上下の視界の端を遮る草を避けながら、あるいは掻き分けながら、傾斜のある道を進んでいく。夏の陽気も、裾とはいえ森に入ってしまえば多少は和らいだが、だからといってこの悪路を動き続けていればたいした変わりもない。唯一太陽の光に直接焼かれる事のないことだけはありがたかった。茶と緑との中で右手に流れる川を見ながら、カイアスは軽く息をついた。
この川は人工のものではないだろう。人が人為的に引いた水なら、もっと周囲には町や村が形成されているはずだ。確かこの川の更に上流からはそうして伸びる支流があって、自分たちが次に目的地としている村もその支流を挟んで形作られていると記憶している。実物を見た訳ではないが、おそらくそうなのだろうという推測は容易に立った。しかしそれなら、野の獣たちが使うような小道や、少なくとも川縁にはそういった開けた場所があるはずだが。
「下流だからかな……そんなに上から流れてきたのか」
片手に持ったままの帯を横目にしながら、呟く。懐の中に仕舞ってしまうのは何となく気が引けた。目に鮮やかな黄色の地に、色味を落とした糸で花と羽根の意匠の刺繍が施され白で縁取りされている。この様子からして、これの持ち主は若い女性だろう。それを一時とはいえ自分の物のようにして持ち歩くのは、たとえ他人の目がなくとも憚る物だ。思いながら大きな岩に足をかけて蹴るようにして登り、乗り越える。川と、今彼が立っている場所の間にはさほどの高さも無い崖があって、もし足を滑らせれば即座に水の中に落ちてしまうだろう。濡れるのは構わないが、装備は解いていないから、水深が深い所はなるべく避けていきたい。軽装とはいえ、肩や胸元、腰や脚元を覆う鎧は重い。
ちらと見やれば、下流に比べて川幅が広くなってきている。それほど進んでいる訳でもないが時間だけはかかっていた、なんせ道が無いのだから仕方が無いのだが、川の周囲の状況がわからない以上それを見失う訳にもいかない。もし隊長がいれば精霊の様子でそれも分かったかもしれないが、彼は夏に弱いのだ。ただでさえ数ヶ月帝都から離れて国中を回るその帰路の最中で、それ以外に気を回させるのは避けておきたい。常の彼は怠ける癖を見せるから。
深く枝を垂れた樹のそれに、折らないようにと気をつけながら手をかけ支えにしながら歩を進める。しばらくの間そうして川沿いに道を見つけて進んでいく最中に、ようやく川との落差が縮まり白い砂利に覆われた川岸が見えてきた。ようやくかと息をついて脇に立つ樹の幹についた手を離して真反対側、土と石でできた僅かな距離の急な斜面を駆け下りる。
川の水際には背の高い、煤けた茶をした細い草が群生している。その様子の中に視線を巡らせていく途中、砂利に上に艶のある茶色を見つけて、カイアスは目を瞬かせた。遠目に見えたそれは木の皮で編んだ籠、その中にはどうやら緑の物が入っているらしく見える。遠くに水音、砂利を踏む足を速める。
草の合間、水面の中に黒と白が見えた。澄んだ水の中で布がはためいている。長い黒髪の垂れた後ろ姿。帯を一度見下ろしてからそれに向かって口を開く、それとほぼ同時に。
大きく水の跳ねる音、こちらには背を向けた黒いその人が顔を向ける先につられて目を向けて、そして見えたものに思わず剣を握った。
水晶の体躯、水の魔物。剣を抜き声を上げる、同時に浮かび上がる魔術光帯。
「『tRvis:"110:1:0" ir Fio:veir'soFA'!!』」
視界に火花、思考が灼け付く瞬間紅い炎が巨大な渦を巻く。熱気にか腕で顔を覆うようにした黒のその人の間近、水面から高く飛び上がった二つの魔物が火に巻かれて軋んだ悲鳴を上げる。
それを視界に捉えながら駆け水を掻き分け水流に押されながらも浅瀬へと後退るその腕を掴んで引き寄せ背に庇う、そのままばしゃんと音を立てて水に落ちたその方向に剣先を向ければ空中の炎が空気に解けて消えていき、それを待たずにゆっくり後退る。後ろから、トラヴィスの魔術、と呟く声が水音に紛れて聞こえた。
そのまま浅瀬へと上がればそれ以上の動きは無い。元々あの手の水棲の魔物は水辺に近づいて来た獲物を水の中に引き込んで食うものだ、危険を察知した以上浅瀬に上がってくる事はほぼ無いと見ても良いだろう。思って剣を引き、鞘に納めてから振り返った。
「怪我は、」
背の方向にいたその人に呼びかける。その瞬間に、カイアスは思わず続く言葉を詰めた。
