夕食は柔らかく煮込まれた野菜がごろごろと入ったシチューと籠に積まれたパン、果物の大皿がひとつだった。そして準備にと皿を抱えて広間に向かえば見慣れない一人がまた増えていた。
「……なんか慣れたねぇこういう光景」
「なー……」
 盆を手に抱えて、ラシエナとの短い会話である。
 昼頃、部屋から出てきたという。団長としばらく話し合っていたというから、その表情に暗いものが残っていないことから、もう大丈夫なのだろうと判断して触れないまま。
 そして今回の『初対面』のその人は、黒いローブに紫の髪を肩の上で軽く括って、こちらの声が聞こえてか向けられたのは黄色の視線だった。
「おや。久々ですね、本部に幼い子弟が居るのは」
「大事な仕込みの時期ですからね、特例ですが置いてます」
 返したのは団長で、それには不審よりも驚きが上回った。剣を捧げる国王以外には常に慇懃無礼で通しているこの人が丁寧語で話している、という驚きと、後ろからの気配が即座に扉の向こうに逃げようとしたのとの二重の驚愕であって、後者のそれにはすぐに声がかかった。
「ヴァルディア、今更逃げても無意味ですよ」
 ラシエナと揃って振り返った。ややあって、扉の向こう側に完全に姿を消していた黄金が、様子を伺うように、それでも半ば自棄のような、複雑な表情で戻ってきた。
「……なんで居るんですか、学長」
「お呼ばれしたからですよ。試験も近いのにどこに逃げたのかと思ったら……勉強は進んでいるようで、そこは安心しました」
「自主的に来たわけでは……」
「事情は聞きました。ややもまた封印処理の件が進んでいるのかと思って鈍器も用意して来たのですが杞憂でしたね」
「あー……残念ながら研究所の方ではまだなんかやってるみたいで……」
「おや。持ち腐れにならずに済むようで喜ばしいですね」
 団長とその人との会話に変わった間に気にせずにしてくれ、とヴァルディアから言われて背を押されて、それで処理しきれないままの驚愕を抱えたまま大きなテーブルに皿を並べる。後ろでヴァルディアの声。
「研究所は俺から断っておくのでフィエル様は何もしないでください」
「手伝いは?」
「要りません。余計に恨まれる……」
「レスティは既に動いているようですが」
「そちらも止めました。……どうしてそう好戦的に……」
「レスティは攻撃魔法専門ですからねぇ」
「学長」
「はい、はい。分かっていますよ、今回は別件です。当の本人は?」
「浴室に。そろそろ戻ってくるかと思いますが、先に食事の失礼を」
「構いません、普段の様子も見ておきたいと思っていましたから」
 焼きたてのパンは匂いだけでくるから凶悪だ。思いながら往復二回目に迅速に向かいながら、隣と声を交わす。
「誰だと思う?」
「さっき学長って言ってたし、ヴァルディアさん……て、紫樹だっけ、の学院長なんじゃないかな」
「紫樹……紫樹のことあんまり知らないんだよね……リア兄様もあんまり話してくれないし……」
「俺も名前とかは知らないな。……紫樹の長官って魔導師なのか、って、それは意外」
「なんで?」
「紫樹の協会って結構軍みたいな気質あって、それは前に行ったから知ってるんだけど。そんな感じには見えないんだよなあの人」
「……うーん……?」
 言い合いながら厨房の扉を開いて、必要な皿を盆に載せ直してもう一度広間に向かう。何か雑談をしているらしいその人と団長とヴァルディアの横で冷えてしまわないものの準備を先に終えて、では後は全員揃ってから、と振り返れば、黒服の彼はすぐに気付いて柔和に笑む。
「初めましてになりますね。北は紫樹の長官で、フィエリアル、と。医者として声掛けを頂いて参りました」
「国内で唯一『療師』と呼ばれる方だ。王女殿下と、そこで黙り込んでるヴァルディアの教師でもある」
 絶対色の強い人だ。あの王女に積極的に関わった人間がまともなはずがない。聞いた瞬間そう思った。黄紫といえば妙な組み合わせだ、珍しい。思っているうちに視線がこちらを向いて、それを見返して口を開いた。
「クロウィル=フィオン=コウハです。副長のユゼの三子に当たります」
