名前を決める。言われてもさらに疑問符が増えるだけだった。膝に抱きかかえた『小さいの』の声。
「……名前、もう、ある、よ?」
「ロツェの名は、そうだな。だがオフェシスの名もアルティアの名も無いだろう」
「……うん」
「それを決めてやらなければ、こちらの生活はしにくい」
「そう、なの?」
「俺がそうだった。お前と同じだ、ロツェとオフェシスしか知らなかった。アルティアに慣れるまでに半年かかった。お前もアルティアを扱えるようにならなければ、誰とも話せないままだ」
「……クロウィル、は、できてる。クィオク、も」
「自然にできているわけではない。クロウィルは無理をして使っている、今見たように」
「……だいじょうぶ、って……」
「今のうちなら大丈夫だ。でも回数使えばどんどん無理が出てくる、そうすれば大丈夫じゃなくなるな」
 クォルクが言うのには、喉に声が詰まる。そうなのか、と、答えを求めるように見上げてきた紫には、早々に白旗を上げた。
「……うん、回数使ってくと、結構、きつい。時間空ければいいんだけど、そうなると安定して使える周期は一年に一回とか、そういうのになっちゃうから」
「……むり、してた……?」
「安全な範囲を、読み間違えてた、の、方かな、今のは。少し休んだら解除もできるかもしれないんだけど」
「解除は急がんでいい、それも一回に数えるんだろ」
「うん」
「ならフィメル呼んだ方が安全だ。……で、ディア」
 促されて、紺色のローブの袖が動いてテーブルの上の一枚を拾い上げる。差し出されたのを代わりに受け取って、『小さいの』に見せてやれば、不思議そうに首を傾けた。
「……これ、なに……?」
「一番上と下は読めないだろうが、お前のロツェの名前、ロツェの名をオフェシスの名に換えたもの、ロツェの名を音のままアルティアで書いたものの三つだ。ロツェとオフェシスは判るな?」
「うん。ロツェが、音。オフェシスが、文字。……アルティア、の、文字は、少し書ける」
「アルティアは文字を読む言語だ。『水』と書けばそれは「みず」としか読めない。オフェシスを理解してロツェで言い直すような、それではない」
 銀色が少し傾いて、今度はこちらを見上げてくる。わからない、という反応だろうか、と思って、片手で支えた一枚の紙、その一番下の文字列を見た。見慣れた文字、アルティア=オフェシスとも呼ばれる共通語。
 ――Fr-lenadia=Akshan.
「……フェルリナード=アイクス」
 そう読める。いや、そうとしか読めない。口に出してもう一度聞かせてみれば、紫の眉根が少し寄っているのが垣間見えた。
「フェルリナード……?」
「そう。フェルリナード=アイクス、が、お前がアルティアで名乗る名だ。ロツェの名は、こちらの、キレナシシャスの人間には難しい。聞き取れないし、発音するのも難関だ」
「ロツェがむずかしいのは、みんな、言ってる。から、わかる……きれなししゃす、って、なに?」
「この国の名前だ。国とは人々の集合だ。キレナシシャスは王を頂点に据えて、貴族、平民、と序列がある」
「……よく、わからない……」
「今はまだ分からなくていい。少しずつ覚えるものだ、急にやる必要はないからな」
「……うん」
 頷いた『小さいの』も、だが疑念は晴れないようだった。好奇心が強いことはここ数日で知れている、察したのだろう、黄金はそこでようやく、わずかに相好を崩した。少し笑うような呆れるような、仕方がないといったような表情。紺色のローブに流れる長い髪が揺れるのが見えた。
「気になることがあれば訊けばいい。知ろうと思うことを誰かが笑うようなこともない。だから、まずは自分の名を覚えろ、アルティアを話せるようにすることが第一だ」
「……アルティアができるようになった、ら、たくさん、訊ける」
「そうなるな」
「……でも、アルティア、分からないと、訊けない……」
「その為に来た。俺は、お前が言いたいことを、お前がアルティアで言えるように援ける。お前の周囲の人間にロツェを教えに来たのではない。わかるか?」
「……わたしの、アルティアの、せんせい」
「そうなる。時間制限付きだがな」
「いつ、まで?」
「二十五日の朝には戻っていなければならない、二十四日の夜にここを出る」
 見上げてくる紫にはええと、と思う。ここ数日の流れを記憶でさらって、それを数字に当てはめて、それからあまり自信はなく答えた。
「今日が……十二月十八日、のはず」
「だな。だから一週間、七日間だ。レスティエル様が難関でな、それ以上は無理っつわれた」
「蒼樹に行けと言ったのはお前だクォルク。落ちて再受験なんてするほど勉強好きではない」
