日中の間に、紫銀は王宮に連れられていたようだった。戻った時にはレティシャが手を繋いで引き連れて、裾の長いローブのような仕立てのドレスの足元に四苦八苦しているようだった。
「陛下にお目通りを頂いて来たのよ。王子両殿下は外していらしたから、良かったわ、怖い人がいなくて」
「レティシャそれ言って大丈夫……?」
「大丈夫。私は殿下達の教育役だから」
 言われれば、そうか、と腑に落ちた。魔法使いの中でも特に多方面に秀でている、とは、その評価は何度も聞いている。彼女が本来は本部にいることよりも、陛下の背後に仕える侍女の姿の時間の方が長いとも。
 だからその彼女が紫銀につきっきりにとは、もうそういうことに決まってしまったのだろう。レティシャの背後にいた父を見上げれば、すぐに気付いた紅がほんの少し笑って、そして手が伸びてくる。
「もうちょっと子供っぽい方がいいな、お前は」
「っ、てっ」
 ぱつん、と音を立てて額を弾かれる。思わず一瞬目を瞑って後退って、そして弾かれたそこを押さえて睨め付けるように見上げれば、横からあら、とレティシャの声が聞こえて、間を置かずに足元に何かの感触。見れば、銀色が上着とコートの間に滑り込んで、軽く脚を掴まれていた。まるで盾にするように。
「……えっと、……」
 硬直した。昨日に引き続いて自分でもそうだとわかる程度には硬直した。父はその様子に笑っているようだった。
「怯えられたみたいでなぁ。近付くと逃げるんだわ」
「……な、何したんだよ父さん……」
「いや、特には何も」
「たぶん見た目よ、絶対」
「たぶんと絶対って競合するだろそれ、形容として……」
 言い切ったレティシャが足元に来た紫銀のすぐそばにしゃがみ込んで視線を合わせて、銀の頭を撫でてやるのを見ながらの副長の声には無言だけが返された。レティシャはすぐにこちらを見上げて、ほら、と示す。
「手を繋いであげて。ドレスって、慣れてないと転んでしまうから」
「っ、いや、おれそういうのむり、」
「やるのよ」
 一瞬で冷えた声音に押し黙った。そういえば紫旗は貴族の先導は出来ないはずと思い出す。女性が女性を先導する事もないと。つまりは父もこの魔導師も。
 息を飲んだ。左脚に縋るようにしたそこに、ぎくしゃくと左手を伸ばす。子供は、すぐに気付いて手を伸ばして、右手でこちらの左手を掴んだ。逃げられはしなかったかとほっと息をついて、それからレティシャを見上げれば、小さく笑う顔。
「、……レティシャ……」
「ふふ、あなたにも苦手ってあるのね。晩御飯の準備の時間よ、広間に連れて行ってあげて」
「え、手伝いは……」
「ラシエナがいるから大丈夫よ。見ていてあげて」
 言う手に背を押されてしまう。父を見れば肩をすくめるだけ、なら助けもしてくれないだろうと早々に諦めた。子供を見下ろせば、こちらを見上げていた。
「……えっと、……じゃあ、行こうか」
 言ってから軽く引くようにしてやれば。子供はどこかよろよろとした調子で歩き始める。やはり足元がだろう、見つかった時の衣服は簡易なもので、くるぶしから下には何もなかったし、靴も柔皮をなめしただけのそれだった。今は歩いている靴先すら見えないのだから、転ぶ、というのも、たぶんもう何回かそうなっているのだろうなとはすぐに浮かんで。
 内心はらはらとしながらゆっくり廊下を進んでいく。後ろには父がこちらの調子に合わせて歩いている。子供はしっかりと左手を掴んでいて、よろけそうになるのもなんとか自力で立て直して、を何度か繰り返しているうちにようやく大広間の扉が見える。いつもの廊下がやけに長い、そう思いながら扉を開けば、絨毯の所に何人か。一番に振り返ったディストが声を上げた。
「副長、研究所ですが」
「ああ、聞いたよ。検証中で使えないってな」