「あ、えっと、アイラーンの長女の、ラシエナ・リジェル・ディアです。兄がお世話になっております、有難うございます」
「ユゼの子に、君があのリアファイドの妹ですね。……この代のアイラーンは才が豊かですね、十年後が楽しみです」
 ラシエナはくすぐったそうに笑う。自分は、この人もあと十年この幼馴染には合わせない方が良かった部類なのではないかという若干の不安が浮かんだ。母は王都のあの支部に戻ったが、しばらくは行商は皆に任せて留まると聞いた。この人と母を合わせるようなことは絶対にしないほうがいいかもしれないと思う反面ディアネルは医療に弱いからなという弱点が浮かんで視線が落ちていくのには、気配でその人が疑問符を浮かべるのがわかっても何も返せなかった。色々とこんがらがっている。
 大人と年長者が会話に戻っていく気配で解放されて、大丈夫かな、と浴室の方に視線を浮かせれば、横を幼馴染みが駆け足で過ぎていく。紅茶お願い、と言われたのにはわかったと返して、熱湯の入ったポットに駆け寄って、一通り必要なものが揃えられたテーブルの方で紅茶の用意を進める。後ろからは会話が聞こえていた。
「先に、いくつか状態を確認させていただけますか。医療班の調書には目は通しましたが、どうも要旨を得ない」
「自分から。団長、宜しいですか」
「ああ、任せた」
 新しい声はディストのもの。紅茶の葉を陶器のポットにさらさらと入れて、熱湯をゆっくりと注ぎ込む。蓋を閉じて少し待つ間にカップの用意を進めておく。
「発見時の様子からご説明いたします、不審点が多いのはこちらでも確認していますが、なんとも説明が難しいままですから」
「お願いします。共有事項は一つでも多いほうがいい」
「地点計測がこちらです。孤児として紫旗の第一隊が発見した時点で、所持品は水筒とパンの入った鞄が一つ、衣服は夏でも涼しすぎるくらいで上着も外套もありませんでした。周囲は空間途絶結界で囲われて守られていました、結界の継続時間は推測で十二時間から二十時間、ただそれにしては残留した紋が強いため連続して設置されていたものかと。魔導師、少なくとも時空間魔法の扱える人物が『紫銀』をそこに据えたものと考えられます」
「記憶は失われているとありました。起点は?」
「現状覚えている、と確定しているのは団長が発見したその瞬間から以降です。当該地域での第一隊の行動記録がこちらになりますが、行動開始から発見に至るまで一時間も経っていません。相手がどのようにこの地点を嗅ぎつけたのかは不明、紫旗に当該任地の情報が集まり始めたのは七ヶ月前が初報、二ヶ月前から情報が増え、一ヶ月ほど前にその報告内容が変わっているとして調査隊の目を引いたのがきっかけです」
「仕組まれていたとは思えませんね、気が長すぎますし空間途絶結界は一つ一つの寿命が短い、重ねて使用すれば負荷も相当です。半年以上連続して使っているのであれば記憶の混濁も頷けますが」
「言葉の上では記憶喪失ですが、実質には古代語と名前以外には何も知らない状態でした。食事と睡眠に関しても無知、とはいえ廃人と言えるほど自我がないわけでもない。年相応の興味、好奇心、人間としての本能は見て取れます。模倣とも言い難い、記憶していないものの真似ができるのかどうか」
「恐怖は?」
「あります。喜楽は少しずつ、それらしいものも見えてきていますが、怒り哀しみに関してはなんとも言えません。古代語も、意味も含意も知っている言葉は限られているとヴァルディアが」
「……古代語を母語として育ったなら、周囲に古代語を日常的に使う人間が複数いたはずです。その人間たちの言葉を聞きながら唐突に扱えるようになるものですから。ただ習得に関わる重要語……時間や生死、属性に変えれば時に属するものに関する理解は相当に浅いです。古代語自体の語彙も少ない、まだ機会が無いだけかもしれませんが。感情なりを理解すれば自然と習得も進むと思いますが、現状のあれだけでは習得には至らないはずです」
「文法面ではどうですか?」
「整っています。整っていますが、resを知らない。全てwhiesです」
 葉が開くのを待ちながら、それにはなんとなく目が向いた。見えたのは黄金が黄紫に向かって説明しているところだった。書類に目を落とした黄は眉根を寄せていた。
