――六二七〇年十一月二十八日、紫旗師団本部。
窓の外の慣れた風景に目を向けたまま、袖を通した上衣の襟を左手で引き寄せる。どこか据わりが悪いのを何度か直そうと苦心して、結局改善は諦めて息を吐き出すだけにとどめた。
窓の外では雪が舞っていた。晴れていれば裾の方、街を囲む分厚い三層の城壁も見えるこの部屋のこの大きな窓も、今は先程拭った小さな範囲の他は白く結露し凍りつき、景色を通す硝子の性質を失ってしまっている。当然、雪の舞う中では、家々の赤い屋根も紛れ、くすんでしまっていた。
どうしたものかと思っている間に背の方から扉を軽く叩く音。軽く声を上げて答えればすぐに蝶番の軋む音が続いた。
「クォルク団長、頼まれてたやつ、出来たから持って来たよ」
「あとついでに、もうすぐ出るって聞いたし団長ご飯の時いなかったから、あったかいもの作ったんだけど、食べる?」
二人分の声、しかも子供。この建物の中では、本来ならそぐわない幼い声音だが、その持ち主達の事ならとうに知っていたから驚きもしない。振り返れば、青翠と緑紅。揃いの五色に苦笑が浮かぶ。
「有難うなクロウィル。ラシエナはお前、どっから聞きつけたんだ?」
「広間で様子見てればわかるよ、皆準備してるもん」
両手に盆を持ったラシエナは横で扉を押さえたクロウィルに礼を言いながらテーブルのすぐ近くまで注意深く足を進めて、そこに覆いのかけられた食事の盆を据える。たったそれだけにやけに真剣な表情をしているのに小さく笑って、そして遅れて部屋に入ってしっかりと扉を閉めたばかりのもう一人を手招いた。
「悪かったな急で、訓練の邪魔になったろ」
「全然。団員の皆が動けないんじゃ、何か手伝いしてた方が良いと思うし。エナも手伝ってくれたからすぐ終わった」
「手伝ったよ! ……なんかそれっぽい本集めたくらいだけど!」
「おかげで参照できるのが多くて良かった」
少年は少女のその物言いにかくしゃりと笑いながら、手招いたのには素直に応じて片腕に抱えていた書類の束と二冊の本を差し出してくる。子供の腕には大きいだろうそれを受け取って、綺麗に綴じられた表紙を見下ろす。手書きの文字は、『異種』の形質変化の推移、と象られていた。
「三十年以上前の百年分は、そっちの本に纏めてあったから、省いちゃってるんだけど」
「わかった。有難うな、こういう細かい所はやる奴が少なくて情報が遅いんだ、団員も今は動かせないしでどうしようかって思っててな」
「そういうのなら得意だし、やってて面白かったから」
「頼もしいな」
手を伸ばしてその青をぐしゃりと撫でる。乱れた髪の下で少しばかり気恥ずかしそうな嬉しそうな声。そうしてから金の方に目を向ければ、少女は目で少年を示す。一番の功労者はあっちだ、と言いたいのだろう、子供が一人前に。
「ラシエナも有難うな。確かに今日何も食ってないから、腹減ってたんだ」
「やっぱり。団長最近引きこもってたから、かなって思ってた」
「引き篭もりってな」
言う通りなのだが、物言いが少々雑に過ぎる。言った本人も分かって言っているのだろう、悪戯っぽく笑う中で鮮やかな二色の瞳が細められた。じゃあ、とクロウィルが促すのにラシエナも頷いて、突然の客はすぐに去る。それを見送って扉が閉じられるのを確認してから、腕に抱えた中から紙の束だけを持ち上げて本は机に置き、テーブルの上に載せられた盆の前に座った。
表紙を捲れば要旨のみの簡素な字面が並んでいる。表と補記、詳細を参照すべきとするものにはどの本のどの部分に書かれているか、あるいはどの報告書を元にしたかが明記されているのを確認して、息をついた。
「出来すぎだろ……」
筆跡は二種類、あちこちに入り乱れているのを見れば、あれこれを分担して作ったのだろうという事はすぐにわかる。わかっても、既にある情報を並べるだけとはいえ、ここまでやられてしまうと、どうも。
ノックの音。少し乱雑なそれにすぐに誰かの察しはついて、やはり返答を待たないうちに扉が開かれる。
