朝、やはり猫の姿の無い談話室で改めてその調書を見てみれば、辛辣だと最初に思った感想はそれでも優しい方だったのだと思考に訂正が入った。背中に軽い感触があって、肩から胸の前に二本の腕が伸びてくる。
「フェル、どうした?」
「……ちょっと怖いな、と」
 少年の声にそう返せば、ソファの後ろ、背中から抱きついてきたそれが首を傾けるのが分かった。視界の端に鋼色の髪が入り込む。それを見上げるようにして逆に問いかけた。
「文字は、読めます?」
「……まだ少し、難しい。シェリンと、ベラと、エクサが教えてくれてる」
「ならすぐにできますね。……本当は私が教えられたら良かったんですけど」
「……」
 鋼は沈黙した。フェルもそのまま口を噤んで、視線を調書に戻していく。魔法は嘘を言わない。無言が答えだった。
 どうやら自分の言語の習得は感覚的すぎるらしい、と、昨日の一夜だけで痛感したフェルだった。それでも古代語よりも共通語の方が難易度はかなり低いはずなのに、文字の上での言葉を説明しようとなると少しも伝わらないどころか自分自身ですら混乱し始める。古代語の方がなんとかなりそうだった。
 コウは、談話室によく顔を出す面々の間では既に問題なく馴染んでいるようだった。最初はかなり驚かれた、と零していたのだが、蒼樹の白黒の適応力が高い事はすでに知れているので心配は無いだろう。思いながら調書を一枚捲れば、次の一人の成績評価とその詳細がまとめられているのが目に入る。だが重要なのはそれではなく、その次の数枚に渡って細かく所感が書き込まれた訓練評価だった。セオラスとクロウィルの二人分の文字、学生五十人のうちここにあるだけで三十七。残りの十三人は、今日これから見るのだと朝食の席のセオラスがやつれた顔で呻いていた。
「……長官に聞いた」
「何をです?」
「次の任務の事を。学生と一緒に、だから、使い魔らしくしていてくれ、と、言われた。……から、フェルの魔法、幾つか、教えて欲しい」
「ん、わかりました。……大丈夫そうです?」
「……”リィン”だけ、エクサに教えてもらった。先にフェルに言わなかった、ごめん」
「良いんですよ」
 手を伸ばして、鋼色の頭を撫でる。”リィン”は教科書魔法、書いてある通りに使えば間違いの無い魔法の代表格で、攻撃魔法でもない汎用魔法の基本だ。だからエクサも教えたのだろう、使えて損をするような魔法ではないし、誰が教えても同じ構築を示す事になる。
「魔法、いくつくらい必要になるかちゃんと考えないとですね」
「人が居るところなら、幾らでも必要だと思う。……『竜』らしく、なら、そのままでも……」
「あー……」
 本当はその方が良いのかもしれないのだが、それだとどうしても事情を知らない魔導師には疑われる。今の所は蒼樹には蒼樹の人間しかいないから良いが、十日もすれば他の協会からの応援人員が来る事も聞いているから、どうにかしないといけないのはそうなのだが。同時に、自分の瞳の色を隠す事を本格的に考えないといけない。
「……どうしましょうね」
「白か黒の真似をしようか、と、言ったら、長官も悩んでいた。……駄目なのか?」
「うーん……白だと戦ってる所でばれちゃいますし、黒は……特殊というか……」
「黒は普通の人間も使ったら駄目な色だからな」
 後ろから声が聞こえて、二人で揃って振り返ればエクサが書付を纏めた冊子で鋼色を軽く叩く。受け取ったコウは礼を述べて、それでフェルのすぐ横に腰を下ろして冊子をめくり始めた。共通語の文法をまとめたもののようで、代わるようにエクサはフェルの手の中の調書を覗き込む。
「どうだ?」
「あんまり、ですね。これ見てるだけだと、実際のところはわからないんですけど……戦闘訓練って、対人なんですよね、学院のは」
「そうなるな。『異種』と戦えるのは卒業生の中でも上位成績者のみ、且つ卒業後試験勉強中の研究学生が演習として何回か、が限度になる。……そうか、お前学院も行ってないんだったか」
「そうなんです」
 眉尻を下げて苦笑で返せば、エクサも小さく笑いながらテーブルの向こう側、対岸に腰を下ろす。そうだな、と口元に手を当てながら思案する沈黙を挟んでから口を開く。
「口で説明するのも簡単といえば簡単なんだが。恐らくだがセオラスとクロウィルの事だ、基本を省くような事はしないだろう」
「そうです? ……エクサさんも、学院には何度も行ってるんですよね」
