時計を取り出す。盤を見る。針の方向を確かめる。数字を目で数える。十一時二十三分。秒針が丁度真っ直ぐ上向いて二十四分。
 目を戻す。昼に近い陽の光は部屋の中ほどまでは差し込まないが、その代わりを果たしているのは魔力を動力とする照明具だ。本部の広間のそれの何倍の魔石を使っているのか、部屋の四隅までが明るく光の下にあった。流石王族。
「これはどうかしら、フェル?」
「……こっちのがいい……」
「んんん、強固だわ鈴蘭……!! 可愛いのは認めるのだけれど!」
「すずらん、……これ?」
「ええ、垂れた小さな鈴のような花の形から、そのように。鈴を見たことはありますか。揺れるとちりちりと音の鳴る玉のこと」
「……ない、と、おもう……?」
 フェルリナードが言えば、すぐの場所に控えていた侍女が一人、お持ちいたしますね、とふんわり笑みを浮かべてすぐに部屋を出て行ってしまう。紫青がそれを見送って、いいのか、と言わんばかりの眼でこちらを見るのには、時計を上着の中に仕舞いながら大丈夫だよと小さく笑みを作った。そこまでしてようやくテーブルを挟んだ向かい側からの圧力が消えた。内心の汗を拭う。
 広い部屋である。恐らくは。扉が開かれて一歩入って見えたのは花だった。
 いや違う、訂正しよう。広い部屋に入って視線を上げ、そうして見えた中に花以外のものは何一つとしてなかった。床も壁も天井も調度品もなにもかもを措いて、花しか見えなかった。
 この真冬に一体どこから集めてきたのかと唖然とするほどの花々に空間が埋め尽くされていて、その中で小さな冠をした桃色の頭が声を上げながらひょこひょこと上下運動を繰り返していて、苦笑した侍女たちが数多の花瓶をまるで難解なパズルを解くように除けて道を作ってくれ、水色の瞳を輝かせる王女殿下のソファに通してくれたのだ。ソファが二組とその間に置かれたローテーブルだけはなんとか花の侵略を逃れていたが、この十数分ですでにいくつかの花束に占拠されつつある。
「私は百合とか、大きなものが良いと思うのだけれど。そうそう、『フェル』って名前の花もあるのよ」
「こちらですか、これはカザッラ。この国の象徴となる花です。この色は真紅と呼ばれます、赤の仲間。わたくしの紅の色ともまた少し違うでしょう」
「うん、フィメルのが、こいいろ。……『フェル』って、どれ?」
「今持って来させるわね。あ、鈴蘭のはこっちに、……そうそう、花瓶の水に浸けておいてあげないと、切り花はすぐに疲れて枯れてしまうから、気を付けないといけないわ」
「うん」
 鈴蘭の花束を小さい花瓶に活けて、代わりにと母がカザッラの花束を差し出す。香りが良いでしょうと言う母にフェルリナードは花弁に鼻を寄せ、小さくくしゃみする。花粉かな、と思う間にフェルリナードは今度は自分の髪を引っ張ってきてそこにも顔を寄せていた。
「……おなじ?」
「そう、貴女の髪に塗りこめた香油はこの花から作ります。花の香油や木々の香油は、髪を守ってくれ、艶やかなままに保ってくれます。貴女はどの花の香油が欲しいですか」
 問いかけられた紫青はすぐに鈴蘭に目を向ける。母は、苦笑していた。鈴蘭の香油や香水は数多あるから新しくと思うと難しいんだよな、と調香師たちの顔を脳裏に浮かべて、現実逃避を図った。
 先ほどちらと見た先、壁際には、銀盆に花瓶を載せたそれを直立不動で支え続けている従僕たちが多数いる。今もまさにその壁際の従僕たちが侍女たちに無言でどやされているのが視界の端に写り込んでしまった。あちこちで花瓶の台座に徹させられている複数人も、そうとわかって見てしまえば姿――と言っても手や腰から下くらいしか見えない――が確認できて、反して侍女たちは声のない連携も完璧に使いこなして花の並びを変え通り道を作りを繰り返している。明らかに、従僕たちの方が下に置かれている。確実にそうだと、空気だけでわかる。先ほど部屋から出て行った侍女が戻ってきて、鈴の連なった鮮やかな飾り髪紐を持ってきていた。ちりんちりんと鳴るそれをフェルリナードが指先でつついて、どうして音が鳴るのか、を侍女に訊いている。