「……どうした?」
「いや、子供って怖えなって考えてた」
横からの声に書類を差し出してやる。手の中からそれが抜き取られてからやおら目の前に鎮座する盆の覆いを外して思わず面食らう。どこの料理人かと思いながら盆の端に添えられていたフォークを手に取った所で横合いから呻く声が聞こえて、それでちらと眼を向けた。向けた先に青髪紅瞳、思わず眼を眇める。
「お前どういう教育してんだよ」
「いや俺じゃない、嫁に任せてた。……うわあ……」
「それお前のひっどい報告書より余程分かりやすいぞ、ユゼ」
「知るかっての」
どこで習ったのやらという疑念が沸き起こる。時間があまりないと聞いていたからだろう、あらかじめ小さめに切られていた肉を口の中に放り込む。美味い。咀嚼して嚥下して、テーブルの向かいのソファに腰を下ろした副団長に眼を向けた。
「ラシエナはまあ分かるんだけどな、あそこん家は女だ男だで勉強の内容に差はつけないだろうし。でもクロウィルは、なんなんだあいつ。やってみろって言った本人が言う事じゃねえけど、八の子供のやる事じゃねえぞ?」
「読み書きと計算は相当早い時期から仕込んでたけどなぁ確かに……最近まで嫁の行商に拉致られてたから、よく分かんなくてな」
「何やらせてんだお前の嫁……」
「鬼教師なんだよ」
お蔭で上の二人も相当頭良いぞ。言いながら紅は書類の中身を追っている。それを待つ間に皿の上を綺麗にしてしまおうと手と口をひたすら動かして、最後にパンを押し込んで塩味の利いたスープで流し込んでいるうちに最後までを読み終えたユゼが顔を上げた。
「どうだ?」
「あー……ああ、まあ、うん。やっぱり最近の異常について、それを理由付けられるような事例は無いな」
問いかけには、再び紙を捲りながら答える。既に驚愕の色も全く失せてその内容だけにというのは、流石魔導師と言ったところか、あるいは親だからこそか。続きを促せばユゼは幾つかの表が列記された数枚を示した。受け取って眼をやるうちに続く声。
「既存の『異種』の性質変化なんてのは、それこそゆっくりゆっくり起こるもんで、突然変種やら亜種なんてのが出てきたって前例は無い。どれも変化を追って三十年五十年してようやく昔と変わってきている、って分かるのばっかりだ。原種と亜種とで名称が変わるのは、明確に違うって点が観測されて確定されて、それが普遍性を持つと確証を得られた段階で、だな、手続き的には」
「現実にも変化が起こって差異になるまで早くて半世紀遅くて二世紀、か。こればっかりは魔法院に感謝だな、よくこんなものまで記録して残してる」
「その記録を取りにいってるのはどの時代も紫旗だけどな。集積書架とか本当に紫旗の団章ばっかで笑うぞ?」
「紅軍なんて飾りだろいつでも。……と、なると、キレナシシャスが『異種』に関する記録を残し始めて数千年経ってる中、去年からの突然変異は王朝史上初の出来事だと」
「そうなるな」
「今何年だっけ?」
「六二七〇年。今年はな。キレナシシャスの建国が一二〇〇年。大陸歴以前の記録なんて全く残って無いから、まあ、事実上有史以来初の出来事だな」
「……で、それの直前に、キレナシシャスに限らず、色んな大陸の色んな国の至る所でほぼ同時期に天変地異的な災害が起こってる、と」
「地震とか河川の氾濫とか、『異種』の波の大量発生とかな」
「……なんなの?」
「答え出てたら調査に行く意味無くないか?」
天井を仰いでソファの背凭れに体重を預ける。ぎし、と軋む音。溜息を思い切り吐き出した。
「……なーんで第一まで駆り出されっかねえ……」
「仕方ない、陛下の命令だしな。紅軍が調査したとしても起こるのなんて略奪がせいぜいだし、紫旗が動いてるって明確に見えた方が良いだろ、一般には。国王がそう命じたって事なんだから」
「分かってるけどよ、それは。でも紫旗は護衛が主眼だろ」
