結局その日一日は普段通りの日だった。子供は、非常にゆっくりとした朝食を終えてから、レティシャがどこかにつれて行ってしまったから、そのあとのことはわからない。ようやくわかったのは、翌日の朝だった。
「やあ、おはよう、二人とも」
「……兄様なにしてんの……?」
「遊び相手だよ」
大広間の暖炉近くのテーブルが幾つか脇に退けられていて、見るからに柔らかそうな絨毯が敷かれた上に、単語の描かれた紙片が散らばっていて、紫銀はそこで木製の玩具を前にして、藍色のそのクロークを握っていた。問いかけたラシエナは、気構えもなくその絨毯の方に駆け寄って、二人のすぐ近くに腰を降ろす。
「とりあえず、おはよう、兄様」
「おはよう」
掌を向けた妹に、兄も同じようにして掌を向けて当てがう。そうしてからラシエナが同じようにその子供に、おはよう、と声を向けながら掌を向ければ、子供は紫旗を見上げて、見上げられた彼が笑んで頷くのを見てから同じように掌を向け、ラシエナの手と子供の手が重なる。なんとなく居た堪れなくなって、少し離れたところからその集団に声を向けた。正確には、藍色の制服の。
「フェスティさん、仕事は大丈夫なんですか?」
「引き継ぎもほとんど終えてしまっているからね、やることのない僕みたいなのが適任なんだよ」
「兄様、団長にも退団はまだ早いって言われてるのに」
「元々僕は勉強のつもりで来ているし、団長も副長もそれで了解してくれているからね。でも、君がここに入り浸っているから、家に帰る度に母様に言われるんだよ、僕が」
「う……で、でも父様のお許しは頂いてるし……」
「それでも、だよ。早いうちに一度帰って、母様のお許しをいただいてくるんだよ? 良いね?」
「……はぁい……」
見る間に肩を落として萎れていくのには、少しばかり苦笑が浮かぶ。どうやらこの少女がこの紫旗に入り浸っている理由は自分とは別らしく、兄だという団員の一人はその事も把握しているらしい。大体長兄絡みだろう、彼が中央に来ると聞いた時の喜びようがすごかったのを覚えているし、また北の学院に戻るという時の様子もひどかった。自分に兄も姉もいるからこそ、あまり覚えのない様子に見えたのもある。三年も離れていた所為で懐かしいとも思えなかったのが本心だが。
「……そだ、この子は? どう?」
「大人しい子だね。食べたり飲んだりはこちらで意識してあげないといけないけれど」
「他は?」
「レティシャとイースが教えてくれたみたいだから、大体は平気じゃないかな。ずっとここで退屈しているかもしれないけど」
ね、と笑いかけながら銀色を彼が撫でてやれば、紫が上向いて彼を見上げる。顎を持ち上げて背中を藍色に預けるようなそれは、安心している、が近いだろうか。少なくとも、一昨日のように泣いてしまったりということはなさそうに思えて、それでようやく三人が腰を下ろした絨毯の方へ足を向けることができた。子供の真正面にならないように、近すぎない位置に膝をつけば、今度はフェスティ、フェリスティエがわかりやすく首を傾げてみせる。
「それで、君達は? 仕事はもう?」
「というか、今日は特に何も言われずに、そのまま」
何となく、紫旗達が何かに焦っているような、そんな空気だった。フェリスティエは苦笑する。
「ああ、そうか……今は総出だから、訓練もないみたいだね、その様子じゃ」
「です。……何かあったんですか?」
「いいや。単に人探しだよ」
それにラシエナは疑問を表情に浮かべていて、自分は、ああ、と小さく零していた。向いてきた二つ色にはすぐに返す。
「両親。探さないとだろ。何かあったのかもしれないし」
「……あ、そっか……見つかった時一人だったもんね」
何かあったのかな、と緑紅が伸ばした手にも逃げることはせずに、紫は大人しく撫でられている。やはり撫でる手とその持ち主を見上げる、その反応にどこか小動物のようだと胸中に浮かんだ。興味や好奇心には見えない。言葉が通じていないというのはもう紫旗の中では共通の認識になっているようだった。気安い数人、特に自分の父親などは、名前も判らないからと「小さいの」呼ばわりまでしている。思いながら、両手を伸ばしてきた子供を両腕に抱えて抱きしめて何かを堪能しているらしい一人からは眼を離して、無手に戻った彼を見やる。
「魔法で調べる、とかは」
「方法はあるけれどね。本人の承認がないと難しいし、負担にもなるから、今のところは保留かな。団長が調べているみたいだから」
だから待っているだけで良い、そういうことかと納得した。あの人は、――この紫旗の団長は、言葉の通りの『天才』だ。あの父が、生まれながらにして魔導師であるユゼが、長の位を自分から譲るほどの。その座が惜しいとも悔しいとも父は言わなかったらしい、自分で育てたのだから、と。その父を引き止めて副長に位置に据えてしまうのも団長の才だろうか。思いながら横目に視線を向ければ、子度は今度は自分から緑紅に抱きついているようだった。
学んでいる、そんな風に思う。表情に変化は少なく、動作仕草の意図は伝わってもその応えが行動や仕草として返ってくる事も少ない。目の前に広げられた紙の上の文字、その単語が指し示すものがすぐ傍に置いてあるという事も、伝える術がないのでは。
「――クロウィル?」
「あ、はい?
