たん、と軽い音を立てて地面を蹴った少女の背が見る間に小さくなる。首の後ろで一つに括った黒髪が大きく揺れて、樹々の合間に姿が紛れてしまう前に一度足を止めて振り返る。それを追いながら、カイアスは苦笑した。
「なんだか幻灯鬼を思い出しますね」
「ああ、ついてったら妙な所に誘い込まれたりしてな」
言いながら並足の馬の手綱を引く。距離を詰めれば彼女はまた細い道を迷いなく進んでいって、そうしてまた距離が開けば振り返って近づいてくるのを待つ。
森の裾から、大きな道を逸れて正真正銘の獣道に入ってしばらく経っていた。馬では一騎ずつに並んでしか通れないが、魔物の心配もほぼないだろうここではさほどの問題にもならない。
石の入った籠を抱えているにしては、先導する道案内の動作は軽すぎる。並足の馬に追い越されないのだから、その様子に流石に疲れはしないのかという呟きには、後ろにいた隊の一人が声を上げた。
「精霊が多いんですよ、ここ」
振り返る。馬に揺られるそのまま疑問符を浮かべると前方から笑い声。
「魔術だけじゃなくて魔法の勉強もしとけよ、若いの」
「精霊くらいは、わかりますけど」
「ディード」
「はいはい。平たく言えば精霊とは人間が差し出した生命力と引き換えに魔法という現象を引き起こしてくれる存在ですが、その精霊は自然に依り、自然を活性化し、自然に生きる人間を活性化し、」
「ってー事で自然が多いところにゃ精霊が多く、精霊が多けりゃ人間様も元気だって事だな」
大方あいつも精霊との感応力の高い部類なんだろうと、レイネルは部下の声を遮って続ける。背後からは多少不満げな魔術師の声が耳に掠めたが、小さく笑うだけに留めた。
精霊と感応しやすいとなれば、魔法か魔術は使えるのだろうか。思って、しかしその思考には即座に否定が重ねられる。使えたのならあの時にはと反芻しかけて、とっさに浮かんでしまった記憶に額を押さえた。不覚だと胸中に声を落としている間に、前から何か感心したような声。顔を上げれば、いつの間にか森の樹々の合間から、草原と、そこにぽつんと密集した家々が垣間見えた。
「早いな……さほど時間も掛かってないってのに」
アイレだ、とレイネルが言う。カイアスがそれに再び視線を向ければ、灌木に紛れて黒い髪が大きく揺れる。こっちだ、と声と手を上げて示し、そして彼女は村に向かって草を踏んで駆けていく。
アイレは、魔物の少ない『安全区』、その中に流れる川を挟んで作られた、小さな村だ。
背の低い柵で覆われた畑が連なって形作られた外周を回り込み、入り口の前でで馬を降りた時、既に数人がそこで待っていた。
「よくお越し下さいました」
ふっくらと笑んだのは、老いた風貌ながらまっすぐに背を伸ばした女性。村長らしきその老女のそれに、レイネルは数歩進み出て応えた。
「わざわざの出迎えに感謝する。帝国騎士団の白、隊長のレイネル=コルテア、と、随従の部下だ」
「ミュフの街から知らせは受けておりましたから、今か今かとお待ちしておりました。全土善行、お疲れ様です」
丁寧に頭を下げるそれに隊長が困ったように笑うのが分かった。堅苦しいのは好きではないのだ、察したのか村長は笑みを更に深めて、そして、こちらへ、と村の中を示される。馬から降りたまま、手綱を手にそれについて中へと入る。
「村の集会場がありますから、そちらをお使いください。そろそろ陽も暮れますし、皆様もお疲れでしょう」
「悪いな、迷惑をかける」
「なんの。村の者がお世話になりましたからには、これくらいは」
ではやはり、あの子が先んじて伝えてくれていたのか。振り返った隊長と視線を交わす、レイネルはすぐに村長に向き直った。
「道案内をしてくれてな、お蔭ですぐに来れた。……その子は?」
「伝えてくれたあとは、女衆に紛れて食事の準備をしておりましょう。アイレでは、夜の食事は村の者が全員で揃ってというのが決まり事で」
「へえ……」
村の中心、広場に差し掛かると、ぽつぽつと村人たちの姿も見える。広場は地面が木で覆われていて水の音が強く、視線を巡らせてみれば柵の施された部分が見えた。それでようやく、この村が川の上にすら覆い被さるように造られているのだと気付いた。途中で村人に何度か声をかけられる、その穏やかな空気にカイアスはひとまず安堵の息をついた。
少しずつ村の事を語りながら広場を越えて、川を越えた所で村長は足を止める。村の規模には似つかわしくない、大きな建物。
「厩舎は裏に。二階をお使いください、もう少しして下で村の者が準備を始めますと、多少騒がしくなるとは思いますが、ご容赦いただければ」
「分かった、感謝する」
「いえ。ではまた、後程」
老女は軽く頭を下げてから広場の方へ戻って行く。それを見送って、それから手綱を引いて馬を厩舎に入れていると魔術師の一人が大きく息をついた。カイアスがそれに首を傾げる。
「どうした?」
「いえ、なんか安心して……」
「今までの街が酷かったからなぁ」
脇で聞いていたのだろうレイネルが笑いながら言う。それにはああと声を零した。どれはもうどうしようもないと、カイアスも苦笑した。
騎士団は、帝国の民の信頼を得てはいない。