「わーってるよ。てなもんで、古代語の通訳のアルティア教えんのは暫くヴァルディアに任せる、俺らが必要なら使ってくれ」
「元よりそのつもりだ。……ときに、クロウィル」
「え、なに?」
「ピアスは開けてるか?」
 急な問いかけに目を瞬かせた。一応、とは答えて、両耳が見やすいように頭の横の髪を手でおさえて耳朶を晒す。右耳に二つ、左耳にひとつ。今は小さな赤がそれぞれに埋まっている。
「……右の、ひとつは外せるか。魔法具のようだが」
「……いや、なら左にもうひとつ開ける。母さんにも父さんにも外すなって言われてるから」
「分かった。なら、これを」
 言いながら、横に置かれていた鞄の中からひとつ箱を取り出してみせる。差し出された白いそれを受け取って開けば、濃い緑の雫型の耳飾り。
「コウハの血は強い。古代語の意味と感情の伝播で、氣と血と反発しかねない、惜しいが古代語は『聞けなく』させてもらう」
「……やっぱり、そっちか……」
「母語話者でないのであれば成年以前に聞くものじゃあない、影響が強すぎる。成年後、……精神と自我の安定が確保された状態であれば、多少の魔法的要素を削ぐようにも出来たんだがな、イースやら使って」
「惜しいとは思う。フェルリナードも、暫くはクロウィルと話せなくなるからな、淋しいかもしれないが」
 なんとなく、言う彼を見やった。あまり変わらない表情、淡々としたそれなのに――子供に対して、そんな気遣いを向けるようには見えなかった、それが本心だった。意外だと思う、それは声には出さないが。
 気付けば『小さいの』は、こちらを見上げていた。
「……はなせない……?」
「……そうだな、お前が共通語を話せるようになるまでは、お預けだな」
 白い箱の蓋を戻しながら、苦笑する。『小さいの』は身を捩って、両手で長衣を掴んできた。眉根を寄せている、わかりやすくそうしていると気付いて思わず目を瞬いて、それで団長を見れば、彼も苦笑していた。
「なに、完璧に話せるようになるまで分からないわけじゃない。片言でも良いから、ロツェで言えてることをアルティアで言えるように練習すれば良いだけだ」
「……れんしゅう……」
「昨日もやってたろ? エディルドとカルドに、物の名前とか訊いて」
「……でも、はなせない……」
 嫌だ、という、意思表示に見えた。どうしようかと迷って、とにかく宥めようと銀に向けた手は紺色の袖口から伸びた手に軽く掴まれて制された。驚いているうちに、黄金の一瞥、そしてその眼は紫銀を見下ろしていた。
「それはお前の我儘だ。嫌ならなんとかするしかない、他人にしてもらうのではなく自分でやらなければいけないことだ」
 思わず、眼を見開いた。右手は掴まれたまま、黄金は既に目線を合わせようともしていなかった。上から声が降ってくる。
「今までは周囲がお前に合わせていた。大切にされていた、だがそれに甘えるのであればただ飼われているだけの犬と変わらない」
「ちょっ、と、」
 きつすぎる言葉に反駁しようとして、だが彼は一瞥もくれない。団長も止めない、そのまま声を割り込ませる隙もなく続く。
「確かに俺はクォルクに頼まれて来た。お前が共通語に慣れられるようにという名目でだ。だが本人にその意思がないのであれば教える意味も無い。選べ。お前が幼いという理由で甘えを許す人間に甘え続けるのか、嫌をいっとき受け容れてでもその人間たちに近付くこうともがくのか」
 声で、制止しようとした。それが出来なかった。言葉にならなかった、彼の言葉に嫌悪も呆れも浮かばなかったから。むしろ、優しいとさえ思っていた。
 この人は、声を、言葉を失うことの意味を知っている。感情を言葉で制する方法を知っている。自分などより、遥かに、優れて。
 だから視線は、自然、俯いた銀に向いた。泣いているだろうか、それとも圧されてしまっているのだろうか。
「……俺は、」
 自然と、声が落ちていた。心地良い思い出ではなく、苦い記憶でも無い。ひたすらに諦めを重ねるしか方法の無かった頃の情景は、未だ強く。
「二年間、誰とも話せなかった。声を封じられてたから。話したくても話せない、相手の言ってることはわかる、どう答えれば良いのかも分かる、それでも声に出来なかった。耳が聞こえないわけでも喉が潰されてたわけでもないのに」
「クロウィル」
「いいよ、大丈夫。……『話せない』のは、そういうことだよ。言いたいのに言えない、伝えたいのに伝えられない。話しかけてくれる人の、その言ってることもちゃんと分かってるのに、『解ってる』って事も伝えられない」
 『小さいの』は声を漏らさないままだった。だが、――この言葉は、嘘を嫌う。この言葉は全てを伝えてしまう。この脳裏に浮かぶ風景も、ただ俯くしか出来なかった感情も、全て伝わる。
