「一つ決め事を致したいと思います」
 話が落ち着いて、それこそ雑談に変わっていった中で、そうだ、と思いついたように声を上げた公爵夫人――クライシェは、その場にいる人間を全員集めて、はじめにそう宣言した。『小さいの』は輪になって椅子に腰掛けたその面々をきょろきょろと見渡して、駆け寄って来たのを両腕で抱え上げて、今は自分の膝の上でおとなしく抱えられている。
「フェルリナードのことは『フェルリナード』と呼ぶ。名がわかっているのにそう呼んでいるのがフィメルとわたくし、夫とヴァルディアだけとは、はたから見ていて少々奇妙に思われます」
「少々どころじゃなかったけどな……」
 横に座っているヴァルディアが小さく零すのには、圧を覚えてそっと目を落とした。この人は、そうだ。ずっと名で呼んでいる。自分は、慣れにかまけて『小さいの』と呼び続けて来た。言い出したクライシェは零したヴァルディアの方を向く。
「本人も自分の名はそれとして認識できているのでしょう?」
「母語の名をこちらの言葉で言い直したもの、と。そうだな、フェルリナード」
「……名前、ふたつめの、こっちのが、フェルリナード、って。ディアせんせいがおしえてくれた。『ちいさいの』は、あだな? って」
「その渾名を言い出したのは?」
「俺です」
 即座に白旗を揚げた団長の額を刹那ではたいたクライシェは、悶絶している彼を措いて、さて、と姿勢を正した。
「心苦しいことではありますが、フェルリナードはほぼ確実にキレナシシャスに擁されます。王家が主導を握ろうとするならば可能な限りアイラーンが制して宥めますが、結果の八割から九割の負担は紫旗の動き次第です。よって正式に紫旗の人員として数えられている、そこの迂闊な団長殿含め、ラシエナ、クロウィルも、第一には『王家から紫銀を守る』ことが任務となります。それが王を守ることにもなる」
 疑問符を浮かべているのはラシエナだけで、浮かべた本人は自分一人だけ会話についていけていない、ということにそこで気付いたのか身体を小さく縮こめた。苦笑した幼馴染の父が口を開く。
「王は、紫銀を王家に迎えることにはなっても、継承権は認めない、と遺言を確定なさっている。これは四公爵家で承認した。もっとも、他三家は「あの馬鹿王子の代になって紫銀が現れてしまった場合の保険」として認識しているし、私たちもそう思っていたけれどね」
「は、はい……ごめんなさい……」
「状況把握のためだからね、整理しておこう。ここで言う『王家』とは王と王太子殿下、第二王子殿下の三人だ。王女殿下は除外して考えていい、スィナル殿下は概ね我々と同じ立ち位置にいるし、考えも似通っているからね。機を見計らって総意の擦り合わせは必要でも、今ではない。だから王と王子両殿下だけを考えるよ。まず王は、フェルリナードを王家に迎え入れることを前提としている。恐らく娘として」
 名前を呼ばれたからだろうか、『フェルリナード』は開いていた本から顔を上げる。なんのことかと見上げてくるのには苦笑した。
「ちょっと難しい話」
「……スィナル、さま、また会える?」
「うん、たぶんだけど」
「心配しなくとも、先日スィナル殿下は紫旗の一隊の指揮権限を陛下から奪い取っているから、これから先、様子を伺いにいらっしゃることは多いと思う。また会えるよ、大丈夫だ」
「うん。……おはなし、できなかったから、してみたい」
「そう伝えておこう、絶対に来てくださるようにね。……さて、話を戻そうか。まずこの場の共通の理解として、王は傾いている、という事実が挙げられる。玉座に翳りあり、エラドヴァイエンから送り込まれていた密偵が持ち帰ろうとしていた情報の一つだ。そしてもう一つ、「次期国王の不在」がある」
「……王太子殿下に、支持者はいるって……」
「王に相応しい人間がいない、という意味だね、この場合。王太子殿下は、駄目だ。御年二十七、それであって私兵を満足に動かすことも、国民を慮ることもない。出来ない。努力はしなさっているけれどね。第二王子殿下はもっと駄目だ。成年式でさえ満足に行えなかった、その上何かがあれば王家に従えとしか言葉が出てこない。それを言って良いのは王だけだと知っているのにね」
「……え、じゃあ……」
