「……ってことがあったりした」
「……何してんのクロ」
「いやなんかもう条件反射で」
 結局あの時椅子を投げつけた相手は紫旗に所属する従騎士たちが紅軍の馬鹿共に一方的に絡まれて一悶着起こりかねない、という、団として問題になりかねない事態を団長へ報告する為にと走ってきた善良ないち所属者であって、椅子の足が刺さった廊下の壁は既に何事もなかったかのように修復されていた。
 咎めはなかった、というより、コウハの気の長さを極限まで短くしたいい大人達がいて起こったことだから気にする必要などない、とカルドが冷たく言い放ってくれたのでそれに甘えることにした。そのあとイースと団長が彼に連れられてどこかへかと消えたが、翌日までの間に何が起こったのかは不明のままだ。
「……で、ああなってるの?」
「そう。ああなってる」
 帰省から帰ってきたラシエナとともにマグカップを手にしながら、暖炉の前に敷かれた絨毯の方を見やる。藍色の制服を崩して身に付けた男性騎士が、膝に『小さいの』を抱えて幸せそうな顔をしているところだった。
 エディルド・フィグ=ラヴィアール。第一部隊の第五分隊で主に活動している騎士であって、第三部隊の部隊長であるイースの夫である。あの人も子供には弱い人なのか。自分の訓練教官を引き受けてくれるあたり、育て好きではありそうなのだが。
「……大丈夫なのかな、なんか、あのまま家に持って帰りそうな気がする」
「うん、未遂してカルドが怒ってた」
「……紫旗の人たちって変わってるよね」
「うん、正直ここ数日カルドの胃が心配だった」
 反して、子供の方は奔放さが見えてきた。カルドはもとより、エディルドにもすぐに懐いて、何日か前には陽のあるうちに外に出て雪遊びまでしていたらしい。妙に手の込んだかまくらが中庭に出来上がっていた。昼の間は自分は座学だったから、その間のことは伝聞でしかないが、今も見る限りひと所にじっとしているかと思えば、時折立ち上がっては何かを編んでいるらしいレティシャの膝に移動したり、少しの位置に座っているラシエナと自分のところに来てホットミルクをせがんだりもする。
 『扉をくぐる時は藍色を身に付けた誰かと一緒に』を約束にして、紫銀はここまでのところ順調に紫旗に匿われている、らしい。ラシエナが紫旗の外に出て帰省する道がてらに王都や街の噂を集めたそうだが、それらしいものはなかった、と、きっちりと団長に報告していた場面に出くわしている。勿論団長もそんなことは分かっているだろうが、念のため、とこの幼馴染は律儀に思っていたらしい。
 紫銀の存在を知るのは王族、そして紫旗の中でも本部に出入りできるだけの役職か階級にある者のみ。ついでに子供が二人、という、その範囲は変わらない。紫旗の本部は中に入ってしまえば完璧な閉鎖空間だ、それもあって王宮ではなくここで、という事になっているのだろう。
 ホットミルクを一口嚥下したラシエナが、はあ、と大きく溜息をつくのには目を向ける。そういえばと首を傾げた。
「なんで急に帰省なんて?」
「んー……母さまがね、一回ここに来るから、その前に一度いい加減帰って来なさいって……それで。なんとか訓練だけはってお許しをもらって来たんだけど、それよりも……」
「……?」
「……父さまにも母さまにも秘密にしてるのが、大変だった……」
 ああ、と、つぶやく。自分は父が副長だからいいが、紫銀の存在は貴族たちにも知らされてはいない。当然公爵家だからと言って例外なわけもないだろう、だとすれば噂の一つも立つはずだ。だから、噂が立つ可能性として目下の問題は。
「……こっちはこっちで、第一王子はともかく、第二王子がなあ……」
「ん? 殿下たち? そういえば『小さいの』来たすぐ後に何かあったって聞いたけど」
「あのあとも色々あって。エナがいない間に、三回くらいかな、急に本部に来たりして大変だったみたい」
 勢い良く入り込んで来たと思えば『小さいの』が逃げようとするのもかまわず抱き上げようとしたり、騒動の収束後に抱えている間『小さいの』が王子たちに対する拒否の言葉を口にした瞬間にそれが流れ込んで来た時の第一王子に対する嫌悪感たるや。この一週間で二、三年分の歳を取った気がする。その度に一騒ぎ起こる上、どんどん団長の機嫌が急落していくのだからどうしようもない。救いようがないのは王子の方だが、紫旗の大人たちももう少し辛抱強くできないものか。
