“Akasha Chronic.”――『アクアシェ・ クロニク』と、この本の題名はそう読むらしい。
 エルシャリスの有する力は、一族の中では譜読みと言われているようだった。その譜読みで作られる本には、一人一人にそれぞれ固有の題名が現れるそうだ。誰が考えたでも、誰がつけたでもない題名は、手の中のそれも同様らしいと、フェルは何度目か表紙を撫でながら、思考の繰り返しを何もせずに眺めていた。
 この本を受け取って、それですぐに自室に戻っていた。失血は相当量だったらしい。確かに歩くだけでもすぐに視界が暗くなるくらいだったから、増血の薬が出来るまでは部屋で大人しくしているようにと閉じ込められたに等しい。逆らう気もなかったから、寝台に座りながら何をするでもなくずっとそうしていた。
 コウは、クロウィルが連れて行ってくれた。ひとまず子供、少年の姿を選んだらしい鋼色も大人しくついて行った。会話はずっと聞いていたから、この本が何で、フェルがこの本に何を求めているのかも既に分かっているだろう。だから察してくれたのかもしれなかった。
 調練場では窓もないから分かりようもなかったが、出てみればまだ日も暮れていない時間だった。日中の協会の中はどこも静かだ。元から自室の集められた南棟で誰かが騒ぐような事もないが、気配までもが稀薄では寒々しい心地すらする。人が戻ってくるには、最低でもあと数時間はかかるだろう。
 思って、一度顔を上げた。視界に本が入らないように、天井を仰いだ。
「……気に、なってたのになぁ……」
 言葉として浮かんでいたわけでもないのに、呟きははっきりと声になっていた。寝台の上、腰掛けた背後の大きな窓からは陽が差し込んでいる。明るく、室内灯はその必要もなく文字も判別できるだろう。
 気になる、それは変わらない。ずっと気にしていた。忘れたとも違う欠落。このキレナシシャスの人間に発見された紫銀は、おそらくは五、六歳の少女で、共通語ではないものの発話や会話自体には共に難は無く、だが自身の名以外のどんな問いにも答えられなかった。十余年前にまとめられた調書の内容にあるのその事ははっきりと思い出せるのに、それ以前の事は欠片もわからない。人も景色も、夢にすら見る事はない。今でこそ、普段通りに生活する中でそれを思う事すら稀だとしても。思えば、簡単に顔も気も何もかもが落ちてしまうから。
 紫旗達はそんな事も気にかけてくれる。侍従も触れずにいてくれる。レナもスィナルも必要以上に系譜の話も昔話もしようとはしない。それが息苦しいのもあって、まるで記憶がない事そのものを忘れてしまったように、話題にしないのが常だった。ほとんどの場合には、本当に単純に失念してしまっているだけなのだろうが。
 だからクロウィルに追及されないのは意外だった。あるいは既知だったらしいクウェリスから聞いていたのかもしれないし、時期を見計らっているだけなのかもしれなかった。フィレンスは、少しもこの事は言ってはいないから、驚くだろうか。記憶の事を話題にしなくなってからか、言えばあまりいい表情はしない。
 話をしなければならないのは、理解している。その方が良いとも解っている。だがそれが、絶対に必要な事でもないと思うのも事実だった。
 そして何より、クウェリスの言葉の意味を確かめてからにしたかった。



 しばらく、ずっと迷っていた。
 昼を越えて、午後の三時、日暮れの接近を報せる為の鐘に顔を上げて、その拍子に大きく息が抜けていった。『これ』が絶対的な答えではないのだと、あの時にもクウェリスが言っていたのに、それなのにどうしても逡巡が先に出る。
 怖いのかもしれないと、唐突に気付いた。なんの前触れもない、脈絡すら無いその思考の呟きに、それでもそれを否定しきれないまま、やり過ごす事もできずにぼんやりと抱え込む。何が怖いのかわからない。何もない事が怖いのか、何かがある事が怖いのか。それともその両方なのか、別の何かなのか。
 ――夢の形を模る事も、出来るわ。本の記述を呼び水に、貴女の中に記憶の海を作り直す事もできる。
 語るように諭すクウェリスの声が蘇る。その限度は三夜連続で、本来は一夜夢見たのであれば次からの二夜は夢の無い眠りを身体に与えなければ、本来得られるべき休息が得られないからだと。
 夢に見るには、ただ枕元に置くだけで良いらしい。それで眼を瞑って眠れば、書き記された記録は記憶として鮮明に蘇る。その事を知らされたとしても、それでもすぐにそれに頼る気にはなれなかった。だから、表紙を撫でていた右の指先を右端へと滑らせる。学術本によくある規格のそれは、膝の上で開くのにも苦労しない大きさで。
