あ、と、明るい声が廊下の先から聞こえてきたのはすぐだった。
「クロ、『小さいの』も!」
「お前もそれで呼んでんのか……」
「だって名前わかんないし、難しいんだもん。『小さいの』大丈夫ー? クロに怖いことされてない?」
 盆を抱えながら賑やかに駆け寄ってきたラシエナは、どうやら夕食の準備も佳境らしかった。何枚も皿が乗った盆を器用に支えながら膝をついて、銀色を撫でる。子供は、猫か犬かがそうするように、撫でられた頭をその掌に擦り付けるような仕草を見せて、それにはラシエナが満面に笑顔を浮かべたたようだった。
「んーん、甘えん坊。クロどしたの? ディスト達が見てると思ってたのに」
「や、団長呼びに。ついて来るって言ったから、それで」
「そなんだ。団長なら部屋だと思うけど、今行って平気かな?」
「……どうだろう」
 そういえば考えてなかった。あの人が何かに集中している時は、あの人の部屋にはあまり近付きたくは無いのだが。過集中が過ぎてこちらに全く気付かない上に、気付いたとしても邪険にされるだけがせいぜいで。
「……ん、でも、呼んでこいって言われてるからなぁ」
「んー……したら、頑張って、かなぁ。『小さいの』も居るから大丈夫だと思うけど、団長子供に甘いから」
 言いながらラシエナがもう一度手を伸ばして銀を撫でる。子供は、やはりどこか嬉しそうにそれを受け入れていた。何となく微笑ましいと思っている間に幼馴染が立ち上がる。食器の鳴る音。
「もうちょっとしたらまた広間に持ってくから、団長呼んだら広間で待ってて。今日はナイフもフォークも使うから、苦戦するかもだけど」
「豪華な予感」
「肉です」
 きり、と断言されたそれには内心で拳を握った。肉料理は中々お目に掛かれない、行商の間にもなれば辛い塩干しの肉を齧るくらいで、後はパンか米かだったから、定住民の暮らしに変わって一番嬉しいのは食事のそれだ。右手の先が揺れるのに眼を向ければ、紫の視線。見上げてくるそれに笑いかけて頭を撫でる。
「肉料理好きかな。昨日のと全然違うだろうからびっくりするかもしれないけど」
 子供の首を傾げる仕草。それでも、会話や言葉を聴くのが良いとは自身の体感だったから、通じないからと封じてしまう気にもならない。ラシエナが後ろから呼ぶ声に応えて、食器の盆を抱えながら器用に駆け去っていくのを合図に、階段の方へと手を引いた。
「団長が居るのは四階な。ここが二階。だから二階分登る」
 途中で折り返して真反対を向く、その立て続く段の根元に立って、手を引いて促せば、子供は素直に段に足を掛けた。ゆっくりとした調子で上へと登る、折り返し折り返して三階に着いた頃には、子供の頬には赤みが差して、僅かに乱れた呼吸に変わっているのが見えた。大丈夫だろうかと思いながら手を引けば、大人しくついてくる。足元をドレスに取られそうになりながらの子供の調子に合わせながら更に上の階に辿り着けば、その時には明らかにぜい、と音を立てての呼吸。
 活動が落ちている、とディストは言っていたが、こんなにかと思いながら両手を伸ばした。少し生気を取り戻したような顔色の子供が見上げてくるのには少し笑って、そして子供を腕の中に抱え上げる。少し持て余してしまうが、子供が小さいからまだ大丈夫だ、重さも気にならない。
「疲れたろ。頑張ったな」
 かいぐるように一度銀を撫でて、それから目的の扉がある方へと足を向ける。四階にまで来ると、団員も中々見ない。今は自分達の周りに何人もいるのだろうとは理解していても、姿が見えないのはやはり不安を煽る。さっさと団長のところに行ってしまおうと思って足を動かしているうちに、目当ての扉が開くのが見えた。
「悪いな、見送りしてる余裕無さそうで」
「構わない。それより、良いのか、俺を呼んで。院からの要請は来ていないが」
「あーまあ定期聴取って事で通るさ。実際そっちの様子は気になってたからな、学長殿から話だけは聞いてるが」
 団長と、もう一人、どこか幼ないような少年の声。開かれたその影から出てきたのは、濃い紺色の長い上着の一人、そのすぐ脇に扉を押さえた藍色の腕。