 はあ、と溜息をつく。目を伏せてそうしたところで軽い足音が近づいてくるのが聞こえて、目を向ければ空になったマグカップを手に『小さいの』が駆け寄ってくるところだった。
「くろうぃう、らしぇん」
 惜しい。二人揃ってそう思っているだろうという予想はそう間違ったものでもないだろう。特にラシエナはこの訛りすら可愛らしく見えるようで銀の頭をかいぐって体を屈めて額をこつんと突き合わせている。僅かに和らいだ『小さいの』の表情の中でいちど目が伏せられて、離れると同時に開く。それからマグカップはテーブルの上に押し上げて、ラシエナに向かって両手を向ける。すぐに抱き上げたラシエナは、その頬をつつきながらにこにこと笑っている。
「飲むのゆっくりだったかな、まだ少し飲む?」
 言いながら、中身が冷めてしまわないようにとちょっとした魔法で細工のされた陶器のポットを指し示すのには、子供は首を振る。
 ――もうだいじょうぶ。
「……大丈夫だって。ホットミルク好きなんだな、たくさん飲んでたし」
「そう? いいなークロは。『小さいの』が何言ってるのかわかるの、なんかずるいもん」
「なんでわかるのかも判らないからなあ……」
 気持ちはわかるが、こればっかりはどうしようもない。仕方ないとはラシエナも承知しているようだったから、これも冗談の一種だ。今日は任されていた仕事も午前中に全て終えてしまったから、あとはこの『小さいの』と一緒に居ればいい、とはエディルドが言ってくれた。ついでにいつのまにか崩れていた剣帯も直してくれたのだが、少しの歪みも感じなかった、見て取れなかったのにと、これから先慣れていかなければと嘆息する。
「……ん、あれ、じゃあ、エナも訓練開始?」
「団長が許してくれたらね。相談はしたんだけど、やっぱり時期的に一人で精一杯みたい、ちょっと待ってくれ、だって」
「ご、ごめん」
「いいよ、クロのが先だと、私も楽だもん。相談できるし」
「じゃあそれまでに慣れないとだなあ、そうなると」
 所作や儀礼に関しては、ラシエナは既に一通り家での習いがあるから、実際は時期に差があって困ることはないだろう。自分が今学んでいることは彼女は既に学び終えているのだろうから。
 『小さいの』は聞き取れない会話だろうに、おとなしくラシエナの腕の中に収まっている。今日も朝食の後には本部の中をあちこち自由に歩き回っていたようだから、通訳のカルドと勝手に世話役を自称し始めたディエルドはあちこちを連れまわされたのだろう。
「クロウィル」
 『小さいの』の様子を眺めて、眠そうだなあ、とぼんやり思っているところに声をかけられて顔を上げる。暖炉の方から近付いてくるのはエディルドで、手には一通の封書。
「俺宛に届いたんだがな、内容はお前向けだ」
「……なんでエディルド宛に?」
「人脈的に一番短縮できるからだな。人伝いにしかなんねえからな、紫旗宛の云々は。ラシエナ、『小さいの』どうだ?」
「すっごいかわいい」
「わかる。わかるけどそういうんじゃなくてだな」
 今のところ不安とかはないみたい、と応える幼馴染の声を聞きつつ、渡された封書を開く。糊付けされた頭の方を破って便箋を取り出して見てみれば、書かれていたのは見慣れた文字だった。
『この手紙に一日遅れて到着します。エディルドから兄弟種の紹介をという話は聞きました。後日改めてご挨拶に伺う旨、心得ておきなさい。
 アイラーン夫人との件を伝える手紙は確かに受け取りました。既に予定を立て動いていますから、お前は懸念なくラシエナ嬢と接しなさい。子同士の関係を持ち込むような程度と、あの御方と母とをそのようには思わないことです。
 父様にはあなたの話も聞いています。腕輪は必ず身につけて離さぬように。父様の居ない間に何かがあれば話す時間を設けましょう。
 王都の宿はいつも通りの『陽陰の鴻亭』にします。到着の日、朝の鐘の後に。合言葉は『渡り鳥』と『水飲み場』です。グラヴィエントと縁を繋ぎます、お前も来なさい。』
