「久々に寿命縮むかと思った……」
「何も意図を伝えずでしたがよくやってくれました、クロウィル」
 大通りに出て少しの距離を歩いて、それでやっと吐き出せた緊張に横から声がかかる。見上げれば怜悧な紅。だが先刻までとは違うのは、そこに明確な笑みが見える事だった。言われた内容には、首を振る。
「紙に残すと危険だし、聞いてればわかるようにしてくれてたから。俺が口出すこともなかったし」
「そう思ってしていたことですが、通じていたなら何よりのこと。……久々のことです、お前の顔もよく見せなさい」
 足を止めての言葉に、素直にその横に立ち並んで上向く。覗き込むようにした姿勢につられて長い銀髪が肩を滑り落ちて、自分の顔に影がかかる。それでも母の顔を見上げていれば、不意にその表情が柔んだ。頬に手があてられる。
「年相応の顔に近付きましたね。母の言えたことではありませんが、お前はどうやら育ちの早すぎるところがありますから」
「……それって逆行してるってことですか?」
「正道に戻りなさいと言っているのです。母もお前のことは案じていたのだから」
 さあ、と片手が差し出されて、疑問符が浮かぶ。何の意図かと母をもう一度見上げれば、今度は苦笑とともに右手が握られた。動き出した母の左手に連れられるように足が動いて、そのまま数歩を歩き出して、そうしてから何となく妙に気まずくなってきて顔を俯けた。気付いたのか、小さく笑う声。
「お前の歳であれば当然のこと。気にするものではありません。さあ、案内してくれるのでしょう?」
「あ、うん。一回上行かないとだから、ちょっと遠回りするけど」
「距離が長いのは良いこと。父様にも話は聞きましたが、お前自身の最近の話の一つや二つもしたいもの。道すがらで構いません、母に聞かせてくれますか」
 面映ゆい心地が更に増して、どうしようもなく後ろを振り向けば、眼が合った父はにやにやと笑っているだけだった。うう、と呻く。
「……俺としては母さんの話が聞きたい……」
「母は、このところはエルドグランドに居りましたね。どうにかコド属と話をつけて、此度は林業に注力することになるでしょう」
「……母さん、なんでそんなに変な種族と話つけるの上手いの……?」
「母が変わり者なのでしょうね。ですが商人とはそういうもの。商人ではないお前は、どう暮らしていましたか?」
 最初の問いに戻されてしまう。やっぱり敵わない、と項垂れながらも、つないだままの手は握ったまま足を進めた。



 最初に、すごい、と呟いたのはラシエナだった。
「すごい、母様があんなに心底楽しそうに雑談してる人初めて見た」
「……話の内容聞きたくないような気がするけどな、俺は……」
 アイラーンの別邸である。母は既にアイラーン公爵夫人との予定も立ててあるとは手紙にも書いていたが、まさかあんな重い商談の直後にとは思わなかった。その母をアイラーンのこの王都での屋敷に案内して、本部に一度戻って髪紐を解いている間にラシエナと鉢合わせ、会ってみたいという幼馴染を連れてもう一度別邸に訪れたところだった。覗き込んだ中庭、雪の一切が掃き出され、魔法によって空気も暖かく保たれたそこは、今日は陽の具合も良いこともあって絶好のお茶会日和だと二人は判断したらしい。ほほ、と笑う声が後ろから聞こえて、振り返れば老齢の執事が立っていた。中庭が見える廊下の窓際である、二人固まってこそこそとしていれば使用人に目立たないはずがないかと、だがあの二人に見つかったのではないと思ってほっと息をつく。
「お二人とも、奥様方のところに行かれればよろしいのに」
「な、なんか邪魔しちゃダメかなって……!」
「お二人のお子を、お二人が邪魔に思うものですか。わたくしはこちらをお届けに参りますが、お二人はいかがなさいますか?」
 こちら、とは銀盆に乗った紅茶の替えと新しい茶菓子を示しながら言う。ラシエナと目を見合わせる。明らかに迷っているのは自分も相手も明白で、だが先にはっとしたのはラシエナだった。