「ああ、暇がある時には教えにな、長官やら教師にも頼まれてる、俺だけじゃないが」
「……やっぱりこんなです……?」
 調書を軽く示しながら恐る恐る問いかければ、途端に遠い目で彼方を見やる。わざとらしい仕草でもそれで全てが解って、結局それ以上は聞けなかった。そうして仕草だけで全てを示したエクサが、そうだ、と思いついた顔でフェルを見やる。
「文字だけだとわからないのは道理だな、今日任務無いんだったら見に行ってきたらどうだ」
「……え」
「……うん、悪かった、前に言ってたのは半分は冗談だからそんなあからさまに嫌な顔するな」
「……冗談の要素、『半分』です……?」
「……三割、かな……」
 それは半分とは言わないし残り七割は本気という事か。それなりに前に、黒服が口々にしていた『学院』や『師弟関係』のあれやこれやを思い返してフェルは目線を暗く落とした。エクサが、だが、と言い渋るように口元をさするのには紫が渋々そちらを見上げる。
「見ておいた方が良いのは確実なんだがな……」
「……それは、わかるんですけど……」
「俺としては換えが居るとすげえ楽なんだけどなー」
 後ろから低い声が聞こえてきて反射で跳ねた両肩を押しとどめて宥めすかして極力何も聞こえなかったふりをしていると、そのフェルの両肩に幽鬼のような両手が乗った。ぎくしゃくと視線を泳がせて落としていくフェルに、セオラスはゆっくりとその肩に腕を回しながら口の端を釣り上げた。
「なー……社会見学って大事だよなー……?」
「局地的な社会すぎませんか……」
「縮図だよ、しゅ・く・ず。ありとあらゆる社会が圧縮された場所だから眺めてるだけでも一石五鳥くらいの価値はあると思うぜーどーよ新社会人」
「それ絶対に眺めるだけにならな、」
「なーあー、助け合いって重要だよなー、フェルー?」
 ゆっくりと次第に重さを掛けられてずるずると身体が背骨から傾いでいく。まだ折れないフェルの横にずっと無言で座っていたコウが書付から眼を上げて、そうして振り返ってその先にいる人物を見上げてから、言いにくそうに口元を蠢かせた。
「あ、……と、……セオラス、その」
「あーうん俺の後ろの怖い人は放っといてくれなコウ……」
「……ごめん、触れなかったら、俺が怒られそうで、怖い」
「なんで『竜』相手に怖いって感情植えつけられんだよ十階梯……」
「ぼやいてねェで自立しろ推定五十七歳」
 ひどく低い重い声とともに打音、すぐ間近のセオラスが潰れた呻きを上げるのが耳元で聞こえて何かの短い衝撃が響いて肩と首に伝わってくる。無理矢理首を回して振り返れば、黒服の後ろ襟を掴んで引き剥がす白服が見えた。肩に担いだ鞘に収められたままの長剣に気付いて、それであれ、と声を上げる。
「クロウィル、……今日長剣なんです?」
「ああ、人相手だと大剣はな、そのつもりなくても怪我させるからあんまり使わない」
「俺の猫みたいな扱いには何も言わないのね……」
 全く力が込められているようには見えないのに、クロウィルはどうやら腕一本だけで黒服を釣り上げているようだった。後ろ襟を掴んで文字通り吊るし上げているのに首が締まらないようにしているのは流石と言うべきなのか、足が浮くほどそうされてもなお大人しくされるがままになっているセオラスが慣れているだけなのか。触れたら余計に翠が怖い事になりそうで触れられなかったフェルがそっと少年姿の鋼色を抱き寄せているうちに、長剣の鞘で頭を殴られ吊るされたセオラスの悲しげな呟きを拾い上げたらしいクロウィルが片眉を跳ね上げた。
「猫だったら三階の窓から投げ捨てても着地できるだろうから問題無いな。ロイちょっと窓開けてくれこいつ捨てるから!」
「だああああああああああだからなんでお前はそう積極的に俺を殺そうとするの!」
 吊る下げられたセオラスが自由な四肢をばたつかせて抵抗し始めるが流石コウハの膂力であった、びくともしない。そのままロイが遠い眼をしているのも構わず、エクサがくつくつと低く笑っているのも気に留めず、クロウィルはただじたばたと暴れる黒服のその声に端的に答えた。
「八つ当たり」
「自覚してんならやめろよ騎士!!」
「自覚してるからこそやるんだろ」
「人道とかそういうのはないか今の若い騎士には!!」
「『人』道?」
