「おはようございます、クロウィル」
「………………」
 いつものように朝起きて、衣服を整えて、朝食の準備の手伝いにと開けた扉から厨房が見えて、そして一番に聞こえた声に、思わず、沈黙した。母は、『グランツァ・フィメル』は、袖をまくった片手に包丁、もう片方の手には馬鈴薯を持ち、器用に皮を剥き芽を除く作業に眼を落としながら口を開く。
「お前も早く手伝いなさい。ファリマ殿、こちらはどのように?」
「煮物に致しますから、一口大に切ってボウルに入れておいてくださいな。ごめんなさいね、お客様なのに、手伝わせてしまって」
「こちらから申し出たこと、お気になさらず。クロウィル、どうしました」
「…………え、いや、なんで居るの母さん」
「団長殿と商談……もとい、協議すべきことがあると昨夜遅くに呼ばれただけのこと。日が昇ってなにやらこちらがおおわらわの様子と見て、手伝っている次第です」
「本当にごめんなさいね。いつもここで作業してくれている団員たちが、急な任務で散ってしまって」
「だ、そうです。お前も早く手伝いなさい」
「…………え、あ、うん。……うん、わかった」
 ――なんの構えもなくこの人と遭遇するなんてことは本部の中に限って絶対にないと無意識に思い込んで居た自分が恨めしい。思いながら薬缶から熱湯を少しもらって冷水でぬるめて、顔を洗い手を洗い、それを綺麗に拭い去りとしている間に扉の開く音がして、上がった驚愕の声は幼馴染のものだった。
「フィメル様!?」
「……効率を考えて以下省略しましょう。ともかく二人とも手伝いの方を。わたくしも決して手の早い方とは自負しきれませんから」
「え、あっ、はい」
 幼馴染の困惑したようでいて、だがそれを問う前に厨房の人の少なさには気づいたのだろう反応を聞きながら思う。間違えてはいけない。今あの人は「手が早いとは言えない」と言ったのではない。「手が早いことは自負しているが職人には及ばない」と言ったのだ。現に調理に取り掛かる前の準備を終えるまでのこの短い間に先ほどの馬鈴薯一個は失せていて、今手にある別の一つは半分ほどすでに皮が剥けている。ファリマが団員たちに指示を飛ばしているのに被さって母の声。
「クロウィルはそちらの鍋の方を。米に合わせる掛け物です、焼き色がついたら片栗粉を溶いて加えなさい。ラシエナ嬢、そちらの葉のものをざく切りにして都度そちらの釜の鍋に」
「ああ、そう、フィメルさん、お米の方は大丈夫かしら、生煮えになんてなったら」
「問題ありません、ですがまだ少し時間がかかりそうですね。こちらの、煮物のものは今終えます、他には?」
「続き間でパンが焼きあがっています、籠に開けてテーブルに置いておいてください」
「わかりました。クロウィル、味を見てちょうどの頃と思ったら米の火加減を。ラシエナ嬢、葉のものを終えたら鍋に出汁を加えて具がこげつかないようにゆっくりと撹拌を。エメス殿、煮物をお願いします。ファリマ殿も急かれずに、時間には間に合いそうですから。パンはそのまま運んでしまいましょう」
「ええ、ありがとう」
 言って戸のつけられていない扉を潜って一度母が姿を消す。言われた通りに五つほど並んだ鍋の中身、肉や野菜の茎やらが入った鍋の中身に焼き色が付くように、焦げてはしまわないように適度に世話を見つつぬるま湯を作って片栗粉を取り出して溶いておく。少なくとも百人分は作らなければならないのだ、いつもの人数であれば問題ないのだが、さすがに今日は人が少なすぎる。
 しばらくあちこちからの指示を聞くまま、順番も入れ替わりにあれやこれやとしている間に出来上がった料理たちは人手不足を聞きつけた団員たちが手伝いにと運んで行ってくれて、食器類も運び出されていく。制服でもない、わかりやすくコウハの衣装のままで勝手知ったる家のように様々を片付けていく一人の姿が確実に多数の目に留まっただろうが、今はそれを気にかけるのはやめにした。説明しようとしても話が長くなりすぎる。
 早朝から、いつもよりずっと巻きで準備をしていたからだろう、いつもの朝食の時間には間に合って、それでも疲弊の度合いは強かった。丸二日も寝台にこもりきりで、その翌日にこれはきつい。波乱が過ぎた後、大きく息をつきながら手を洗っていると、横からふらふらと幼馴染が寄って来た。
「……なんか、すごかったね……」
「な……」
