『終えた』ことを知らせる鈴の音が無いまま三時間を数えて、痺れを切らせたのは兄役の彼だった。
「ですが、禁忌に触れますよ」
「今回喚んだのはラシエナだ、ラシエナの召喚の場面に立ち会って代償を求められたことはない、なんとかなるだろ」
「っていうか今フェルから離れるのは……」
「すぐ戻る。回収してくるだけだ、ディエミア、メフェメア、レナとクウェリスもちょっとの間頼む。特にレナ」
「え、なんで」
「楔が無いと戻って来れない。ラシエナが一番の楔なんだがその次がお前だ」
 淡々と素早く言いながら、上着の上に外套を羽織る。苛々しているなとそれを見て判じて、エルディアードが嘆息した。
「……わかりました、私が同行致します。代償として差し出せるものも渡司よりは多い」
「悪い、頼む」
 誰に対しても口調が荒くなるのは、焦燥しているときだと、本人は気付いているのだろうか、それとも意図してそう変えているのか。思いながら寝室の扉を開いて促せば、襟の中に入り込んだ少し長い後ろ髪を乱雑に振り払っているところだった。
「いっそ伸ばしてしまうのはどうですか。騎士にも多いでしょう、長く伸ばしているというのは」
「面倒なんだよな括るの。あんまり影響してないから手入れもしてないしな」
 こちらへ、と道を示しながらの問いかけにはそう返される。そう来たか、と返答を頭の中で組み立てている間に彼の声が続く。
「あと普通に邪魔」
「髪を邪魔と仰る方は希少でしょうね」
「騎士は魔法回路封じてるからな。髪伸ばしてても俗説の加護があるかもしれないってだけだ、だったら機能面を取る」
「そういったところも、商人として、ですか」
「いや、俺個人の考え方。母さんも父さんも長くはしてるしな」
 曖昧模糊としたもの。はっきりと見極めることができないもの。それらに対する淡白さと薄情さ。決してあの紫銀の子供の前で見せる面ではないのだろう。あるいはそうだと既に公言し、妹がそれに慣れているだけか。
「……膠着状態は苦手と見える」
「苦手ってよりは嫌い、の方が正しいな、それは。俺個人として何にも動きのない時間程嫌いなもんもない。待つにも限度がある」
「三時間が限度ですか」
「あいつの場合はな」
 寿命か、と、それで納得した。この騎士もやはり、同胞の無策には何か思うところがあるらしい。思いながら居住棟から神殿の奥へと向かい、最奥へ続く道の扉、その門番には一言だけ向けた。
「退がりなさい」
「ですが、」
「退がりなさい。何事かあったかもしれない、なにより閣下の周囲の人物の生死は重要事です」
「ですが兄君は……」
「前例がある、代償を要求されて来なかったっていう何回もの事例がな。ここで要求されるんなら神の手落ちを糾弾できる、要求されないならそれで良し。違うか」
 渋る門番の声に返す青翠の言葉は、淡々としているだけではない、事実を並べ立てる事に慣れた口調だった。つくづく思う、騎士でなければ、完全にあの子供の兄役に徹していたのなら、きっとここまで、こんなにこんなことはなかったのに、と。
「通してくれ」
「……承服致します。ですが祭祀長、御身はここまで。触れれば御身は此度こそ危うい」
「……わかりました。クロウィル殿、私はここで。あとはこの回廊を真っ直ぐ」
「ああ」
 会話の間に開かれていく扉を、開いていくその半ばで割り入るようにして足を踏み出しながら応えた彼は、すぐに石の扉に隠されて見えなくなった。息を吐く。
 魂抜けは、そう珍しいものではない。それでもここまで緊迫した空気になるのは何故なのか。「当然どの人間にも起こり得ること」に動揺するのは、彼らの嫌う『特別視』から脱せていない所為ではないのだろうか。
 思いながら眼を向けたままの扉の奥からは音は聞こえない。かわりに聞こえたのは、早足に駆け寄って来る神官の足音だった。振り返ればすぐに耳打ち。
「セヴェルゼフィアが登城と同時に謁見をと。先に王のお召しがあると追い返しましたが宜しかったでしょうか」
「構いません。本当に来るとは……愚かな」
 ――『紫銀』に害せしめたエラドヴァイエンの一族に対する審議を行うに当たって四公爵家には招集が成された。医術師を紫旗が確保した、とは、セヴェルゼフィアには伝わっていないらしい。紫旗の一人、スフェリウスは任に当たって藍色の制服を隠し抜き、名目上、エジャルエーレがラクトの子を奪還する為、賊を雇った。その噂を流したのはエジャルエーレ侯自身だが。
「……あの医術師、……レディティア殿は、如何に」