「……会話記録を取りましょう、何かの手助けになるかもしれない。ヴァルディアと、団長殿も協力をお願いします。副長殿は?」
「陛下の護衛に詰めていますので、難しいかと。明かせる人員もまだ限られている上古代語が扱えるのが、団全体を見渡しても、俺、ユゼ、ディストが片言程度、あとは魔法構築の限定的な使用法を知ってるだけで役に立ちそうなのは居ないですね」
「それだけ揃えば十分です、そもそも廃語です、母語話者が二人いるだけで十分でしょう」
 手元に目を戻して綺麗に色の出た液体をカップに注いでいく。横、広間の扉の方から賑やかそうな音が近付いてくる。そろそろかな、と思いながら角砂糖を一つずつ添えて、三人の前に給仕する。自分のぶんは食卓に着いてからでいいかと思いながら陶器ポットの中の重さを確認しておく。あまり時間が経つと渋く、と危惧を始めた頃に扉が開いて、一番に入ってきたのはレティシャで、その背後にフェルリナードを抱えたイース、トーリャと続いて、最後に紅銀が見えて一瞬体が固まった。
「……え、なんで?」
「ん、なに、クロウィル?」
「……え、いや、なんでいるの母さん」
「スィナル殿下から仕立てを仰せつかったのです。オルディナ経由でしたから表立って動くことができましたし、オルディナの姫が紫旗に保護されたというのはグラヴィエントがそれらしい噂を広めてくれましたから、その…………」
 何かに気付いたらしい母の視線が一点を見て同時に声が途切れる。この人が自分から言葉を切るなんてありえない、と脳裏に浮かぶのに少し遅れて、母の視線の先から声がした。
「……これは、奇遇なところで会いましたね。今はどのように?」
「…………鴨ネギと思って許容致しましょう。今はディアネルの『グランツァ・フィメル』と。フィメルとお呼びくださいませフィエリアル」
「不穏ですねえ。でも、そうですか、君がディアネルの首魁でしたか。通りで勢い良く成長したものです」
 あれ、と思っているうちにあれよと会話が続いていた。母と療師の間で、である。珍しくわかりやすい嘆息を吐き出した母が、すれ違いざまに扇で軽く前髪あたりを叩いていく。手元、と注意するようなそれにあ、と呟いて慌ててポットの中身をカップに注いでいく。その間に背後で母が椅子に腰掛ける。足元に駆け寄ってきた紫青には、手を一旦止めてそちらに視線を向けた。
「母さんところ行っといで。今準備してるから」
「…………」
 紫はこちらを見上げて何度か目を瞬いて、母の方に目を向ける。なんだろうと振り返って見てみれば、紅と黄が無言のまま見合っていた。少し考えて紫に向き直る。
「怖い人じゃないから、な」
「……だれ?」
「お医者さん。フェルのこと診てくれるって、でも先にごはんな」
「……? うん」
 声に出して答えて、それで小さく空咳を吐き出す。それに気付いてテーブルの方の数人が一気に動いて、それに気付いた紫青が盾にするようにじりじりと立ち位置を変えるのには片腕を伸ばして背を軽く叩いてやる。声だけ背後に向けた。
「……少しでいいので配慮してください」
「そうですね、そうしましょう。フィメル、積もる話は、」
「ございません」
「母さんフェルが怯えてるから控えて」
「…………」
 応えがない。――絶対に首を突っ込んだらいけないやつだこれ。口を噤む。気になる。正直気にはなるが。父さんが護衛についてるのってこの展開を予期したからだったりしないよなこれ。収束させられそうな人がいない。次に聞こえたのが、何かを言いかねたヴァルディアの声だった。
「……学長、また何かやらかしたんですか」
「過去にね。フィメル、少なくとも私自身に他意は欠片もありませんし、お声がけ頂いたのは療師の称号故のことです。それで宜しいですね」
「……風の噂に、貴方が貴方の許にあの朽ちた眼の者を招き入れたと聞きました。そこまで堕ちましたか」
「私自身がはぐれ樹の一つ、眼を失った迷い鳥の一羽くらいには目を瞑って頂きたいですね。既に全てを受け入れた身の上、尚も排斥する理由にはならないでしょう」
「だから甘いと言うのです」
