髪染めは本来、重罪に対する刑罰として課されるものであり、大まかに分けて二通りの方法がある。
 極刑に次ぐ刑罰としては、『命色』の剥奪。つまり呪詛による強制的な髪・瞳の色の変更。これはその人間が死ぬまで効果の消えない永続的な魔法効果によるもので、主には王家や公爵家、侯爵家に対して謀反や謀殺を企てた者にのみ課せられる。
 重罪とはいえ生涯幽閉や禁錮ほどのものではなく、且つ更生の見込みのある者に対して行われるのは薬品による髪染め。これは一度色を塗り込めて固着し、それを打ち消す薬品以外に色を落とすことのできなくなるもの。故に前者を一般には髪染め、後者は一時染めと呼ぶ。
 ――というヴァルディアの冷静な解説を聞きながら、気が気ではなかった。本当に大丈夫なのか、一時染めでも色が変わることには違いない、薬品で元に戻せると言っても後遺症やらはないのか、という不安は抜けなかった。
 言い放って、直後その場に満ちた制止や抗議やお前の血の色は何色だという弾劾の全てを、「五月蝿い」と「代案があるのか」の二言で完全に封じた母も、本心ではきっと苦い思いをしているのだろう。常に手に持っているはずの扇がテーブルの上に置き去りにされていて、髪を染めることの意味、自分の色が変わることの意味、その必要性を何度も何度もフェルリナードに説明して、理解を得た上での了承があるまではその薬品に手を伸ばすことはしなかった。湯のある場所の方がというイースに頷いて、今は三人は浴室に行っている。一時染めの為に。
「銀を完全に塗りつぶすのは難しい」
 不意に言ったのはヴァルディアだった。眼を向ければ、彼は何かの本、魔法関連の参考書か何かだろうか、それに眼を通しながら続けた。
「三度重ねて、やっと青銀になるかどうか、だ。転じて落とすのは容易に済む」
「……って、言われても……」
「俺も染めたことがあるからな」
 思わず泳がせた眼を、今度は見開いて彼を見やる。見事な金の髪、光が当たると白く変じたように見えるこの色は白金の色なのだと父は言っていた。
「な、んで?」
「好奇心だ」
「……興味だけで染めたのか!?」
「ああ。赤にしてみようと思ってな、やったはいいが多少色が濃くなる程度で全く赤に近付かない。深紅の色のものを三回使ってやっと赤銅色になった。白金の特性は知ってるか?」
「い、いや……特性とかあるんだ……」
「白金は周囲の色につられて濃度を変える。今は青翠が横にいるから濃い方だが、例えば白やら灰やらが近くにいれば薄くなる。可変の色だ、純金純銀もそうだな。周囲にある色、身に着けている衣服や装飾の色で見た目に差が出る。そんなものを一色に固定しようとするのだから苦戦しないはずがない」
「苦戦って……じゃあそれ落とすのも大変なんじゃ」
「いや、落とすときは異様にすんなり落ちたな。薬をかけて水で濯げば戻った。元の色が強いからだろう、外側からの色を受け付けたとしても排除は容易い」
「……残ったりしない……?」
「しない。ほぼ確実にな」
 確信を持っての声音だと思う、それは判る。それでも不安や焦燥が抜けることはなかった。
 ラシエナは、落ち着かないからと言って訓練着に変えて狼狽しきっているエディルドを引っ張って地下の訓練場に行ってしまった。自分は、動けないままでここにいる。
「その上紫染めや銀染めは不可能だ、薬品が劇毒だからな。やろうとしても毒死する。一時染めを落として純銀に青が多少混じっても、髪が伸びれば伸びた分は元の銀だ。問題ない。鑑定結果も一時染めには左右されないからな、落とせなくとも紫銀ではない、と判断する材料には足り得ない」
 確かにそうか、と思う。一時染めを落とさないうちは染めた色で髪は伸びていく。『落とす』という行為以降は元の色で伸びてくるのだから、最悪、青が残ってしまったとしても、長さに問題がない限りは切ってしまえばいい。
