それは嘗てもあった事。
既に忘れ去られて久しい大事。
為されたのは一つの問い。
『世界の意志』は訊いた。
「お前たちはこの世界に生きる事を欲するか」と。
返されたのは一つの願い。
"彼"は"彼女"に応えた。
「この地に慈愛の樹を求めよう」と。
『世界の意志』は応えなかった。
ただ朽ち果てた土に五つの種が落とされただけだった。
そして"彼女"は"彼"を置き去り深く地に沈んでいった。
__これは嘗てもあった事。
地が枯れ水が果て緑が絶えた大事。
熱い陽射しを避けようと思って、彼は片手を掲げて目元に影を作った。ぎりぎり両目が隠れる日陰に安堵するその一瞬後に、上下に大きく揺さぶられて再び強い陽に右眼が晒され、灼かれる感覚。思わずそれに眉根を寄せた所で、数歩分、先を行く一人が、肩越しに彼に振り向いた。
「生きてるか、カイアス」
その間延びしたようにも聞こえる言葉には苦笑する。この一ヶ月ほどでその台詞はとうに聞き慣れてはいるが、しかしどこか弱々しい声音に両手で手綱を握り直した。並足をわずかに早めて隣に並んで、視線を向けた先、壮年の顔に苦々しいものを湛えたその彼に声を向ける。
「もう少しですから、隊長」
「つってもなあ……俺はもう体力も落ち目だっての」
言う最中にも、隊長と呼びかけられた彼は忌々しげに空を見上げる。青く澄み晴れ渡ったその広い中に大きな光が一つ。多少の地面の隆起しかない平原ではほぼ真上から刺すようなそれから逃げる術もなく、照りつけるそれを横眼にしながら街道を並足に進む。春に芽吹いた草木を育む初夏の陽は、風もなければただの脅威だ。
「そりゃ、知識と技術が蓄積ってのは分かる上に体験している事だがな……身体は逆だって、俺は何度も、何度も」
「それは団長に仰ってください」
「団長は人外だろ」
どこか愚痴のように、視線と顔とをどこかに向けて呟くそれに、カイアスは溜め息と共に苦笑する。ちらと後ろを見やれば、この炎天下の中すべての防具と装備で身を堅めながらも文句の一つもない部下達が数人、静かに馬を御し先頭の二人に従っていて、視線が合えば少し呆れたような困ったような、しかし慣れた風な表情が返ってきた。人を導き従える能力も力もあるのに、言葉がこれだから。
「レイネル隊長、帰路の途中とはいえ善行修行の最中ですよ。もう少し」
「聞き飽きたよ小隊長。……そろそろ川が見える頃か」
あからさまな話題の切り替えには、ええ、と肯定で答える。昨夜の幕舎で今日の行程は頭に叩き込んである、そろそろこの街道が大きな河の横について、それにつれて森の裾に入る頃だ。振り返った隊長が隊員達の様子を一瞥して、そして手綱を片手で手繰った。土の踏み固められて薄茶が露になった街道の奥向こう、草原の先に見える濃い緑を見やりながら、レイネルは傍の小隊長に、独り言のように言った。
「川の近くで適当な日陰を見つけたら、一旦休憩だ。明け方からずっとだからな。街道だから魔物との遭遇はまだしばらくの間はないだろうが、この天気じゃいくら鍛えてたって堪えるだろ。長めに休もう」
分かりましたと答えれば、彼は後続にもそれを簡潔に伝える。僅かにほっとしたような、若干意気を取り戻したような了承の声を背に聞きながら、カイアスはもう一度目元に影を作る。そして陽炎の奥、少し遠くに見える、その緑に眼を凝らした。
流れの緩やかな、川底が丸い砂利で整えられたようになったそこに籠を降ろした。数は二つ、緑の草や花、なにかの野菜か根のようなものが積まれた一つは川岸の近くに置いてほんの少し水に浸からせておいて、もう一つ、こちらは泥と土にまみれた拳大の石が積まれた方を浅い流れの中に据える。ひらひらとした大きな袖を畳んで捲り上げ、その籠の中から一つを、華奢な腕輪に彩られた細腕で、指が汚れるのも構わずに無造作に掴み上げる。