「そういう顔は君にはまだ早いよ?」
言われて、それで気づいた。眉根が寄っていたのを隠すように片手で覆って。揉み解す。そうしている間に苦笑の息遣いが聞こえて、恐る恐る見上げれば、思った通りの表情だった。面白がるような、呆れたような、それでも一番に見えたのは嗜めるようなそれだっただろう。
「君は、はやりお母上の影響かな。早熟にしても早く思えるね、エナはああなのに」
言いながら眼を向ける、それに従えば、まるで自分の子供か何かにしてやるように抱きしめて、嬉しそうに楽しそうに髪を梳いている。猫可愛がり、とは思うだけにしておいて、かわりに向けたのは彼の言葉に対してだった。
「……フェスティさんは、母さんとは?」
「一度お会いしたことがあるよ、こちらの母と面識を頂いていてね。君とエナが生まれて少しの時からは、アイラーンで君を預かったこともあるよ」
「え」
「君もエナも覚えていないだろうけどね、眼が開いてすぐの何日かだけだったし、そのあとは、君は村にだから、僕も君の母上にお会いしたのはその一度きりだよ。よく覚えてる」
なぜか硬直してしまった。全く覚えが無い。しかもあの母とも合っているのかこの人は。冷や汗を背に感じたままでいれば、彼はすぐに笑みに変わった。
「いやぁ、僕らの母も強いけど、君の母上もかなりだね」
「す、すいません……」
「いやいや、母が好んで交友をと思っている御方だからね、不安も不満も無いよ。僕もこの前君の事をお伝えしたらひどく気にしていらしたから、今度母が中央に来るときには是非時間を貰えると嬉しいな」
「え、はい、それは是非。母も連れてきます」
「ありがとう、無理を言って悪いのだけれど」
「足が軽く早いのが行商人だ、って母の言ですから」
「頼もしいね」
きっとアイラーン相手にも商売してたんだろうなぁ、とは思いながらの会話は気を張る。この大国の公爵家だ、その中の一人でも機嫌を損ねればどうなるか。そう思うと焦る。横で今子供に癒されているのはこれでもアイラーンの令嬢なのだ。
そこまで思ってヤバい早く連絡しないと、と思っている間に横の令嬢は現実に戻ってきていたようだった。紫銀は、一昨日に比べればやはり落ち着いて見える。大丈夫だろうかと、なにかにか対して思ったところで、扉の開く音がして、数人。先頭で扉を押さえた父のすぐ後ろに、盆を両手で持つレティシャと、何かの冊子を片手にしたディスト。前者、レティシャがすぐに声を上げた。
「クロウィル、ラシエナも、今日は構えなくてごめんなさいね、手伝わせてばかりで」
「全然。今日はここにいた方が良い?」
「ええ、お願いね。フェスティもありがとう、急に引き止めちゃって」
「構わないよ、君の時間を奪う方が憚れるからね、調子はどうだい?」
「上々よ。魔法院が色々使って良いって言ってくれたから」
会話の中で彼女はすぐ近くのテーブルに盆を据える。食事は、時間的にはもう済んでいるはずだから、何かと疑問は素直に現れた。運ばれてきたのは銀器が幾つか、医療行為に使うような薄い白い布や包帯。
「……何かあった……?」
「あるかどうかの確認と、その準備よ。団長」
「ああ。ディスト、頼んだ」
「ええ」
何かを了解している同士の確認の声で、ディストはそのまま、子供を抱えたままのラシエナのすぐ横に膝をつく。
「そのままで構いません。健康診断のようなものですから」
「……そう?」
「ええ。フェスティも手伝ってください」
「医術の方面はからっきしなんだけどなぁ、僕は」
言いながら苦笑した彼の、その腕に腕輪が現れる。子供を抱えたラシエナはそれを見てあからさまに肩に力を入れたようで、そこにはレティシャが手を置いて大丈夫と声を向けていた。その間に、ディストが手を伸ばして紫銀の首元に指先を当てている。手袋が無いのは、おそらくは『健康診断』の為だろう。
「……呼吸が多少浅い方ですが、活動が落ちていますから正常でしょう。フェスティ、鑑定の方をお願いします、得意でしょう?」
「あんまり使い所無いけれどね。わかった、道具は勝手に使うよ?」
「ええ」
言った彼が立ち上がったところで、ディストは紫銀の口を開かせて何かを確認している。すぐに冊子を開いたそこに何かを書き込んで、開いたままの口は顎を持ち上げるようにして閉じさせてやりながら、声は団長へと向いていた。
