朝食を手伝う時間なんて、と、しきりに時計を気にするファリマには苦笑した。もしかしてこの人も被害者か――などとは思うだけにする。たぶん、この人の気性を鑑みるに、久々の母子の再会なのだから時間を無駄にするようなことは、の方だろう。こちらとしては心構えの時間が十分以上に欲しかったから半ば無理矢理作業に参加する。時計を持ってなくて良かった。持ってたらたぶん時間指定で来る。そして遅いのは当然の事ながら早すぎるのも許されない。よかった時計持ってなくて。
 思いながら、朝食の材料を冷たい水で洗い、皮を剥いて刻み、葉のものは大きすぎない程度にと黙々と作業を続けている間に何度目か厨房の扉が開いて、そして団長の顔が見えた瞬間に手が止まった。
「……も、もしかしてもう来た……?」
「いーや、ユゼだけ先に本部に帰還報告に来ただけだよ」
 にやにやと笑いながらの答え。それでもほっとして力が抜けた。さすがに商人、まだ朝の色濃いこんな時間に席は設けないだろう。だが団長が来たということは。
「ユゼは今準備してる。俺もすぐに着替えて来るから、お前もそっちの準備してくれ。宿のこと頼んだぞ」
「う、うん……」
「なんでそんなに緊張してんだよ、お前」
「だって絶対怒られる……」
 ぶつぶつと歯切れも悪く言い返して、作業が途中なものはすぐに終えてしまってからファリマに断って扉に向かう。潜るところまで団長が扉を抑えてくれて、そして閉まってから小声が落ちた。
「制服は無理だ。俺は武器も持ち込めない」
「わかってる。父さんが宝珠持ち込むので精一杯だけど、今回はそれも要らないと思う」
「……頼むぞ、お前の前に夫人がなんとかしてくれそうだが」
「……どうだろ、母さん他人を死地に追いやるの躊躇わないから……」
「……頼んだな、クロウィル」
「うん。大丈夫、慣れてるから」
 言えば頭を撫でられた。それもかなり優しめに。今からの事は八歳児にやらせることではないとは自分でも理解しているが、少々無茶な生き方をしているのだから仕方がない。
「よし、じゃあ準備でき次第正門で待ち合わせだ。色は隠しといたほうがいいか?」
「団長はそのほうがいいかも。俺は信用取らないとだから、最後には晒さないとだけど」
「……なんで八歳児が信用取るんだ……」
「大人より子供の方が楽なんだよ、色々小細工できないから」
 子には子の役割があると母は言うだろう。この人は巻き込むなら大人にしておけ、と言いたいのだろうが、商事であれば全面的に母を信用していい。結果良い様に使われるだけとしても、最終的に命の危機に陥る事はない。永劫に。そういう人間なのだ、母は。
 肩を叩かれたのを合図に自分の部屋に向かう。机の中に仕舞っていた鏡を取り出して、髪を結んでいただけだった朱色の髪紐を一度解いて丁寧に髪に編み込んでいく。それでも長く残る端は耳元で結んで、銀細工の鈴を括り付けて垂らしておく。これも合図の一つだ、刀匠ではないという証。きっと伝わる人間にしか伝わらないが、グラヴィエントが相手なら問題はないだろう。見張りがあんまりにもな下っ端でない限り。
 コウハとわかりやすい格好をしているから、変える部分はそれくらいでいい。後ろ髪を纏めて別の髪紐で括って、いつも通りの砂色のコートを羽織る。その上からマフラーを巻いて、それで部屋の扉を潜った。一応にと、まずは広間に向かう。扉を開けて覗き込めば、思った通りレティシャの後ろ姿が見えた。
「レティシャ、おはよう」
「あら。おはようクロウィル、団長も副長ももう行ってるみたいよ?」
「一応、『小さいの』どうしてるかと思って」
「まだ寝てるわ。皆がついてるから大丈夫よ」
「……わかった。その、ラシエナと『小さいの』のことお願い」
「ええ、任せてちょうだい。安心して行って来なさいな、いってらっしゃい、クロウィル」
「うん。いってきます」
 この魔道師、魔法工学師の言葉は安心する。そう思って広間の扉を閉じて、外に向かう廊下を小走りにしている間に遠くに鉦の音が聞こえた。甲高い音が三度、これは団の時刻を知らせる合図。これに少し遅れて、朝の鐘が鳴る。思いながら外に出る二重扉を開けば、途端に冷たい風が吹き込んで思わず肩をすくめた。マフラーを押さえながら少し先の方へと目を向ければ、既に二人の姿。
「お待たせ、父さんおかえり」
「おう、ただいま。準備良いな?」
「うん」