 題名にある『Akasha Chronic.』の意味は分からない。大陸共通語にも古代語にもこんな語は存在しない。あるいは別の大陸の言葉なのかもしれない、何かの種族の言葉なのかもしれない、そう思うのは希望的観測だろうか。
 息を吐き出す。指先で持ち上げた赤銅色の表紙は拍子抜けするかと思うほど軽かった。一番最初に見えた遊び紙は薄い品の良い紫で、それを捲った中表紙は目に痛くない白をしている。それをめくって見えたそれに、フェルは、ただ大きく深く息を吐き出しただけだった。
 掌を当てる。指先でなぞって、次の見開きを空気に晒す。それを何度も、何十回も繰り返した先に、覚えのある名前を見つけて、それでようやくその手が止まった。
 息は震えなかったし、指先が痺れるような事もなかった。ああ、と呟きだけが何度も漏れて行って、滲みもない黒いインクで描き出されたその文字を指先で辿る。
 ――クォルシェイズ・リヴェイド=オル=カツィライト。
 ではこれが本当に自分のそれなのだと確信して、音も立てずに本を閉じて両腕の中に抱き込んで、そのまま全身を寝台の上に転がして眼を閉じた。
 いつもそうだ。『思い出』はいつも、そこから始まる。



 ――六二七〇年、十二月二十五日。
 寒い、と思って、眼をあげれば、すぐ近くに青と金が見えた。もっと上向くように顎を上げて見上げれば、膝の上に抱きかかえてくれている腕の持ち主、その青い髪と紅の瞳が見えた。隣の青と良く似た青に、その翠とは全く別の紅色。
「……うん? どうした?」
「……なまえ……」
 呟けば、その人はああ、と声を上げて、片腕をテーブルに伸ばす。落ちてしまいそうなのが怖くてもう片方の腕に捕まれば、その間に青と金が動いて、テーブルの上を覗き込んでいた。
 何かを言い交わす声が二人分聞こえて、それには圧されるような心地で顔を俯けた。何かを話し合うような、棘のない声のやり取り。だが、『何』なのかがわからない。
「……どうした? 気分悪いか?」
「……」
 いくつか言葉は浮かんでも、どう答えても正しい言葉にならなくて、それで結局黙り込んだままでいればすぐに手が伸びてきた。柔らかく撫でられて、何かを言う声、見上げれば翠があった。首を傾げて、問いかけるような仕草に続いてテーブルの上の一枚の紙を持ち上げて渡してくれる。見下ろせば、はっきり一つひとつの文字が明確に書き記された名前。
「……なまえ」
 "Fr-lenadia=Akshan."
 後ろから手が伸びてきて、撫でられる。上から言葉が聞こえた。
「お前の名前だな。文字にするとこうなる。簡単な文字だから、覚えたらすぐに書けるな」
「……フェルリナード=アイクス」
 いや、本当はもっと複雑な音だ。だがそれを違わず口にできたのは、今背に居る一人だけだったから、簡易な音に代えただけ。背の人が軽く笑うのが背中が振動することでわかった。
「フェイリェル・レスィアレナィアディア=アーカシャード、な。呼べる奴が少なくて悪いが、ちゃんと皆にも伝えてあるから、許してやってくれな」
「……うん」
 この言葉が『難しい』のだとは、ここに連れてこられて少し経った今はそうなのだとはわかる。言葉や声の意味はわからなくとも、発される音が強くはっきりとしていることはわかる。こちらの言葉は、ずっと聞いていれば頭が痛くなるから、人が多い時には目をつむって眠ってしまうが。
『フェル』
 そして、その強くはっきりとした声音で聞こえたそれに三度目、眼を上げた。背の青でない方、手の柔らかい方の青を見れば、手に持った紙を覗き込んできて、その中の一部分を指差した。
 ”Fr."
『フェル』
 もう一度、呼びかけられる。自分の名前だと示されたその一部、たった二文字。こちらの文字と、自分が知る文字は対応が作れるのだと聞いた。一度見せてもらったその表を頭に思い浮かべて、思い当たる言葉を見つけて、そうしてから呟いた。
「"Fr"……『零』……?」
 指差した方の青が、背の方の青を見上げて、それに返す声はこちらの言葉だった。もともとこちらの言葉を扱う人なのだろう、時々音が混ざる。今は両方を同時につかっているからか、両方に両方の音が混ざる。それを聞いているうちに、隣の青が動いてテーブルに手を伸ばして、何かを書き始める。たったひとつきりの言葉らしいそれを、名前の時と同じように差し出してくれる。
 “Phalm."