「衰弱しておられますが、意識はしっかりとなさっています。……夫君とお子のことも、既に」
「閣下も気にかけていらっしゃるでしょうから、滋養のあるものを用意させ、侍女を付かせてお世話なさい。可能であれば子を持つ侍女を」
「畏まりました。……審問に当たっては神殿からも裁定の役を担うべきかと思いますが、祭祀長は?」
「開始時刻は」
「午後一時、予定通りです」
 ではあと二時間程度かと目算して、それから頷いた。
「『神殿大公』直下の祭祀としてエルディアードが参りますと、陛下に。『紫銀』の兄としてクロウィル殿も、雪割草を借り受けた『グランツァ・フィメル』も臨席されると聞いておりますから」
「畏まりました。主殿にはそのように伝えます」
「場所は?」
「大審問円卓、地下になります。間に合う貴族は全て召集されましょう。『紅の女王』のお達しですから」
「分かりました。おそらく迎えがあるでしょう、それまでには戻ります。君も伝達を終えた後は役に戻りなさい」
「はい」
 きっと今頃牢の中身は入れ替えられているのだろう、神殿騎士が離宮を固めているのだから。王の直属の師団である紫旗たちが、姿を隠して獲物を待っているのだから。
 ようやく春の兆しが見えてきた頃なのに、暗く重く冷たい気は晴れないまま。溜息した、それから少しの時間があって、扉が開かれる音。振り向けば、白いローブのような衣裳に身を包んだ彼女を両腕で抱えた彼の姿が見えた。眉根を寄せる。
「何か異変でも」
「命に別状はない、の方だな。離宮の方に運んでいいか、湯の準備はしてあるだろ」
 見れば白い彼女は全身が水に濡れていた。そうと見て取って頷いて首肯すれば、悪い、と断って二人の姿は空気に掻き消えてしまう。隠形の方がはるかに移動は早く、易い。遅れても最小限にと、すぐに離宮に戻る道を遡っていく。



 最初に眼を瞬かせたのは、円座に並んだまま動かず、じっと待っていたうちの一柱、轟地だった。
「……どうした、レギュレ。こちらでもその姿をしているのは珍しいな」
「ちょっとね。久々に思いっきりやられたから、まだちょっと痛いんだけど」
「双剣の子か。喚ばいがあったと聞いたが」
「うん、話してきたよ。エシャル様はどちらにいらっしゃる?」
「恐らく、天秤の子の元に。……ああ、いや。クィオラの湖のすぐ近く、ウィナの針部屋に戻っていく」
「有難う、すぐ行くよ」
「性急よな。如何した、稚き王」
「急ぎなんだよ。あとその呼び方やめてって言ってるよねヒセルス」
 実際急いでいるのはそうだ。ざっと見渡した座卓の席の半数は埋まっている。そのうちの一つに小さな真紅の龍の姿がひっそりと見えて内心にうわあと零す。ここでは触れないでおこう、と思い、わざとらしく眉根を寄せてヒセルスを見返した。
「君、僕より階級下なんだからね?」
「おお恐や恐や。なに言葉の綾よ、我らが王。その力が故の王の位、その程度理解しておるとも」
「分かってないでしょそれ。全く……」
 言いながら踵を返す。この座卓から緑樹の仕事部屋は遠い。早足に廊下を進んで何度か曲がり角を邪魔に思いながら進んで、その先に見えた扉を軽く叩いた。
「ウィナ、良いかな」
「良くねぇ!」
 即座に扉の奥から返ってきた声には面食らった。がたがたと何かが音を立て、ばさりばさりと布の音がする。なにが、と思っているうちに更に声が聞こえた。怒っている、というよりは、てんやわんやとした呆れ声。
「いや入ってくんのは良いけどどうなっても知らねぇぞ!!」
「……何がどうしてそうなってるんだい?」
「ちょっと想定外と本人がはしゃいじゃってるだけ、でっ、いっ、ちょまフェル落ち着け!! 落ち着けって!!」
「ははは、そう声を荒げるから構ってもらえていると思ってはしゃぐんだ」
「わかってんなら手伝ってくれませんかねえエシャル様!!」
「騒ぐな、と言っているんだ。レギュレ、入ってもいいぞ。少しびっくりするかもしれないが」
 扉でくぐもった声の二種類。合間にばさばさと音が聞こえる、それになんだろうかと思いながら扉の奥に向けて口を開いた。
「……失礼します。ウィナ、入るね」
「気をつけろ、よ、っと、おら捕まえた!」
 把手に手を掛けて開くまでの間にその緑樹の声、開いて見えた一番最初の風景は舞い上がった藍色だった。空気をはらんでふわりと浮かんだそれが落ちて行った先、緑樹の濃緑のローブがそれを捉えた場面だった。その藍色を振り上げるようにばさばさと羽搏く翼――
