サシェル=フィトラエスは、内心かなり焦っていた。
 内心かなり焦っていたが、それを表に出してもしようがないともわかっていた。
 だから少しでも落ち着くために開いた本のページをただ眺めながら一枚捲る。ただ文字を目に流して、流し終えてページを捲る。何度かそれを繰り返していたところで、本の見開きを収めていた視界の外側に臙脂が見えた気がした。軽い足音、そして声。
「サシェル、それ読めてる?」
「……えーと、凶器はたぶん証拠品の中には無いかなって」
「そうじゃなくてね?」
 今度は少し呆れたような面白がるような声音に変わる。見上げれば文面を覗き込むようにしたのはハシェラエットで、開いた見開きの半分には口絵が広がっていた。夜の路地を映し出す黒いインクの印刷。くっきりと滲みもなく浮き上がっているのは、贔屓の本屋の細かな仕事ぶり故かと思っている間に、サシェルは何枚かを遡るようにして捲っていた。
「だって刺殺されたであろう死体があった隣の部屋に調理中で肉を捌いてた包丁があったから偽装だってちょっと単純すぎるとおもう」
「あーでも魔法って線もありそうだよなそういうの」
 反対側の後方からもう一つの声が聞こえて、見上げればクライアがハシェラエットと同じように本を覗き込んでいた。ハシェラエットが難しそうな顔をして唇に指を当てる。
「……刃物様の魔法、って結構難しいんだけどな。氷で剣みたいなのを作って、とかならできるかもしれないけど。でもそういうのって魔法使いが見ればすぐに判ると思うんだけどなぁ……?」
「犯罪捜査に協力してる魔法使いっているのか?」
「たまーにいるぞ。ごく稀に」
 別の声が聞こえて三人揃って眼をあげれば、見えたのはもう一人の臙脂、ヤウジェウルと、タヴィアが立っているのを見て、思わず机に本を投げ出して立ちあがった。
「ちょっ、……大丈夫なの!?」
「医術師の本気舐めてた。剣士ほど派手には動かないだろうから、傷開いたら強制送還とは言われたけど」
 言いながら笑い、制服の下の左肩を押さえる。襟から覗く首にも厚く包帯が巻かれていながらのそれにクライアは面食らったように両眼を瞬いた。
「おお……生きてる……」
「死ぬか。悪いな、迷惑かけた、なんか処罰とか行かなかったか? 大丈夫だったか?」
「だっ、大丈夫だったけど! いやだってあれタヴィア悪くないじゃん!」
「いや巻き込まれでも怪我は怪我だしな」
 立ち上がったまま動けないでいるサシェルと、その横で心の底から安堵したと言わんばかりに椅子の背に寄りかかって顔を伏せたハシェラエットには、言ったタヴィアは苦笑して見せた。
 訓練中に、他の班員が魔法の制御で手違いを起こした。訓練による負傷はそれがどんな場合であっても罰則を受けるのが学院での常だ。他人の過失であってもそれに巻き込まれた方が悪いのだと言っておいて、タヴィアは班員達に連帯責任が負わされなかった事を確認して安堵しているようだった。
「一応被害者ってことで、俺自身何もなかったのと同じくらいだしな。でもグライエは駄目だ、連座で三班は全員訓練から除外って聞いた」
「うえ、まさかすぎる。グライエかなり安定した魔法使いなのに……」
 魔法使いの手違いだった。だから被害が拡大したという事もあるが、それが純粋に彼の手落ちなのかという懐疑は強い。魔法を暴発させた魔法使い、グライエは、そんな事で他者を巻き込むような魔法使いではない、というのが、学生にも、教員にも共通した認識であるはずなのだが。
 ――証拠が足りない。教員の一人が言っていたそれを思い返して嘆息して、断ち切るようにクライアがタヴィアを見やった。
「じゃあ、一応大丈夫だって?」
「ああ。出血もさほどじゃなかったし、剣士ならまずかった、というところかな。……サシェルとシェラエは、そっちこそ大丈夫か?」
「……死ぬかもしれないって聞かされてた人の気持ちを想像してみよう」
「……悪かった」
 致命傷だったのだ。全ての属性の中で最も殺傷能力の高いとされる風の、その暴発を至近で受けたのだから、死者が出ないほうがおかしいくらいだとは、学長がそう言うほどなのだから。