「ヴァルディアの事で魔導師も工学師も手一杯のようです、構成技師まで出てきてます。暫くは無理ですね」
「あいつ封印するって無理だと思うけどなぁ俺は、しかも今更だろ」
「私もそう思いますよ。ですから説得材料でも調達しましょう、……『小さいの』」  呼びかける時には目線が落ちて、藍色は子供を見遣っている。手招く仕草、重ねられた言葉。
「こちらです」
 紫がこちらを見上げているのはそうだろうと思えばやはりその通りで、繋いだ手をやんわりと離して背を押した。
「行っておいで」
 わかりやすく口にして、言葉を聞かせようというその意図には素直に従った。一度こちらを見上げた紫はすぐにディストを見上げて、やはりよたよたとしながらもそちらの方に近付いていく。最後には彼が両腕に抱えあげて、それで椅子の一つに収まった。いつの間にか絨毯の近くには幾つかのソファまで据えられていて、示されてそこに腰掛けた。向かいに紫。
 何かを言う、細かな音の塊のような声。ディストの藍色の制服を握った子供が父を見上げてのそれには、父が何かを言って返して、そうしてから手を伸ばす。やはり身体を引くような様子には苦笑して、そのまま銀色を撫でていた。ディストが子供を抱え直しながらの声。
「……ロツェですね、本当に」
「ああ、しかもかなり純度も精度も高い。魔法の形になってないだけまだ良いが」
「アルティアは?」
「少しずつ教えてる。クォルクが俺の部屋やら団の書架から教本全部盗んでったからすぐだろ」
「……あの人本当に人間ですか」
「一応人間として生まれてるな、そのあとはわからん」
 酷い言い様だとは聞きながら思っても、その疑問自体には特に異を覚えることはなかった。前の資料作成も、頼まれたその時には嫌味かと思ったくらいだったから。なんとなく試されている気もしているが、あくまでもユゼを部下として扱っている、という建前に使われている気配の方が強い。
 息をついた。それから父を見上げる。
「名前、って」
「うん?」
「名前、覚えてたんだよな、自分で。そっちで呼んだ方が良い?」
 フェルリナード。そう聞こえている。ディストの髪の先を引っ張っている本人は、やんわりとした制止のあとに毛糸の糸玉を手渡されていた。見れば横合の籠の中には幾つかの手道具。思っているうちに父の声。
「……いや、まだ良い」
 思わず眼を向ければ、複雑な表情をしていた。ややあってから、続く声。
「『小さいの』の使ってるのは、共通語と殆ど音の互換がない。呼ばれても分からなくなる、ロツェは聞けばわかる言語だ、言葉の意味がわからないとか通じないとかがありえない。それに慣れてるんなら、聞いてわからない、がわからない」
 入り組んでいる。特殊な言葉だとは色々な形容で言われているからわかるが、そのどれを聞いても、少しも言語の事だとは思えない。もっと高次の、あるいはずっと低次な、融通の利かないもの。わからないが分からないなら、共通語を覚えるにも暇がかかりそうなものを。――共通語。
「……教えてる、んだよな?」
「……ああ、共通語か?」
「うん。俺も気になってちょっと調べたけど、あれ、確か文字だけなら対応表作れるって」
「つっても対応させて何になるのか、なんだよな……オフェシスの方が文字が多いから重複もするし……」
「でも名前とか、名詞くらいなら良いんじゃないか。こっちの言葉覚えるんなら、音は最初は難しそうだし、文字からなら説明しやすくない?」
「……一理あるかと思いますが。クロウィル、君はどこからそういうの仕入れてくるんです?」
「え、……と」
 どこから。どこからだろう。なんとなくぱっと浮かんだ事を言っただけなのだが。
「……か、勘……?」
「……野生児ですね、言語に関しては」