 ――異様だ。男と女の空気の違いが大きすぎる。男としても居心地が悪い。ちらともう一度目を向ければ、水色の瞳は気付くなり満面の笑みを浮かべて見せた。左隣からフェルリナードの声。
「……スィナさま、と、クロ、なかよし?」
「ええ、勿論。ああ、そう、これ。これが『フェル』よ」
 王女の手元に、綺麗にリボンでまとめられた花束が差し出される。甘やかな香りがこちらにまで流れてくるが、既に「甘い」が飽和している自分にはどういう甘さなのかの判別がつかなかった。王女の手に現れた花束は、白い花弁の先が繊細なレースのように透けていて、それが四枚。四枚が方向を変えながら三回重なって大きく天を向くおおぶりの花のそれだ。花弁の色味は白すぎない白、濃い緑の葉にも白くレースの模様が浮き出ている。大きさに反して繊細な印象を受ける花だ。どうやらフェルリナードは甘いものに対しても、金平糖を経験してからあからさまに嫌う様子は見せないでいる。今も匂いだけなら障らないようだ、よかった。
「きれい」
「ね。鈴蘭が一番なら、鈴蘭は『別格』にしましょう。『フェル』が気に入ったなら、候補は『フェル』と……」
「他に気になるものはありませんか、フェルリナード」
 母が問いかければ、鈴を置いて王女から手渡された『フェル』の花束を両手にしたまま、紫がきょろ、と周りを見渡す。水色の一瞥を受けた侍女が腰をかがめて上体を落とし、威圧を与えないようにだろう、目線を落として紫を覗き込んだ。
「他にも様々な花がございます。近くでご覧になりますか、花ごとの香りも良うございますよ」v  身を引いた紫が上向いて見上げてくるのには、大丈夫だから行っておいで、と促して背を軽く押し出してやる。紫は侍女を見て、王女と母を見て、それから迷うような間を置いて小さく頷いた。やはり人見知りするのだろう。それでも侍女が差し出した手に紫青が右手を重ねて慎重にソファを降りる間に、他の侍女たちが花瓶の位置を素晴らしく素早く変えていく。同時に台座役の従僕たちも並び替えられていた。誰かが呻いたのが耳に聞こえて、紫青の手を引く侍女が花の名前や特徴を説明する声に紛れてすみませんという男の小さい声が聞こえてしまった。
「……殿下」
「なぁに、クロウィル?」
「……あの人たちのあれは、何かの刑罰なんですか……?」
「んんと、そういうわけではないのだけれど」
 テーブルに戻されたカザッラの花束を、また別の小さい花瓶に活けながらの声。さらに花に埋もれた中から的確に紅茶を探り当て、持ち上げながら彼女は続けた。
「兄二人が、急に兵役に戻られて。その間、お兄様たちの使用人に暇を出すわけにもいかないし、お父様と私で使って養うことにしたの。でもこの人たち、お給仕のひとつも満足にできないんだもの。呆れちゃって、だから侍女たちに任せて再教育中。扱いがちょっと過酷なようにも見えるけれど、彼らは彼らの出来ることを精一杯に務めているのだから、見守ってあげてちょうだい」
 うわぁ、と声に出さないようにするのでこちらも精一杯だった。これは元凶がこの王女なのかヴァルディアなのかいっそうわからない。凶悪さではこちらだろうか。相乗効果もあるかもしれない。後ろの方からは侍女とフェルリナードの和やかなやりとりが聞こえる。なんだこの空間。俺ここに居ていいのか。逃げなくて大丈夫かこの先。
「あの兄上方は如何ですか」
「相変わらずですわ、フィメル。やはりあの時、オルセム大河の上流にまでと頼み込んで、そこに放流して海に還すようにとお願いするべきでした」
 ――いや、もともとそういう人だったやつかこれ。誰かの影響とかじゃなさそう。そう頭の中で修正を加える。というかなにしてたんだっけ?