 は、と、頭から嘲笑する色を隠しもしない声だった。セオラスの声がだんだんと明らかに弱々しくなっていくのを聞きながら、横で聞いていたフェルはコウに抱きついたままで、万が一にもその光景が視界に入らないようにそっと顔を背けた。
 たまにある。こういう事は、ごくまれに、ある。こういうところを見るとやはりと思うのだ、紫旗の団長であるユゼとこの騎士は親子なのだと。――疲労や怒りで吹っ切れた時の表情がそっくりなのだ。ようは彼やユゼに怒られた時の記憶が蘇りそうで直視していられない。流石にその様子を怪訝に思い始めたのか、二人のやりとりを興味深げに眺めていたコウが黒服を抱き返し、銀の頭を撫でながらエクサを見やったのを合図に、密やかに笑い声を抑えていたエクサが顔を上げて大きく息をついた。
「それで、今度は何の八つ当たりなんだ、クロウィル」
「……まあ色々?」
 問いには首を傾げて視線を斜め上へと投げ出した曖昧な返答があった。抵抗を断念して再びだらりと吊るされたセオラスの声。
「老体を捌け口に使う無慈悲な若年者……」
「老体自称すんなら引退しろ推定五十七歳」
「その推定って何なの?」
「ありとあらゆる条件を加味した場合に最も妥当だと思われるお前の実年齢」
「……お前そういうところに本気出すよな……なんなの……?」
「……職業病?」
 言って、ようやくクロウィルの手が黒服の後ろ襟を解放した。危なげなく軽い音を立てて着地したセオラスが、ばさばさと豪奢なローブを叩いて据わりを直しながらぶつぶつと低く文句を零しているのは横目に、クロウィルは溜息を吐き出してからエクサを見やった。
「そっちは? 暇じゃないのか」
「生憎と今日から復帰だ。そうでなければそちらの応援にも行けたんだが」
「間悪いなぁ……」
「長官に言ってくれ。暇なのはあっちだあっち」
 言う彼の手に乱雑に指し示されたフェルが小さく呻いて、それに青翠が手を伸ばしたのもすぐだった。
 後ろから伸びてきた両手で両脇から持ち上げられてまるで小さな子供のように両足が宙に浮く。ソファの背の側にとん、と降ろされ、そして頭上、背後からの声。
「準備」
「はい……」
 抵抗も反論も拒絶もできなかった。これで何か逃げる素振りでも見せたら脇に抱えられて運搬されるに違いない。この状態の彼に勝てるはずも無いのだと、深く嘆息した。



「……というかなんの八つ当たりなんです、本当に……」
 協会の正門、南を向いたそこから出て、南西に向かって大きめの道を選んで下っていく白服の背中を追いながらそう零せば、聞こえていたらしいクロウィルの声が前方から返ってきた。
「いや、予想以上に学生が使い物にならなくて。なのに言い訳ばっかり立派だから頭に来たんだよな」
「……な、案外めんどくさいだろこいつ」
「聞こえてんぞセオラス」
 指摘する声には、歩きながら腰を屈めて囁いたセオラスが即座に背を正して彼方を見上げてわざとらしく口笛に変える。フェルは紅に変えた瞳で苦笑して、房飾りで風に舞い上がらないように押さえた砂色の外套のフードを軽く持ち上げた。
「でもクロウィルがそこまでって、珍しい気もしますけど」
「基本穏便に生きたい平和主義」
「その癖相方をすぐに窮地に放置して眺めてる性悪」
「最終的に生きてんだろ」
「全ッ然穏便じゃないんだけども?」
「お前どんな時でもほっとけば生きてるじゃねぇか……そんなに介護されたいのか?」
「いや、自衛はすっけどさ。なんか、ちょっとは構われたいじゃん」
「『異種』に大人気だろ既に」
「あーもーその通りで……」
 言いながらも、セオラスは苦笑めいた表情を崩さない。腕の中で静かにしていたコウが獣姿の鼻先を持ち上げる。向いた先はセオラス。
『……手、出されるんだな』
「しょっちゅうだなぁ。そんなに俺美味そうか?」
『……骨が多そうな……』
 妙に現実的な返答が返ってきて抱えたフェルとセオラスとで眼を見合わせて視線だけのやり取りを繰り返す。コウは少しの思案の後にすぐに続けた。
『大き過ぎるから、一度に食べられなさそうではある。長官もそうだ。……フェルは柔くて甘そうに見える』
「う、ん、ちょっと知りたくなかったですその情報……」
 少しの間。両腕で抱えた翼を持つその姿が、急にぶわ、と空気を孕んで膨らんだ。見開かれた空色が捲したてる。
『食べるつもりじゃないぞ?』
「疑ってませんよ」
『今はたまにフェルに貰うだけの魔力で十分生きていける』