 眼を瞬いた。見たことのない文字の並び、自分の言葉に直しても言葉にならない。黙っていれば、すぐに背の方の青が覗き込むようにして、それで声を上げた。
「こっちの言葉だと、これも『フェル』で、読みの音文字は”Fr”だな。意味は”fatmixx”と同じだよ」
「”fatmixx”……『繭』……?」
「だな。絹の繭だ、真っ白な、ノルカ=クランの一族が作る、眠る為の絹の繭」
 聞いた事の無いものばかりの言葉。嘘では無いだろう、この言葉は嘘を嫌うから。”fatmixx”の”Phalm”を見ていれば、青と金の話し声。横から手が伸びて来て、頭をゆっくり撫でられる。乱雑にではなく、変に浮いたような遠い感触でもない。何を言えば良いのか判らなくて、結局小さく呟いた。
「……変なの……」
「そうか? 確かにこっちの言葉は、アーヴァリィからしてみれば奇妙かもしれないけどな。比べれば簡単な方だぞ?」
「……そっちじゃ、ない。……皆の、名前、覚える」
「……全員だと千人越えるぞ?」
「ん。……覚える」
 言って、まだ余白の残された紙をテーブルの上に戻す。背の青が他の二人に何を言って伝えている間に、ずっと寒いと思っていたのが耐え切れずに小さくくしゃみが溢れる。すぐに金が何かに気付いたように声を上げて立ち上がって、それでどこかに駆けていく。その間に、隣の青が椅子の背から砂色の何かを持ち上げて広げ、背から覆い被せてくれた。
 何かを言いながら袖を示してくれて、自分の手を軽く握り、開き、そうしてから砂色の袖口を示してくれる。それでどうすれば良いのかがわかって腕を通してから見上げれば、頷きと、頭を撫でる返事が見えた。これで良いのかという理解とともに眼を落とすうちに、砂色ごと背の青が抱えてくれた。手が袖の先から出てこなくてぱたぱたと振っている内に、頭の上で何事かを言い合う声。その上で少しして、扉の開く音で眼を向ければ金が何かを持ってくるところだった。カップが四つ。湯気の立つそれが、すぐ眼の前に置かれて、それで金を見れば緑と紅の二色が笑う。何かを言う、それが終わってから背の青が動いた。
「飲めってさ。あったかいぞ」
「……のむ、て、なに?」
「『食べる』のと同じだ、何度もやってるだろ? 零さないように気を付けてな」
「……わからない……」
「大丈夫だよ。普通にしてれば良いんだ」
 その普通がわからないのだとは、この背の青も知っているだろうに。思っているうちに金が袖を折って捲ってくれて、それでテーブルの上に置かれたカップを渡してくれる。砂色よりも薄い色、甘い匂いがするそれを、カップを傾けて口の中に少しを入れれば、温かく、濃い味がする。飲み込むのに少し苦労して、三人が何かを言い交わすのを聞きながらそれを繰り返す。
 温かくなると眠くなる。半分ほどをゆっくり飲んで、背の青が抱え直してくれるのを背中を預けて、ゆるゆると這い上がってくる睡魔に任せながら頭上の会話を聞いているうちに、扉の開く音がして、また新しい声が幾つか耳に入ってきた。
 眼を向ければ、茶色の髪に金色の瞳の女性が居た。こちらに近付いてくる、その後ろにもう一人。藍色の髪に、紫の瞳の。眼が合えばすぐに気付いて、藍色の袖の先の手が伸びてくる。大きな手に頭を撫でられる。温かい手。頭から全身がその柔らかい感触に包まれるような。
「まだ起きてたか、フェル」



「フェル」
 呼びかける声に眼を開ければ、肌寒い中にも体の上に何かが被さっているのがわかった。横になった寝台の上、目線のすぐ近くに、白い服。
「フェル、……大丈夫か?」
 眼を動かして見上げようとして、瞬いた拍子に目尻から頬に滑り落ちる感触があった。呆然としている間に手袋に覆われた手が伸びてきて、軽い手付きで拭っていく。しばらくその声の意味がわからずに沈黙したままでいれば、もう一度伸びてきた手は今度は頭を撫でてくれていた。
「……だから連続で使うな、って事らしいな。混乱してるだろ」
「……クロウィル……?」
「ん。おはよう。言っても、まだ夜だけど」
 それでようやく言葉の意味が分かった。何の事はない、共通語を古代語の耳で聴いていただけの事。だから声は聞こえていたのに言葉の意味がわからなくなってしまっていただけの事。一度眼を瞑って、それでゆっくり息を吐き出した。
「……コウ、は、どうしてますか?」
「談話室で黒服に囲まれてる。あいつに言われて来たんだけどな」