「……あ、で、決まりそうですか。紋章の花と、神殿に持っていく花と」
「紋章の方は、迷うわね……私としては国の色である紅の赤を入れて欲しいところだけれど、私の一存では決められないし……新しい子の紋章の花報せは陛下がなさるから、未成年の私が口を出せるのなんて限られてしまっているのよね、候補を出すところまではって任せて頂けたけれど……」
「それに女の子の紋章って大事なものだし、フェル……エフェレツィスのサイン代わりにもなるから、急がなくても大丈夫なはずだよ。時間かけてちゃんと考えてつけないと」
「いや、それはわかるんだけど。こんなに花がたくさんあるの、そうそう無いから……」
 そうだ、紋章の花選びだった。甘いばかりの匂いにやられて目的を見失っていた。
 この国は女性たちの手による刺繍が盛んだ。手巾からクッション、ソファの飾り布に絨毯まで、家の中にある布のほとんどに女性の手が入っている。衣服は言わずもがなだ。家自体は男の家長を重んじるが完全な家の中に入ってしまえば女性優位が多々見られ、その代表格が刺繍だろう。模様はその家で代々伝わるもので、その時の女の長が継ぎながら自分の紋章を入れて少しずつ模様を変えていく。系譜に載らない女性は、自分たちの系譜をそうやって残しているのだという。名前は残らなくとも、何代目のこの花の人、という形で。
 刺繍以外にも、女性の衣服や帽子にあしらわれるモチーフもこの紋章の花に左右される。一生を代表する花だから、決めるのも苦労を惜しまず悩み続けるのだと聞いている。
 フェルリナード、今この場では『エフェレツィス』だが、は、侍女の腕に抱え上げられながら、様々な花の中に埋もれているように見える。この景色は良い、平和だ。台座役さえ見なかったことにしてしまえばこれ以上なく平和で女性らしい光景だろう。
 どうやらこれが王女殿下の『一芝居』のようだ、とは、途中で気付いた。どうやら『エフェレツィス』を『王女のお気に入りの子』という枠に据えたいらしい。この大量の花もそうだろう。真冬にこれだけの花をというのは、相当に手の凝ったことをするか、大枚をはたいて取り寄せるかのどちらかしかない。おそらくこの準備のために王宮の外殿からこの部屋までに侍女や従僕に花を持たせて何往復もさせたに違いない、明日か、今日の夕方には噂になっているだろう。王女殿下とアイラーン公爵令嬢が、オルディナの令嬢の紋章花を決めるのに名乗り出て、オルディナの令嬢本人とディアネル商会の商人を場に加えて品評会をした、とか。自分がどういう形で伝わるかは不明である。面倒なことになりませんよう。王子対策も兼ねているだろうから、余計に、面倒なことになりませんように。
 国王の子三人が顔を合わせたところに居合わせた経験はないが、この調子では兄妹、という関係それだけで終わっているのだろう。あるいは負の方向に踏み込んでいるのかもしれない。なんとなく兄王子二人はこの王女を疎んでいるのがわかるし、王女が兄王子を全く毛の先ほども尊敬していないのは先の言葉ではっきりした。――本当に面倒なことになりませんように。
「クロウィルは、何かないかしら。あの子に似合う花の案」
「花はあんまり触れたこと無いんですけども……」
 振られた問いには言いつつ、周りを見渡す。花瓶一つに花一種、それが無数にひしめき合う花園である。名前もわからないものがいくつかある、とゆっくり一つひとつを見つめながら、それで目にとまったのは青紫の花弁がフリルのように波打って重なり合い、小さなそれがすらりと伸びた茎の上で留まっているひとつ。名前はなんだったかと記憶を漁ってから口を開いた。
「……シェンバシュとか、いいとは思いますけど、本人は白が好きみたいですね」
「そう? シェンバシュに白の品種はあったかしら……」
「現在はございません、シェンバシュ自体が青薔薇の変種、やはり青が主となりましょう。香水と香油はございますが」
「そう……香水は揃えておいて」
 声を向けられた先の次女は深く頭を垂れて音を立てずに素早く采配に向かった。そういえばフェルリナードが今身につけている香りはカザッラの香油のそれだけだったかと思ってその紫青の方を見れば、次女が何かの花を束にして小さい手に渡しているところだった。そうやって三つ、『フェル』の花以外に二つを増やした紫青が軽い足音を立てて駆け戻ってくる。
「スィナさま」
「なぁに?」
「これ、……みずはなそう? と、つきしずく、が、すき」
「わかったわ、水花草と月雫ね。白いのが好きかしら?」
「しろと、あおいの、精霊、が、きれい」
「あら」