「……えっと?」
「魂は純だな。……下界でこれを視た者も居るようだが。ほら、フェル、こちらに来い。ウィナを困らせて少しは満足したろう?」
「満足って。そうみたいですけども」
 言う声の方を見れば、針部屋の仮眠の為に設えられた、壁面を掘り進めたように奥にある長椅子と寝台を兼ねた少し奥まった場所で漆黒が手を延べていた。向けられたのは濃緑の抱えた藍色の布の塊の方で、そちらへと向いた藍色の大きな布の中から現れたのは緻密に刺繍の施された藍色の頭で、ばさりと羽ばたいた大きな翼で浮かび上がった身体が黒の腕の中に飛び込んでいく。思わず、扉を開けて半歩踏み込んだそのままの体勢で固まってしまったのに振り返った新緑が、腕の中の藍色の大きな布を手繰りながら言う。
「扉閉めといてくれ、外行きたいみたいでな、開けといたら出て行くかもわからんし、出したらどこ行くかわからん」
「あ、ああ、うん」
 言われて我に返って、それで後ろ手に扉を閉じて中に入る。改めて漆黒の方に目を向ければ、その膝を枕にするように足元に寄りかかった一人の姿。藍色に紅の刺繍、大きな袖の内衣には青と翠、金銀の縫取りに玉を繋いだ腕輪とそこから垂れた金の装飾が手首にさらさらと音を立てる。顔は黒いローブの膝元に伏せられていてわからない、頭に被せられた深いフードのようなショールの下から、羽毛の連なりが床に向かって曲線を描き垂れ落ちてしまっている。
「……エシャル様、……その、」
「現状はこれが最善だろう、そうとわかっていてのことだ。気にするな。それよりどうした、怪我しているようだが」
「ああ、……ラシエナに、こうでもしないと気が収まらないと思って生贄になりました」
「なるほど。こちらに、診てやる」
 言いながらこちらに向かって手招いてくれる。それには苦笑して、誘われるままには足を進める。
「自分の子のことですから、大丈夫です。それより、フェルは……?」
「うん。寝たな、これは」
 訊けば、漆黒は藍色の頭を撫でながらそちらに目を落として応える。つられるように眼をやれば、藍色のローブと厚手のショール、その合間に眼を伏せた銀の睫毛が垣間見える。とん、と軽い音がして、音の方に眼を向ければ漆黒の空いた片手がすぐ隣を叩いていた。促すそれには失礼します、と一言断ってその通りに寝台に腰を下ろす。
「どうだった、双剣は」
「……憤って、混乱しておりました。伝言がございますが」
「ここでいい」
「はい。『子守唄を』、とのことです」
「誰からの伝言だ、双剣ではあるまい、それは」
「下界でこの子が眼を開けたとのことです、その時にそう発したと聞きました」
 漆黒がどのような顔をしているのかは流石に見れなかった。子の頭を撫でているのは、その手の動きは淀みない。少し迷って、口を開こうとした途端に上から手が降ってきた。
「やめとけ」
 頭を押さえるようにしたウィナの声。見れば藍色の大きな布は既に綺麗に畳まれてその腕の中にあった。見上げた先で新緑と眼が合って、すぐに彼は漆黒の方をみやった。それから藍色のすぐそばにしゃがみ込む。手を伸ばして分厚いショールの下の頬をつついているのが見えた。
「この、さんざ人で遊んでおいて寝落ちるの早ぇっての……やり返すかんなそのうち」
「お前がやり返すとなるとギュラスが黙っていまいな。……十分懐いたようだ、暫く世話は任せるぞ、緑樹の」
「マジっすかー……俺子供の相手苦手なんだけどなぁ」
「それにしては楽しそうだが?」
「楽しいは楽しいですよ。俺が大丈夫ならフィオルも大丈夫そうだな、起きたら会わせてみっか」
「これならクィオラフィオルの双子とヒセルスは大丈夫だろう、……ジュパリネフェーサとギュラスはやめておくか。オフェリアとロスティアーノはどうしている?」 「俺に引き渡して散々恨み言言った後オフィーは宮に戻りましたよ。ロスティアーノは天文台に行ってます。ちょっと状態が悪い時だったんで、仕立て終わった頃合いに五位を使いに遣ってます。レギュレ、座卓どうだった?」
「うん? 結構な人数揃ってたよ、ヒセルスもギュラスも」
 言いながら、記憶を遡る。会話したのは二人だったが、他にも札遊びに興じている数人も姿は見えた。それに、と、気付いて更に声を上げる。
「あ、あと、ジュセ様が小さくなって椅子の上で泣いていましたが、何が?」
「ああ、あいつか。私の命令に逆らってこの子と先に話していたようだったから、封じておいた。ああしておけば大人しいだろ」
「…………はい、確かに……」