――こちらを見た透き通った翡翠の瞳、翠の色の視線が、白い貌からまっすぐに注がれている。
緩やかに丸くはっきりとした輪郭の、何の含意もなく向けられたその眼は、しかしその一瞬後に、あ、という声に慌てたような色を浮かべて落とされる。思わずそれを追ったカイアスの眼が捉えたのは肩から落ちた濡れそぼる衣服と、水滴を滴らせる黒髪、そしてそれが垂れ落ちた剥き出しの肩と腕と。
「――な、っ!?」
声を上げて思わず水を跳ねて半歩下がるのと白い姿が背を向けるのが同時、長い黒髪を巻き込んで濡れた服が背を覆うのを何も言えないままに見る。川の水が変わらず流れていく静かな音と森の葉の音、そして何度か鳥の囀りが遠くに聞こえて。
そして背を向けたままの黒いそれが、ほんの少しだけ、顔を向けた。
「……み、見たか……?」
僅かに震えたような、気まずそうな声音。問いかけられたそれには何か答えなければと思考は様々な言葉を立て続けに羅列したが、口に出たのはもっと別な、どうしようもない物だった。
「……ど、どれをかな……?」
この返しはないだろう、溢れた言葉を耳に聞きながらそう思う。
「なんだ、そういう事だったのか」
気まずいながらに、剣を抜いた時に無意識に放り出してしまっていた帯を拾い直して、付いてしまっていた土を改めて洗い流してから水を絞って彼女に渡し、そうしながらぽつぽつと経緯を説明していけば翠の眼から疑う色は消えていた。川岸、水辺から離れて獣道を歩いていく、籠を脇に抱えた彼女はその途中の道を進みながら合点がいったように声を上げた。
「びっくりしたんだ、この辺りに騎士団が駐留しているような町も村もないから」
籐細工の籠には何かの石が積まれている。その上にはもう一つの小さい、緑の並べられた籠を乗せて、それを織った輪状の紐で肩に掛けて脇に吊ったのを抱え直しながら少女は言う。持とうかという問いかけには慣れているから平気だと答える、その声音も顔つきも十代半ばのそれなのに、口調だけは少年じみているのが、何故かそれらに違和感無く馴染んでいた。カイアスは森の中に視線を移す。
「安全区、だっけ。確かにこの区域に入ってから、すっかり魔物も見なくなったな」
「うん、政府ではそう言われてるみたいだな。住んでる身としては、平和、ってだけだ。魔物は少ない、居ないわけではないが村に降りてくるのも稀だし、だから騎士団が居ないんだが」
「警戒させちゃってごめん、そんなつもりは無かったんだけど」
「それはもう良い。事故だ。それに、助けてもらったのは事実だしな」
カイアスの謝罪には少女はからりと笑ってみせる。騎士団の制服に驚いた、あるいは偽物かと疑ったらしい。まあ確かに事故とはいえちょっと恥ずかしかったが、という呟きには、視線を外して曖昧な顔をするしかなかった。
向かっているのは森の裾、騎士団が水の涼を満喫しているその場所だ。話を聞くにこの森の中は細い道が細かく走っていて、まっすぐに突っ切るよりもその道を経由した方が早いのだという。土地に明るい人間が居た方が良いだろうという提案には有り難く賛同して、並んでそこに向かう。
「にしても珍しいな、善行修行でここを経由するなんて」
「そう、なのか。俺はよくわからないんだけど。同道するのも初めてだし」
「なんだ、お前が当事者じゃないのか?」
「俺じゃ若すぎる。騎士団に入ってやっと二年目だから。今回は隊の隊長が張本人」
ずっと嫌がってたみたいだけど、叩き出されて仕方なく。張り出した樹の根を乗り越えながら答える。カイアスが視線を向ければ、半歩後ろの小さい彼女は軽く跳ぶようにしてそれを越え、何ともなかったかのように歩き続ける。カイアスはその様子に小さく笑って、見咎めた彼女はそれを見上げて首を傾げた。
「? なんだ?」
「いや、楽しそうだな、と」
「うん? うん、楽しいぞ。村の人間と話しているのも楽しいが、外の人間と話すのも新鮮で良い」
それには、そうだよなと内心に溢れる。魔物があちこちをうろついているお陰で、村や町から出るなんて事はそうそう起こらないのが常だ。隊商や商人、旅芸人は居ても、自分から進んで外へと向かうには、障害が多すぎる。
地図を思い浮かべる。
「……アイレの村は、近くにあるのは森と草原、だったか」
「だな。周りに人は住んでないな……通商ルートからも外れてる。鉱石と工芸品を商人相手に取引したり、あるいは商品を預けて外で売ってもらう。商人には手数料を渡して代金を受け取って、その金で必要な物を隊商から買う。そんなところか」