「助かった、おかげで何とかなりそうだ」
「なら良かった。何かあれば教えてくれ、手紙を届けるなり出頭するなりする」
「研究生何度も呼び出すのも気が引けるんだがな、お前の試験に障ったら悪い」
「今更だろ、迷惑とも思わない」
 言った片方、見覚えの無い、ローブらしい服装に癖のある金髪がそこでようやく気付いたのか、視線がこちらを向く。髪より濃い金の瞳、――黄金だと思って思わず身構えた。貴色が命色の両方に現れる例は少ないと聞いている、しかも光の色となれば他の色のように何も思わないのは難しい。自分とあまり変わらない年頃、それでも幾つかはその人の方が上だろうか。そこまで見て取っている間に団長の顔が陰から覗いた。ああ、と、何の構えも無い声。
「どうした、クロウィル、『小さいの』も」
「『小さいの』?」
「名前が呼べんからそう呼んでる。クロウィル、気にしないで良い、スィナル王女殿下の知り合いの魔導師だ、学院の研究生だがな」
 言いながら団長が手招いてくれるのには、何となく警戒する気持ちが晴れないままそちらに足を向ける。紫旗が、部外者が入れるような気安い場所ではないのにと、自分にも降りかかったことだから思いながら踏み出せば、ほとんど同時に腕の中から手が伸びたのが見えて、それで心持ち足を速めて二人のいる方へと向かった。団長は扉を閉めてそこに背を預けている。
「ヴァルディア、あれがそうだ」
「見れば解る。……そちらは?」
 自分からして見れば少し見上げるような背丈、それでも大人の域ではない。問いかけられた対象が自分だと視線で気付いて、どう答えたものかと一瞬迷う。
「……クロウィル=コウハ」
「ユゼの息子が居ると聞いているが」
 確認の声には頷いて返す、同時に少しほっとしていた。十五、六だろうか、口調の割にはあまり尊大な風な印象は受けない。それよりも団長と父と知り合いだという魔導師に思い至る部分がなくて、手を伸ばしている子供を足元に下ろしてやりながら団長を見上げれば肩をすくめる仕草。
「大丈夫だよ、気にすんな。紫樹の研究生のヴァルディアだ、色々あって紫旗に協力してもらってる」
「色々?」
「準護衛対象、ってとこだな。『小さいの』、どうした、腹減ったか?」
 どことなく明言を避けるような物言いだと思う。思っている間に団長は足元まで寄ってきた子供に両手を向けていた。子供は首を振って抱き上げられるのは拒否して、その紫はすんなりと黄金を見やる。見たことが無いからの好奇心かと思っている間に子供は首を傾けて、そうしてからその口が動く。やはり聞き取りもできない音の塊、次いで返したのは黄金の声で、それに僅かに眼を見開いているうちに彼は団長を見上げていた。
「『とうさん』は誰のことだ?」
「……なんだって?」
「とうさんが居ない、どこに行ったか知らないか、と言ってる」
 団長の紫が動いて、子供を見下ろす。それを追って見やれば、団長のクロークを両手で握った子供はどこかに視線を落として考え込んでいるような、そんな様子だった。すぐに銀が揺れて、振り返ってこちらに近づいてくるのを両手を差し伸べて迎えてやる。やはり外套と上着の間に滑り込むようにするのに、冬の間の猫のようだと何となく浮かんだ。少し乱れた銀の髪を撫でて整えてやっているうちに団長の声。
「ヴァルディア、次いつこっち来れる」
「わからない。訓練か研修かの都合による。何かあれば知らせてくれ」
「三日程度居てくれるだけでも良いんだが」
「ロツェならユゼもカルドも出来る、問題無い。……フィエル様を待たせてる、俺は帰るぞ」
「……分かった。一旦王宮戻ってから行ってくれ、その方が監視が無い」
「面倒だな」
 言うその傍らに藍色が一人現れる。促すそれには頷いて、黄金はそれで背を向けて去ってしまう。なんとなくそれを眼で見送っているうちに、溜息の音が聞こえた。見上げれば紫は金を見やっていた。眼を戻せば、廊下の先で紺のローブが揺れて陰に消える。
「……相変わらず無感動……多少はボロ出すかと思ってたが」
「……団長?」
「ちょっと事情が複雑でな。『小さいの』連れてきてくれて助かった、ってところだ、俺としてはな。どうした?」