「国家国民の、な。愚痴ってないで動けよ団長、引きこもってるから鬱になんだよ体力馬鹿」
「…………」
言い返せない。否む理由が無かった。これだから魔導師は。息をついて残っていたスープを飲み干して、そうして書類を手にしたまま立ち上がった。
「北、だな」
「ああ。ただ天候が悪いから転移陣は使えない、馬でだな」
「面倒になるなぁ……準備は?」
「万全。別動はもう出てる、やっぱ雪が収まるまで連絡はつかないだろうけど、まあ、なんとかなるだろ」
「イースもちゃんと後輩育ててくれてるからなぁ、別動がちゃんと動けてるのは有り難いな。後々を考えると、どうしてもあと何人か欲しいってのはあるんだが」
「フェスティもそろそろ退団だしな」
遅れて立ち上がったユゼのそれには頭を掻く。立て続けに優秀なのが抜けるのは辛いと思いながらそのまま扉を開いて、寒い廊下へと出る。数歩の間。ユゼの声。
「……やっぱ入れんのか、あの二人」
「本人達にその意志があれば、だな。アイラーンからはもしそうなったら頼むとは言われてる、奥方は反対してるらしいけどな」
「げ。根回し早いな公爵……」
「まあ、そんなだしなぁ。クロウィルももう第十とか第十二とかにくっついて回ってるし、まあ早いうちから剣の訓練できるのは良いだろうしな。お前の家継ぐにしても、使う側の知識は必要だろ?」
「俺の家は剣よりは装具なんだけどなぁ……」
コウハと言っても色々ある、と、一族の輪から外に出てきた珍しい例なのだと自称する男は言う。出てきたとは言っても一族との繋がりは強いようだがと思いながら廊下の先の階段を下りて、下の広間に向かう間に、一人の藍色が向かいから登ってくるのが見えた。見上げてきた彼女、レティシャは片手に持っていた大きな茶封筒を持ち上げてみせる。
「団長、次の春の人事と新人の事纏めておいたので、……机の上置いときますね」
「ああ、悪い。有り難うな、たぶん月が変わって少しの頃には戻って来れると思うから、何だったら先に進めといてくれ」
「えっちょっ、団長!」
階段の端にのいた彼女の脇をすり抜けながら言えば呼び止める声。後ろ手に手を振った。
「俺の署名があるかの確認は最後に出来れば十分だろ、任した」
「それバレると後で怒られるの私なんですけども!」
「うまーく俺に転嫁しといてくれ、あとはなんとかすっから」
「……置いときますからね!」
上の方からの声には苦笑する。そのまま階段を下へ下へと向かい、そのうちに色々な声が聞こえてくる。それを聞きながら、そういえばと後ろに声を向けた。
「馬ってことは、地下からか。出口確保できてるか?」
「塔の方も若干埋まってるらしいな。でもまあ、何とかなるだろ。向こうでも一応対処はしてくれてるらしい」
この様子じゃすぐに埋まるだろうがとは、窓の外を見ながらの声。そうだろうとは思いながら、階段を下りきった先、広間の扉を押し開いた。
――六二七〇年、十一月三十日。任務地、アテイア村近辺。
目的地に着くまでには一日以上を要した。日付は既に月の末日を迎えている。雪は一度も降り止まずに、どこも変わらず堆く白く深く積もっていた。
調査対象となる場所は王都から見て北、幾つかの村を越えた先にある広い森林地帯だ。キレナシシャスという国には珍しく湿地に近い気候と肥沃な土地であり、数年前からこの場所をどうにか利用できないかという案が上がっては、そこに生息する『異種』の多さと、その森を住処としている精霊達への影響が未知数の為、計画らしい計画も立てられないままになっている。
その場所が昨年起こった大規模な災害を境に、『異種』の姿が全く見えなくなっているという報告が、災害の影響もようやく収まってきた数ヶ月前からぽつぽつと発掘されたのが、紫旗に調査命令が降る前触れだった。報告のあった当時にはそれよりも性質変化を唐突に起こした亜種への対応が急務で、政府が拾い上げるには小さすぎる案件だったのだろう。
「それを今頃って言われても、なんだけどなぁ、こっちは」