 言い募るようなそれに思わず笑ってしまって、まるで動物が警戒を露わにした時のように膨らんだ羽毛を丁寧に撫で付ける。胸元に抱え直して、抱き寄せた。
「大丈夫ですよ、棄てたり壊したりはしませんから。……ただ、ちょっと」
『ちょっと?』
「……『異種』全般にそう思われてたらちょっと嫌だな、と……」
 鋼は沈黙して、膨張した羽毛はすぐに凪いで元通りになった。紅を瞬かせるフェルに一言断ってから、軽く腕を蹴って鋼が跳躍した先は白い肩。そのままクロウィルとコウの間で何事かが小声で交わされるのにフェルはただ首を傾げて、さりげに距離を詰めて聞き耳を立てようとしたセオラスの脇腹には容赦のない肘の一鉄が加えられた。
 悶絶しながらも歩く速度を緩めずついてくるセオラスには、ああそういう類の「なかよし」なんだなとフェルが理解を深めて、そうしているうちに振り返ったコウがクロウィルの肩から腕の中に跳び戻ってくる。何をしていたのだろうと問いを向ける前に、『竜』のどこか神妙な声。
『人間ってすごいんだな……』
「……ど、どんな深い話が……」
『深いと、言うか……想像、……うん、想像の結果を前提に組み込んだ行動選択とその条件の話をしていた……』
 見上げた青い後ろ頭は振り返ってはくれなかった。コウの感嘆するような溜息を聞いているうちに、次第に立ち直ってきたらしいセオラスが横に並ぶまでに戻ってきて、それで口を開く。
「そ、いえば。全然説明、してなかったけどさ」
「大丈夫ですかセオラスさん……?」
「あーうんまあ……慣れてるから……基本五人一組と四回やって、評価は一人ひとりを見る。訓練評価は、五項目だな、体力、技術、判断、連携、生存、の五つ」
 言いながら彼は片手で脇腹をさすり、もう片方の手が真っ直ぐ伸びる道の先を指差す。見えたのは鉄の華奢な柵に覆われた臙脂色の高い屋根と白く塗られた外壁だった。
「騎士の場合は護衛、魔導師の場合は構築を加味、です?」
「うむ。でもまあそのあたりはさすがに学生だから、出来てたら加点、程度で基準としては見ないな。全部生存と技術に振ってくれ、ってのと、最初三回分手本見せるからあとは頼んだな」
「……やっぱりやるんです……?」
「やるんです。まあお前に頼んだ理由は、最近身体動かしてなさそうってのと、もう一つあるんだけどな」
「もう一つ?」
 問い返した時には、少し先を歩いていたクロウィルが振り返って立ち止まっていて、慌ててそこに駆け寄れば自然と問い掛ける機も逸してしまっていた。クロウィルは鉄柵で覆われた敷地の境、大きく口を開いた門の前で足を止めてフェルにそれを示してみせる。
「こっちの、道の西側が教室棟。道挟んだ反対の東側が寮。西側のすぐの建物が教務課で、臨時でとか暇で教えに来たりした時は教務二階の事務室にまず顔を出すのが一応の決まり」
「……来る事あるんですかね私……」
「あると思うぞ、特徴的だし」
「特徴的」
「非常勤講師ってそんなに顔覚えられないんだけどな、逆に覚えられると呼ばれる事も増える。今回は先に話が通してあるから、事務室じゃなくて教授控え室の方に、だな」
 指差す先は教務課と示された建物の一階。教授、と口の中で繰り返したフェルはその白い壁を見上げて、両腕に抱えた鋼色を抱き締めた。翠の視線が向く。
「……緊張してるか?」
「う……なんか、先生、って存在が遠くて」
「ヴァルディア様とかリアファイドさんとか、紫旗の連中だって『先生』だったろ?」 「で、でも職業教師ってなんか怖そうな……」
 いわゆる典型的な教師、という想像図しか頭の中には存在しないのだ。壇上で教鞭を振るって多数の生徒を相手取るような。それで言えば北の長官であるフィエリアルなどは完全に教師であるという印象しか無いのだが、その彼が実際に教導の場にある姿は見た事が無い。怒られた回数は数知れないが。
「まあ怖い教師も居るには居るけど、黒服がなんか言われるような事は無いだろ、たぶん」
「です……?」
「セオラスなんかは素行の悪さで目付けられてるけどな」
「王宮での長官達と同じだろ」
 肩をすくめて言い切って、それでセオラスがフェルの肩を押す。フェルは気負う気持ちがあるのを抑えきれないまま、砂色のフードを片手で押さえて一歩門へと距離を詰めた。




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