「……父さんが呼んでこいって。ロツェ……って、古代語、だよな? その事でだと思う、広間にって」
 上着を引っ張られる感触に気づいて見下ろせば、子供の紫と鉢合わせた。両手を伸ばしてくるのにはああと思ってすぐに抱え上げる。首元に銀色が転がるのを何となく意外に思って撫でてやって、そうしてからもう一度団長を見上げた。
「夕食ももうすぐだって。篭ってるだろうから、ちょっと迷ったけど」
「あー、籠もりよう無いからな今回は。あんま気にすんな」
「そう?」
「難儀してるよ。文字だけじゃ駄目だな、聞かないことには。すぐに行く、先戻っててくれ、悪いな」
 軽く頭を撫でられるような、叩くようにするのにはすぐに首を振る。子供を見やれば藍色を見上げていて、それに苦笑した団長が銀色を撫でてやってから軽く肩を叩かれる。それを合図に子供を抱えなおして、それで階段の方へと身体を向けた。団長はすぐに部屋に戻ってしまって、扉を閉める音だけが後ろに聞こえていた。



 肉料理と言われていたのはその通りで、皿の上には分厚い肉が付け合わせの野菜たちと一緒に鎮座していた。嫌がるような様子を見せている子供を何とか宥めすかして父の膝に置いてから準備の手伝いに厨房に向かって、人数分を広間に持ってきた時にはディストの膝の上に移動しているのには何とも言えない心地になったが。
「……父さんほんと何したんだよ……?」
「特に何もしてないはずなんだけどなぁ……色々質問攻めにした所為か……?」
「確信犯じゃねえか……」
 推定五、六歳の子供にこの風体の大人がというだけで十分怯えられる条件は満たしているのに、それを理解していながらあまり効果的な行動に移していないのは怠惰なのか困惑なのか。一応子供がいる場面ではあまり動かないようにしている風ではあるが、存在感があるからどうしても効果は薄い。思いながらディストの前に一人分と、量の小さいもう一人分を並べて置けば、子供に眼鏡を奪われたらしい彼がやんわりと眼鏡を奪い返そうとしていた手を下ろして子供を抱え直すのが見えた。
「ありがとうクロウィル。ラシエナはどうしました?」
「まだ手伝ってる、すぐに来るって。団長も後でって言ってたけど」
「クォルクなぁ……そう言って忘れてそうだが」
 父の呟きにそちらを見れば、紅の眼は団長のいる部屋の方向を向いていた。水差しを据えたレティシャが苦笑する。
「もう一度呼びに行きましょうか」
「そうだなあ。あいつそろそろああいうところ治した方が良いんだが、駄目だな」
「天才は偏っているものですからね。ディスト、『小さいの』に食べさせてあげてくれる? 熱いから気をつけて」
「ええ、わかりました。今のうちから練習しておくのも良いかもしれませんね、『小さいの』」
 頬を突いた指先に、眼鏡の厚い硝子板を覗き込んでいた子供はその手の持ち主を見上げて、その顔に眼鏡を戻している。随分慣れたらしいとそれに思っている間に扉の開く音、見れば重そうな盆を抱えたラシエナだった。
「ごめん、ちょっと、おくれた」
 言いながらの腕が震えているように見えて、あ、と声を漏らすのと同時にそこに駆け寄る。すぐに代わるように盆をその手から持ち上げて、瞬間の重さに眼を瞬いた。自分にはさほどではないが、彼女には重かったろう。
「……何、これ?」
「カルドがね、作ってくれたんだって。甘いものって言ってた。『小さいの』に色んなの食べさせた方が良いだろうから、って」
 言われて盆を見下ろせば、陶器の皿には揃いの蓋でしっかりと覆いがされていて、重さはその所為もあるのかと合点がいった。ラシエナが肩を落としながらもへにゃりと笑うのには笑い返して席にと勧めておいて、自分は横のテーブルに盆を据えてから椅子に向かう。水のコップをそれぞれが受け取ったところでレティシャが呼んでくる、と背を向けて行ってしまって、そうしてから父が声を上げた。
「さて、冷える前に食うか。ディスト、大丈夫そうか?」
「ええ、何とかやってみます。『小さいの』も、昨日よりは動き回っていますから、食べれると良いんですがね」