 忙しさもそうだったが、ファリマに加えて『グランツァ・フィメル』が指揮を取り、その二人の指示が被さることなく的確に穴を埋め合いこの難易度の作業を時間内に達せさせるのだから、すごいとしか言いようがない。ずっと鍋の様子を見、火加減を調整し、としていたこっちはさすがに腕が少し痛い。筋肉痛になるかなぁ、と思い、二日も丸々休めばやっぱり後退するよな、とも思う。手を洗って満足したところで、後ろから声がかかった。
「クロウィル、ラシエナ嬢」
 振り返れば母がこちらに足を向けているところだった。捲った袖を直し、腕にからげた紗を解き、すでに煤も全て払って元通りのその人の両手が動いて、それぞれの頭に乗る。驚いている間に、撫でられる感触。
「よく働いてくれました。さあ、あとはあなたたちの分を運んで終わりです。フェルリナードも待っているでしょうから」
 言い終えると同時に手が離れる。まだ驚きが抜けないままそれに頷いて、頷いてから、あれ、と思う。見上げた先、紅の瞳はすぐに見返してくれた。
「……そっちで呼んでる……?」
「ええ。わたくしも『フィメル』ですから、特段不思議でもないでしょう。『フェルリナード=アイクス』であるというのは父様の書斎に押し入って調べた結果それが一番妥当と判断してのこと。間違ってはおりませんでしょう?」
「……すごい、調べて分かるんですね……」
「多少の当て勘もありますけれどね」
 ラシエナの、純粋に驚いたという風な声には紅玉がしんなりと笑みを浮かべて返す。それから促されて、広間の人数分の皿を乗せた大きな盆を持って、ラシエナには小皿の方を頼んで厨房の扉を背で押し開ける。母は水差しや茶器を揃えた盆を持ってきていて、やっぱり一緒なんだな、と、どんどん数を増していく食器の数には薄々感づいていたことだがと脳裏に呟いた。
「……っていうか、母さんここ自由に歩いてていいの?」
「ええ。わたくしにも紫旗の護衛が一時的に頂けた様子。恐らく両王子殿下絡みでしょう、アレはアレでこそ支持する人間も多いですから、真っ向敵だと宣言したディアネルは狙われて然るべき、ただそれだけのこと」
「……あの二人に支持者っているんですか? なんていうか、こう、いい王様にはならないような気が……」
「だからこそでしょう。傀儡を、と望む声も多いのですよ、王政に関わる者の中には」
「あの二人めっちゃくちゃ操りやすそうだもんなぁ……」
「えっ」
 幼馴染の驚いたような声が聞こえて口を噤んだ。駄目だ、この人が隣にいると口が滑る。それでも訊いていいのか聞かない方がいいのか、と思案しているのがあからさまに見えるラシエナの様子には、すぐに白旗を揚げた。
「おだてると絶対調子に乗るだろ、あの二人。見るからに。特に第二王子とか」
「……う、うん、言いたいことは分かるんだけど一応尊称付けたほうが……」
「構うことはありません。一時的にとはいえあの二人は今は従騎士、騎士や魔導師よりも下位の者。殿下などという尊称をつけるのは却って陛下と、特に王女殿下に対して不敬となりましょう」
「そ、そうなんですか……?」
「この国の女性は恐ろしい。商の者としても警戒し尊重しなければなりませんからね」
 その『恐ろしい』筆頭が何を言っているのだろうか、と一瞬浮かんだが、すぐに振り払った。筆頭だからこそだろう、その扱い方をよく知っている。ラシエナが始終おろおろしたままなのは、こいつはこのままでいてほしいな、という願望に預けて今は一旦放置する。仮にこの幼馴染が吹っ切れた時のその振り幅は想像するだに恐ろしい。平穏であれ、そう願う。
 思っているうちに広間の扉が近付いてくる。盆を片腕で支えて片手を伸ばした母が扉を開いてくれるのには礼を言って扉をくぐれば、すでに面々が揃っていた、だけではなかった。更に見慣れない何人か、そう思ったのにはしかし即座に否と判じた。見たことのある顔、そして幼馴染の声。
「父様!? 母様まで、え、」
「おはよう、ラシエナ。クロウィルも久しぶりだね」
 応えたのは男性。背に掛かる程度の真紅の髪を結んだ男性。落ち着いた意匠の、それでも上質な衣服は明らかに貴族家のもので。
 驚いているのは自分もそうだった。そうしているうちに、彼の視線は自分の後ろ、母に向いた。
「そしてフィメルも。先日は留守にしていて申し訳なかった、貴女の紀行録にも興味が尽きないのだが、どうも私は間が悪いようだ」
「お久しゅう、オルヴィエス様。クライシェも、良く来てくれました」