少し迷った風を見せてから、彼女はそのまま膝を折った。緩やかに流れる水の流れの中に服や身体が濡れるのも構わずに砂利の上に座り込んで、捲ったばかりの袖が落ちてくるのも気にせず泥だらけのそれを流水の中に浸す。指で固い表面をこすれば川の中に茶色い筋が糸を引いて、比例して鉱石のつややかな表面が明らかになる。黒い中に微細に輝くものを見つけて、彼女は小さく嬉しげに笑んだ。
丁寧に泥を落としてから、水面より下にある膝の上に置いておく。籠からもう一つを出して同じように泥を落とし、同じように膝の上に積んでおく。何度もそれを繰り返して籠の中が空になったのを確認してから、木の硬い皮で編まれたそれについた泥も洗い流して、膝の上に積んだ石を戻していく。数は数えていた、全部で二十一個。上々だ。
立ち上がってから息をついて、不意に気付いて自分の姿を見下ろす。白に藤色のその所々に土の薄い色がついてしまっているのを見て、少し考えた。
顔を上げる。強い日差しが木の葉の間を透かして差し込んでいるのに、彼女は思わず手を掲げてそれを遮った。
「……これなら、大丈夫かな」
一人呟いて、石を積んだ籠が倒れないようにしておいてから、川岸から水深の深い奥へと歩を進める。澄んだ緩やかな流れの中に腰まで浸かって、そうして上着から腕を抜いた。
陽に当てられて温んでいるかと思えば冷たいままのそれに感謝しながら、川岸で顔を洗う。大きく息をついて適当に水滴を拭って、脇に置いた水筒の中身を交換していると、すぐ側から声をかけられた。
「律儀だな、相変わらず。他の連中は剣も放り出してるってのに」
「街道のすぐ脇ですから、魔物も出てこないでしょう。一人が気を付けていれば、それ以上は過剰です」
言って、カイアスははい、と水筒をレイネルに手渡す。受け取った彼が、ないと思ったら、と呟くのには苦笑した。
「見る限り、結構なペースで飲んでましたから。強行軍はらしくないですよ」
「あー……早く首都に戻りたいんだよ、予定よりもかなり掛かってるしな」
「だったら隊長も今の内にしっかり休んでください。今夜中に次の村に着けるか、微妙な所ですから」
「わかってるよ、言われなくとも。……お前、本当に十七か?」
「下に弟妹が多いもので、慣れてるんです」
一応は医者を目指していた事もありますし、と付け加えれば、なんだそれ、と笑う声。水筒を荷物の中に突っ込んだ彼がそのまま部下の方に歩いて行くのを見て、暑い日差しには息をつき髪から顎に垂れる水を再び拭った。冷たかった水が、もう温い。
部下達は防具と装備を解いて、この夏という季節には有難い涼を満喫している。暫くはこのままでいいかと判断して、カイアスは静かに木陰で草を食んでいた自身の馬の首元を叩いてやる。枝に結んでいた手綱を解くと水辺に寄って行くのを見、ふとその川縁に何かを見つけて足を向けた。
川岸、両腕で抱えられる程度の大きめの岩に引っ掛かった、鮮やかな黄色の帯。たなびくように水の中に泳いでいるそれを掬い上げれば、淡い色の刺繍が素晴らしく繊細な、恐らくは女物だろうと見て取れた。
長い間水に晒されていたような様子はない。それを見て、カイアスは川上を見やる。そうしてから一転、すこし距離を置いた場所に腰を下ろした後ろ姿に向かって口を開いた。
「少し周りを見てきます」
「生真面目。怪我ぁすんなよ」
「ええ」
答えて、川沿いの艶やかな草の繁茂する獣道に足を踏み入れる。我知らず腰に手をやって、使い慣れた剣の柄の感触を確かめた。
水辺には、その恵みを享受しようと多くのものが集まる。野の獣に空の鳥、地の人間。そして異形、魔物たち。
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