 大人しい、の域は遥かに越えていたが。この漆黒は、厳格なのか強情なのか、時に優柔不断なのか漫然としているだけなのか、それがよくわからない。何を考えて何をしているのか、それがわからない。
「……ウィナ、レギュレ、少しの間任せる。子守唄は生憎私に歌ってくれる者も一人しか居なかったからな、クシェスなら無駄に知っているだろう、頃合いを見計らって座卓に連れてきてくれ」
「部屋から出して大丈夫ですかね」
「鋼が居るからな。意思疎通はできているらしい、問題ない」
 言いながらショールを軽く持ち上げれば、どうやら肩にくっついて身を伏せていたらしい鋼が顔を上げるのが見えた。漆黒の膝に駆け上がった鋼はそのまま青い火をゆるりと噴いて、藍色の全身も覆って立ち上ったのは、横倒しの天秤を背に乗せた翼のある大狼の姿だった。少し距離を開けるように後退って小さくこぅんと鳴くのには、緑樹も漆黒も立ち上がる。
「起きるの待たなくてもいいのか」
 ウィナの問いかけにはくう、と応えがあった。抵抗や反論の様子ではないと見て、それで自分も立ち上がった。
「なら案内しようか。ウィナはここの掃除が先でしょ?」
「……そうだな、そっからだな。ったくもー思いっきり遊びまわりやがって。鋼のも、そいつがどっか飛んでったりしないように頼んだな」
 低く唸るような、喉元を撫でる手に応えるように眼が細められての鳴き声。それからその鋼色の鼻先が促すようにこちらに伸ばされてきて、それに応えるように喉下を撫でてから踵を返した。直後、声。
「ああ、レギュレ」
「っと、なんでしょうかエシャル様?」
 振り返れば、漆黒は元のように簡素な寝台に腰掛けていて、真っ黒な見慣れない色をした瞳が真っ直ぐにこちらを見据えている。そこに何故か悪戯めいたものが見えて、何かと思って見返していれば、不意にふ、とそれが崩れて笑みが見えた。
「見栄を張りたいのは解るが、浪費はするなよ。天の氣も黒の容量も有限だからな」
 言われて首を傾げる。なおも腕組みにこちらを見つめて見上げてくる黒になんだろう、と疑問符を浮かべている間に、頭の上にもふ、としたものが触れて視界に影が落ちる。見上げれば鋼の顎下、見上げようとして気付いた。気不味さを溜息に変えて、頭に触れる。自分の金の髪をつまみながら呟いた。
「……見栄じゃないです。無意識です」
「はは。そら、案内してやれ。鋼はここの氣に馴染むのも時間が掛かるだろうからな」
「分かりました。ウィナ、君も早くね」
「おうよ。片付けたらすぐ行くから待っといてくれ」
 言いながらの彼はどうやら針や糸切り、手伝いをしていたのだろう、机の上の端で小さく整列していた精霊たちに労いを向けているのが鋼の間に垣間見える。見上げて眼が合った鋼の中の蒼い瞳と見上げて口を開いた。
「じゃあ行こうか。フェルが嫌がるようなら教えてね、無理にとは言わないから」
 わふ、と、今度は犬のような、空気の分量の多い柔らかい吠え声。扉を開けて、鋼が翼を下げてそこをするりと抜け出るのを見届けてから閉じる。潜り抜けた廊下の左右どちらにかと首を巡らせるのには、苦笑してこっちだよ、と左を示した。
「ここは主殿からは西にあたる場所だ。フェルと君が拾い上げられたのが主殿の北東の祭祀場。座卓は南側の外れだ、龍神がいつもたむろして雑談している場所だね」
 了解した、と言わんばかりの柔らかい声。言葉は使えないのはそうだろうとは思っても、なんとなく声音でわかる。合わせてくれているのかと思って、温かい気持ちになるのは抑えられなかった。
「……エシャル様も妙なことをなさる、とは、思ったのだけれどね」
 ゆっくり歩いて先導しながら蒼い眼を見やれば、素直に見返してくれる。苦笑を向けた。
「こうして魔法自身と触れるようなことは、僕らはないからね。僕らは魔法で人に呼び出されはしても、僕らの使う力は魔法とは違うから」
 なんとなく鋼の表情が変わったように見えた。気配が、だろうか。疑念に思っているようなそれには笑ってしまって、座卓について落ち着いたらにしようか、とすぐ側に垂れてゆらゆらと揺れている耳、だろうか、それを軽く撫でてやれば、少し迷惑そうに振り払う仕草があった。使役者第一はやはり魔法だと認識を強めながら、曲がり道を先んじて指差してあっちだよ、と、大きさに似合わず静かな足音で進む鋼を誘導する。




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