日を越えて朝日が見える前に起き上がる。既に空いた寝台が幾つか見えて、カイアスは寝起きの目元をこするのもそこそこに立ち上がった。すぐに身支度を整えて、上着だけはそこに置いたまま、傍らに立て掛けて置いた剣を取って扉の外に向かう。
 外に出てすぐの厩舎では、既に数人が馬の世話と馬具の点検を行っていた。
「おはよう」
「おはようございます、副隊長」
 階段を下りながら声をかければ、気付いた彼らが声を返してくれる。そのうちの一人が細長い杖を支えにして立ち上がった。
「珍しく遅めですね」
「昨夜に少し出歩いて。それにしたって、トール達が早いだけじゃないか?」
 いつも一番じゃないかと、差し出されたタオルを受け取りながら言う。井戸の側の既に汲まれた水盥で顔を洗ってからもう一度目を向ければ、作業をしていた三人はちらと眼を見交わして、そして一様に建物の方、寝室にと使わせてもらっている一つとは別、隣接したもう一つの方の建物を向いた。何かと思ったカイアスがそちらを見て、そして少し耳を済ませてみれば、微かに聞こえてくるのは女性達の話し声。ああ、と納得したような呆れたような声を零したカイアスに一人が肩をすくめた。
「なんかこうもっと反応無いのかよ少年」
「少年って歳じゃないだろ、俺ももう十八だし」
 一気に砕けた口調には何も言わず、かわりにその中身に言い返す。そうして興味も全くないと言わんばかりに髪の水気を丁寧にタオルで拭う、その様子にまた三人が眼を見交わした。一人がその視線を受けてにやりと笑って、そして手を伸ばす。
「カーイーアースーくーん」
「わ、とっ、」
 が、と効果音付きで彼はカイアスの肩に腕を回した。覆い被さるようなそれに思わず声を上げタオルを取り落としたカイアスには構わず、騎士服を着崩したままのローウェンはにやにやとした笑みを浮かべたままカイアスを見やった。
「……何だよローウェン」
「カイアス君カイアス君、君は気になったりしないのかね」
「は?」
「昨日の子の事とかさあ! ほら、名前くらいは聞いたんだろ?」
 言われて数度眼を瞬かせる。眼がゆっくりと俯いて、それから、あれ、と呟いた。
「……そういえば名前知らない……」
 盛大な溜息を吐き出したローウェンが肩から腕を退ける。振り返って戻っていく背中がまた肩をすくめた。
「ダメだこりゃ」
 その一言にはカイアスがほんの少し不満げに眉根を寄せて、残りの二人はさもありなんと遠い目をする。タオルを拾い上げてから井戸の縁に寄りかかる。
「何が……」
「カイアスお前、後から後悔したって遅いんだからな? 今のうちから考えておくべきだぞ?」
「だから、何が」
「その歳で既に無関心なのをおっちゃんたちは心配してんの!」
「……はぁ」
「お前ちょっとは考えてみろ騎士団入ってちょっと経てばいつの間にか二十いくつだの三十近くだのなるんだかんな!?」
「そんなの、時間に差は無いわけだし、当たり前じゃ?」
 言った瞬間に、あやっぱりこいつだめだと言わんばかりの呆れ顔が三つ並んだのを見てカイアスはこんどこそきつく眉根を寄せた。なんなんだと内心に呟きを落として口を開きかけたところで、背の方向から戸の音が聞こえて振り返った。視界に入ってきたのは新緑の色と漆黒。
「お。起きてたのか、おはよう」
 小振りの甕を抱えた小さい彼女が、こちらを見やってそう声を上げる。井戸の方へと寄ってくるのを見て、井戸の縁から腰を上げた。
「おはよう、そっちこそ早いな」
「ん。朝の準備があるからな。ここじゃ村の全員で朝と夜食べるんだ、その準備だから女総出でな」
「へぇ……いいな、賑やかで。あ、甕そこ置いてくれるか」
「お、すまない、助かる。うん、朝も夜も毎日楽しいぞ」
 彼女が甕を足元に置いてくれるをの見ながら釣瓶を落として重さを確認して、湿った縄を手繰って引き上げる。素焼きのそれの外側を濡らさないように一杯まで注いで持ち上げ、落とさないように抱えさせる。
「重くないか?」
「大丈夫、力仕事も多少なら問題ない。準備もあともうちょっとかかるだろうから、まだ寝てる人がいるならそのうち起こしといた方がいいと思うぞ、あったかいうちのが良い」
「分かった。多分そろそろみんな起きると思うけど」
 なら良かった、と、そう少女は笑んで、そして水を零さないようにと気をつけながらも小走りに建物、恐らく厨房があるのだろう、そこへと戻って行く。途中の戸を開けるところで、取っ手に手を掛けるより早くそれが動いて少女はお、と意外そうな声を上げた。鉢合わせた老人が、おや、とそれを見てふっくら笑う。
「皆の手伝いか、いい匂いがしてるな。楽しみにしているからな」
「うん、今日はなんだか豪勢だぞ、待っててくれ」
 答えた少女はそのまま老人の脇をすり抜けて行く。それを見送ってからカイアス達の方へと眼を向けて、そしてほんの少し申し訳なさげな色を浮かべた。
「朝早くから騒がしくて申し訳ありませんな」
「いえ、お気遣いなく。こちらも、この時間にはそろそろといった所ですし」
 背後の三人がそそくさと作業に戻って行くのをなんだかなぁと思いながらも見やり、そして老人を再び見やる。脚が悪いのか、ひょこひょこと数歩進み出るのを見て、逆にカイアスが距離を短くすれば、彼は軽く頭を掻いた。
「いやはや申し訳ない。この通りの塩梅でして……ええと、隊長どのはおられますかな」
「今は、まだ。何かあればお伝えしますが」
 腰が曲がって少し低くなった老人の目線に、自然背を少し曲げるようにしながらこたえる。ふうむと唸った彼は、なら、とそのカイアスを見やった。
「頼めますかの。村の古いのが最近の外の様子を訝しんでおりましてな、何かお話が聞ければと。よろしければ、朝の食事の準備ができた頃に隣の集会所の方へおいで下さい」
「分かりました、そのように」
「よろしくお願い致します。では後程」
 ひょこと頭を一つ下げて、老人は戻っていく。それを見送って、そういえばそろそろ全員起こした方が良いかと寝室のほうを見上げると、その視界の端に三人が固まっているのが見えた。視線を向けて疑問符を浮かべる。ひそひそとした話し声。
「ほらなぁ……」
「いやでも脈はあるんじゃねーか、わりと自然に成り立ってたぞあの一連」
「いやあいつ誰に対してもそうだからアテにならねーぞ、なんなら隊長相手にもやってっかんなあれ」
「それでどうして噂の一つも出てこないんだよほんと無関心なのか?」
「二連チャンでタイミング逃すとかある意味天才だぞ気にしてたんなら絶対あり得ないっての」
 だめだこいつら、とは、こちらが言ってもいいのかもしれない。何を評しての言葉なのかはわからないが。
 カイアスは一度軽く息を吐き出して、そうしてからやおら階段へ足を向けた。庇の下の外廊下に見える扉は微動だにしない、寝坊を許すのも限度だろうと、白み始めて色を塗り替え始めた空を見やった。