「文字の一覧表しか渡されないで外国引きずり回せれてた所為だとは思うがなぁ」
 父が言えば、ディストは眉根を寄せていた。視線がむけられてくるのにはそっと逸らして返す。溜息の音。
「一体どういう教育を……」
「荷馬車に揺られながら口述講義。……したら一応でも文字はやっとくか、野生児が言うなら効果あるかもしれん」
「商人は文化の象徴……」
「国際商が言うと重い言葉ですね。一体何密輸してたんです?」
「母さん密輸告発して点数稼いでた側だから冗談でもそういうこと言うと全力で干されるからやめといたほうが良いよディスト……本当に乾くから……」
「……何やってるんですかあなたの母上……」
「正当防衛という名を名目に掲げた傍若無人だよ。クロウィル、クォルク捕まえてきてくれるか、俺の方で残りの本揃えておくから」
 茶化していうユゼのそれに見上げれば、頷きで肯定される。目で見える数で判断するところでもないかとそれに頷き返してソファから立ち上がる。ぱたぱたとコートを叩いて据わりを正して足を向けようとする間に、手が伸びて来るのが視界の端に見えて眼を向けた。紫の視線、足が止まる。
「……えっと、」
 すぐにユゼの声。紫が父を向いて、そして短い応酬。迷うような間を置いたユゼが虚空を見上げればいくつもの藍色が空気の中に揺れ動いて、それから父の紅はこちらを向いた。
「ついてく、ってさ」
「え」
「金色……ラシエナが居ないのが嫌らしい。金色がいないなら濃い青のほうが良い、って言ってる」
「……濃い青って何」
「お前の髪の色。俺のは氷の青だがお前のは深海の青だ、濃いだろ?」
「見た目完全に一致」
「氣を見てるんですよ」
 視界の端であわあわと上下にふらつく両手を見ながらの会話の最後にはディストがそう割り込んで、そして膝の上の子供を両手で容易く持ち上げて絨毯の上に降ろしてしまう。そうして足を踏み出した途端にふらついた小さい体はそのまま片足にぶつかってしがみついた。硬直の上に硬化が上塗りされていく中に、自分は座ったままの魔導師の声。
「命色とその人間個人の氣は属性が完全一致しない場合のほうが多いのです。『小さいの』は、命色はご覧の通りですが氣は氷と闇、邪寄りの紫銀です。君は深海の水と春先の風の青翠で、珍しく命色と氣とが合致します。ついでに言えば氷と闇にとって水と風はどれも反発しない、居心地の良い氣なんです。『小さいの』の言いたいのはそっちの事ですね」
 父を見上げる。紅は遠くに投げ出されて肩をすくめる仕草と重なった。
「俺の青は氷の青で、腐食の方の炎の紅の紅青、氣は火と光で、『小さいの』の氷と闇とは仲悪いんだよどれも。火は氷を溶かすし、光は闇と対立するだろ?」
「え、じゃあラシエナは」
「ラシエナも見た目は金ですがね。命色と氣は合致しないほうが多い、の典型例ですよ、彼女は繁栄そのものの木氣と背を押す翠の風氣です。あれを嫌がる氣はありません」
 考える間があっても、結局は眉根を寄せるだけだった。苦笑した父が手を上げて、その掌が頭の上に乗る。首に来るような、それでも嫌味の無い重さ。
「ま、そんなだから安心して行って来い。本部の中なら安全だ、運動不足解消も兼ねてな。――――?」
 何の支えもなく自然と子供に向いた父の、その声に子供は頷いて、そして両手を伸ばしたそれで右手が取られてしまう。振り払う事も出来ないでぎくしゃくとディストを見れば、全く問題ないと言わんばかりににっこりと笑まれてしまって逃げ道も失せてしまった。じゃあ、と、子供を見下ろす。
「行こうか、団長探しに。……ゆっくりな」