 そう言うものだ、と、焦燥に対して納得を押し付けて相殺しようとして、それを何度も繰り返す。母と公爵夫人、イースが浴室に向かってもう一時間は経っているだろうかと柱時計に眼を向ければ、まだ半刻も経っていなかった。
「……落ち着かないな」
「落ち着いてる方が変だろこんなの……」
「最上ではなくとも有効であることは確実だ。これでフェルリナードが外に出られる、アイラーンの別邸で過ごすのにも支障はない。オルヴィエス様もクライシェ様も孤児院の中から何人も養子を招いているし、ラクト持ちも多い」
「それは、わかるんだけど……」
「紫銀でないのだから、もし紫旗に調査が入っても『任務中に遭遇した捨て子を孤児院に預けるために一旦連れ帰ったら、貴族伝いに話が通ってどこそこに迎えられることになった、それまでの保護だ』という言い訳ができる。ラシエナがここに入り浸っている理由も子弟だから、で済む。紫旗の任命は書類に残らないからな」
「……代案がないのはわかってるけど、なんか、こう……」
「極端なのは認めるがな」
 そうだ。極端なのだ。匿うなら何も紫旗の本部でなくとも適う場所はあるはずだ。王宮の中にある離宮でもいいはずだ。それでも、団長が部屋に戻ってしまう前に零した言葉で全てが封じられてしまった。
 ――普通の子供のように、堂々と外を歩けるようにしてやりたい。銀だからと石を投げられることもなく、紫だからと賞賛されることもなく、紫銀だからと崇められるようなこともないように。
「……クロウィル」
「……なんでしょーか……」
「士官学校には行かないのか」
 いつのまにか俯いていた眼をもう一度黄金に向ければ、テーブルの上の紙に何かを書き付けて、それで視線は本に戻る、その所作の最中だった。テーブルの上に腕を組んでそこに顎を乗せる。
「……なんで?」
「紫旗に入るなら学校の方が手っ取り早い。準備校からの方が尚良い」
「……いや、なんでヴァルディアさんがそれ言うのかなって」
「兄なんだろう」
 言われて、眼を瞬いた。言い返すのは一旦やめて、何も浮かばない思考をぐるぐるとこねくり回している間に溜息の音。
「前にお前の言葉のことを聞いたから、個人情報を一つ渡しておくが」
「え、なんで」
「等価交換だ、二対一ではこちらの分が悪い、あとあとになって貸しだとでも言われる方が迷惑だからな」
「……左様で。……それで?」
「俺にも妹がいる」
 瞠目した。二重の意味で驚愕した。身内のことを明かすのかという驚愕と、『俺にも』と、こちらのことを完全に紫銀の兄だと断言してくれたこととの二つに。金の声はそこで途切れなかった。
「妹の為にと思ってあれこれやったが、結局はこうなるのが正着だった。できることをやる方が効率が良い」
「……妹さんって?」
「この国にいる。どこに、というのは明かさない、交換情報外だからな。だがすぐ側にいるのに何もできないままの無力感は相当苦しいぞ」
「経験談?」
「半分な」
「もう半分は?」
「友人の例だ。リアファイドは婚約者のスィナルが実戦訓練で致命傷を負っても何もできなかった。せいぜい療師に縋るくらいしかできなかった」
「……俺魔法使いにはなれないけど」
「紫旗は守ることが本分だろ?」
 傷を負わせなければ良い。その為に護れば良い。守る為には紫旗が一番良い。そう言われているのかと、少し遅れて理解した。そうか、と、素直に思えた。そういうやり方もあるのか。ずっとそれを見て居たはずなのに思いつきもしなかった。
「……政治家に向いているとは思うがな」
「俺?」
「ああ。考えることが国政に絡むことばかりのように思うが?」
「……商人ではあるんだけどなぁ」
「商も政も根幹は同じだろう。商が先にあり、それを統制する為に法が生まれ、法を整備し調整する為に政がある。王はそれを象徴化したものだ、商人と思考が似ていないわけがないし、似ないのであればどちらかが間違えている」