「わ、私本部行かないと! お仕事あるから! ほらクロもでしょ!」
「え、俺は」
「いいから!!」
 言った幼馴染に腕を掴まれて無理やり立ち上がらせられて腕を引っ張られるままに表門まで引きずられていく。今日は何だか女性に引きずり回される日なんだな、と息をついている間にアイラーン家の使用人達に送り出され、その間際に一人が声を上げた。
「あ、ラシエナお嬢様!」
「っと、と、なに?」
 幼馴染の足が止まって、ほぼ同時に振り返る。そこに駆け寄って来た一人の侍女が腕に布で覆われた、箱のようなものを差し出してくれる。
「紫旗師団でのご勉学のこと、旦那様から伺っております。少なくはありますがご勉学の合間に、ラシエナ様と、クロウィル様とでお召し上がりください」
 さあ、と言われて、半ば押し付けられるようにラシエナが受け取る。二人で目を瞬かせてその侍女を見上げた。
「いいの? 母様怒るんじゃ……」
「いいえ、奥様が是非にと仰せられたのです。それとご伝言がございます、『団の皆様の邪魔だけはしないように』と」
 一拍置いて、それでラシエナが母様らしいや、と苦笑気味に笑う。侍女もそれに対して笑い返した。
「三日に一度はこちらにお帰りくださいませね。兄君も弟君も心配していらっしゃいますから」
「はあい。行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
 言い交わして、それから、行こう、と声をかけられて頷き返す。アイラーンの別邸から紫旗の本部まではさほどの距離もないから、包みの中が何だろうかという雑談をしているうちに黒い鉄の門が見えてくる。門といっても開くための戸はついていない、ただレリーフが象られたその下を通るときには多少緊張する。ここは許された人間にしか通れない道だ。だから頭上を通り過ぎていったレリーフに内心胸を撫で下ろして、冬の外気がそのまま吹き込んでしまわないようにと作られた二重扉を開いて潜る。はあ、と息をついてマフラーを外した。
「やっぱり中入るとあったかい……」
「暖炉なくても違うよねやっぱり。でも『小さいの』見てなきゃだから早く広間行こう!」
 仕事ってやっぱりそっちか、とは、苦笑した。自分は、母がアイラーン公爵夫人との歓談を終えるまでは何もすることがないから、それに付き合うのにはさして問題はないのだが。思いながら連れ立って広間の方へと足を向けて、扉が近くなった頃、不意に違和感を覚えた。あの厚い重い扉越しに、何か言い争うような。
「……何かあったのかな」
「わからない、けど……」
 ラシエナがつぶやくそれにはそうとしか言えないで、それでも足を早めて扉に手をかける。取っ手を引いて最初に聞こえたのは怒声だった。
「――いい加減になさってください!!」
 途端に幼馴染が肩を跳ねあげて後ろに隠れようとするのは片腕で庇って、そのまま扉を開く。見えたのは藍色の制服が何人も、その奥でエディルドにしがみついているらしい子供と、紫旗たちに阻まれているような見知らぬ二人。衣服からして相当の上流階級、貴族かと思っているうちに、後ろで殿下、とつぶやく小さい声が聞こえた。振り返って小声で尋ねる。
「第一王子と第二王子?」
「うん、……でも、わたしあの人たち、あんまり、好きじゃない……」
「――王が国の子とまで言ったのだ、王族のすることに紫旗ごときが口を挟むな!」
 男の声、明らかに苛立ちを表したそれが聞こえて目を戻して、その声の主の正面に立つのがレティシャと見えて、眼を見開いた。
「であれば玉命を以ってなされませ! 我らは陛下にのみ従うべくして集った直衛師団にございます、殿下お二人の命令とはいえ従う義務はございません!」
 強い、普段の彼女からは想像ができないほどの強い声。こちらに気付く余裕もないほど強い視線を相手に向けて――紫旗師団だと、紫の旗に紅の花を掲げ、藍色を纏う彼らの当然のその姿に、場違いに感嘆した。だからかもしれない、
