支部への巡回と指示とで夜まで戻ってこなかった父は、事のあらましを聞いて、ああ、と至極当然のように言った。
「そういう時の言葉遣いってか、礼儀作法なんかはもう、それこそお手本見て育ってっからこいつ。普通普通」
「お手本?」
「母親だよ」
「……母さん、商人が本業なのに密猟者とか密輸とかガンガン告発してっからいろんな国で功績上げてて、なんてーの、高官? とかに謁見してたりしててさ、俺もそれに付き合わされて、そん時叩き込まれた……あーそういやエルドグランドの国王すごかったな、なんか、一騎当千ってこういうのなんだろうなって感じだった……」
「……エルドグランドの国王に謁見してるの!?」
「去年に……あー頭痛い……謁見とかは色々してっけど喧嘩売ったの初めてだ俺……相当消耗する……」
 テーブルにべったりと体を預けたままの姿勢で、会話にはなんとか参加する。それぐらいが限界で、頭の上に乗せられた濡れた手拭いが冷たくて心地よい。
 結局あのあと自分は気を失ったらしい。少しして目覚めれば絨毯の上に毛布を重ねてその上に横になっていて、その上何故か『小さいの』が同じ毛布にくるまって寝ていた。謎い。このテーブルも急遽ソファを除けて設置された高さの低いもので、絨毯に座って丁度の具合だ。
「……ってか、そう、言い忘れてたけど、エナありがとな……陛下来てなかったらたぶん俺大変な事になってたと思う……」
「大変な事になる前にレティシャなりが動いたはずだけどな。王命拝領した人間は準護衛対象だ、目の前でなんかありそうだったら紫旗が守る。義務だ」
「そう、なんだ? じゃあ私逆に邪魔しちゃったかな……」
「いいえ、有り難かったわ、紫旗にとっても。陛下が来て下さらなかったらきっとあの二人何があっても居座っていただろうから」
 はい、と声とともにすぐ近くに何かが置かれる音。小さなグラスに緑の液体。煎じ薬かとそれで察して、のそりと身体を持ち上げた。
 緊張故の貧血と、同時に過呼吸も起こしていたらしい。もう落ち着いているのだからあとは時間経過でこの倦怠感も抜けるはずだが、魔導師たちはどうやら思っていた以上に過保護らしい。
「紫旗は原則として陛下、国王陛下にしか従わない。でも、だからって他の王族や貴族たちに無礼で良いわけでもないの、礼は取らなきゃいけないのよ、身分が準貴族だから、って」
「……だから、迷惑だから帰れーって言えない?」
「そうなのよ。ラシエナでも難しかったかもしれないわ、相手が王族だもの。公爵家の、それも当主であれば、王家に意見も言えるのだけれど、基本的に王家に意見してそれを糾すのは男爵家の役割だから」
 聞きながら、置かれたグラスを持ち上げた。たぶん苦いんだろうな、と思って一気に煽る。が、予想していた味とは真逆で、飲み下したあとに思わず声を漏らした。
「……なんか甘い……」
「気と氣の回復を助ける飲み物よ、薬じゃないわ。薬草が主ではあるけれど、林檎なんかも入れて液体状になるまで擂鉢で擂って、それからしぼったもの。苦くない方が楽でしょう?」
「うん、有難う。ごめん、夜のこと手伝えなくて……」
「良いのよ、気にしないで。本当なら貴方が出て来る前になんとかしてなきゃいけなかったのに、私たちが長引かせちゃってただけなのよね」
 後手に回っちゃって、とレティシャが言うのには首を振る。あの二人が粘着質すぎるだけだ。そう思って、ふと疑問が湧いた。
「今までの三回はどうしてたの?」
「一回目は会ってみたら『小さいの』をいきなり持ち上げて振り回したから団長が蹴り出したわ。二回目は一回目があったから門前払い、三回目は不法侵入。今回も不法侵入よ」
「……どうやって不法侵入……って、そうか、ここってどこかで王宮と繋がってるんだっけ?」
 ええ、とは、控えめな肯定がレティシャから。横のユゼが紅茶を煽って息をついた。
「しっかし、なんだ、お前といいあいつといい、肝据わりすぎなところあるな、やっぱり。今後狙われんぞお前、あの両殿下に」
「あー、それ目的だから別に気にしない……紫銀に辿り着く前の段階が、これで紫旗と、俺と、国王の三枚まで増えたから、たぶんそうそう簡単には本部には入ってこないと思うし……」