 言いながらナイフに手を伸ばす。それを合図に周りで食事を始める音が立って、自分も素直に目の前のそれに取り掛かった。ステーキをナイフで小さく切り出して口の中に放り込む。濃いソースが絡んでいるが喉に絡むような重さがないのにはただ美味しい、と内心にこぼして、スープに手を伸ばす。これだけ美味しいものを毎日朝夕、しかも数十人分をと言うのだから、紫旗はすごい。流石に厨房は戦闘員以外が中心で回っているらしいが、ファリマのように監督官もいるし、どういう人員の配置をしているのだろうと思うのも正直なところだが。文官や待機人員とまでなると、流石に自分のような居候の子供が知れる部分ではない。
「……やはり固いものは難儀しますね」
 声には自然と眼がそちらを向いた。小さく切られた肉を食んでいるらしい子供が、顔を歪めて口元を押さえようとするのには先んじて藍色が布を口元にあてがってやっていた。思わず手が止まる、声を上げたのは隣の幼馴染。
「だ、大丈夫?」
「ええ。……副長、ちょっと通訳お願いします」
「おうよ」
 食事に手をつけていないままの父が返して、そして即座に何かを子供に向ける。やはり微細な音の塊のような、それが立て続いていく声。子供はそれに眼を上げて、それから苦心して肉の塊を飲み込んだらしかった。苦笑しながらユゼが何かを言って、子供がそれに応える。何度かのやり取り、その最後に父と藍色との間に目配せがあって、それで殊更小さく切り取られた一切れが口元に差し出されて、ついさっきは飲み込むのに苦労していたのに怖じもしないでそれに食いつく。父が何かを言ったのか、ゆっくりと時間をかけて食んで、それでも少し苦労している様子で飲み込む。ディストを見上げて何かを言うのには、父がすぐに翻訳して、どうやら昨日に食べたものとの違いを不思議に思っているらしかった。三者の、少し遠回りな会話の最後に、もう一切れに食いついた紫銀を抱えながらのディストの苦笑。
「これは本格的に古代語やらないとですねぇ」
「必要不可欠、ってわけでもないがな。出来そうなのか?」
「なんとなくではありますが。一度挫折した身ですから、意味もなく恨んでいます」
「俺に言うなよ……」
「俗人にしてみればですよ。見上げる事も出来ないのですからせめて向こう脛くらいは蹴っておきたいじゃないですか」
「物理的な手段に訴えるなよ魔導師」
「馬鹿力で有名なコウハ出の魔導師に言われたくはないですね」
 父の紅がこちらを向いて、それでも思わず動揺が顔と仕草に出てしまった。気付いたディストが、手を伸ばした子供にナイフを握らせて、そこに手を添えてやらせてやりながらの声。
「そういえばクロウィル、そろそろ木刀は辛いでしょうから、訓練用の剣なら使って良いと、イースからの伝言です」
「ほんと?」
「ええ。流石に連続で三本も折られて彼女の方が折れたようです」
「…………ごめん」
「それはイースに言いましょうね。流石に替えにも限界がありますし、鉄剣なら多少は折りにくいでしょう、まだ君は」
 だって木の棒なんて振り回して何かに当たったら折れるものじゃないか、とは、視線を泳がせながら思う。全力でやれと言われてやったらああなったのだから責任はきっとこっちにはない。
「やっぱまだ力加減難しいか、お前は」
「よく、分かんないけど……でもこれあるからまだ楽かな」
 父の声にはそう返して、右手を持ち上げる。袖から覗くのは大きな銀の腕輪で、透し彫りに色硝子で百合の印象が刻み込まれているもの。物心ついた時から身に付けているそれは今では無い方が違和感で、コウハ特有の剛力を抑える力が込められていると知ったのは最近の事だ。幼馴染の視線がこちらを向くのが判る。
「でもクロ、やっぱり力強いよね。筋肉とか無さそうなのに」
「コウハのは完全に種族特性だからなぁ。歳で強くもなるし、鍛えればそれも強くなるし……でも父さんは意味わかんない」
「なんだと」
 幼馴染の不思議そうな顔には言って返して、続けたそれには見遣った先の紅が眉根を寄せていた。ああ、と声を零したのはディストだった。