「だから紫旗ごときが口を挟むなと、」
「――レティシャ」
 男の声に割って入った。自然とそうしていた。後ろで呼び止める声が聞こえたのを今は無視して、扉を開いて中に踏み込む。
「どうかしたの? 『小さいの』、怖がってるみたいだけど」
 言えば彼女も声を詰まらせるのがわかった。少し申し訳なく思いつつ、小走りに制服の間を縫ってエディルドの方へと向かう。王子二人は、どうやら急に現れた子供に対しては困惑しているようだったが、今は無視した。代わりに絨毯に座って完全に『小さいの』を抱えてしまっているエディルドのそばに膝を突く。そうしている間に既に後ろになった方からの声。
「……なんだ、子供か? どうして紫旗の本部に子供なんかが……」
「殿下方には関わりのないことにございます。……殿下が陛下の許可なく本部にいらしたのはこれで四度目になります、ただ恐怖させているだけと何故ご理解頂けないのですか。紫銀の存在が市井に知られる可能性も高くなりましょう、陛下は今はまだ紫銀の存在を公布することは望まれておりません」
「王族に対して不敬に不敬を重ねるか、紫旗もこれほどに落ちこぼれたか。王の直衛が、ただの教師風情が図に乗って、」
「エディルド、この人たち誰?」
 煩い。そう思ってわざと声を上げた。ああやっぱりあの人自分の母親だ。父が自分を指して母親似だというのも頷ける。
 ――気に喰わないものはとことん気に喰わない。というか子供の声ひとつ野次に入っただけで言葉を飲むんじゃ王族に向いてねえな、とは、思うだけにしておく。
 問われたエディルドは目を見開いて、紫旗には珍しく動揺まで見せて、それからこちらの表情に気付いたのか、硬い声で口を開いた。
「……グラーティエ王太子殿下と、オラエディス第二王子殿下だ。紫銀の様子を気にして、こちらにいらした」
「レティシャ、さっき四回目っていってたけど、毎回こうだった?」
 目は向けないで、声だけ向けて問いかける。手を伸ばして、エディルドの腕の合間からゆっくりと銀を撫でる。完全に制服の胸元に顔を伏せて押し付けてしまっていて、触れれば震えているのがわかる。そうやって撫でている間に返答が無いのが答えだった。だから続けて問いかけた。
「この国の決まりだとさ、王に従う王族貴族臣民にとって第一に優先され従うべきは玉命、だったよね?」
「……ええ、そうよ」
 よし、と思う。思いながら怯えさせないように丁寧に銀を掻き分けて、それにつられてこちらをちらと見上げた紫に、一度笑って見せて、そうしてから意識して息を吸った。
「『大丈夫だから』」
 小声で囁く。『小さいの』が目を瞬かせる。両手は耳を押さえつけていたのか、それが外れて、恐る恐るといったように顔を上げるのを少しだけ見届けて、それから立ち上がった。紫旗の制服の間を縫って二人の前に立つ。胸に右手を当てて腰を折る。第一立礼、特に位を持たない平民が行える最高位礼。
「予期せぬ御目通り頂き感謝致します、両殿下。紫旗師団魔導師長ユゼルミラハドゥラニアの子、クロウィル=フィオンと申します」
 本当は王太子と他の王子を一緒くたにするのは禁忌なのだがこれはわざとやった。正妃も二妃も既に他界しているからこれ以上後継候補が増えないのが無念だ。思いながら声を待たずに顔を上げ、二人を見上げた。
「先だって陛下には拝謁の念願叶い、玉命を受けておりますのでこれをお伝えします」
「、お前のような子供に父上が謁見などありえん。現副長もその地位さえ払えば平民だ、平民の子供に父が何を命じるか」
「陛下には陛下のお考えあってのことでしょうから、わたしからは何も申せません。ただわたしが賜った玉命について、両殿下にはご承知置き願いたく思います。ですから、お伝えします」