 問われてすぐに頷けば耳元で銀の鈴が鳴る涼しい音。夏には好まれる音色だが、真冬にはあまり嬉しくもない。見れば父も髪にきっちりと銀の髪紐が編み込まれていて、その端には紅玉があしらわれた銀細工を吊っている。よし、と頷いた父が団長に目を向けた。
「こっからは個行動だな。手順覚えてるか?」
「ああ、問題ない。しっかしクロウィル、お前大丈夫なのか?」
「大丈夫、相手も子供相手に何もしないだろうし」
「子供だからってな……ユゼもなんか、こう、ないのかよ」
「……無いことはないんだけどな……本人がな……普通の顔してっしな……」
 遠い目で父が応えるのにはそっと目を外す。これが普通になってしまったのは不可抗力というか、そう育てられてしまったものはしょうがない。三年もこんなことをしていれば嫌でも順応するものだ。ユゼの視線がこちらを向くのに気づいて見上げれば、時計の盤面を見せられた。
「そろそろだ。行って来い、後でな」
「うん。二人とも後で」
 言って、それで道の方に顔を向けて走り出す。この紫旗の本部だ、誰の出入りがあったかなどは誰かしらが監視していてもおかしくない。直行など出来ないから、まず目指すのは北の方向。王都の中心は王城、そこから北西に位置する、本部から北に向いての工商街。王都に来てから何日も経っていてよかったと、そのうちの一つ、今まさに『在室』の札を下げて終えた店のその人に声を向けた。
「叔父さん!」
「お。クロウィルか、また来たのか」
「うん、今日は早起きだったから、色々友達に任せて出て来た」
「サボりじゃないよな? ユゼはどうした、最近見ないが」
「息抜きだよ。父さんなら一回村戻ってた、休暇だったって。今日戻って来て早速仕事」
「なるほど。で、今日はこっちの手伝いしてくれんのか?」
「刀匠の仕事なんてなかなか見れないし」
「はは、確かにな。よし、入れ、もう火は熾してあるがな、今日の客は何人か予約入ってっから、忙しいぞ」
「紅軍の人たち?」
「将軍様たちだよ。寒いだろう、早く入れ」
 そこで肩を叩かれ、押される。それに頷いて硝子戸を潜って数歩中へ。外の陽の光が届かない中にまで進んでから振り返った。
「母さんの仕事なんだ、手伝いに行く」
「義姉さんのか? 王都でやるのは珍しいな、相手誰だ?」
「まだ交渉成立するかどうかわからないけど、大きいところ。たぶん一族から母さんに依頼入ったんだと思う、地下使って良い?」
「ああ、義姉さんのことなら安心だ。あの人のおかげで村も一族も安定してるからな、お前もしっかり手伝いしてこい」
「うん」
 言い合いながらコートを脱ぎ、マフラーを外して邪魔にならないところに置いておく。その間に鉄鋼が入った木箱を持ち上げた叔父が奥の部屋を示して、それには先に扉を開いて手の空かない叔父が扉を潜り抜けるのを見て扉を閉める。鍵をかけて、そうしてからすぐに木箱を置いた叔父が分厚い外套を差し出してくれた。体全体を覆い隠しながらも袖のあるもの。受け取って手早く羽織る。上着の中に隠しておいた手袋を両手に嵌めて、外套のフードを被った。留め金をかければコウハ独特の衣装も目には見えなくなる。テーブルを動かしてその下の絨毯を捲った叔父が床の木戸を持ち上げてくれていたのには短く礼を言って、急勾配の階段を降りる寸前に叔父に目を向けた。
「もし父さんか団長が来たら教えて。中断の合図だから」
「わかった。腕輪忘れんなよ」
 それには頷いて、暗闇の中の段に足を掛ける。湿気った空気に深呼吸して目を閉じた。五段目まで降りたところで上の木戸が閉まる音、鍵のかかる音がして、右手を壁に突く。土の感触によしと内心頷いて、左腕に嵌めていた腕輪を慎重に外す。左手の中で慎重に持ち替えて、裏面に彫り込まれた図形を親指でなぞった。
 ――五段で右へ。十歩で一度立ち止まり、左に仕掛けられた罠の解除。そのあとは突き当たりまで進んで右へ。この道を進むのも久々だと思いながら図形を読み、その指示通りに進む。目を閉じたままなのは、目を開けば真っ暗な視界に頼ってしまうとわかっているからだ。最後下へと続く坂道を三十二歩進んで、それでようやく息をつく。ゆっくりと目を開けば、下からぼんやりと照らされた木の階段が目の前に伸びていた。