 そのことを伝えて二つ返事で了承を返したレイネルに連れられて、カイアスは老人に集会所と示されたそこに入っていった。すぐの場所の椅子で待っていたらしいその老人が気付いて、そして立ち上がる。
「わざわざすみません、こちらまで来ていただいて」
「いや、構わんさ。ついでに俺だけだと見落としもあるかもしれないんでな、副隊長も連れてきたんだが、大丈夫だったか」
 レイネルの言葉と共に肩越しに指し示されて、老人の視線には軽く目礼だけ返す。それには老人は少しだけ驚いたような表情を浮かべて、そうしてからふっくらと笑んだ。
「いや、副隊長どのでしたか、通りで。にしてもお若くていらっしゃる」
「要領だけは良いんでな、そういうことになってるんだ」
 したのは自分だろうにと言う彼を見やれば黙殺される。では、と促されて扉の奥、広間へと入れば、並んだ幾つかのテーブルには既に食事の準備がされていて、奥の方では幾つかの席が既に埋まっている。方々で既に食事は始まっているのか、食堂のような賑やかさがある中で、示された方を見やれば数人が談笑するテーブル。気づいた一人がああ、と声を上げて立ち上がった。初老と言うにもまだ早い、精悍な体つきをした男性。
「わざわざすみません。私がこの村の村長をしています、ヒュテと」
 それにカイアスは目を瞬いた。気付いてか彼はからりと笑う。
「村長と言っても村の雑用をしてるだけですから。あっちの長老達の助言を聞きつつ」
 言いながらヒュテは別のテーブル、そこに座った数人の老人達を指差す。気づかれる前にその手は下ろしてしまって、彼は笑みのまま続けた。
「井戸の面倒を見たり、時々来る商人達との交渉やらをしてますね」
「ああ……なるほど、失礼しました」
「良いんですよ、村長って言っても、窓口係みたいなもんなのは変わりませんし」
 座ってください、と示された椅子の前にも湯気を立てる食事が用意されている。有難いと思いながら腰を下ろせば、ヒュテはすぐに両手を組んだ。右手の上に左手を重ねて、重ねたその拳を額に当てる。
「はじまりの樹々に」
 文言に倣ってテーブルを囲む全員が手を組み、額にあてがう。ほんの数秒のあとには、さて、という村長の明るい声が上がった。
「冷める前に食べてしまいましょう。話は、時間がかかるかも分かりませんから」






______________________________
back   main   next


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.