「おそらく五、六歳です」
「わかった。他は?」
「疾病の可能性は低いですね、兆候は見られません、先天的であれ後天的であれ障害はわかりませんが。ただ、何かを持っています」
「何か?」
「隠れていますが、何か。ここでは調べられません、研究所の設備が必要になります。先に鑑定を、フェスティ」
「少し時間がかかるよ、貴色はそれでなくとも慎重になるから」
「頼みます」
フェスティは銀器の中から鋏を取り出していた。何の気構えもなく子供の脇に膝をついて、梳いた髪のひと房を小さく切り取る。
「、兄さん?」
「大丈夫、切ってしまうのは少し勿体無いけれどね、必要な事だから」
「でも、」
「色を見るためだ、大丈夫だから落ち着けラシエナ」
言い募ろうとした声は団長のそれで消えていく。振り仰ぐようにした先、藍色の長は腕を組んで様子を見ているだけ。
監視しているようだと思って、子供の方へと目を向ければ、銀器へと向いたフェスティを見上げているようだった。そこにもう一度手が伸びて、ディストのそれにはまたすんなりと彼を見上げる。右のこめかみに触れたそこから燐光が立ち上って、そして子供の右手、右足、左足と左手にも同じような光が一瞬立ってすぐに消えた。
「魔力経路は正常です。門は子供にしては大きい方ですね、魔法型かもしれません。神経系も異常ありません、五感も問題なく働いているようですし感情がある事は確認できていますから、ようは健康体ですね。凍傷もありませんでしたし」
「言語は」
「知識と認識は承認なく探るに負担が大きすぎる、大の大人にやって生死を彷徨う程度です。推定でも五、六の子供には重すぎます」
「……総当たりしか無えか」
「でしょうね。数撃ちゃ当たります、それも推測でしかありませんが」
言いながら藍の魔導師は子供の頭を撫でて、片手を取って脈を測っている。その後にその片手を軽くつついて、握って開く仕草を見せれば、子供は素直にそれに倣っていた。何となくの意図は通じているらしい、子供はおとなしくされるがままになっている。そうしている間に息をつく音が聞こえて、眼を向ければフェスティが団長へと試験管を差し出していた。
「間違いありません。純銀です」
「……瞳は」
「鑑定のしようがありません、ですが見た色で断定して良い、……間違いありません、紫銀です」
団長が受け取った試験管の中には銀色の液体があった。水銀、話にしか聞いた事の無いもの、邪の象徴、銀の源。
クォルクは、深く息をついたようだった。次に聞こえた声は、何に分類して良いのかわからなかった。
「……二千年か。随分待ったな」
視線が上がる。フェスティへと向いたそれは間をおかずに次の命令を下していた。
「特例を発動する。フェスティ、お前にはまだ残ってもらうぞ」
「……わかりました」
「ディスト、王立研究所を開けさせろ。全権限を使え」
「了解しました。……ここにいるんですよ、『小さいの』」
子供は、ラシエナの結われた髪を指先で握っていて、撫でる手が離れるのには彼を見上げる。見上げるだけで手も伸ばさないのを見やってから、ディストはこちらを向いた。
「君にも仕事をしてもらいますよ、クロウィル」
「……俺?」
「ええ。団長、私は先に」
「迅速にな。……クロウィル、ちょっとこっち来い」
試験管を押し付け返して、団長はこちらを向いていた。何かと思いながら、気構える気持ちがあるのも抑えて立ち上がる。子供と友人の後ろを通り抜けようとして、その途中に何か引っかかる感触があって思わず立ち止まる。眼が向いた先、羽織ったコートの端に小さい手。
硬直した。それはもうわかりやすく硬直した。何故か冷や汗まで背に感じる間に、レティシャが苦笑する声音。彼女が動いてラシエナの腕の中から子供を拾い上げていた。
「あなたもね、『小さいの』」
こつ、と額を合わせる時にはもう手も外れていた。団長が手招くのにぎくしゃくとそこに行けば、何の事はない、ただ単純に椅子に座れと言われる。ラシエナも同じようにさせられて、団長が正面に、レティシャが子供と一緒にすぐ横に。
「クロウィル、いくつ言語使える」
「……九……」
眼を瞬いて答えて、そして声にした後にそうかと思った。すぐに付け足す為に口を動かす。