 音を立てないようにゆっくりと一番下まで進んで、左の壁を手で探る。硬い感触の中に窪みを見つけて、腕輪を戻しながら息をついた。両手をそこにかけて、思いっきり横へとずらせば、重さに反して何の音も立たないまま岩の扉が開いた。隙間をすり抜ければ岩戸はすぐに元通りに閉じる。越えた先には木の壁があって、隙間だらけのそこから覗けるのは人の立てる雑音と騒音の入り混じった酒場の様子だった。それでも朝の早い時間、今グラスを煽っているのは夜通しの客だろう。
 三度、軽くその木の壁を叩く。カウンターにいる三人のうち一人が、グラスを棚に戻しに近づいてくる。その作業の合間に声。
「仕事か」
「『グランツァ・フィメル』の仕事、通路の件だけど」
「代金はもらってる。通れ」
 木の壁、その下部の一部が軽く開かれる。潜り抜ければカウンターの内側、棚の扉に見せかけたそれを音が鳴らないように閉じてから見上げれば後ろ手に皮袋が差し出される。余剰分の前金、信用料にもなる。受け取って外套の中に押し込んで、そのまま右側の壁下を押せば軽い音を立ててその奥へと繋がる空間が見えた。滑り込んで戸を閉め、それからやっと息をついて立ち上がった。路地の奥の奥、地下街の入り組んだ道の一つ。
 毎回この道通るの緊張するんだよな、と、外套のフードを被りながら思う。地下街の空は未だに朝焼けのままで、灯樹の光もある。その様子を見て、人の流れがある程度あることを確認して、それからその中に紛れ込んだ。東へと向かって、今度は大通りを進んで行く。朝はやはり女性が多い、これから朝食を作るなり、男は仕事準備があり、市場はもう開いている時間だ。足早にその市場を抜けて行く間に鐘の音。時間かと思いながら足を早めて、鳳の看板を提げた一軒を見つけてその扉を押し開いた。同時にフードを背中に落とす。見えたのは、受付に一人の男性。
「おや、こんな時間に子供がどうかしたかね。待ち合わせかい?」
「いや、知り合いがここに泊まってるって聞いたから。渡り鳥の部屋って聞いたけど」
「……そうか、確かに一人、……いや、四人分か。予約が入ってるな。そこの階段を上がって、突き当たりを右に曲がって正面の部屋だ、鍵は空いてる」
「ありがと」
 言って、示された階段を上がる。まっすぐに伸びる廊下を抜けて言われた通りに右の正面の扉の前に進んで、取手に手をかける前に小さくノックを四回。ややあってくぐもった声。
「探し物は?」
「水飲み場」
 すぐに扉が開く。開けたのは巨漢の大男で、一度声の主を探し損ねたのか目が泳いで、そして下を向いて視線が合うまでに数瞬。それから、へえ、と面白がるような声を漏らした。
「『グランツァ・フィメル』が妙なの連れてるとは聞いてたが、子供か」
「その方が扱いに困らなくていいと思って」
「確かにな。入れ、茶ぐらい出してやる」
 武器を持っていないのかの確認もしないのか、とは、逆にこちらが意外に思う。招き入れられた部屋は整然としていて、五人ほどが剣を腰に吊って壁際に立っている。確認の意味もないのか、とは認識を改めて、男が示した椅子に素直に座った。別のテーブルに置いてあったポットからカップに注いだ紅茶をほら、と差し出されるのは素直に受け取る。そのまま一口飲んでから息をつけば、対面に腰を下ろした男は面白そうに笑った。
「緊張も警戒も何一つしねえとは、肝が据わっていやがる」
「俺毒殺したって意味ないし、『グランツァ・フィメル』の持ちかけた交渉を破綻させたいほどじゃないと思ってるから。あと二人が全員無事に来れたら本人が来る。子供は俺だけだけど、あとの二人は軍人だから、変に警戒して通さないとかになったら破綻するから、伝えておいた方がいいと思うけど」
「そういうお前はどっから来た? 色々罠張ってんだがな、こっちも」
「裏道。あとは人脈かな」
「……商人だな、小僧」
 にや、と笑った男が一人に向かって乱雑に手で示す。それで目配せがなされて一人が出て行くのには、思ったよりも話の通じる相手だと思う。思いながら紅茶を更に口に運んだ。流石に美味しい、良い茶葉を使っているのだろう。歓待の姿勢は崩していないと見て、それにはよし、と内心頷く。左腕の腕輪も反応はない。なら順調なのだろう、今の所。だから笑みも何も浮かべないまま言い返した。
「こっちで一番の商品が『グランツァ・フィメル』だから。守るためにこっちも罠くらい張るよ」
「で、単身突っ込んで来るのが小僧ってか」
「一番情報を持っていない、一番『そういう職業』だとは思われない、拷問しても情報も何も落ちはしない。俺を殺したら商売相手の手札に手を掛けて敵視されるだけ。適役でしょ?」