「そう、男系で王朝を永らえさせるには傍流に頼るしかない。だが先王陛下の遺言で、今上陛下の次には第一の候補として挙げられていたオレアディアス王弟殿下、第三王弟殿下だね。あの筋は謀反の嫌疑がある、未だ水面下だけれどね。だから嫌疑が晴れるか処断されるまでは筋としては除外しよう、考えても仕方ないからね。その次は第二王弟殿下、今上陛下のすぐ下の王弟殿下だね。彼が挙げられているが、殿下に妻子が無く、年齢も四十を迎えようとしている。ご本人も王位をと望まれてはいない、故に順位も低いままだ。その両王弟殿下が継がれないとなれば、さらに降った傍流、四公爵家の何れかが選出されるが、そうなれば公爵家の四に欠けが生じてしまう。その上アイラーンは長子と王女殿下の婚約が成立しているから、公爵家の筆頭であるアイラーンが国名を負って継ぐこともできない、となる。そうやって色々の順番を数えた最後にスィナル王女殿下がいらっしゃるが、王女殿下が即位するためにはまず女王を認めないという姿勢を貫き通してる南北の公爵家を排除し、比較的取り入りやすい西の公爵家を味方につけ、それ以外の王家傍流を全て殲滅し、アイラーンの長子、リアファイドだね。あの子を夫として共同統治にするしか方法がない」
「…………」
「単純に言うと、この『キレナシシャス』っていう王朝を平和に続けて行くには、色々詰んでる」
 要約して言えば、幼馴染は硬い顔で目線を泳がせていた。オルヴィエスは変わらず柔和な顔のままで続ける。
「そこでだ。例えばの話、今ここで今上陛下が崩御なされたとしよう。次の王にはとなると当然王太子殿下が一番に挙げられる。だが第二王子をと望む声も少なくないだろうね、第二王子は典型的な貴族主義者だ、彼が即位すれば爵位持ちには当然有難い結果になる。そして王太子殿下か第二王子殿下か、そのどちらかが即位したとしよう。あの二人が次にすることはなんだと思う?」
「…………『紫銀』……?」
 ラシエナの声は小さく、それでもはっきりと聞き取れる。彼の父はそこでようやく、わずかに表情に険を浮かべた。
「そう。「紫銀を妻とする」。そうしてしまえばもう誰も文句は言えなくなる。「紫銀が王の選出のための啓示として降臨した」なんてふざけた言説も流布するだろうね、そうするとどんな圧政どんな暴虐にも、国民は何も言えない。紫銀は神の子、なんて言われている今の世だ、神が次の王を選び出し示すために紫銀を降した、という言い分が通ってしまう。今上陛下が危惧しているのはそれだよ、だから紫銀は王家に迎え入れるしか方法がない。いくら王家でも、直系同士の婚姻、つまりは兄妹婚のことだけれど、これは禁じられているからね」
「ですが今上陛下が崩御なされてしまえば、次の王の権限、つまり最上勅命によってその遺言が廃されてしまう可能性もある。あるいは兄妹婚を許す法が成立してしまうかもしれない。そうと考えれば、恐らくフェルリナードが迎え入れられるのは、王子どちらかの娘、あるいは王女殿下の娘です。女を選ぶのは男ですが、家から女を送り出すか否かを決めるのは母の役割。紫銀の母としてスィナル王女殿下が在れば、まず「王と紫銀の婚姻」という最悪な状況は避けられます。母を殺せばという問題でもない、母の無い娘の婚姻は更に遡った女、今は皇太后様のみご健在ですから、あの方に一任されます。まさか娘や姪と婚姻させるわけもないでしょう、やってしまえば愚の判を稼ぐだけ。なにより皇太后様はお母上にエルドグランドの王家の血を持ちます、エルドグランドに『紫銀』を明け渡すことになるかもしれません。それくらいを考える頭はあの二人にも備え付けられていますから、フェルリナードを預けられた王女殿下に危険がというのも、基本には排除しても良い可能性です」
 なんだかどんどんとあの王子たちへの言葉が激化していっているように聞こえるのだが、たぶん、この場でそれを気にするのはラシエナだけだろう。紫旗でさえ王子を嫌悪している空気があるし、公爵がこうも言えるということは市井においてもそうだということだろうから。問題は、もう一度見上げて来た『紫銀』自身の、恐々とした疑念だった。
「……あのふたりと、けっこん、するの……?」
 ――何故「結婚」という概念を『小さいの』が知っているのか。思いながらも即座に口は動いていた。
「ない。絶対にない。いや結婚自体はするかもしれないけど相手をちゃんと考えてになるはずだからとりあえずあの馬鹿王子のことは忘れようなフェル」
 間を空けずに言い切った。頭を撫でてやれば少しは安堵したようで、また本の見開きに視線は戻っていく。集中しきれていないのだろうか、こちらの会話も聞いているということは。なんとかして気を逸らせてやりたいがとあれこれ方策を頭の中で探しているうちに、母が小さく笑う声がしてそちらを向いた。扇で隠された口元、それでも眼は確かに笑っていた。
「……当然すぎて失念していましたが、兄もおりますからね」