手綱を引いて、白の中でも遠眼にそうと見える緑に眼を凝らす。やはり降りしきる雪で視界は悪いが、王都を出た時に比べれば雪華の密度は落ちている。止んでくれればと思っている横に、葦毛の手綱を握った一人が横に並んで口を開いた。
「でも単純な調査だけだから楽じゃないですか。『異種』が居ないんなら、そうそう大変な仕事でもないですしね」
「俺は『異種』討伐とか、そうじゃなくても周辺哨戒とかの面倒な方が好みなんだがなぁ」
「平和なのは良い事ですよ」
「戦闘馬鹿は放っとけカルド」
反対側からは副団長の棒のような声が飛んでくる。息をついた。戦闘馬鹿は否定しないが、他人からそうと明確に言われるとどうも勝手が分からない。森へと向けた視界の先、白の中で幾つかが動いているのを見つけて、それで手綱を打った。すぐに距離を詰めたそこで、先に森の中へと様子見に向かっていた三人が翻った外套を押さえながら怪訝そうな顔をしているのを見てすぐに問いかける。
「やっぱりいないか?」
「いません、ざっと中を巡ってみたり外から様子見たり、あと魔法でもちょっと刺激してみたんですが一切の反応がありません。森の奥の方も、最近争って出来たような痕……枝が折れていたり不自然に樹が倒れていたりというのはありませんでした」
「前に来てた報告の通り、みたいだな。精霊は?」
「そこだけが報告と食い違います、精霊も居ないようです」
別働の隊長、イースが言うそれに眼を瞬く。左を見やればユゼもそれには眉根を寄せている。それを見てなのだろう、三騎の内の一人が声を上げた。
「完全に、では無いのですが。使い魔達にも調べさせましたが、元々この森に住んでいた精霊達は唐突に居なくなったようです。どこか別の場所に移動したのかそれとも消えたのかは、詳細を調べてみない事には分かりませんが」
「……分かった。ひとまず脅威度は最低、って事だな。ディスト、そのまま詳しく調べてくれるか、元々精霊が多いからって眼をつけてた土地だ、いなくなったってんなら報告しなけりゃならんしな」
「分かりました」
答えた彼はそのまま手綱を引いて背を向け、一騎のみ森へと駆け去っていく。それを見送る間もなくユゼが声を上げた。
「行くか」
「ああ。全員呼んでくれ、このまま行こう。何かあるかも分からないから警戒だけは忘れないようにな」
嘶く愛馬の首元を軽く叩いてやりながら言えば、副団長はすぐに待機していた部下達を呼びにいく。ごく少数の編成、それでも三十人。広いからと多めに連れてきたのだがその必要も無かったのかもしれない。そんな事を思いながらも、雪の上に氷の砂を舞い上げながら距離を詰めた、その先頭の二人を見やった。
「三つに分けるぞ。ユゼとグラード、それぞれ左右に回り込めるだけ回り込んでから中に入ってくれ。俺はこのまま正面から奥目指す。魔導師は同数になるように、何か見つけたら位置転写しといてくれ。あと記録忘れんなよ」
それぞれに了解の声を上げて二十人の騎手が左右に分かれて走っていく。残った八人を確認してから、じゃあ、と、森に向き直った。
「ま、ゆっくり行くかね」
馬で行けるのは森の裾までだった。全く人間の手の付けられていない原生林では、足場の悪さと樹が密集している所為で、騎乗した状態では思うように進めない。馬の脚も痛めるかもしれないと、枝に繋いで徒歩で森へと入り込んだ。
「『結花』もいないのか……」
「いよいよもって変な感じですね」
靴の下に直接雪の感触を踏みながら零せば同意の声が返ってくる。調査という名目の任務は今までに何度もあった事だが、その大多数は『異種』との交戦記録を蓄積する事が目的だった。交戦を行わない正真正銘の調査というものは、本来なら紫旗師団の、それも国王の護衛として常に控える第一部隊が出るようなものではない。だから正直なところ、調子が出ないというのも本心ではあるのだが。
「こうも何も無いとなると、それこそ逆に大物が見つかりそうで怖いな」