「初めて見たときは団長だと気付きませんでしたからね。三年前ですか、剣を持っていないのが不思議でなりませんでしたよ、私は」
「魔導師同士なんだからわかるだろ?」
「そんな如何にも『拳こそが武器』みたいな風体で言われても説得力ありません。せめてその無駄な筋肉落としてから来てください」
「前線で走り回されて付かない方がおかしいだろ……」
「いやぁ羨ましいですねぇ固定砲台が一番の鍛錬って」
 負けたユゼが視線を何処かに投げるのには小さく笑ってしまう。視線がすぐにこちらを向いてきたのには慌てて食事に戻った。苦笑するような気配、やっとナイフを握ったらしいと見て、少し安堵した。
 紫旗達は、食事の時間に一番気を遣っているらしい。任務中であれば満腹まで食べないのが普通で、隊の中でも時間をずらして最低限、が基本らしかった。それは様子を見ていて気付いた事だが、それは幼馴染も同じらしい。この本部の中に居ても周期がわからないからと、聞いてしまえと思い至ったのはラシエナの方が先だったが。
 今の父は、特別に任務にという事も無いらしいとやっと判って安堵する。まだ父という認識は薄い気はしても、紫旗の任務が何かを知れば不安は拭えなかった。
「……うん、それで大丈夫ですよ」
 声が聞こえて眼を上げれば、子供が不器用にナイフとフォークとに苦心している様子が見えた。使い方はすぐに覚えたらしい。もうディストも手を添える事はしておらず、ソースが垂れそうになるのを先んじて布で受け止めてドレスを汚さないようにしている程度。合間に自身も食事は進めているらしい、器用だとなんとなく思っているうちに、スープに口をつけていたラシエナの声が聞こえた。
「……なんかディストって、保育? とか、好きそう」
「好きですよ。手の掛かるものが掛からなくなっていく様子を見るのは、」
「ディストそれ以上言ったら全力で殴るからな」
 横から飛んだ冷たい声にディストは笑みを浮かべるだけで、幼馴染と二人揃って疑問符を浮かべる以外には無い。結局彼が肯定するところまで聞けて、それで止んでしまったところに扉が開く音が聞こえた。見やれば、本を抱えたレティシャと、書付を手に持った団長。
「悪い、時間失念してた」
「だろうと思ったら。レティシャ、有難うな、お前も食えよ」
「ええ、そうします。ディスト、どう? 食べれてる?」
「この先の難関は根菜でしょうねぇ。今のところ好き嫌いはしなさそうですが」
 見れば、子供はフォークの先で付け合わせの野菜をつついているようだった。どうやら刺そうとして刺せないらしい。片手を添えたディストが手伝ってやって、それでようやく柔らかく煮られた人参を食んでいた。もう飲み込むのに失敗して、という様子は無い。ちらと見やった父も自分の皿に集中していて、空いていた椅子に座った団長のナイフを手に取りながらの声。
「明日からちょっと『小さいの』貰うぞレティシャ。ユゼも手伝え」
「お前何日で終わらす気だ?」
「二十日掛けたくねぇな。陛下の下命がある前に編成は済ましておきたいし、そうなると一ヶ月とも言ってられない。調査にしたって手が足りない。……ラシエナとクロウィルは、どうだ。無理そうか?」
「えっ、と……その、古代語? ってやつ?」
 問い返したラシエナに、肉を切り分けながら団長が頷く。彼は一番に肉は全部細かくしてしまって、それからやっと口にする。なんとなくそんなことを思っている間に、勝手に返答は口を突いていた。
「やって、全く出来ないってことはない、と、思うけど……単語を覚えるとか、書けるとか、それくらいになりそう、かな……」
「そうか? お前は可能性あると思うんだがな」
「買いかぶり。……父さんが話してたり書いてたりするの見ても、何が何だかわからないし」
「……私もかな。……というか古代語やる前に隣国のやんなさいって母様にいわれそう……」
 幼馴染の声は、うう、と呻く音と一緒で、それには苦笑してしまう。本当に外国語が苦手なのだ、この令嬢は。目を戻す。紫の眼を見返した。
「団長がやるのが一番早いと思うけど、俺は」
「うーん……」