 やっぱりただ帰ってくるだけじゃなくて商売しに帰ってくるんだなこの人。一番に思ったのはそれだった。宛名書きはあるが署名もない、いつも通りの母からの手紙だ。たまに、思い出した頃合いに来る程度だが、今回は父が探しに行ってのことだからそろそろ来るかとは思っていた。それにしてもグラヴィエントか、とは溜息をつく。あの人の恐れ知らずはたまに怖くなる。自分も行くということはおそらく当代の子世代との関係をということだろう、あるいは完全に当代同士の関係のみとするためか。
「……クロ、どうした? 難しい顔してるけど」
「え、ああ、いや。母さんが珍しく手紙くれたから。手紙っていうか事務連絡っていうか、そんなだけど」
「……事務連絡?」
「うん。久々に商人の助手して来る、かも」
「今日?」
「明日来るって。もしかしたらエナも会えるかも」
「ほんと!? クロのお母様ってすごい人だって聞いてるからすごい楽しみ、エディルドは会ったことある?」
「え、お、おう……一応……御目通りいただいたことはある、な……」
 騎士の声がしぼんでいくのを聞きながらそっと便箋を封筒の中に戻した。何があったのか気にならないわけではないが、聞いて更に恐ろしい思いをするのも避けたい。ラシエナが不思議そうな表情でいるのには、こいつとあの人が会うのは数年後でいいかな、などと脳裏によぎる。なんせ実の息子の自分ですら『渡り合わねばならない』という意識が抜けない、骨の髄からの商人だ。血の情が無いわけではないがそれを表出させるかと問われれば途端に答えに窮する程度には。 
「……なんか、反応おかしくない?」
「いや、これで正解……怖い人じゃないんだけど、なんていうか……」
「……商人だよな、あの人」
「うん……ごめん……」
 なんとなく謝ってしまう。もう一度封筒を見下ろした。明日か、妙に気を張るよりもいつも通りの方が警戒を招かなくていい。特に合言葉まで決められてしまえば、緊張を表に出すことも憚るのだろう。一応命色を隠しておく程度にはしておくか、と封筒を眺めながら悶々と考え込んでいるうちに、脚に軽い感触が触れた。何かと思って見てみれば、長衣の端を軽く掴んだ小さい手だった。紫がこちらを見上げている。
 ――どうしたの?
「ちょっとした考え事。あと、明日と明後日くらいまで俺いないから、ラシエナとか、レティシャとかと一緒にな」
 子供の声がしたと聞いてか、距離を詰めていたカルドが訳して伝えてくれる。それに対して紫が緑紅を見上げ、振り向いて暖炉の前で手仕事に勤しむレティシャを見て、そしてすぐ脇に立つエディルドを見上げてから視線が戻って来る。
 ――エディードは?
 ――無視していいぞ。むしろ無視してくれ。
 応える前にカルドが割って入って、それで笑ってしまった。なんだとエディルドがこちらとカルドとを交互に見やるのには、口元を押さえながら言う。
「エディルド、勝手に外に連れ出したりするから」
「外っつっても本部の敷地内だろ!? しかも視界遮られた中庭じゃんか! この寒い国で雪に慣れないでどうしろって」
「それで風邪をひかせなければ何も言わなかったんだがな」
 魔導師の声が低く冷たくなっていく。確かに一昨日辺りまでは妙に目が潤んでいたりくしゃみが多かったりしていたが、雪遊びが原因だったのか。カルドの手がエディルドの肩に乗る。ぽん、と乗って、そしてぎちぎちと音を立てながら握るような、そんな風景に見えたのからはそっと目を外した。大人が何かを小声で、しかも一方が一方に向かって淡々と一方的に言葉を重ねていくのを聞かないように注意しながら『小さいの』を膝に抱えた。
「これからお昼の手伝い行くけど、どうしようか。レティシャに預けるのが一番なんだけど」
「レティシャが作ってるの……マフラー? 肩掛けかな。レティシャが作るのって、いろんな人が欲しがるんだーって団長が前に言ってたけど」
「魔法工学師……だった、っけ? なんか特殊っていうのは、聞いた覚えあるけど」
「宝珠作ったり、団の隠形用の魔法具作ってんのも魔法工学師だな」
「うおっ」
 急に背後から声が聞こえて思わず声とともに肩が跳ねた。振り返れば紫藍、それでほっと息をつく。
「団長……驚かせないでよ……」