「そういう意味じゃ貴族の軍に任せなくて良かったかもしれませんねぇ。このあたりはノルド伯爵の領地ですけど、あそこは悪い噂が絶えないし」
「だなぁ。手柄だけには敏感だからな紅軍は」
言い合うそこに別の一人の苦笑の音が混じる。その音の方を見やれば、降り積もった雪と同じ色の髪の一人が、困ったように笑って口を開いた。
「そう一括りに言われると困ります」
「全部とは言ってないだろフェスティ、アイラーンは別だ、別」
「なんか異端ですけどねぇアイラーンは。あそこまで色に頓着してないの見るとどこに住んでんだって思いますよ」
「ディース……」
「別に分隊長を批難してるわけじゃないですけどね。公爵とか分隊長を見てるとこう、他が馬鹿馬鹿しく見えるってだけで」
「褒められてるのかなぁ、それは」
杖を手にした少年の物言いには、腰に下げられた短剣を押さえた青年は苦笑の色を深める。東の公爵の次男は、その地位身分にしては控えめな意思表示しかしないが、自分の家に対しては相応のものを持っているらしい。矜恃か自負か、ともあれ彼には相応しい。赤の貴族として知られるアイラーンは、当代の姿勢をよくよく子供達に伝えているようだった。
思いながらも脚は止めない。大きく地面から張り出した根は雪に埋れていて、雪に沈まないように魔法で手当てしていても気を使わないと難しいから、尚更馬は置いてきて正解だったかと思っていると、不意に視界の端に何かが入り込んだ。
前へと動き続けていた身体を押しとどめる。視線を向ける。一秒も無く消えている。ただ距離を置いたその先から、わざとらしく潅木の葉を鳴らす音。
「……団長」
「ディイ、周囲警戒。何か見つけたら些細なもんでもすぐ言えよ」
「わかりました」
杖を手にした少年がこくりと頷く。即座にあとの魔導師二人が腕輪を押さえて、その周囲に騎士達が。視界の左端には分隊長と呼ばれた彼が手に杖を喚び出すのが見えた。
「……誘われてますか」
「かもしれねぇし、普通に何かの動物かも分からん」
フェスティの問いにはそう答える。腰の剣はまだ抜かないまま、柄に手を添えるだけで足を踏み出す。身を切るかのような空気を細く吸い込む。冷たいそれを脳に叩き込むようにして、指先までの感覚を取り戻す。寒さには慣れている、この程度。
早足に進む間にまた潅木の鳴る音。部下達が進む間に立つ音もあるが、視線の先のそれと聞き間違う事は無い。音を追いながら進む、その最中に背中から声。
「魔法です、この先……」
「種別は」
「……攻撃性のものではありません。なんだろう、これ……脆い……」
少年の怪訝そうな声。ディイは魔法を感覚で捉える事に長けている、その分明確なこれと指摘することは苦手だが、彼の感じ取るそれが間違っているなどという事ががほとんど無いのは、部下達の間でも良く知られた事だ。フェスティが数歩の距離を詰める。
「地形図の通りなら、この先は崖下に出ます」
「だな」
脇の樹の幹に手をつき、雪から顔を出張り出していた根を乗り越えながら答える。崖に何か仕込んでいるのか、そこに誘き寄せたいのか、あるいは単にそこに来て欲しいだけなのか。それから先は口を噤めば部下達も無言のまま後についてくる。
暫く静かに音を追って進んで、不意に耳に聞こえていたそれが途切れ、止む。目を凝らせば樹々の合間に岩壁らしき色が見えた。地図を信用していなかったわけでは無いがと剣の柄を握る手に僅かに力を込めて。
そしてその崖の真下、そこだけ避けたように樹の無い場所に『それ』を見つけて、クォルク――紫旗師団長クォルシェイズ・リヴェイド=オル=カツィライトは、その紫の眼を見開いた。
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背を観る追憶。第零断章『Fr』を辿る。
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