 通じないとわかっていても、何となく無言のままは憚れて、そう声を掛けてからゆっくりと手を引く。そうして言葉の通りゆっくりと歩いて、その間に少年の右手が子供の左手を握って落ち着いたこと、子供が左手だけで手を繋いでよろよろとしながらもそれを連れて扉をくぐって、一旦の区切りのそれには安堵の息を吐いた。



 不意にディストが、ふ、と息を漏らした。
「……天国ですね」
「一応言っとくがディスト、アレ片方は俺の子供な」
 横から聞こえてきた幸せそうな呟きには即座に言っておく。でないと許可は得ているだのと後々になって暴れかねられないと思っていれば、その予想とは斜め方向に違った返事が返ってきた。
「分かってますよ、上司の子供に手を出す程飢えてませんしそこまで反社会的でもありませんが良識の範囲内で愛でるのは自由でしょう? ですがねえ……慣れない、苦手だと言っているのに何とかしようとしてしまういじらしさは少年特有ですね。少女も良いですが」
 眼を向ける。ディストはソファの肘掛に頬杖をついて笑みを浮かべていた。ユゼは、あからさまに眼を眇める。
「……それ良識の範囲内なのか、ディスト?」
「保護者の前で言ってますから。抑止力は十分ですよ、社会的に死ぬつもりはまだありません」
「物理的に死ぬ覚悟はあるんだな」
「なかったら紫旗の前線で少年愛でたりしません。……と、いうか、本当に血の繋がった親子ですか? 数年離れていたとはいえ養子かと思うほどかけ離れてますが」
「実の息子だよ、かけ離れてんのは母親似だからだ」
「……へぇ……」
「……ディスト、真面目にそろそろ怒るぞ?」
「一人は公爵令嬢、一人は紫銀、一人は上司の息子。こんなに恵まれているのに誰一人として表立って愛でられないのは何の因果でしょうね」
「ディスト」
「分かってますよ。……意外ですね、副長がそんなに気にするとは」
「家族だからだよ。お前も持てよそろそろ」
「嫌ですよ、遊べなくなるじゃないですか。……副長が揶揄われて怒るのは紫旗の団員の事と魔法だけだと思っていましたから、面白いというのが一番ですよ。このところね」
 ユゼは口を噤んだ。何も言わないまま、何か言いたげなのは溜息にして押し出してしまう。その様子をちらと見やったディストはふふ、と声を漏らした。
「良いお父さんじゃないですか」
「……け」
 毒づくような声音なのにそれ以上は無い。無いままで何処かへ、恐らく言っていた本を探しにだろう、足を向けるのを見送って、そうしてからディストはソファの背に重さを預ける。――息子が来ると言う。なのに欠片も様子が変わらなかったのに、それも一ヶ月も経てば、この魔導師でも息子を優先するような様子を見せるのだからわからない。
 魔導師が魔法以外に優先事項を作る事すら珍しいのに、とは居なくなった背を見やりながら思う。思っている間に、扉の開く音。眼を向ければクロークを腕に抱えた団員の一人。気付いた彼がこちらに向かって声を上げた。
「お疲れ様です、分隊長」
「そちらこそ。見つかりましたか?」
「いえ、まだ……ですが痕跡は見つかりました。相当深手を負ったようで……帰還術式が損傷した状態で発見されました。『異種』による傷のようです、帰還と報告の意思はあると見て処分申請は却下する方向です」
「妥当ですね。制服は?」
「クロークの端だけ。記憶の走査も行いましたが、やはり帰還困難状態であろうと思われます。部下を全員帰している分、隊長らしいと言いますか……」
「……必要であれば本隊に要請を。ユールが居ないとなれば警邏も満足には動けないでしょう、多少なら手助けも出来ます」
「有難うございます、……報告に。団長は?」
「引き篭もっていますよ。ファスティバにどうぞ、ユゼ副長も作業中ですから」
「分かりました」




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