「ああ……そうか、玉命の実際はそうだったね。うん、なら恐らく、高確率でスィナル王女殿下の娘として迎えられるだろう。王女殿下なら継承権争いで狙われることもないし、何より狙ったところで手を掛ければアイラーン……私たちを敵に回すことになる。リアファイドとの婚約があるからね。私はちょっと、そういう波乱なところに出くわすのが好みでね、うん。それならやっぱりアイラーンである私たちが教育役を担うのが最善の帰結だね。陛下もその辺りの判断はまだ鈍っておられないようだから良かったよ」
 ――怖い貴族がいたものだ、と、脳裏に浮かんだ。にこにこと笑いながら言った言葉の実は、紫銀あるいは王女に手を掛ければ全力で戦争に持ち込むという宣言だ。公爵家にも序列はある。その頂点、アイラーンは領地の安定した統治でも紅軍の練度の高さでも知られる存在だ。ちらと見やった先、公爵夫人も柔らかく笑んでいる。
 大人って。思っているうちに、今度は母の声がした。
「さて。それらを鑑みてまず紫旗の役目の話です。紫旗は前提として王の直衛です、王の為に存在する。その為に、王が計画する「紫銀を王家に迎え入れる」ことは達さねばならない。恐らく急に入った仕事というのも紫銀の親探しを妨害するためのものでしょう」
「……結果論からすれば、そうだな、確かに親探しは妨害されてる。あとこっちの事情として、現状フェルリナードの親を探し出すことに諸手で賛成、ってわけにはいかなくなった」
「それにしては相当躍起になって探していたと思うが?」
「事情が変わったんだよ」
 ずっと聞き手に回っていたヴァルディアの一言には簡潔に返される。どうして、という疑問は湧いたが、恐らくこの場で明確に語らないのであれば、既に知れていることか、知られたくないかのどちらかだろう。だから問おうとした声は押し殺した。団長の声。
「……紫旗としての役目は心得てる。まず紫銀を王家に、ってのは達させる。その上で、王家から紫銀に対する干渉を防ぐ。王命を楯にするなら相当の間持ち堪えられるはずだ。王は紫銀を王にする気は無い、と断言した。王の伴侶として使うこともない、ともな。材料はこれで揃ってる。紫旗が王命で歪められた時に、アイラーンに糾弾を任せたい、ってところだな」
「当然ディアネルとグラヴィエントもそのように動きます。公爵家筆頭、この国の流通の六割を占める商会、国内のあちこちに点在する犯罪組織をまとめ上げて統制する犯罪の熟練者一族。これらを敵に回す勇気は流石にあの二人にも備わってはいませんでしょう。そのためにハコに詰めたわけでもありますし」
「ああ、そういえば。ディアネルから送られて来た荷の中に、叫びながらガタガタ揺れるハコが二つあったから、なんだか開けるのが怖くて丸一日放置してしまったのだがね。ディアネルには少々申し訳ないことをした、鮮度が落ちてしまったな」
 え、と呟いた。王都から荷馬車で東までは三日はかかる。箱の中に最低限の水くらいは入っていたはずだが、だが。母の返答は素っ気ない。
「発酵食品ですから多少時間を置いた方が宜しいかと、それだけのこと」
「……はっこう?」
「チーズやヨーグルトのことです。食べたことはありませんか?」
「チーズは、たべた。……チーズって、うごくの? さけぶ……?」
「普通のチーズは動きませし大声をあげることもありませんが、わたくしからオルヴィエス様のお屋敷に送った発酵食品は動いて叫んだようですね。特別製ですから、その所為でしょう」
「……母さん、情操教育的にもちょっと抑えて欲しい」
「安心なさい、動いて叫ぶ発酵食品なら実在します」
「えっ」
 声は幼馴染と被さった。横に居るヴァルディアも驚いたらしい、そんな気配がした。クライシェが口元を押さえながらくすくすと笑っていて、母は、うんざりとした表情を浮かべている。
「サヴィアンナ特産の……ええ、なんと形容すればいいのかわかりませんが、緑色をした……とにかく動いて叫ぶ発酵食品は実在します。ですから嘘でもありません。味は、まあまあでした」
「……食べたの!?」
「ええ。……いえ、この話はやめましょう。小魚や小蛸の踊り食い以来の汚点です」
「……おどりぐい、……おどるの?」
「いいえ、あなたはまだ知らなくて宜しい、そうですねクロウィル」
「……はい」
 あれは、なんというか、――すごかった。とにかくすごかった。この母が折れる程度には酷かったし、当然、自分もそうだった。異文化交流の最大の壁は言葉ではなく食物である。依然として不思議そうな顔をしている紫には、銀を撫でて言葉を重ねた。
「気にしなくていいから。な」
「……うん、わかった」
「……商人は大変だな……」
「身を以って知るってほんと至言だなとは思う」
「蛸は湯通しして酢に漬けておくと良い、北ではそうする」
「うん、……えっ?」
「……北って、紫樹……? 紫樹ってタコ食べるの……?」