 翠の視線が枕元の本に向けられる。だが彼はその内容に触れようとはせずに、フェルはそれにはようやく苦笑らしい表情を見せた。
「……団長が」
 呟くように溢れた声に、撫でていた手が止まる。彼もそうだ、『団長』を慕って、紫旗にと思った人だから。
「……団長と、レティシャが居て」
 ほんの少しの間があった。それから頷きを声にしただけのそれが降りてきて、手はまたゆっくりと銀を撫でてくれる。意識せず、余計な力が吐息と一緒に抜けていく。
「本部って、狭かったんですね」
「……次の春と夏でまた増えるから、密度だけは元通りになるかもな」
「そう、ですね……」
 そういう場所だ。人はすぐに入れ替えられて、換えなど幾らでも居る世界。だから皆何も言わない。他人の事を憶えて想い続けるには、紫旗には死者が多すぎる。
 だから自然と言葉も適合していく。重さなど無く、軽く、常なのだからという諦観に似せられていく。
 それでも、ああ、と、フェルは小さく声を漏らした。
「……ひとつ、思い出した事があって」
 手は伺うように動きを止める。フェルは苦笑して、言葉を続けた。
「コート。……あれ、クロウィルのだったんですよね」
「……忘れてたのか?」
「しばらくずっと仕舞ってたので、それですっかり」
 頭から降りてきた手が軽く頬をつねっていく。二人してそれで笑い合って、そうしてから眼を開けて体を起こした。頭が重くてふらつくのをクロウィルが支えてくれる。被せていた白いクロークを肩から覆うように直しながらクロウィルは口を開いた。
「だから物持ち良いって言ったろ? マフラーもだけど、コートだって五年くらい前のだし」
「本当、ずっと仕舞ってて使ってなかったんですよね、王宮と神殿とだと使うところ無くて、教会来る前に見つけて、それで。……その前から何度か貸してもらってたみたいですけど」
 今でも砂色のその外套は、袖を通すには大きくて、肩から掛けて胸の前で金具で留めるだけでもまだ全身を覆って余裕がある。その具合が好みで、いつもそうして身につけているのだが。
「……ちょっと気恥ずかしいですね」
「お前な」
「ふふ」
 フェルはただ笑って誤魔化した。それから、枕元のそれを見やる。赤銅色は夜の暗がりに沈んでいて、今は題名も判然としないように見えた。ただ窪みをつけただけだから、影に紛れてしまうのも仕方がないだろう。
「……続き気になるなら、夕食はこっち運んどくけど」
 言ってくれたそれには首を振る。気になるのは本心でも、それだけではなかった。
「先に、終わらせる事、終わらせないとですから」
「わかった。……ああ、そういえばセオラスから聞いたか、任務の方の事。報告書、ってか、書類渡したって聞いたけど」
「二人の書いた評価調書見ましたよ、学生の。……辛辣ですね、学生相手に」
「本物見ればあれでも手加減してるって解るぞ。まだ全員終わってなから明日もだし……」
 そんなにだろうか。そこまで言われると見ておきたい気もするのだが、それもできるだろうかはわからない。思いながらクロークをクロウィルの腕に返して、赤銅色の本を拾い上げて寝台から足を下ろした。髪を撫でつけて、暦を開いた机の上に置いておく。拍子に目に入った造花の花束が水の入っていない花瓶の口から傾いてしまっているのを両手で整えているうちに、立ち上がったらしいクロウィルがその手元を覗き込んできた。
「貰い物? 造花って珍しいな」
「……貰い物? です、ね」
「……なんで疑問系なんだ?」
「知らないうちに置いてあったんです。綺麗なので、飾ってるんですけど」
 いつの間にかこの机の上に置いてあったのを、一応そうしている。変なところも嫌な気配も無いし魔法的なものでも無い事は確実だったから、そのままにしているのだが。一度花瓶に挿したままずっとそのままだったなと思っているうちに、クロウィルの唸るような低い声。
「あんまり妙なら片付けるのも考えろよ?」
「一通りは調べましたよ。イースさんも大丈夫とは言ってましたし」
「ん、なら良いけど」
 手が伸びてきて頭を撫でられる。それを見上げれば、そろそろ夕食の時間だと促されて、それには素直に頷いて返した。一度談話室に寄って行かないとと思いながら、机の上に投げたままの髪帯を拾い上げて白い背中を追う。
 随分長い間見ていたのだろうと、合間に大きな窓を振り返りながら思った。外は暗く、空には星が見える。今日は新月だった。




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