 判断基準はそこだったか。母が元の位置に軽い身体を持ち上げて座らせている間に、紫は手に持った三つの花束を見下ろしていた。無言のまま、少し間を置いて首を傾げるのには、向かいの王女がふふと笑う。
「花の精霊たちは自由ね。でも、一緒に歌ったらきっと楽しいわ」
「うん。……つち、のと、ちがう。……かぜ、に、にてる?」
「そうね、ふわふわひらひらしてるものね。木や土とは大違い。水と炎の中にも、似ている精霊がいるかもしれないわね」
「うん」
 頷きながら、紫は中空、花束よりも少し上のところに視線を向けている。母と王女が見ている先も同じ場所のようだった。どうやら精霊との意思疎通に声は必須では無いらしい。少しして紫青が頷いて王女を見るのには、水桃が柔らかく笑む。
「そうね、なら月雫にしましょう。縁起も大切だもの」
「えんぎ?」
「事の興りについてのこと、言い伝えや伝承なども縁起と。人と物を結ぶのには縁起の近さが最も良い、月雫は探す人がいなければ姿を見せません」
 母が示すのはフェルリナードの手の中にある三種類の花のうち、花弁が三日月を向かい合わせた形の八重の真っ白なそれ。
「『エフェレツィス』には良い縁起です」
「……どうして?」
「あなたのエフェレツィスという名そのものが朧月、霞月の異名。春の月は雲がかかってその光が広く散りますから、姿をすぐに見つけられず、またすぐに雲に隠れてしまうことから隠れ月とも言います。光はあるのに見つからない、それが月雫の、香りはあるのに見つからない、それとよく似ているのです」
「この国の春の夜は空一面に薄い雲がかかることが多いの。そうすると月の光が雲全体を照らして、まるで虹みたいにいろんな色に変わって……空一面がゆったりと輝いて、だから灯りがいらないくらい明るくなる。とても綺麗よ、月の光なんて、月の花なんてって言う人も多いけれど、銀は毒を報せてくれる良い色だから」
 そういう理解もあるか。銀を嫌う人は身分の差もなく多数、魔法が広く浸透しているこのキレナシシャスでも大部分を占めるだろう。一部、東のアイラーンや西のエジャルエーレなどは『銀好き』と揶揄されるほど銀や紺を持つ人物を多く輩出しているらしいが、それを言うと全力で完全に干されるので口が裂けても言ってはならない、と、ラシエナが目を泳がせながら教えてくれた。だが揶揄されるほど、銀を持つ人を『人間』として扱う人間は少ないのだ。
 大丈夫だろうか、とは、不安には感じてしまう。元々の銀の髪もそうだが、今のこの青銀も冬に雪害をもたらす色だと一部では言われている。今日母が受けた仕打ちも、これも『何もなかった』と同義であるくらいの無害さに思えてしまう。なんせ迷惑しか被っていないのだ。石も直接頭や顔を狙って飛んできたのでもない、水を被せられるでもない。出会い頭に斬られるでもないし、姿を見た人々に農具で追い立てられるでもない。王宮だから、魔導統国の中央も中央だから、揶揄されるだけで済む。王都の端にでもなれば、銀の子供は外を歩いて無事でいられる保証はない。よくて怪我、悪ければ二度と帰らないか色狩りに遭うかのどちらかだ。
「……クロウィル?」
「え、あ、ごめん。何?」
「や、考えこと? 珍しいなって」
「あ、ごめん少し。エナは決まった? 神殿に持ってく花」
「うん。命色に合わせたほうがいいって父様に聞いたから、タエーバにする。でもスィナル様、こんな真冬なのにこんなにたくさん、どこから?」
「ふふ。地下に温室がいくつかあるの、大伯母様がお好きで造らせてらして。でも大伯母様が亡くなってからは管理する人もいなかったみたいで荒れちゃってて。前から侍女たちと総出で整理してたから、折角だしで色々植えてみたのよ。そうしたら元気がありすぎたみたいで、常春になっちゃって」
「え、すごい」
 思わず素直に声になっていた。常春や常夏というのは魔法でも作るのが難しい、だからディアネルでも生花の販売は二の足を踏んでいるばかりの状況なのに。王女は嬉しそうにふふと笑う。
「精霊に協力を頼んだの。そうしたら、冬の間に居場所がない花の精霊が集まって、ちょっと集まりすぎちゃって。まさか学校で習った精霊学がこんなことに使えるなんてとは、私自身もびっくりしたのよ」
「そう、ヴァルディアが言っておりましたが、殿下は紫樹の学院に?」
「はい、許嫁が紫樹の学院にと前々から言っておりましたから、隠れて一緒に受験して、三年ほど共に学院に居りましたわ。私は卒業はできませんでしたけれど、そこでヴァルディアたちと知り合って友人に。許嫁はラシエナの兄で、アイラーンの長子リアファイドですわ」
「リアファイド殿とは幼少の頃お会いした限りですね。やはり剣の道に進まれましたか」