「君は? 何か作ってたりとかは」
「私は主にはカンテラだったり装飾品だったり、でも色々だな。刺繍もするが、それは別の一家が圧倒的だ。この帯もその一家に貰った。家ごとに作る物が違うな、金細工と銀細工も違う家だし、薬と香も別だ。人の流れは少ないが、逆に自然だけはたくさんある。静かでのんびりできる場所だな、私は好きだぞ」
語る口調はやはり楽しげで、そして淀みない。分かれ道にはすぐに気付いて一方を指差して、その方向に眼を向ければ樹の群生する合間が広くなっている事に気付いた。本当に早い、思っているうちに青い制服が見えて、歩調を早めた。
「隊長」
声をかければ装備を整えた姿の彼が振り向いて、こちらに身体を向ける所に歩み寄るうちにレイネルはにやりと笑う。明らかに面白がるような顔。
「お、戻ったか。遅かったな、サボリか?」
「色々あったんですよ。時間は……」
「まだ平気だ。二人くらいへばってんのが居てな、とりあえず日陰には投げておいたが」
指した方向には樹の幹に背を預ける部下の姿が見えて、カイアスはその様子に僅かに眉根を寄せる。無理はするなと言っていたのに、そう呟きかけた所に、レイネルが何か気付いてか声を上げて、それで振り返れば黒髪の彼女が首を傾げて立っていた。隊長がふむと唸る。
「……こりゃ随分な拾い物してきたなカイアス、責任は持てよ?」
「下世話ですよ隊長。川の上流で会ったんです、アイレの村の子だそうで」
言いながら視線を向ければそれでこちらに向かって寄って来る。籠を両腕に抱え直した彼女は随分と身長差のあるレイネルをまっすぐに見上げた。
「お前が隊長か?」
「俺が隊長だが、随分なのは口の方もそうみたいだな」
「……んむ、これ以外に喋りを知らないからな……」
目線を下げた彼女が、口元を押さえて考え込むように瞳を伏せる。その反応に面食らったような顔をした二人が視線を交わして、そして苦笑したレイネルがその黒い頭に手を置いた。
「気にしねえよ。軽口だ、本気に取るな」
「……そうか?」
合間から見上げる翡翠の眼には、レイネスはその頭をぐりぐりとかいぐるようにして撫でてから手を離す。少女は乱れた髪を適当に撫で付けてから、そうだ、と再びその隊長を見上げた。何かと見返したレイネルの視線もしっかりと受け止めて少女を口を開いた。
「礼をしようと思ってついてきたんだ」
「……礼?」
「隊長の部下に助けてもらった。魔物がいたんだ」
言いながら翡翠の眼がこちらを見やる。レイネスはカイアスを一瞥して、少女は続ける。
「善行修行だと聞いたから、尚更と思って」
「……そりゃ、有り難いが。でも本人に言う事じゃないか?」
「本人には伝えたんだが……」
また翡翠がこちらを向く。向けられた方は苦笑で答えた。
「礼を言われるような事じゃないって。小物だったし、結局倒したかもわからないからな」
「って本人が言うから」
ほんの少し不満そうな声音で少女は隊長に向けて言う。カイアスはそれには苦笑の色を強める。その様子にちょっとだけ視線をくれて、少女は言った。
「だから、言う対象を変えようと思って」
「俺こいつの代わりか?」
「何故?」
レイネルが難しげに眉根を寄せるのを見てか、少女も同じように難しげに柳眉をゆるやかに歪ませる。だがそれもすぐに消え去って、そしてすぐに明るい表情を浮かべた。
「隊長が彼を連れてきてくれたお陰で助かった。だから隊長にも、礼を言う。ありがとう」
「……おう、そう来るか」
「うん、それ以外に思いつかなかった。……本心だぞ?」
「疑ってねぇよ。部下が役に立ったみたいで何よりだ」
「本当に助かった。あのままだと大怪我していただろうから。……それでなんだが、時に、隊長」
「レイネルだ、呼び捨てで構わん。何だ?」
改めての呼び掛けに、レイネルは苦笑する。気にしているのだろう「隊長」という呼び掛けにそう言ってやれば、少女ははっきりと嬉しげに笑って言う。
「ありがとうレイネル。次に目指してるのは、アイレなんだろう? 道案内欲しくないか?」
「……一応、道は分かってるが」
「ここからなら近道がある、普通の馬じゃ大変だろうけど軍馬なら大丈夫、半日かかるのが三時間程度で済むぞ」
レイネルとカイアスはそれに顔を見合わせる。なら甘えてもいいだろうかという問い掛けには、彼女は相好を崩して答えた。
Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.