「フィメルの頼みとあっては断れません。それに加えてクォルシェイズ殿からの密談とあれば、好奇心には勝てませんから」
 言い合う間に、母はテーブルの方へと足を進めて茶器を置き、準備を始めてしまっている。ラシエナと顔を見合わせれば、何を思ったのか全力で首を振られた。苦笑する音、見れば団長が手招いている。
「急な仕事が入ってな、厨房にいた奴らが散って大変だったろ。クロウィルは養生するとしてラシエナも今日は休みで良い、つっても夜にはまた厨房の手伝いしてもらわんとだけどな」
「そ、それはいいんだけど……!!」
「ラシエナ、貴女も早くこちらにおいでなさい。クロウィルも、見ないうちに随分と立派になって」
 笑みながら言ったのは女性の方、これは数日前に遠目に見かけた公爵夫人だとすぐに気がついて、それでも言葉の意味がわからずに母を見れば、その母も苦笑して手招いてくれた。
「まずは食事です、盆をこちらに。テーブルは、一つでは収まりませんね、繋げてしまいましょうか」
「そうだな。っと、よし、『小さいの』はちょっと待っててな。カルド、ヴァルディア起こしといてくれ」
「またそういう難題を……」
「よし、手伝おう。何からすれば良いかな」
「あちらのテーブルを持ってきて――」
 様々な人の声を聞きながら、母に手招かれるままに一旦別のテーブルに盆を据える。その間に駆け寄ってくる音がして、上体だけで振り返ればやはりぼす、と音を立ててフード姿が足にしがみついてくるところだった。小さく笑ってしまう。思いっきりなのだろう、一度強く抱きしめられてから力を抜き、顔を上げた紫が、わずかに安堵したように見えた。
「おはよう、クロウィル、ラシエナも、おはよう」
「うん、おはよう」
「おはようー。うんうん、上手になってきた」
 盆を置いたラシエナがしゃがむようにして目線を合わせ、フードの上から銀色を撫でる。それははにかむような表情が僅かに見えて、それから紫はラシエナとは反対側の隣、母を見上げる。待ち構えていたようにそれを見返した母は、何も言わない。代わりに、待っているようだと思っているうちに、足元の感触が僅かに変わる。『小さいの』の重心が僅かに後ろに傾いたような、そう思っているうちに『小さいの』の声がした。
「……フィメル……?」
「ええ。おはようございます、フェルリナード。前に会ったのは十一日、ですから十二日ぶりのこと。覚えていてくれただけでも十分」
「……フィメル、知るの、いいこと、って」
「ええ、申しましたね」
「きょうつうご、ディアせんせいにおしえてもらって、……え、と……」
 僅かに疑念が浮かぶ。こんな様子を見るのは初めてだ、何かを訴えかけるような、その言葉が見つからないような。なんだろう、なんとか『小さいの』の言いたいことを母に伝えられないかと思案している間に、その母は茶器から一旦手を離して、そうして『小さいの』のすぐ目の前に膝を突いた。左の手が伸びて、フードの中、銀の髪を柔らかく撫でる仕草が見えた。
「『嬉しいでしょう? レティシャやクロウィル、ラシエナとも、”ちゃんと"話し合うことが出来て、言葉を知ることで様々なことを知ることが出来て、楽しいでしょう?』」
 『小さいの』にしか聞こえないような小声、それでも確かにそう聞こえた。『小さいの』の体が揺れるのがわかって、軽く肩を叩いて促してやればすぐに足を抱きかかえていた手が離れていって、母に抱きつきに行く。抱き留めた母がその子供を抱えたまま立ち上がって、しがみついてくる背中をあやすように撫でてやる仕草が見える。一瞥が向けられて、それですぐにラシエナの方を向いた。
「準備しちゃおう、人多いから賑やかになりそうだし」
「ん、だね。……なんで父様と母様がいるのかは、なんとなく、想像つくし」
「ああ……まあ、両殿下がいきなり来たってなれば、そりゃ、なぁ……」
 知らせないわけにもいかないよな、と、見やった先では、夫人の指差すままにテーブルを動かしている公爵の姿があった。
 ――慎ましく貞淑な妻、という存在はこの国においては希少なものなのだろうか、自分の父母といい、幼馴染の父母といい。



「うん、私達もご相伴に預かれたとは有難い。何せ朝早くに陛下の使いがやって来てね。王都に立ち寄っている間で良かった」
 朗らかに、言葉になんの裏もなく言ってにこにこと笑っているのは壮年の公爵。アイラーン公爵家の当主オルヴィエスで、それに同意を示したのは横に座った夫人クライシェだった。
