり替わっていて、ここで気を失うのはと、そう思っても抗えなかった。




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