「共通語とコウハのトルキス、古語のイグリスが少し、エルドグランドのグラーヴァス共通語、ホルス=コドのタヴァスティス、ツェンのフライス、父さんから習ってる最中だけど古語トルキス、あとはファルーダ大陸語、海洋都市のラヴェンダ交易口語、あとひとつは母さんの種族の言葉だけど、名前は知らない」
「Sis riat Phett?」
――問題なく喋れるな? そう問いを向けられて、思わず眼を瞬いた。
「……Da」
いきなりラヴェンダでくるとは思わなかった。さっき言っていた「総当たり」をするつもりなのだろう、それがわかればさして疑問の湧く行為でも無い。子供の方を見れば、今はどこか虚空を見上げていた。気付いて同じ方向を見上げた団長が、そこに手を差し伸べて、そしてゆっくりと子供の目の前にその手を下ろしてくる。
「精霊眼だ、見えてるみたいだな」
「了解」
ディストが持っていた冊子は、今はフェスティが持っていて、それに何かを書き込んでいる。子供はクォルクの手から「それ」を受け取ったらしく、両手は何かを包むように虚空に球を描いている。視線はそこに向いたまま。
「……ラヴェンダじゃないな、Lix fam?」
フライスの問いかけ。子供はクォルクを見上げていて、だが大人の手がそれを撫でればすぐに眼の前、手で覆って支えたようなそこに戻る。
「……Kist, bie ram.フライスじゃないみたいだ」
「……クロそんなにたくさんできたの……?」
「グラーヴァスは簡単な方だって言ったろ、一番難しいのはラヴェンダだよ、耳で聴いて覚えるしかないから」
「その話はまたあとでな、ラシエナ。ラヴェンダ、フライスが違うなら南西は無いな……Granza torrri phesk, lion?」
「Rlima, ……グラーヴァスでもない。トルキス語圏で生まれたならコウハには伝わってるはずだし、ファルーダは氷河を越えなきゃだから多分ない。タヴァスティスは、コドの言葉だから、コドの紫銀ならありうるかもしれないけど、だったら尚更森からは出てこないはずだ。俺も二年前に行ってる、噂も何もなかった」
「そうか……だ、な。コドの歴々は秘密主義だからそれだけで信用は出来んが。イグリスは、俺は分からんが、クロウィル」
「母さんが知ってたから、俺も少しだけ、だけど。Whas your nayme?」
――名前は? 問いかけても、紫が一度こちらを向くだけで、すぐにまたクォルクを見上げる。レティシャが頭を撫でれば彼女を見上げて、そして緩んだ手の中から出て行ってしまったのだろう、そちらを見上げて手を伸ばしていた。藍色の苦笑、子供の口元が動いて。
小さな音が漏れた。声だとわかったのは眼を向けていた自分と、反射的にだろう、眼を向けたフェスティが息を飲む音が聞こえた。
「アーヴァリィ……?」
呟き。眼を向ければ彼が瞠目しているのが見えた。珍しいとも浮かばなかった、柔和な彼のこんな表情は、今までに一度も。
「兄さん……?」
「……フェスティ、解るのか」
「僕は、……僕には理解できなかった言語です、副長なら」
早口、捲し立てるに近いそれ。すぐにクォルクが虚空に声を向け、是の声が返す。レティシャが子供を、紫銀を抱えたままフェスティを見上げる。
「確かなの?」
「聴けばわかります、音韻が違う。……こんな子供が扱えるものでは……」
言いかけた言葉の先を飲み込むのが分かった。間を置かずに団長の背後の景色が揺らいで新しい藍色が現れる。副長、父のユゼ。
「どうした」
「ユゼ、アーヴァリィって何だ」
「魔導師の言語だ、古代語って呼ばれて……まさか」
父の紅は、一人に抱えられた子供にすぐに気付いたようだった。隙間からテーブルに手をついて覗き込むようにして視線を合わせる、紫の眼が向いたのを見てから口が開く。
音としては聞こえるのに、それが何なのか少しも解らない音だった。急に近づいてきた紅にか、レティシャの腕の中で少しばかり逃げるように身体を引いた紫は、一度ぱちりと眼を瞬かせて、そしてその唇が動くに合わせて流麗な音が流れ出た。
ユゼは、そのままテーブルの足元にしゃがみ込んで額を押さえていた。クォルクとレティシャが眼を見合わせれば、レティシャが苦い顔でその子供を抱き寄せる。