「……ほんとヴァルディアさん何歳?」
「お前よりは上だな」
「それはわかるけど」
「肉体年齢ほど信用ならないものもないだろうな。王子たちを見ろ」
「…………」
 何も言えなかった。どうやって育てたら王子たちと王女とであれほど差が出るのだろう。反転しておいてくれれば楽なのに。
「……ちなみにだけど、訊いていい?」
「なんだ」
「ヴァルディアさん、次の王にスィナル様をって思ってる?」
「ああ」
 そっか、と零した。この人が政治家にならなかったのは魔法を第一に据えてしまったからなのかなぁ、などとぼんやり思っているうちに、扉の向こうに物音が聞こえて上体を持ち上げた。少しもないうちに扉が開いて、母が初めに見えた。
「母さん、」
「終わりました。……さあ、フェルリナード」
 母の紅が落ちた先、手を繋いで、ドレスの上に新しい上着を羽織った――青い髪に紫の眼の。まるで怖がるように、母の手を握りながらもその陰に隠れようとするのを見て、すぐに声が出た。
「おいで、フェル」
 わかりやすく、はっきりと。言い終えた瞬間に駆け寄ってくる、一回椅子から立ち上がってそれを両腕で迎えて抱え上げれば、すぐに首元に抱きついてくる。随分と強く力を込めているのには苦笑して、椅子に座りなおして背中を叩いてやりながら言った。
「大丈夫だって。皆にも説明してあるから、分からなくなることなんてない」
 それでも声の応えは無い。深い青に染まった頭を撫でてやれば、まだ少し水気の多い感触。構わず撫でて、そうしながらその深い色が毛先に向かって薄れていくように蒼に変わっていくのが見えた。母を見れば、こちらに向かって足を進めながらの声。
「青でも足りずに藍まで使って、定着するまで何度も染めて、それでも薄れてしまうのはどうにもなりませんでした。怖がらせてしまいましたね……」
 母のその声にも、いつものような覇気はない。テーブルの上に手を伸ばして扇を持ち上げて、それで差し出せば苦笑とともに受け取ってくれる。その手指や爪は、薄く藍色に染まっていた。
「それでも、この青から蒼に変わっていく様は水面のようで美しいのも事実。そのように」
 言われて見てみれば、青が薄れて水色になっていく遷移の中で、それでも隠しきれなかった銀色の光沢が光に照らされて浮き上がり、ゆらゆらと揺れている。確かに澄んだ水の流れる水面のようなと思って、それで思いついた。肩に顔を押し付けているその横頭を軽くつつく。
「フェル、ちょっと顔上げてみろ」
「……ん、……」
 言えば素直に、それでもやはり何かに怯えているかのようにぎこちなく腕が離れていって、俯くようにした顔から紫の視線が少しずつ上向いていく。視線が合って、それを確認してから、自分の後ろ首で括った髪を肩から前へと持ってきて、その紫に見せてやる。
「同じ色」
「……、うん……」
「クロウィルの髪は深海の青。妹が河の青なら、むしろ似合いかもしれないわね」
 近づいてきたイースが小指でフェルリナードの頬をつついて、悪戯っけに笑う。作り笑いだ、見てわかっても、その言葉にだろう、視線はこちらの肩から流れる青に向いた。少しの間、それから小さな声が聞こえた。
「……水と、氷……」
「うん?」
「水と氷、なかよし、って……本に、かいて、あった、から……」
「……氣の話だな。フェルリナードの氣は氷と闇、クロウィルは水と風。水と氷は姉妹色だ、氣もその性質は同根であり近い」
「……あ、そっか、前にも聞いたな、氣の、って話。同じ色が嫌じゃなければ俺は嬉しいけど」