「使いが来、フィメルの手もあり。断るわけにも参りませんでしたから」
「あぁ、……その辺りは、申し訳ない。ちょっとどころでなく急ぎのが出て来てな、巻きで進めることになった。んで、アイラーンにはその協力を願いたい、ってのが本題だ」
「勿論そのつもりで来ているとも」
 朝食を終えたあと、食器は厨房に運び入れて手早く洗って仕舞って、とんぼ返りして紅茶を用意して、その間に聞こえて来た会話には自然と耳が立つ。手元から眼を外さないようにしながら、同時に団長と、招かれた二人の声を聴く。
「それで、アイラーンは何を役と定めれば良いのかな。一応両殿下……もとい、新しい子弟は二人迎えているけれど、あの調子ではねぇ……」
「ああ、どんなですか、あの二人。調子というか態度というか」
「うん、一旦騎士称号は剥奪宣言しようかなと思って、それで陛下にはその旨相談にと思っていてね。その資料なりを揃えている間に妻を先に寄越して、お陰でフィメルの話を聞きそびれてしまった。あと何日か早ければなぁ」
「……そんなですか、あの二人」
「そんなだね。うん、途轍もなく態度は悪いし仕事はしないししても雑だし、六書も読んでないみたいだね。息子が怒っていてね、ちょっと困っているよ」
「フェスは、今はそっちに?」
「うん。家督を継がせるにも色々やらないといけないからね。紫旗には申し訳ないけれど、正式な儀典を修めるところまでは、我が家にと。勿論紫旗の急務とあれば本人が出てっちゃうんだけどねぇ」
 この公爵は、あまり『貴族』らしい貴族ではない。庶民派というわけではない、「騎士称号を負っているのであれば爵位など関係無く騎士として振る舞え」が家訓の一つなのだと、魔導師であるフェリスティエが笑いながら話していた。
 つまり物凄く垣根が低いのだ、接するにも会話するにも。感覚としては「気の良い隣家の大黒柱」に近い。――多少でも侮れば豹変する、とは、ラシエナに忠告されているが。
 一旦幾つかのカップに紅茶を注いで、角砂糖をソーサーに添えてと用意をして、一度顔を上げれば、テーブルの対面では幼馴染が母から紅茶の淹れ方を教えられている。湯温のこと、蒸らす時間のこと、濃淡や良い色を出す為には等々。思えば行商の中でも母に一番に教えられたのはこの紅茶の淹れ方だったな、と懐かしい気分になりながら、ひとまずテーブルを囲っている四人、団長と父、アイラーンの夫妻の前に紅茶を給仕して、そのうちの一人、副長の膝に収まってどうやら本を開いているらしい『小さいの』の前にはホットミルクの入ったマグカップを置いた。音で気付いたのか顔を上げた紫がこちらを見上げるのには分かりやすく首を傾げてやれば、見開きをそのまま渡されて、その中の一つの単語をちまい指が指し示した。
「これ、……くうき? って、なに?」
 上では大人たちが雑談に花を咲かせている。それを聞きながら、ああ、と声を零した。
「空気。息するとき、鼻とか喉を何かが行き来してるの分かるか?」
 問いかければすぐに頷く。母が、フィメルが贈ったあの本だ。まだ五分の一も読み進められてはいないかと思いながら見開きを『小さいの』の手に戻してやり、声は続ける。
「その時行き来してるのが空気。眼には見えない、というか、透明だから見えていてもわからない、かな」
「とうめい、……色、が、ない?」
「そう。無色透明。人間が暮らしてるところは大体空気があるところだな、空気が動くと風になる。風は分かるよな、暖炉の火起こしした時のやつ」
「紙ばさばさしたとき?」
「そ。あのとき喉に行き来するみたいに、肌に何がが触って動いてる感じあったろ? それが風」
「……空気がないと、息ができない?」
「そう。一回やったな、息止めるの。あれをあのまんま続けてると空気がないのと一緒だから、死んじゃうな」
「……空気、だいじ」
「うん」
 妙に神妙な表情をして言うものだから、小さく笑ってしまうのを口元を押さえて誤魔化す。見計らってか、上から父の声。
「大丈夫か?」
「うん、一応なんとなくは分かったみたい」
「なら良いな、ほんと喋れるようになったら質問責めが始まってなぁ……まあ、そんな感じなんだわ」
 父が声を向けた先は、やはりアイラーンの当主夫妻だった。
 オルヴィエスは、ふむ、と口元に手を当てる。クライシェは少し考えるように視線を落として、それからの団長に眼を向けた。どうやら本題に入っていたらしい。