「それなりに獲れるからな、それなりに食べる」
「北は、紫樹の街ではそうだと聞くね。少し南下した湿地帯では鰐を食べるようだけれど、あれは……」
「……ワニは流石に、食べたことはありませんが、……食べられるとは聞いたことだけはありますね」
「わに、って、何? 動物?」
「生物ではあるな。一度見てみると良い、一生忘れなくなる」
 ラシエナの疑問に対してのヴァルディアの言葉に、制止すべきか否かを迷って、やめた。ああいう生き物もいるのだというのは一生のうちに知っておいた方が、何かと、色々と、様々なことに耐性がつくだろう。たぶん。
「……で、だ。話戻すぞ」
「うん、そうだね、これで終わりじゃない。フェルリナードの存在がいつ市井に公表されるのか。もう決まっているのかな」
「次の春、春華祭に合わせて紫銀降臨の公布がある。冬雪祭を避けたのは、まあ、現状ああいう状態だから、だな」
 ああいう、とは、本の見開きを見つめている様子が示される。まだ知らなさすぎる、四月中旬、その祭までに、なんとか。
 なんとかなるのかな、とは、軽い不安が残る。そうしているうちに思案していた様子のクライシェが顔を上げて、眼を向けた先には黄金。
「ヴァルディア、貴方はいつまでここに?」
「二十四日の夜までになります。それ以後は紫旗にと思っていました。年明けからは試験準備に追われますから、俺ではなんとも」
「そうですか……わたくしやフィメルが教師にと思っても、ここに通い詰めでは流石に怪しまれましょう。表門を使わずとも、紫旗の本部に赴いたというのはどこからか知られてしまいます。どうしたものか……」
「……紫旗の、誰かじゃ駄目なんですか? レティシャとか……」
 その方がいいはずだ。『小さいの』、フェルリナードも慣れて懐いているし、紫旗の人間ならここに居ることは不思議でもなんでもない。そう思って言えば、否定の声は団長から上がった。
「本当はそれが良いんだけどな、ここ最近の紫旗の動き自体が不穏当なんだ、本来の役目からすれば。その上王子たちがああなったろ、『何かあった』ってのはもう知れてるんだ。その上で紫旗が閉じこもってれば当然『何か』は『紫旗の中にある』ってバレる。紫旗の中に、って知れた時点で駄目だ、魔法院の命令でも下ったらこっちは王命でしか拒否できない。王命で拒否したってことは王が何かを謀ってるってことだ。現状でも王家が信用されてないのに不審に不信の上塗りはできないだろ」
「ああ……そっか……」
 ならどうすれば、と思案に陥りかけたところに、扉の開く音。振り返れば、いつの間にが姿が見えなくなっていた父が何か大きな箱を抱えて入ってくるところだった。あれ、と思う。
「父さん、私服? っていうか何して……」
「物資搬入の中から探し物して持って来た。フィメル、確認してくれ」
 ご、と、ものすごく重い音がして別のテーブルに抱えられていた木箱が置かれる。流石コウハ、重さに関しては問題にならないが、テーブルの方が耐えられるのかどうか心配になる音だった。呼びかけられた母が帯に扇を挟んで立ち上がり、蓋を開いたその中から小さな瓶を持ち上げる。中身は液体らしい、色は青。
「……ええ、これです。ありがとうございます、貴方様」
「力仕事だしな。でも本気か?」
「冗談で申し上げるには辛い選択です。ですがこれが今一番安全でしょう」
 言いながら瓶を二つ箱の中から拾い上げて、それを手に母はテーブルに戻ってくる。ことん、と軽い音を立てて置かれたのは青い液体の入った一つと、透明な液体の入ったもう一つ。
「本来は刑罰として用いられるものですが、有効打に違いはありません。純度の高いものだけを取り寄せました。万が一は起こりませんから、その点はご安心ください」
 言うそれに、思い当たるものがあってまさかと母を見上げた。いつも通りの無表情、だが、そうしようと抑え込んでいるようにも見えた。ラシエナも気付いたらしい、まさか、と、腰を浮かして眼を見開いていた。
「髪、染めるとか、言わないですよね……!?」
「ええ。言います」
 広間に居たのは、テーブルを囲んだ面々だけではなかった。遠目に様子を伺うように話を聞いて居た耳も多かったし、隠形していた団員も当然居ただろう。
 だからだろう。十数人分か数十人分かもわからないほどの悲鳴と絶叫を聴きながら、自分は、びくりと体を跳ねさせた『小さいの』を抱えたまま、絶句したまま動けなかった。




__________




back   main   next


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.