「悪い悪い、習い性なんだよ。本部の中でも隠形しての移動のが多くてな。ラシエナ、伝言がある」
「? 誰からだろ。なに?」
「陛下からだ、『良い友であるように』とのことだ。光栄に思えよ?」
 目を瞬いたのは言われた本人だけではなく、こちらもだった。ラシエナは貴族家の、しかも公爵家の令嬢だ。伝言などしなくとも謁見に支障などないはずなのにと思っているうちに、当の本人の表情は見る間に明るくなっていった。
「……ってことは、ここにいてもいいの? 父様も母様も納得してくれた?」
「陛下直々に説得なさってな。だからちゃんと恩返ししろよ」
「うん、もちろん! ……って思ったけど恩返しって、具体的には……なにすればいいんだろう……?」
「陛下だけじゃないぞ、公爵と夫人にもだ。だからまずは親孝行、そんで国孝行だな。やり方は色々ある、『小さいの』と仲良くなるのも最終的には国孝行になるかもしれんしな」
「そっちは任せといて。大好きだもん『小さいの』のこと」
「そりゃ良かった」
 言う団長は苦笑、そして椅子を引いて腰掛けた団長を見て『小さいの』はそちらに駆け寄って行く。すぐ近くに来て両手を伸ばして催促するのを片腕で膝の上に抱え上げて、それから彼は一息ついた。
「ユゼ帰って来るって?」
「うん、明日くらいには。それで、俺は二日くらい休みたいんだけど……」
「夫人の案件だな、いいぞ。方々には伝えておく、俺も気をつけねえとだな」
「わかった、……って、え?」
「まだお前には言えない色々があるんだよ。夫人は俺が呼んだんだ」
「……は、え!?」
「お前、前に失敗したの気付いてないだろ。ユゼに言ったらあいつ顔覆ってたぞ? お前の失言」
 失敗、失言と言われて記憶を辿る。この人に向かって言った何事か、あるいはこの本部の中で口にした言葉の中にあるはずと順を辿って振り返る。ここ数日はあまり話もなかった、『小さいの』と少し遊ぶ程度。その前、古代語の認識についての齟齬がみつかって、研究所が開けらないのやらがあって、その前には。
「……あ、」
「な?」
「…………――――ッ!!」
 頭を抱えた。確かにそうだ、あれは失言だ。口を滑らせた。団長に渡った情報が多すぎた。秘匿の方法なんて母に一番に教え込まれたことなのに、こんな単純なところで漏れるなんて考えもしなかった。団長の、とても、すごく、至極楽しそうな笑い声。
「だから総当りするっつったろ。総当りするんだよ、古代語だってわかった上でな」
「俺今すぐ逃げていい……?」
「夫人から逃げきれんのか?」
「無理、絶対無理、っていうか母さんに逆らえない父さんが捕まえに来るからどっちにしろ無理」
「だろ、諦めろ」
「うあああああ……」
 悪夢にうなされる夜が来る、それが明確な未来として思い描けてしまうのが怖い。父はまだいい、だがこの手落ちを母に知られたら。というか団長が招いたなら母は既に自分が手落ちしたことを知ってるんじゃなかろうか。父がまさかあの母に嘘を突き通せるわけでもないしこれはもう詰んだ。
「……ど、どしたの……? なんの話?」
「クロウィルが珍しく大失敗した話」
「……めずらしい、クロそういうの全然しないのに」
「非日常が起こると弱いんだよなこういう人種は。まああれだ、諦めろ。明日の席には俺も同席すっかんな」
「一生来ないでほしい明日」
「一生明日に怯える毎日送るよか良いだろ」
 ばし、と音を立てて丸めた背中を叩かれる。励ましのつもりなのか、肩にも別人の手が乗った。エディルドの手だった。
「まあ、あれだ。人生色々あるし、な?」
「俺この歳で人生悟りたくない……なんかこのままいくと十六くらいで人生最大の選択肢迫られる気がする……」
「……クロ同い年に見えないけどなあ」
「だよな」
「……団長に言われるとなんかすっごい嫌」
「なんで!?」
 そりゃこの大人が時々子供よりも子供っぽいからだろうなあ、とは脳裏に浮かぶ。浮かんでも言葉にする気力が湧いて来なかった。
 諦めるしかないのだろうか。実の母との穏便な再会、という、普通であれば当然の出来事を。




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