「貴女は潔癖に過ぎる。だがそれが美点でもある。彼女は貴女の言を容れた、……近く報せがあるでしょう、それだけでも承けてやってもらえませんか」
「出来かねます。あれはすでに腐れて落ちた。わたくしどもが歯牙にかける必要も義務もありません」
「三十年もあれば人は変わる。それは貴女こそよく知っているはずです、……私からはこれ以上は控えましょう。子供を怯えさせるために来たわけではありませんから」
「……その点についてだけは同意致します。それと、また別件に貴方には療師目線で訊きたいこともございます」
「商会のことでしょう? ディアネルや他の商会に蓄えておいて欲しい品と監視統制を頂きたい品の目録は医学会で少しずつ作成を進めている様子です、後押ししておきます。完成し次第学会を通して要望としてという話にはなっているようですが、戻り次第途中のものを横流しましょう、あとは少々の私見も加えて。その方が貴女も動きやすいでしょうから」
「ええ、頼みます」
 商談に話題が変わってようやく空気が緩んだ。すっかり脚にしがみついてくる両手を感じて頭を撫でてやって、空になったポットを置いてカップを盆に並べていく。紫旗たちは隠形したのか、トーリャが一人だけ近付いて来て紫青を手招いて連れて行ってくれる。そのトーリャの声。
「さあ、本題に入りましょうお二人とも。団長も逃げてないで話に入ってください」
「……エイレス同士の殴り合いには入れねえって……」
 団長の小さい抗議が聞こえた。仕方ない。というか所構わずやり始めるほうが悪い。というか既知だったのかこの二人。全然知らなかったと一度振り返って見てみれば、母はこちらに視線を向けていた。
「? なんですか?」
「……いいえ。紅茶を頂けますか、クロウィル」
「……?」
 なんだろう、と思いながらも母の前に一つ差し出して、団長が抱き上げてくれた紫青の前にも一つ。これは多めのミルクを混ぜたものだ。熱いから気をつけてな、と忠告しておけば、そろそろと団長の膝の上から身体を乗り出してカップに触れる。熱い、はもう何度も経験しているからだろう、警戒のようなものが見えて安堵する。――暖炉の火に触ろうとしていたのは何度も全力で止めたが、厨房で竃と薬缶を見て、薬缶の中の熱湯に何度か指先をやられて、それで学習したらしい。その様子を見届けてから母が口を開いた。
「……フィエリアルが来たということは、医学面での不審があるということ。記憶の件ですか、それともそれ以外のことですか」
「記憶の件もありますが……その子が、で良いのですね、団長殿」
「ええ。……髪の色についてはご理解を。晒したまま過ごすにはこの本部も穴が多いですし、閉じ込めたままにするのも、な」
「疑いようもありません、氣でよくわかります……随分と薄いですが。外に見える形での衰弱はない様子ですね。風邪を?」
「地下に降りましたが、道中で喘鳴らしき呼吸を」
「わかりました、氣失性の何かは患っている可能性は高いですね。魔石の摂取が可能ならその用意もしますが、まずは様子を見せてください。そのあとに診察を」
「わかりました。……フェルこれまだ髪濡れてねえか?」
「……ぬれてる?」
「……改めて考えると説明難しいな……水に触っている、ってか、水に触ったそのまま、ってか……」
 苦笑する音が聞こえた。したのは黄紫で、ついでなるほど、と納得するような声。横に座って紅茶を口に運んでいるヴァルディアの方に視線を向けて何かを言うのには、ヴァルディアはわずかに目を眇めて言い返して、それに紫青が加わる。そのままいくつか言い交わして、それからフェルリナードが自分の髪を手繰り寄せて疑問符を浮かべるのには何だろうと三人を見比べる。気付いた療師フィエリアルは、小さく笑ってこちらに向いた。
「前例を知っていますから。それに比べれば素直な子だと思っただけですよ」
「前例?」
「ええ」
 言われて、何となく向いた先で、ヴァルディアはフィエリアルに差し出された書類を横から奪って読み進めているところだった。




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