「……あ、そっか、「お引き取り願う」って「今後絶対来るな」だもんね、こういう時」
「そうそう。だから大丈夫……だと思うんだけど」
 確証はないんだよなぁ、と、膝下で毛布を被って、両腕と顎をこちらの膝に乗せて居座っている『小さいの』を見る。
 懐かないのが腹立たしい、あるいは王族として強引にでも自分の元にという風だったから、あの二人の攻撃の目を『小さいの』や紫旗ではなく自分の方に向けるのが目的なのは違いなかったのだが。さて王族が平民にする事といえば筆頭は失脚なのだが、失脚できるほどの地位を持たない子供相手となればあの二人が考えそうなことは予想できる。
「父さんはちょっと気をつけてもらいたいかも、なんかあると思う」
「おう、わーってるよ。もともと貴族出じゃないで団長張ってたんだ、舐めんな?」
「……それもそっか。じゃあ次危ないのはエナ……だけど」
 え、とホットミルクを美味しそうに口にしていた幼馴染が固まる。その横のレティシャが空になった小さなグラスを回収しながら苦笑する。
「ラシエナは大丈夫よ」
「……エナ、もしかして陛下に何か言われた?」
「え、えっと、呼びに行った時、戻ってくるまでの間に「今後こういう事があったらなんでも言いなさい」、ってだけ……」
「陛下も子供使うの上手いからなあ……」
「え、なっ、なに!?」
「なんでも言いなさい、ってことは、あなたの言うことを王として受け止める、ってこと。つまりラシエナの意見が許されたの。今後撤回されるまでずっとね。王が言ったからには王族もラシエナの意見は無視できないわ、正確にはラシエナは未成年だから、公爵を通してって形にはなるけれど」
「王命、玉命じゃないからそこまで効力は強くない、政敵に狙われる可能性はある位置だな。ただまあアイラーンだからなあお前も」
「あそこ怒らせたら生きてキレナシシャスから出て行くことすらできませんからね」
 声が割って入って、全員でそちらを見上げる。書類を抱えたディストがそれに対して疑念を返した。
「どうしたんです、卓袱台なんか出して」
「軽傷一名、にくっついて離れないのが一人」
 先に指が向けられ、そのまま下を向いた指の先を追いかけて毛布の塊を見て、彼は空いていたところに足を折って腰を下ろし加わりながら、手にしていた書類をテーブルの上に置く。
「なんだか子供が王子に喧嘩を売ったまま追い返したって話は聞きましたけれどね」
「俺です」
「知ってます。ラシエナにはできないでしょうから」
 手が伸びてきて、頭の上でずれていた手ぬぐいを直してくれる。それから書類の数枚を目の前に差し出されて、何かと思って見上げればディストが深く溜め息を吐き出した。
「王宮宛てに届けられた、『グランツァ・フィメル』からの書状の写しです」
「……はあ!?」
 父と声が被さった。慌てて二人で書面に目を向ける。書き出しに一文、それだけで全文の眼を通して、流石に、青褪めた。
『ディアネル商会の惣領として、『たかが平民風情』がこの国の王族たる王子両殿下に対し品を収めることの不敬を鑑み、以後この国で行われる一切の取引から手を引くことを宣言し申し上げる。』
「……怒ってんなあいつ完全に……」
「……なんで会話内容知ってんの母さん……」
「……なんで『グランツァ・フィメル』が親類なんですかあんたら……」
「俺が口説いた相手が『グランツァ・フィメル』だったんだよ」
 疑問符を浮かべているのはラシエナだけだった。ディストは読み終えたそれを攫っていく。
「大臣方が大騒ぎです。ディアネル商会の次期惣領候補が既に国王陛下に拝謁叶い玉命を賜っていること、王太子殿下と第二王子殿下がその次期惣領候補に対し言を荒げ手を上げたことで現『グランツァ・フィメル』の怒りを買ったこと。キレナシシャスからディアネル商会が手を引くだけで国庫破綻まで見えます、犯罪組織の告発すら消え失せるって事ですから。急ぎ『グランツァ・フィメル』の登城を願っているところですが、まずは大臣たちが頭を下げに行くでしょうね」
「……俺って結構良い手札?」