「そんなのが一生続いたら、気が狂うよ。他人に振り回されて自分のことひとつも決められない、決められたとしても伝えられない。声を使わない会話も出来る、でもそれだけじゃ、お前が言いたいことはかけらも伝わらない」
 追い打つような言葉になってしまっていると、自覚はしていた。自覚はしていた、ただ、やめてしまう気にはならなかった。
「二年経って、やっと封じられてた声が使えて、話せるようになって、俺は嬉しかった。色んな言葉も色んな言語も使えて、沢山の人と話せるのが嬉しかった。分からない言葉の意味を知るのも知らない国の言葉を習うのも、その言葉を使う人たちと話せるようになるんならって思って習ったし、今もそうだよ。だから、……ロツェは、確かにすごい言葉だとは思う。ロツェを使えなくする必要はないと思う。でも、ロツェだけで、何人と話せる?」
 掴まれていた片手が解放される。それでようやく銀を撫でた。震えているわけではない、自分の長衣が濡れているわけではない。それでも硬く、全身に力が込められているのにはゆっくりと銀を撫でながら、声を継いだ。
「俺はともかく、ラシエナとは絶対に話せない。エディルドともレティシャとも。それで良いなら、そのままでいい。誰も責めはしない。でも、誰も何も言わなくなるよ。責めても褒めても通じないんだから、話すだけ無駄だって、多くの人はそう思う。だから、どうするかは『小さいの』の自由だ」
 そこで、言葉を切った。――全て伝わってしまっただろうか、紫藍と、黄金には。『小さいの』、紫銀には、どのように響いたのだろう。
 暫く、長い沈黙に入って、それでも二人とも黙って、動かずに待ってくれていた。自分も何も言わずにいた。
 無駄じゃない、そう聞こえるまでに、随分かかった。
「……わたしは、無駄じゃない」
 瞬間に駆け抜けた感覚はなんだったのか。寂寥に思えた、その次の瞬間には怒りが見えて、悲哀に塗りつぶされていった。
「……みんな、つらかった?」
 次に出てきたのは問いだった。撫でる手を止めて、背中をさする。
「俺は、そういうものだと思ってた。だから喋れるようになって、話せるようになって、……それで、今までがおかしくて、辛かったんだ、って、気付いた」
「あとから、きづくの?」
「……ヴァルディアさんが言うように、飼われてた、んだと、思う。村から引き離されて、それまで見た事もなかった母さんに連れ出されて、声が出せなくなって、でもみんなそうなんだと思ってた。兄さんも姉さんもそうだったんだ、って」
「……俺は順当に、エルドグランドの辺境生まれだったからな。上目指すにはどうしても共通語が必要だったから、身に付けた」
 言う団長の方に眼が向く。膝に頬杖をついて、表情は回顧だろうか、眼は、どこを見ているのかわからない。
「いまでもエルドグランドの、生まれの言葉の方が馴染みは深いさ。でもな、こっちの言葉使えないで、こっちの人間と関係が築けるわけじゃない。相手に自分の言葉を使えるようになれなんて傲慢だしな」
 後悔、未練。そんなものが滲んでくる。結局誰もが、どこかで自分を殺しているのか。思ううちに紫藍は黄金の方に顔を向けていた。
「……そこんとこヴァルディアは恵まれてんな」
「そうだな。伯父……養父の兄が古代語を扱える教師だった、だからすぐに教えてもらえたし、他にも気にかけてくれる友人もいた。だから半年で済んだ」
「……わかる、の、かな、わたし、……音、つよいの、こわい、から、」
「それもアルティアが理解できるようになれば、理由もわかる。触れて怪我をするものでもない」
「……でも……」
「逃げているだけだ、それは。不安が恐れにすり替わっているだけだ。言語で人は作れない。例え完全にロツェを棄てたとしてもそんな事で人間が作り変えられることなんかあり得ない」
「……かわらない……?」
「作り変えられはしない。だが人間は常に変化するものだ。変わることは免れない、だが『換わる』ことや『代わる』ことは無い。他の人間をその為だけに用意しない限りは。それでも自分が変わる必要はない」
 黄金の声が一度途切れる。またしばらくの間があって、銀色が動いた。すこし、上向くように。
「……知るの、良い、ことって、いってた」
「うん」
「知らなく、なるの、は?」
 ああ、と思う。そうか、と思う。黄金の淋しがるだろうという言葉のまま。『会話』を知った子供からそれを奪うこと。でも、と、それに思ったときには我知らずに笑んでいただろうか。
「また知っていけば良いよ。何度でも。忘れても、一生無くなるわけじゃないんだから」




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