 そうやら二人は驚いているようだな、と様子を観察しながら思う。それもそうだろう、見た目には十程度にしか見えない子供がこんなこと言い出したら驚くか面白がるかのどっちかで、後者になるのは団長や父みたいな変人だけだ。
「陛下はわたしに、『フェイリェル・レスィアレナィアディア=アーカシャードの兄となるように』と命じられました、よって両殿下にはこの場でお伝えしなければならないことがもうひとつございます」
「なん、父がそんな馬鹿げたことを、」
「紫銀の兄として、お引き取り願う」
 割り込んで、言い放った。第二王子の方が口数が多い、王太子は面食らっているのか無言のまま、だが最後の一言には反応した。あからさまな不快を表情に浮かべるのを見て思う、この国の王族って駆け引き苦手なんだな、と。紫旗の誰もが口も挟まないのは単純に有り難かった、今この場で一番強い権限を持つ人間は、自分だ。
「平民の子供風情が、王族に命じるなどと、侮辱罪でも許されんぞ、コウハの子供」
「平民の子供風情が玉命に背くことこそ恐ろしくてなりません。故にお引き取り願う。『妹』はようやくこの屋敷にも慣れた頃合い、人見知りもするなかで、四度に渡りこのように怯えさせる人間を、ただ王族だからという理由だけで招く愚は王の意思に反しましょう」
「お前のような者が王の意思をはかるなど不敬にもほどがあるぞ、餓鬼が!!」
 手が伸びてくる。襟が掴まれる。寸前に首の向きをずらしていたから苦しくともなんとも無い、ただ、ああやっちゃったなこの人、と、王族二人の後ろに見えた人を見て思った。殴るための拳が振り上がる、振り落とされる高さに達する寸前に、杖を突く音。
「誰が、何を根拠に私の意をはかったと?」
 目の前で大の大人の間抜け面見ても楽しくないなあ、と思いながらそちらに明確に視線を移す。すぐに手が離されて、それで乱れた襟元を迅速に整えてすぐに腰を折った。
「わたしが陛下から賜った玉命に過大解釈を起こしたようです。申し訳ありません、陛下」
「っ、そうだ、この不躾な子供が玉命などと妄言を、」
「その子に王の名を以って命じたのは事実だ、顔を上げなさいクロウィル。如何した、レティシャ。紫旗の本部で斯様な揉め事が起こるとは」
 詰め寄ろうとした第二王子を持ち上げた杖の握りで横に押しやるのが見えた最初で、王太子は最初から圧されたように道を開けていた。紫旗たちは既に全員が第一跪礼の中で、エディルドだけは王に手で制されてそのままの姿勢。問われた彼女がすぐに答える。
「申し上げます。両殿下が報せもなくお出でになり、我ら護衛を排し紫銀に触れようとなされたため、陛下の命を受けた直衛として紫銀の護衛を行なったところ両殿下ともにお怒りの意を示されました。それに遅れここにある子弟クロウィルが玉命を以って両殿下に退出をと願い申し上げましたが、その以後はご覧の通りです」
 え、と思ってレティシャに目を向ける。そんなところから見てたならなんでもっと早くに入ってきてくれなかったんだ、と、思いながら扉を見れば、ラシエナとカルドが開け放たれたままの扉の陰からこちらの様子を伺っているようだった。あそこの二人が連れてきてくれたのか。
「そうだな、そのあとは私も見ていたがな。まず、クロウィル」
「はい」
 呼ばれて、すぐに目を戻す。やっぱり一番はこっちにくるよなあ、と、諦観を固めておく。
「少しばかり思い違いをしているようだから、早めに訂正をしておこう」
「……はい」
 やっぱりちょっとか、ちょっとどころでなく強引だったか。実力主義の紫旗だから、子供が何かしたところで父が役目を終えるなんてことにはならなそうだけど。思いながら次の句を待っていれば、王は不意ににやりと笑って見せた。
「『それ』に関しては、お前は私以外には必ず『命令』しなければならん」
 ――全くの正反対の言葉が聞こえて、反応できなかった。そうしている間に悪戯めいた表情で王が続ける。
「願う、など以ての外。玉命をもってしても臣民に対し願うだけでは、命を発した王の威が減ずるだろう?」