「お母上が強すぎるんです君は。君自身もね。父親も紫旗の副長ですし、それもあってなんですよ玉命は。君が玉命に背けば君自身が即処罰、次期惣領候補が罰されればディアネル商会もただでは済まない、副長の座も危うい。……の、逆が起こってるんです、今まさに」
「ディアネル商会も『グランツァ・フィメル』も完全に囲い込みしようとしてたのにバカ息子が全部チャラにしやがった、って愚痴ってたぜ陛下」
 再び新しい声が聞こえて全員で見上げれば今度は団長だった。毛布の塊を持ち上げ、膝に抱えてそこに腰を下ろす。『小さいの』はそれに嫌がるような仕草を見せて、団長の膝から降りてまた元のようにこちらの胡座の片足に手を置いて、そこに顎を乗せるような姿勢で動かなくなってしまう。半端にその背中までを覆う形になった毛布を肩まで引き上げてやって、銀の頭を撫でてやる。その間に団長の声。
「ディアネル商会は『グランツァ・フィメル』が名うての商人誘いかけて作った組織だ、色んな国相手に商売してる。その分危険も多いからって身内意識も相当強い。既に国内に残ってた商人たちは出国準備を進めているか、もう出ているかだ。流通の六割はディアネル商会に依存してる、残り四割ではこの国は支えられません、って宰相が嘆いてたぜ」
「……俺なんかしらした方がいい?」
 ディストを見やる。こういうのに強いのは彼だ、そう思ってそうすれば、嘆息が返って来た。
「君が出る前にまず国が動かなければなりません。王弟殿下は既に出立されています。君はお母上から声がかかるまで何もしなくてよろしい、……と、紫旗宛に念押しの書状が来ていましたよ。ほんとどういう人脈してんですか、なんで部屋入って机の上見てみたら見知らぬ封書が置いてあるんですか」
「お前宛てに来たのかそれ」
「ええ。恐ろしい方が伴侶のようで」
「……面目ない」
 睨まれた父が素直に言う。少し考えて、なら、と全員に向かって声を上げた。
「ちょっと、明日の昼くらいまで時間貰っていい?」
「んあ?」
「さすがに私服だとちょっと。準備しとかないと」
「……特別、することはないとは書いてありましたが……?」
「今のうちに準備しておけ、って意味だと思う。だよね?」
 父を向いて言えば頷いての肯定。ついで声。
「たぶんな。クォルク、『小さいの』宥めといてくれ」
「……あー。そういう。わかった、ならディアネル商会のことは副長に任せる、レティシャも連れていって良いぞ、一番事情に詳しい」
「助かる。……制服ちゃんと着るのも何年ぶりだか……」
 言いながら立ち上がる父を見やり、それから手を置いた銀色を見下ろす。ずっとこのままで、少しも離れようとしない。少し強引だがと思って手を伸ばして膝の上に抱き上げれば、紫は一度こちらを見上げて、それから無言のままで――どうやらむっつりとした表情を浮かべているようだった。拗ねている、が一番近いだろうか、苦笑する。
「ごめんってば……もう今は大丈夫だろ?」
 団長が訳して伝えてくれたが、様子は変わらない。うーんと唸っているうちにラシエナがすぐ横に回り込んで来て、銀色を撫でながら言う。
「怖かったんだもんね。なのにクロが無茶するから」
「勝算はあったんだけどなあ」
「まあ確かに勝ったっつうか、大物釣ったから勝ってるっつうか……――――――?」
 団長の声の最後は『小さいの』に向けて。『小さいの』の紫がそちらを向いて、そしてこちらを向いて、落ちて行く。
 ――うそついた……。
 ――どっちかっていえば、「お前は大丈夫だから」の方だと思うぞ、それ。クロウィルが、じゃなくて。
 『小さいの』はそれで無言になってしまう。団長がこちらに聞こえるようにも声にしてくれているのはありがたいとは思いつつ、じゃあ、と『小さいの』の頭をもう一度撫でる。
「今度こそ俺も大丈夫だから。団長と一緒に待っててな」
 伝えてくれる団長の方を向いて、しばらくの無言。そうしてからこくんと頷いてくれて、それでも毛布を頭から被り直して団長の方へ寄って行く。それには良しと頷いてから立ち上がった。立ち上がってからそうだと思って、コートから袖を抜く。大人しく団長の膝に抱えられた『小さいの』の背中からそれを被せて、もう一度頭を撫でてから父を見上げた。