 どうだろう、と、問いかけるように視線を向ければ、今度はすんなりと紫はこちらを見上げる。見合う間に視線はゆっくりと動いていた。きっとこちらの色を見ているのだろう、そう思って、本人の中で決着がつくまで待とうと、何も口を挟まずにいれば、小さい手は自分の髪を手繰って、長いひとふさをじっと見つめてから、もう一度こちらを見上げた。
「……へん、じゃ、ない……?」
「全然。髪の色がこうやって変わっていく人って珍しいんだ、でも居ないわけじゃない」
「とちゅうから、みずいろ、だし……ぎん、じゃ、ないよ……?」
「青くってもフェルだろ?」
 言えば、なぜか戸惑うような仕草が見えた。それから視線が泳いで言った先、横の椅子に腰掛けた金色は、すぐに視線に気付いて紫を見て、それから口を開いた。
「本はどうした?」
「、……おへや、おいて……」
「持ってくると良い、今日一日ほとんど何もできなかったからな。読めない場所があれば教えてやる、勉強の途中だろ」
「……うん……」
 頷いて、それにようやく安堵の様子が見えてほっとした。膝から降りようとするのは手を貸して下ろしてやって、扉に向かって駆けていくのにはイースがそれを追おうとして、その寸前に視線が向けられた。声量を落とした小声。
「ありがとね二人とも」
「何のことだか」
「ヴァルディアさん卑屈……でも、うん、本当のことしか言ってないから」
「だからよ。……ほら、フェルリナード、約束でしょ、部屋から出るときは誰かと一緒って!」
「なら、イース、いっしょに」
「はいはい。団長の部屋ね?」
「うん」
 言い合いながらのそれを眼で送り出して、開いた扉に遮られて二人の姿が見えなくなって、それからやっと一息つけた。すぐに立ったままの母を見上げる。
「何があったの?」
「……銀を他で塗りつぶすのは難しいとわかって居ても、実際にそれを目前にして焦ってしまったのがいけませんでした。異常なことでも必要だと、そうは理解してくれて居ても、自然と湧く恐怖を宥める役はわたくしたちで為さねばならなかったのに」
「母さん処刑人じゃないでしょ、仕方ないよ」
「……あの子の兄が言ってくれるのは、心強いですね」
 言う手が伸びてきて、頭を撫でられる。一度呼気をこぼした母は、さて、とあえて一言声を零して、それで空気は元通りに修復されていく。きっと負い目に思っているのだろう、この母も。自分の子として接すると自分で言ったのに、その矢先に髪染めでは。その負い目を全力で埋め合わせる人だとはわかっているから、それについては何も言わなかった。
「取り巻きの紫旗たちも順次戻ってくるでしょう。夕食の手伝いもありますから、クロウィル、あなたはラシエナ嬢を回収して厨房に行きなさい。母は紫旗たちをなだめてから参ります」
「わかった」
 たぶんエディルドと一緒に訓練場の端で三角すわりしてるんだろうな、とは、何となく予想がついた。こっちもこっちで宥めるためのあれこれを用意しておかないとと思いなたら椅子から立ち上がって、扉をくぐり抜ける。廊下を地下訓練場に向かって駆け足にしながら、泣いてたらどうしよう、と眉根を寄せた。



「……メフェシェス・テス=グリヴィアス」
 唐突に聞こえたそれに瞠目する。本を閉じた金が立ち上がる。
「今この場に紫旗は居ない。これを」
 言う子供の手が上着の中から布包を取り出し、無造作に差し出してくる。受け取る前に、眉根を寄せた。
「貴方は……」
「一門ではない。だが協力者ではある。すぐに紫旗が戻ってくる。受け取れ、総督からだ。これなら抑えられる」
「……名を。それ如何で判断いたします」
「受け取る以外に無いはずだが。俺は一門では無い、一門の名は持たない。『ヴァルディア』が総督からの対処案を運んだだけだ。不審だろうが受け取れ、グリヴィアスの新しい子が居るのであればと総督は言い、これを寄越した」
「私が連絡を取ろうとするよりも早く気付いていたのですか」