「、っ、失礼致しました、玉命の重さ、しかとこの身に刻みます」
「そうしなさい。……レティシャ、紫旗の皆もよく聞け、紫紅華と龍泉の下に成した事は王の意のままと心得よ。故にお前たちにその子を任せたのだから」
 短い返答の声が何重にも重なる。それに頷いてから、さて、と声に上げて王が向いたのは問題の二人だった。ここまでに何の言葉も出ていない。あからさまに目を逸らしたのが王太子、第二王子は、今度はこちらを睨みつけている。
「まさか王族の、しかも直系の列にある者が、玉命を持つ者に反するとはな」
「父上、私は!」
「黙れ。この件について私はお前たちの言を取り入れる気は無い。既に三度報告は受けている、四度の愚行故、改善の余地無しと判じ沙汰を致す。明日より十日従騎士の列に準ぜよ。十日の間お前たちが王族に列すること、この私が許さん」
「そんな」
 声をこぼしたのは王太子の方だった。それに目を向け、王は嘆息する。
「従騎士として相応しからぬ行動の一つもあれば沙汰の日を加算する。当然紫銀のことは口外無用、噂の一つでもあれば即座に処断と思え。お前たち以外にも王位を継ぐべき血を持つ者は居る。正妃の子故断頭はせぬが幽閉程度であれば躊躇わんことくらい、私の子であれば知っているだろうな」
 王子二人は答えない。もしやと思っている間に王の目が再び紫旗を向いていた。
「オラント」
「は」
「どうもこうもできぬ馬鹿共だが世話を頼む。沙汰の間アイラーンの紅軍にて従騎士として扱い、使え。お前がこの馬鹿二人に恨まれようと、王はお前を重んじよう」
「全て王の意のままに。では、準備を整える旨申し上げ、御前失礼致します」
「公爵には王から伝えよう。他の紫旗の皆は己の役に戻って良い。クロウィル、お前も役に戻りなさい」
「はい、……感謝申し上げます」
「それはラシエナに言うのだな。あの子がカルドに伝え、教えてくれた」
 やっぱり、と扉を見やる。王の手が伸びてきて軽く左肩を叩かれる、その後何も言わないままの王子二人を伴って広間から王が去っていくのを、なんとなく眼で追いかけて、姿が見えなくなって。
 ――急に力が抜けた。思わずその場に座り込んで、各々立ち上がっていた紫旗の何人かが慌てて駆け寄ってくるのがわかった。
「ちょ、おま、無理なら無理で任せとけば、」
「……やっぱちょっと王族相手ってきつい……」
「きついとかじゃないだろ!? ってかなんでお前その歳であんなん言えんだよ心臓鋼鉄か!?」
「鉄でできてたらよかった……」
「ちょっ、えっと、エナ! ラシエナ、お願い水を持ってきてちょうだい!」
 レティシャの珍しく慌てた声、すぐに遠くでわかったと応える幼馴染の声が聞こえて、そうしている間に視界がぼやけているのに気が付いた。音も遠い。これたぶん貧血だ。のんきにそう思う。足に力が入らないというか、重心がぐらぐらと揺れている。空気が吸えていないのか頭が痛い。思っている間に誰かに担ぎ上げられてどこかにか運ばれた。暖かいし柔らかいからたぶん暖炉の前の絨毯だろう。横にしてくれたのかもしれない、背中がふわふわしたものに触れているのは判った。
 母の商談に立ち会うよりも絶対こっちの方が寿命縮んだ。間違いない。思っているうちに冷たい手が触れるのがわかって、なんとなくそちらに視線を向ける。眩しい色に紫。
 ――さっき、大丈夫、って、いった。
 頷く。確かに言った。ぼやけた中で紫だけは鮮明に見えた。
 ――うそ、ついた。
 不満そうな、不安そうな、それらがないまぜになった感情が胸のあたりにじわりと滲む。やや考えて、ああ、と思う。そうか、そうなるか。
「……確かに嘘ついたなぁ……全然大丈夫じゃない……」
 言ってから眼を閉じた。眠いわけではなかったのだが、ぐるぐると回る視界に思考が疲れ切っていた。




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