「支部の方行って来る、母さんもいるだろうし」
「わかった。遅れて行く、手札揃えておくから母さんにはそう伝えておいてくれ」
「うん」
 言い合って、それから一度部屋に駆ける。机の中に仕舞っていた箱を取り出して、その中からいくつかの品を取り出す。髪飾りは普段よりは上等なものを、特に銀細工の付けられたものを。『グランツァ・フィメル』は元々コウハの上質な銀を初めて交易品として取り入れ、そこから力をつけた商人だ。ディアネル商会の、それも特に重要な役職にあるものは必ずどこかに銀細工を身につける。髪紐や髪飾りに銀を取り入れるのは、特に惣領である『グランツァ・フィメル』の近親者か重役に限られる。
 だからこそ普段は使わないのだが。それを手巾に包んで長衣の中に収めて、もう一つ、木簡を持ち上げた。描かれた彩色が褪せていないことを確認してそれも同じように長衣に入れる。最後の一つ、短剣は、見える形で後ろ帯に差して押さえる。それを終えてから箪笥からもう一つの外套、これも普段よりも上等なものに袖を通して、それから踵を返して表門に向かう。誰とも擦れ違うこともないまま、だがおそらく何人かが付いているのだろう。思いながら門を潜って、東の大通りに向かう。もう陽は落ちている、風もあってか昼の暖かさとは真逆の空気だ。白い息を吐きながら小走りに大通りを駆け下りて、見えた途中の大きな屋敷の前に立つ門衛に声を向けた。
「昨日の晩は?」
「……何事もなく」
 知らない顔だ、怪訝に思われているのは表情でわかる。少し申し訳ないかな、と思いながら次の句を継いだ。
「明日の昼に渡りが来る。『関門全てに伝達を』」
 言えばすぐに伝わったらしい、剣に掛けていた手を外してすぐに扉を開いてくれる。そこに滑り込んで、見えたのはエントランス。両脇から曲線を描く階段を駆け上がって、正面の大きな扉を引き開く。廊下がその先にあって、突き当たりにも扉。その両脇には槍を手にした護衛が二人立っていて、その片方の直立不動が扉の中に足を踏み入れた瞬間に崩れた。
「な、クロウィル様!? 今来ては、」
「大丈夫、状況は把握してる。惣領は?」
「把握しているのなら尚更来てはいけません! すぐにお戻りください!」
「色々事情が厄介だから来たんだよ。惣領に説明しておきたい、いらっしゃる?」
「いらっしゃいますが、お通しするわけには」
「良い、通しなさい」
 扉の向こうから声。それには彼も言葉を呑んで、それから護衛の二人が扉の取っ手に手を掛ける。一気に引き開かれたその奥に、大きな机を前にして椅子に腰掛けた一人。
「夜のご挨拶申し上げます、惣領」
「良い夜とは言い難いですね。……構いません、こちらへ。フィズカ、表の鍵を閉め、誰も入れてはなりません。紫旗が来ようとも門前払いなさい。王族や官位の者は常の通りに」
「畏まりました」
 部屋の中、壁際に控えていた女性が丁寧に頭を下げ、言われた通りに廊下へ消える。それを見送ってから机へと距離を詰めれば、僅かに笑みを浮かべた母の表情とかちあった。
「……満点です。『妹』は如何しましたか」
「なだめて団長に任せました。あと、何があっても大丈夫だと約束してしまったので、何が何でも無事に戻らないといけません」
「兄としては当然の行いですね。……状況を」
「貴族院まで動いています、相当に動揺しているかと。王弟殿下が出立したと向こうで聞きましたけど」
「一応、檻、もとい応接室に閉じ込めてあります」
「どうするんです?」
「紫旗が来ればそのまま追い返します。王族が来れば同じく閉じ込めます。王が来たのなら話しましょう」
「わかりました。……ついでになんですけど、なんで紫旗に紫銀がいるって気付いたんですか?」
「父様が珍しく真面目に仕事していらっしゃいますからね。あの王族だろうがなんだろうが適当にしか扱わない男が真面目に接するのは、魔道師として看過できない事柄が起こったという証左。加えて王族、特に王子が急激にありとあらゆる機嫌取りを始めています、それも子供が好くようなものばかり買い集めて。紫旗が静まり、王族の挙動に変化があった。嫌が応にも紫銀と察されましょう」