街に常駐する隊ともなればその街の人間と触れる事も多いから、そこで個人としての関わりを築く事は出来る。だがそれは個人や隊としての単位の信頼であって、騎士団そのものに対するものではない。帝国という母体に対してもそうだ、ここ数十年で、帝国の法はすっかり力を失ってしまった。若い、まだ少年の域を出ない皇帝が三年前に即位し、その明るい人柄によって国民の人気は戻っているが、国政に対する信頼にはまだ遠い。若年という事もあってか、傀儡説も未だ根強かった。
そんな中の、帝都に詰める騎士の『全土善行』だから、面倒や揉め事も多い。対面的には定められた街町を巡って帝都に帰れば良いだけだが、善行修行の体裁も崩せない。かといって、問題を抱えている街の人間が、唐突にやってきた帝都騎士団が問題解決の為に手を出す事を好まない場合も多い。善行とは各地の問題や障害を取り払う事を指すが、実際には関与する事すら難しいのが現状だ。
「ま、ここは平和そうで良かった。何かあれば声掛けてくれそうってだけでも、俺らには有難い」
馬の装備を解いて、その首を軽く叩いてやりながら言ったレイネルが、入ろう、と建物を示す。厩舎は裏庭の奥に備え付けられていて、井戸を挟んだ反対側には二階に入れるようにと階段が伸びていた。よく見れば二つに分かれた建物の、片方からは明るい光が漏れているのがわかった。微かな声、先程村長が言っていたそれかと思いながら、暗い方へと伸びる階段を登った。もう、陽は暮れている。
村の女性達が用意し運んでくれた暖かい食事を有り難く頂いて、夜が更け始める前に一団は眠りについている。早朝から、動かなくてはならないから、休める時には休まなければ体が保たない。
だから音を立てないよう、そっと寝台から降りて、すぐ脇に立てかけていた剣を持ち上げた。
「近いな」
「はい」
隣の寝台、横になっただけの背からの声には、カイアスは小さく、しかしはっきりと応える。眠気など一切感じさせないレイネルの声が、こちらを向いた。
「深追いはするな。村に来ないんだったら、こっちから手出す事ぁねぇからな」
「分かりました。すぐ戻ります」
「ああ」
送り出す声を聞きながら、部屋を出る。やはり音を立てようにだけは注意して階段を降りて集会場の裏手から村の通り道へ。そのまま、入ってきたとは逆の方向へと足を早める。
『近づいてきている』のがわかる。だから駆けるまでではないが村の周囲に巡らされた柵の途切れる入り口へと向かって。
不意に、真っ暗な中に、白いものが立っているのが見えた。手に持っただけだった剣の柄に、右手を伸ばしながら、それに近づいて。
「……ああ、カイアスか?」
白いものが振り返って口を開く、それを見て握った柄を離した。遠く、眼の利かない暗闇の中への意識は逸らさないまま、彼女の横へと並んで首を傾げる。
「散歩か?」
「うん。この季節の夜は過ごしやすくてな、簡単に昼夜が逆転してしまって困るな」
困ると言いながら、そんな様子は全く感じさせず彼女は頭に被ったヴェールを押さえる。予期していたのか夜風が吹き抜け、夏には涼しいそれを受け流しながらカイアスは彼女の視線の先へと己のそれを投じた。
「夜に、人気の無いところを散歩っていうのは、感心しないな」
「うん? でもそうそう魔物もいないし、人に害を為そうという輩も中々こんな所には来ないからな。あまり警戒しすぎても良くない、村の人間は皆が家族のようなものだし」
「今は、外の人間もいるだろ?」
黒い瞳がこちらを向く。見返せば、少し驚いたような表情と問い。
「……騎士団は、そんなに無作法者が多いのか?」
「俺たちの隊は無いと思うけど」
騎士団全てにそれが無いとは言えないだろう。騎士団の権限をもって国民から搾取することも可能なのだから、それをしない人間がいないとは限らない。事実唐突に騎士の任を解かれ、その後の消息も分からない人間は、時折いる。思いながら黒を見やり、カイアスは僅かに肩をすくめた。
「騎士を見て、そうやって警戒する人も多いからな。馬鹿をする奴もいるのかも」
それを聞いて彼女はううむと唸って腕を組む。何故か本当に悩んでいる様子のそれに苦笑して、カイアスはその彼女に村を示した。
「戻ろう。嫌な感じもしてるしな」
「ん、だから来たのか?」
「ああ。もしこっちに来るならと思ったんだけど……」
視界は、狭い。今夜は月が細いから、村から出れば真の暗闇に近い。夜目を持つ魔物にとっては格好の日だが、それだけではない。今この国にあるのは、魔物の脅威だけではない。
「……最近、変な奴を見る」
思考を読んだように、彼女はぽつりと、しかしはっきりと言葉を作る。暗闇とは違う黒を向けて、彼女はやはり首を傾けた。
「『あれ』は?」
「……騎士団で、調べてるらしい」
俺たちは別働隊も同等だから最低限しか伝えられていないけれど。そう続けながら、彼女の肩を軽く押す。彼女は抵抗もなくそれに従って、カイアスも来る時とは真反対にゆっくりとしたその歩調に合わせて村へと戻る。留まってはいるが、距離を保ってそれ以上は来てはいない。だからそれ以上は良いかと判断して、変わらず意識だけは向けたまま、村の中へと戻って行った。
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