 反応は、あまり芳しいものではなかった。何を迷っているのだろうと思っているうちに、フォークを置く音がして、眼を向ければ無手の紫銀がディストを見上げていた。食器の中身は、半分ほどしか消えていない。
「もう良いのですか? 夜中に眼を覚ましても何もありませんよ?」
 問いかけながら彼が頬を突く。ユゼが通訳して言ったあとに、頷く仕草が見えて、そして紫銀の手は横に座ったレティシャに向かって伸ばされる。苦笑した彼女がこどもを膝に抱えてやはり器用に食事をこなすのを見ながら自分の分を片付けてしまって、それからそういえばと隣に眼を向けた。
「カルドが作ってくれたの、って」
「……あ、うん、そう、甘いやつ。『小さいの』は甘いの好きかな」
 言いながらナプキンを口に当てて、大方を片付けてしまった食器を後にして幼馴染が椅子から滑り降りる。すぐにその後を追って件の陶器の蓋を開けば、途端に湯気と甘い匂い。わ、と声を上げた。
「パイだ。……この季節だとベリーかな」
「かも。分けちゃお、冷えたらわるいもん」
 言うそれには頷いて、すぐに傍に置かれていた皿に盛っていく。取り分けやすいように先に包丁が縦横に入れられていて、四角く切り取られたデザートはすぐに人数分、それぞれに配膳していく。合間にレティシャの声。
「カルドが焼いたパイだから、きっと美味しいわね。ラシエナもクロウィルも先に食べてしまって良いわよ」
「ほんと?」
「ええ。ここずっと訓練も出来ないで、手伝いばかりさせてしまっていたから、ご褒美よ」
 途端にラシエナの眼が輝いて、自分もその反応と変わらなかっただろう。すぐに四角く切り取られたその角にフォークを立てて、頬張る。さっくりとした生地に包み込まれたぷちぷちとした食感と中々味わえない分厚い甘さには自然と眼が細くなっていくのが自分でもわかった。
「……おいしい」
「うん、おいしい……! カルドすごいなぁ、いろんなの作れるよね」
「本当に。時間が無いって言いながら、暇があれば何か作っているものね。『小さいの』も、どうかしら? 食べてみる?」
 レティシャが言って、それで眼を向けてみれば、紫は新しく現れた四角いそれを注視しているようだった。すぐにディストが四角のそれを更に小さく切り出して、口元へと寄せれば、すぐに口を開いて食いつく。
 そうしてから一拍、あった。そうしてから子供が硬直したのがわかった。眼を瞬かせるレティシャとディストの膝の上で子供が微動だにしないのを見て、椅子から立ち上がったのはクォルクだった。立ち上がったと気付いた時にはレティシャの膝から子供を持ち上げていて、腕に抱えて抱きしめるように頭を撫でてやる。合間に小さく声が聞こえた。共通語ではない、微細で大きな音の塊。
 ――怖がらなくて良い。そう言っているのだと不意に理解に至って、その事に呆然とした疑念が沸き起こる。父が声を向ける。嫌だったかと訊いていて、紫銀の声は、わからない、と、返していた。
 音としてしか聞こえないのに、言葉の意味の一つもわからないのに、わかる。わかってしまう、体の内側が逆立っていく感覚、思わず左手が右手の腕輪を掴んでいて、まるで投げ出すようになった銀器の煩い音に我に返った。
「――ぁ、ご、ごめん」
「……どうかした、クロウィル?」
 レティシャのそれにはすぐに首を振った。横からの幼馴染の視線は疑念のそれで、見つかる前に腕輪から指を離す。
 落ち着かない。それが何故なのかもわからない。父の視線に気付いて見上げれば、ほんの僅か、柔く笑んでの視線の肯定。そうと見えて、詰まっていた息がようやく抜けていった。父の紅が団長を向く。
「大丈夫そうか?」
「ああ。……あまり、甘いものは食べさせない方が良いな。わからないらしい、何がかは分からんが」
「そうか……とりあえず甘やかしといてくれ、レティシャ」
「ええ、わかりました、副長」
 そのやり取りの後にすぐに目配せがあった。頷く代わりに、投げ出したフォークを拾い上げて、握り直す。
 甘さが減しているようだった。ただの錯覚でも。




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