 ということは、ディアネル商会には紫銀の存在は既に知られている。噂になっていないのはこの人が抑えたからだろう、そして。
「……だから、グラヴィエントに話しに行ったんですね。母様としても紫銀は保護対象ですか?」
「それだけではありませんが、紫銀をどの国が擁するか、どの国が手中に収めるかは商機にも関わりましょう。そしてわたくし個人として、その役は人脈の通ったキレナシシャスであってほしい。故にこれから王と駆け引きをするのです。王も安易に玉命を下しましたね」
「俺自身いまだにびっくりしてるので、それについては……ただ陛下が父さんを信用してるのは勲章のことを考えれば当然ですし、その流れでしょうから」
「だから安易だと言うのです。この母が強い札を手にすることの意味を知らぬままとは、あの王は所々抜けていますね」
「……たぶん母さんが『グランツァ・フィメル』って知らなかったからだと思う……」
「察しはつく範囲です。父様が役に付いてからディアネル商会はキレナシシャスに優位な、友好な契約ばかり結んでいること、お前は気付きませんでしたか?」
「さすがに全部の取引までは見てませんけど、なんとなくは。商会の外も身内にしてくれるので助かりますけど」
「ふふ、血の繋がりは何よりものこと。ですから今回も王が出るべき案件です」
 ぱちり、と音が鳴る。母の手の中で扇が僅かに開き、そしてまたぱちりと音を立てて閉じられる。
「親が任せたものをその子が破綻させるなど、商人相手にするものではありませんからね。名は商会としても、わたくしたちは一国を潰すことなど容易なほどの力を持つ集団。それを敵に回す方が悪いのです。そして今に至ってキレナシシャスはグラヴィエントも敵に回しました、あとはこれをどう切り抜けるのか、それを以って商いのこととしましょう」
「あっちは政治を持ち出して来ると思いますけど」
「政も商も本質は同じです」
 言い切って、立ち上がる。さてと向けられた紅玉は、既に惣領のそれに変わっていた。
「湯浴みをし、明日の準備を整えなさい。お前は明日『グランツァ・フィメル』の子であり玉命を受けた紫旗の子弟である、ほぼ唯一裁定の役を負うであろう立場です。三年間、その間に母はお前に全てを教えました、不足があったとは思いません。後は任せます」
「はい」
 背筋が伸びる心地、とはこのことだろう。唯一の心配事は紫旗に残して来た『妹』と幼馴染だが、団長がいるのであれば問題は起こらないはずだ。カルドもエディルドも本部に残るだろうから。
 思って、あれ、と首を傾げた。唯一の心配事、が、それでいいのだろうか。
「……どうしました?」
「……案外毒されてるかもって思って」
「余裕のあるのは心強いこと。母も父様と数年ぶりの『本気』になりましょうから、お前はゆったりと構えていなさい」
「わかりました」
 正直ゆったりできる隙なんて全くないんだろうな。思いながら一度失礼します、と頭を下げて、それから惣領の部屋から出る。すぐそばに控えていたフィズカに案内されるまま部屋に向かう。
「明日のご準備はフィズヴァがおつきいたします。『グランツァ・フィーヴァ』のご衣裳は既に整えてございます」
「まだ次期って決まったわけじゃないんだけどなぁ……」
「そうお呼びするようにと仰せつかっております故、お許しを。品はお持ち頂けましたでしょうか」
「髪紐と木簡、短剣は揃ってる。問題ないよ」
「ようございました。では、今夜はゆっくりと休まれませ」
「ありがとう」
 開かれた扉をくぐれば、すぐに後ろで閉じる音。通されたのは簡素だが手の込んだ一室。すぐに机に近付いて、長衣の中から二つを、帯の背から短剣を抜いて並べる。コウハの証、特にディアネル商会の次期惣領候補であることの証が一つ。紫旗の子弟である証が一つ。そして会談を以って負わされたもう一つ。この三つの立場を、明日一気に抱えることになる。さすがに溜息にして吐き出して、不意に見やった窓の外では雪が風に舞っていた。




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