「……アーヴァリィは魔法を扱う上で最も効率の良い、もうとっくの昔に廃れた古代語のひとつ。アーヴァリィ・ロツェ=オフェシス、第三世偽音古語、……言葉が人を選ぶ言語よ。私も理解は出来なかった。どころか聞いても何一つわからない」
「レティシャ、ユゼ、……フェスティも、お前ら、何が」
「……アーヴァリィを母語にする種族なんて居ないんだよ」
ゆらと立ちあがった父が、力無い声で返す。子供はその姿を見上げて、そしてレティシャを見上げていた。
「一つとしてない。どこを探してもそんなのは居ない、……言語としてじゃない、単語一つ一つの意味も含意も感覚も感情も全部理解してなきゃ扱えない。単語一つで街一つ消せる、言語の形をした魔法だ」
ユゼの手が伸びる。びく、と身体を引いた紫銀のその頭の上に掌を置いて、乱雑に撫でる仕草が見えた。その表情は、笑っている、が、正しいのだろうか。それとも諦観のそれだったのか。
「……Nx, wreh ruk. Ram reypha?」
子供は、その音に父を見上げていた。僅かに怯えるような姿勢、だが返答は淀みなく響いた。
「Fr-lenadia=Akashan. ……Rus hixx Tshass, ryu di?」
「……Nuix.」
子供の紫が落ちていく。ユゼは一度天井を仰いでから、団長へと眼を向けた。
「名前を教えてくれた。”Fr-lenadia=Akashan”だ」
「フェィエレィ……何だ……?」
「共通語……アルティア読みすれば『フェルリナード=アイクス』。より正確にはフェイリェル・レスィアレナィアディア=アーカシャード、が近い。でもこっちの、アルティアじゃ駄目だ。音が少なすぎる、再現できない」
「……何なんだ、一体」
「さっき言った通りだ、言語の形をした魔法、それが一番近い。神の言語とも精霊の言語とも言われる。……魔導師が一生かけて、賭けたとしても習得できる人間の方が少ない」
「……まさかヴァルディアと同じなのか?」
「ああ、……院に通達を。お前が行ってくれ、団の中でも古代語が使えるのは、俺と、カルドとイースだけだ。聞き出してみる。院と学院から許可が取れたらヴァルディアを呼ぶ、あいつが一番だ、俺が知ってる中では」
「……分かった、任せる」
言ったクォルクが椅子から立ち上がる。どこかへかと向かうのを見送りもしないでユゼが入れ替わりにそこに腰掛けて、フェスティを手招く。
「悪い、書くものくれ」
無言で差し出された紙が一枚、万年筆が差し出されて、悪いな、と重ねて言う父に、フェスティは、どこかぎこちない苦笑を浮かべていた。妹が手を伸ばしてその袖を握る、それにはただ頭を撫でて応えるだけ。会話の無いそれに何となく気不味いものが立ち込めて、それで視線を向ければ、父はその紙に幾つかを書き付けて、そうして紫銀に見せているようだった。合間に複雑な音の塊、人の喉が作るには繊細な音が入り乱れたそれで、紫銀は、何の苦もなく会話をしているようだった。万年筆を受け取った小さい手が、苦心しながら何かを書き始める。手元が見えれば、曲線の連なった、どこででも見たことの無い文字列。それが文字だとわかるのに、何を表しているのかは欠片もわからなかった。今までの未知の言語とのそれとは違う、頭のどこかで、何かがそれを理解することを拒んでいるような。
「……父さん、それって、何?」
「言語が人を選ぶ。解る奴は、見て聞けば解る。習えば多少は保証されるが片言以上にはならない」
諦めろ、というそれに近い言葉が返ってきて、それでああ、と声をこぼしそうになって、それも口の中で封じ込めてしまう。フェスティは距離を置いている。レティシャも、抱いた腕から力の抜けた様子は無い。
野暮か、それ以上だったかと思って、それ以上は何も言えなくなる。その合間に子供の、紫銀の幼い複雑な声が聞こえて、眼を向ければ、見上げられていたレティシャは苦笑しているばかりだった。銀を撫でる、ただそれだけ。
異様、とも、もう浮かばなかった。紫銀、それが確定した上に、魔導師達の反応は、理由など分からなくともただ不安を煽るものだった。
――空恐ろしい。それが何に対しての感覚なのかもわからなかった。
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