「封印が割れたその場に居合わせた。衝動を起こすと同時に自身の視界を遮ろうとするのはグリヴィアスの癖だ、見れば襲ってしまうからだろうが。見た所クロウィルは誰からも定期的な供給を受けていない、これが不足分の供給源になる、十年は保つ目算だ」
「虚実でないという確証を持てません。何者です」
「協力者だ。グリヴィアスなら触れれば解る、とにかく受け取れ、受け取って隠せ。グリヴィアス以外が持っているにはあまりに反応が強すぎる、魔導師には勘付かれる。俺の魔力と使い魔、精霊たちを呼び寄せて隠して精一杯だ、これ以上は秘匿できない」
 手が伸びないと見てか、距離を詰めて扇を持つ手に押し付けてくる。手のひらに押し付けられ握らされた瞬間に眼を瞠った。――これは。
「……これは、総督の泉のものではありません。当主の樹の……」
「とにかく隠せ。カルドが来る」
 言いながら子供は背を向け、テーブルの上から本を持ち上げて元のように見開きに視線を落とす。奥歯を噛み締めて上衣の中にそれを押し込む。浮かぶ欲求は常にあれと自分に向けた言葉で打ち消した。空いた椅子、息子が掛けていたそこに腰を下ろそうとして、不意に見つけたテーブルの紅茶は既にすっかり冷めきっているようだった。気にもしていないのか、魔導師は文章を眼で追っている。それを確認して数瞬後、扉が開く。現れたのは子供の言う通り紫旗の人間だった。カルド、という名の魔導師。
「ヴァルディア、使い魔はどうしたんだ。随分と奔放にあちこち飛び回っているが」
「勉強中に頭の中であれこれ口出しして来るからうるさくて追い出した。ついでに何か盗めないかと思ってたんだがな、全員が全員工房に結界を張っている所為で収穫無しだ」
「魔導師から盗もうと思うなら本人が出向いた方が早いぞ、大体の場合はな。夫人、ファリマからの言伝で、是非手が欲しいとのことです」
「あいわかりました。すぐに向かいましょう。それと、私に敬称は不要です。名のままに」
「……了解した、フィメル殿。呼び捨てにすれば副長の機嫌を損ねかねない為これで妥協していただきたい」
「そうなれば一発殴ってやれば良いのです。私の夫は過保護に過ぎますから」
 ふ、と笑って言ってやれば、魔導師に似合わず几帳面な性格をしているのだろう、苦笑が返される。では、と言い置いて扉に向かって、そのまま厨房へと道を辿る。紫旗を宥めるのはあの少年がやってくれるだろう、そう思って直行した扉を引き開けば、まだ人のほとんどいない空間の中、真向かいの流し台の隅で三人が揃って膝を抱えているのが見えた。全く、と笑ってしまいそうになるのを抑えて口を開く。
「クロウィル、ラシエナ嬢、エディルドまで。何をしているのです?」
「あ、いや、その……ラシエナが……」
 すぐに顔を上げた息子が、一番奥まったところで小さくなってしまっている金色とこちらとを交互に見やる。エディルドはすぐに立ち上がって、気まずそうに頭を掻いた。歩を進めれば、小声。
「すまん、宥め損ねた」
「そうだろうと思いました」
「面目ない……」
 すれ違いざまに軽く腕を叩いて、それで子供二人の方によって同じようにしゃがみ込む。顔を完全に伏せていたラシエナがほんの少し顔を上げて、慌てて袖で目元をこするのには手を触れてそれを制して、それから金色の頭をゆっくりと撫でる。
「隠すことではありません。思い憂いて当然のこと」
「……すみません、わたし、が、泣いたところで何にも」
 掠れてしゃくりあげながらの声。訓練着のまま、だが汚れたところも見当たらないのならエディルドの言った宥め損ねたというのはその通りなのだろう。優しい子だ、そう思うからこそ、言う言葉を肯定した。
「そうですね。それに貴女が泣いているところを見ればフェルリナードもまた悲しみましょう」
「……すみません……」