「ええ、それはもう、直進に直進を重ねて、邁進というよりも爆走しておりますわ、もうすっかり。ラシエナにも今度時間がたっぷりあるときに詳しく話してあげるわ、すごかったのよ、リア」
「き、気になるけど聞くのちょっと怖い……!」
「ふふ、改めての時にね。フィメルとクロウィルは、もうお決まりに?」
「わたくしは織り花を持参しております、これの他の子の分も。ご厚意のみ頂きましょう」
「あ、俺はこれで」
 言いながら、目の前の花瓶に生けられた小さい束を持ち上げる。テフィオム、一つの株から七色の花をつけることで知られる小さな花。
「ありがとうございます、選ばせていただけて」
「良いの、花は盛りを終えたら枯れてしまうばかりだから。残った花は全部、侍女や侍従に持たせるつもりです、切り花は品にするのも難しくていらっしゃるでしょう?」
「ええ、その通り。蕾の株なら扱えますが、殿下の花は土に開いてこそでしょう」
「ふふ、ありがとうございますフィメル。いつか温室にご案内いたしますわ」
「楽しみにしております。では陛下には、月雫を、とお伝えくださいますよう。鈴蘭は『別格』のようですから」
「ええ、確とそのように。案内に一人侍女をお付けしますわ、無礼者が大きな顔を晒せぬように。マイヤ、お客様を神殿にご案内して、おかえりのお見送りを」
「畏まりました、殿下」
「私が向かえぬ非礼はお許しください、未だ父の許しなく外殿には赴けぬ身なのです」
「承知しております。殿下は国におかれても大事の方、御身を重んじられませ」
 王女と母の滑らかなやりとりの最後に侍女、マイヤと呼ばれた彼女に促されて立ち上がる。素早く扉までの道が整えられ、それぞれ丁寧に礼を王女に向けてから扉へと歩を進める。最後にフェルリナードが侍女の手を借りて拙いながらお辞儀をして、追いかけるように廊下に駆け出てくる。次女が最後に扉を閉じて、それから柔らかい声とお辞儀。
「神殿までご案内を務めます。先に立つ無礼はお許しください」
「構いません、宜しく頼みます」
「はい。少し長い道になりますが、緩めて参りますね」
 言って、その右手がこちらです、と廊下の先を示す。フェルリナードを気遣ってだろう、先導がゆっくりと歩き出すのには紫青が右手を伸ばしてきて、それを左手で握り返して母とラシエナについて歩き始める。
 進んでいく中で、やはり通りすがりの部屋からは賑やかな声や楽器の音が漏れているのが聞こえる。来るときと違うのは、すれ違う人が多くなって、その全てがこちらを見るなりすぐに道を譲ってくれることだった。なんだろうと思いながら何度目かそれを見送って、そこで疑念が顔に出ていたのか、こちらの様子を伺うように振り返ったラシエナが口を開いた。
「気にしなくて大丈夫だよ?」
「うん、慣れない」
「そうかなあ。あ、スィナル様のお付きの侍女と侍従って、王宮の中だと他の使用人と扱いが違うんだって」
「……なんで?」
「一目置かれてる、ってことかな、みんな頭良くて、騎士称号の人も多いんだって、母様が言ってた。丁寧だし優しいし、良い人多いよ」
「出来る限りを以て殿下にお仕えしているだけでございます、そうお嬢様に持ち上げられては気恥ずかしくてなりません。今は殿下のお客様がと見えますから、皆様揃ってそうなされるのでしょう」
 先導をしてくれている彼女が肩を振り返るように少しばかり顔をこちらに向けて、苦笑か照れか、そんな風を浮かべながら言う。涼しさを覚える静かな声音だが冷たさは感じない優しい声。人見知りの気配があるフェルリナードもこの侍女には身構えた様子はない、と眼で確かめながら、成る程な、と納得がいった。要はフェルリナードだけでなく母や自分、ラシエナも『王女の客だ』と見て判るように、宣傳する為に侍女をつけてくれたのだろう。行く道の間案内するはずの衛士が誰一人として役目を果たそうともしなかったことを、どこかの隙を見て伝え聞いてもいるだろうから、きっと門に戻れば数人か十数人の青褪めた顔が見れるかもしれない。どうやら王女は、市井にはあまり知られていなくとも、王宮の中では十分以上の勢力を築いているようだから。
 思いながら、フェルリナードには辛かったら言うようにと伝えつつ、侍女はありがたく盾にさせてもらいつつ来た道を辿っていく。しばらく歩けば、三叉の門に枝分かれする広場につながる門が見えた。開かれている、と疑問符を浮かべるのと、足音に気付いてかこちらを向いた衛士の顔が硬直するのが見えて、ああこの門きっと日中は開いておくものなんだな、と、生暖かい気持ちになった。




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