「殺そうとは思ってねえよ、そっちがその気じゃないんならな」
「俺に何できると思う?」
「少なくともグラヴィエントの支配下にぬるっと入ってこれる小僧が言うか」
「……ぬるっとっていうのはなんか嫌だからやめてほしいなぁ……」
「こっちは王都のあちこち監視させてんだ。そんなかで急に消えて急に現れるなんて芸当できんのは紫旗師団だけだしな、同じことができる小僧ってのはこっちも警戒くらいはする。しかも紫旗の本部から出て来たってのも不穏だな」
「ああ、見てたんだ?」
「見られてること前提に動いてんだろ、今知ったみたいな口きくなよ」
「見られてるとは思ってたけど、本当に見てたんだっていうのは驚いた。子供一人が出かけたくらいなのに」
「そのあとに団長殿と副長殿が別行動して同じように行方不明だ。勘ぐるだろ、隠形使ってまで何してんのか。調べる手立て無えんだけどなこっちには」
《まあ隠形は専売特許だしな、紫旗の》
 周囲で刃の鳴る音。紅茶が美味しいと思いながら三口目を楽しんでいる間に後ろに一つ気配が降り立って、覗き込まれるのがわかって振り返れば団長だった。
「あれ、クォルク団長のが早い」
「俺は隠形でだから楽な方だしな。お前ほんと一人でここまで来たのかよ。マジか。すげえな」
「さっきも言われた。この紅茶美味しい」
「へえ」
 何の気構えもなく空いていた椅子の一つに腰掛けて、後ろから向けられている剣には気にも留めていないらしい。足を組んで、さて、とその紫が男に向かった。
「あと一人が『グランツァ・フィメル』を連れて来る。それまでの間に流血があれば会談は破棄、『グランツァ・フィメル』は以後グラヴィエントの密輸やら人身売買やらを見つけるたびに告発する立場に立つ、が俺が伝える内容だ。部下抑えるかどうかはその条件考えてから決めろ」
「……極端だな。今までは俺らの失敗した奴らだけを、俺らのだって証拠を消した上で告発してたのが、どうして敵対を選ぶのやら」
「本題は本人が持って来る。流血さえなければな」
「秘密裏に消す、って手もあるが?」
「そりゃ無理だ。お前らに俺は殺せない。こいつを消せたとして、流血が知れて、その上塗りに怒りを買うだけだ。流血だけなら完全に手を切る、ってだけだがな」
 男の視線がこちらを向く。わずかな沈黙、そうか、と男がつぶやくまでに数秒の間があった。
「そうか、そっちも身ィ切ってんのはわかった」
 そうだろ、と言わんばかりの眼には肩をすくめてみせる。更に楽しげな表情がゆっくりと浮かんで、そうしてもう一度男の手が動いた。
「お前ら、下がれ。外のやつらも全員退かせろ」
「総長、」
「退かせろ。あとスフェ連れてこい。会わせてやるよ」
「そりゃ有難い」
 団長の明るい声、作ったようなこれは楽しんでいる時の声だ。じゃあ、とクォルクが続ける。
「全員揃ったら始めようぜ。『そっちの倅』も含めてな」
「隠さねえか。『グランツァ・フィメル』も怖ェ事しやがる、自分の倅人質に取らせて商談か」
「強かな人ではあるな、確かに」
「グラヴィエントでもンな事しねェよ。むしろ逆だ、身内は守る。何があっても絶対に。手札にするなんて怖ェ奴だよ」
「商機と正気を天秤に掛けて尚両方勝ち取る人種が商人です」
 声がして目を見開いた。いつのまにか開いていた扉を潜って、扇を掌でぱちんと閉じた女性が、まっすぐに紅を男へと向けていた。纏う衣装はコウハの女性に独特のもの、長布を腕と腰とに絡げて飾り、家を表す銀細工の首飾りは襟を大きく囲うように飾り立てられていて。
「見くびる言葉であれば心外ですね、『グラヴィエント』」
「……へぇ」
 女性の微笑みすら見せない表情は、だからと言って嫌悪を浮かべているわけでもない。放つ言葉にも左右されない無表情。銀に編み込まれた髪紐の色は青、同じ色を持つもう一人が背後で扉を閉めてそこに背を預けていた。テーブルに頬杖をついた男の表情には面白がる色。
「魔導統国において最も勢力を持つディアネル商会の惣領、ついでその船舶を使った海賊狩り、裏社会では密輸告発と目的不明の違法行為幇助で恐れられる御高名な『グランツァ・フィメル』が女とは」
 冷徹な印象すら与える紅銀――己の母は、その言葉に対して、僅かに笑みを浮かべて見せた。




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