「いいえ。責めるようなことではありません。クライシェは今夜はこちらに泊まることにしたと聞きました、二階の一番奥の部屋です。行って、落ち着いてすっきりしたら来なさい。フェルリナードを守るために必要なこと。そう納得できてからです」
 八の子供だ。色の意味も、そしてたとえ邪性の象徴である銀であっても、生来のそれを失わせるような非道を、アイラーンはきちんと『非道である』とこの子供にも教え諭して来たのだろう。色を変えるのも失わせるのも、人がやっていいことではない。そう認識できていることにこそ安堵を覚えるのは、あえて表情には出さなかった。それは親友であるこの子の母の役割だから。
「さあ、目を腫らさせてまで仕事はさせません。運良くエディルドがいますから手も足ります。二階の一番奥の部屋です、良いですね」
 言えば、袖を一度目元に強く押し付けて、わかりました、と、掠れ声で応えがあった。手を離して立ち上がれば少女も立ち上がって、道を開けてやれば早足にそこを抜け、厨房から出て行く。足取りがふらついているでもないと見て内心に良しと頷いてから、息子を見れば、こちらもこちらで暗い表情だった。頬に手を当てれば素直に上向く、そして負けるように落ちて行った。
「……ごめん、ちょっと、嘘言った」
「そうだろうと思いました。何も思わないはずがない。それで良いのです」
「……うん。わかってる、これで大通り歩いても問題なくなったって。アイラーンでもそうじゃなくてもどこかの家がが孤児を引き取った、そういう形に落ち着くんだってわかってる」
「それでも納得はしていないでしょう」
「……ごめん母さん、ちょっと今、俺、怒ってるかもしれない……」
「道理です」
「怒っても意味ないってわかってる、けど」
「ええ」
「……なんで、紫銀に戻さなきゃいけないのか、わかんない、ごめん」
「お前はあの子の兄なのだから、それで良いのです。お前とお前の妹にとっては、『今が一番良い』」
「……うん」
「それでも、母はお前とあの子の母として言います。甘んじられているうちに甘えに慣れてはいけない。生来の色を歪めることはあってはならない。人に役があるように、色にも相応の意味がある。あの子が紫銀に生まれついたのならその意味を探るのは、お前ではなくあの子自身で成さねばならない大事です」
「…………ごめん、母さんが悪いって思ってるわけじゃない」
 上向いていた息子の顔は、どんどん俯いて行く。やり場のない感情ほど、厄介なものはない。触れられるのもそれを刺激しかねないだろうからと、頬からは手を離して、言葉を待った。肩と腕、そしておそらくは袖に隠された拳にも力が入っているのが見て取れた。
「誰も悪くない、から、怒ってる」
「ええ」
「……準備校って、八から入れるんだよね」
「ええ、そう聞いています」
「俺にできるのって、たぶん、それが一番近道で一番大きい。魔法使いになれたらよかったけど、父さんにも無理って言われちゃったし」
「……そうですね。幸いお前は座学も得意の内、入学試験に落ちることも卒業できないことも無いでしょう。何か母に伝えることは、他にはありますか」
「……時計が欲しい。あと、一年暦。来年の年始からでいいから、その二つが欲しい、です」
「……慎ましい願いですね。『グランツァ・フィーヴァ』としてなら、準備校も入学試験も必要なくなるでしょうに」
「手順飛ばすと後で何言われるかわかんないから、正攻法でやる。……父さん、良いって、言ってくれるかな」
 それを聞いて、ふ、と、笑みが浮かんだ。深い海の色、それを梳くように撫でながら、言った。
「駄目だと言われて、諦めますか、お前は」
「……無理」
「なら、したいようにやってみなさい。お前はそういう子なのだと、この母も、父様も、既に知ってのことですから」




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