「当然知り得る知識も欠けている、そういうことですね」
「ああ。ゼロ歳と何も変わらない、って程じゃないが、大雑把に言えばそうなる。で、こっちの、ユゼの息子のクロウィルが玉命拝領して、王子がその役を汚した罰として従騎士下がり、だな」
「玉命とは聞いているよ。もっとも、東で聞いた噂では紫銀の実の兄を王子が斬った、というものだったが。尾鰭はやはり付いていたかな」
 言う当主の眼がこちらを見ているのには、姿勢を正した。椅子には座らないままで答える。
「『紫銀』の兄となるように、との命ですから、実の兄ではありませんが、外傷を負いかけたのは本当です」
「……そう。その後は大丈夫ですか、その子も、貴方も」
「俺はこの前ちょっと風邪引いたくらいで、至って平和です。『小さいの』が共通語に苦戦しているくらいで、貴族院からの圧力も臣民院からの過度な接触もありません。いまのところ紫銀の存在は秘匿する、が第一で、俺が拝領した命は虚構のものが流されてますね」
「確かに。玉命の内容については、噂の出どころも様々に多様でね。未来の紫旗に対する命であるとか、王女殿下が特に護衛にと欲しがっているとか、君が王家の女性と婚姻したとか」
「え」
「眉唾だから、みんな頭から信じてるわけじゃないけれどね。それでも、『玉命拝領者の若者に対して、王子が手を上げ剣を抜きその役と任を汚し貶めた』、という部分は一致する。そこについては、確かに領民たちは憤っていてね。今のところ、王家はともかく王の浅慮は人民の悩みの種だ。扶持が変われば税も変わる。華美の禁止令こそ出ていないものの、禁色の範囲は広がり続ける一方だ。だから正直なところ、私はこの後登城して一発殴ってこようかな、とは思っている。まあこれは譬喩として捉えて欲しい類だけれどね」
「ちょっと明確にしておきたいので、一つ良いですか?」
「うん、なんだろう」
「憤り、って、何に対してですか? 玉命が下されたことか、王子がそれを無碍にしたことか、また別のか」
「そうだね、人によって、また怒る部分は多少揺らぐとは思うけれど。少なくとも『玉命拝領した青年』には、概ね皆同情的だね。王家に振り回されて、役と任を守っていただけなのに、と。だから怒られているのは王家そのものだろう。より詳細に言えば、一番に両殿下。二番目に息子たちを抑えられなかった今上陛下。東の内情はそんなものかな。君が心配するところはないよ、安心して良い」
「……ありがとうございます」
 少し、ほっとしたのは事実だ。東では、と但し書きがついたとしても、アイラーンの勢力は強い。そのアイラーンの領民たちが憤る相手が自分でないと当主が言ってくれるのには安堵しか浮かばなかった。
 それで、とは夫人が口を開いた。視線は子供、『小さいの』に向いている。向けられている紫は、先ほどと同じ見開きを睨みつけていた。
「わたくしたちアイラーンに明かして、どうなさいます。わたくしたちアイラーンの系譜にも『紫銀』の存在は重い」
「どうもしない。アイラーンには、『紫銀』の存在を担保していて欲しいだけだ。だからこの子供が『紫銀である』と認識してくれるだけで良い」
 団長の言うそれには、彼を見やる。藍色の髪の隙間から見える紫の眼は、まっすぐにオルヴィエスに向いていた。向けられた方、当主は、しばらく、沈黙していた。
「――名を」
 次の言葉はそれだけだった。それだけで決まったようなものだった。
「フェルリナード=アイクス。貴族でも王家でもない、ただ一個人の名だ」
「あい解った。アイラーンは紫旗の要請に応えよう。奇しくも両殿下を預かる身、こうして我らに紫銀の存在を明かされることへの不信を陛下は示されないはずだ、万一の場合は……」
「全責は紫旗団長が負う。これは独断だ、俺以外に負うに足る人間はいない」
「……過言に無く、クォルシェイズ殿、貴方は百年に一人あるかないかの才の持ち主。驕っても良いものを、どうしてこの子供にそこまで期待なさる」
「期待はしていない。する気もない」
 ――良かった、と、そう思う。思っているのは、自分も、団長も、同じだ。
「その期待が今までの紫銀たちを食い潰し殺して来た。紫銀は人だ。ただの人間だ。ただ人間として生きることを否定できるほど、俺は『色』を信じちゃいない」




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