「……ああ、そう、伝言あるんだけど」
「こんどは何……」
「悪かったから立ち直ってくれサシェル……。ええと、学院生の数が減るだろ、これで。五人分」
「まあ、そう聞いてるけど」
「学生が訓練中に致命傷を『負わされた』って学長がキレたらしくてな。現場で前線に出てくれるんだと」
 目を瞬かせたのは、それを聞いていた全員だった。
「……え、……え、長官?」
「うん、だから正直学生の出る幕無いんじゃないか説が俺の中では優勢」
「……あの温厚極まりない学長がキレるって有り得るの?」
「昨日から吹雪いてるだろ」
 沈黙が落ちた。力の有り余りすぎた魔導師は局地的に天候すら左右する、とは、魔法学の中でも通説だ。精霊がその魔導師の感情に同化するらしい、と、どこかで読んだような記述を思い返しながら、それと、と続く声には目を見開いた。
「レッセが学院生の方の援助するようにする、ってさ」



 エレッセア・クーシェ=ギッティアは、内心かなり悩んでいた。
「レッセ、どうした?」
「……長官に釘刺された」
 ゼルフィアの問いかけには絨毯の上に三角座りしたまま答える。すぐ目の前で白子猫が歩いている最中に転んだのを見て、そのまだ細い毛に薄く覆われただけの頭を指先でつついた。ぬくい感触。すぐ隣に相方が膝を突くのが視界の端に見える。
「釘?」
「学生に構い過ぎるなって」
 言えば、ゼルフィアはああ、と声を零した。確かにそうかと思いながら、東棟の方角、執務室のある方向へと目が勝手に向かっていく。
「……まあ、な。やりにくさはあるだろうが。でも俺たちだろ、現地で学生の指導するの」
「それが矛盾してない? って思ちゃって、あちこちに八つ当たりたい。これ他人と思えって言われなかっただけマシだと思う?」
「他人は他人だからな、初対面のように、って言われるよりは良いとは思う」
 流石にあの長官もそこまで自分を殺せとは言わないらしい。思いながら問いには返して、そうしてから三角座りをしたままのエレッセアの隣に腰を下ろした。扉からは死角になる場所、暖炉のすぐ近くのソファの背の側、流石にこれ以上離れて絨毯の上では底冷えする。
「あの人は顔の使い分けが上手いからな」
「私も下手な方じゃないと思うんだけどなぁ」
「感情面だな、問題は。何か飲むか」
「……ゼッフィー強い方だっけ?」
「なんで酒の話になるんだ。あとその呼び方は違うって言ってるだろ」
 持ってくるから座ってろ、と肩を叩かれて渋々立ち上がる。そのまま子猫を抱えて回り込んで三人掛けに座る。子猫達の餌は基本的にはセオラスが与えているらしく、何日か前まで細っているように見えた子猫達も少しずつ丸い輪郭に近づいてきている。獣医に診てもらえたのが良かった、とは、そのセオラスが言っていたのだが。
 はー、と断ち切るように息を吐いてみてもすっきりしない。なんとなく周囲を見渡せば、暖炉のちょうど正面に位置を変えた三人がけの右側でわかりやすい銀色がクッションを抱えてうとうとしているのが見えて、その隣ではルエンとフィレンスが何かを話している。どうやら雑談の類らしいと端で思ったところで、今度は勝手にため息が漏れていた。視線が向くのがわかって見返せば魔導師、黒服。
「……どうした?」
「……んー……いや、同期な後輩に先輩するのどうすれば良いのかわからないっていうか……」
 なんとなくもごもごとした口調になってしまうのも、整理も何もついていないからだろう。結局クロウィルに伝えられたそのあとには長官のところに、という呼び出しも付いていて、それを無視して学院に行くということもできなかった。教えられたのは知人が訓練中に負傷していたこと、学院の方の編成が変わって人数が減るということ、その代わりに長官自身が出れるようになったというところまでだった。
 そこまで言わなくとも察してくれたのか、ルエンはああ、と呟いて視線を落とす。フィレンスは軽く首を傾けてみせた。
「何か言われた?」
「……あい」
「あんまり気にしなくていいと思うけどなぁ」
「……フィレンスさんは、なんか、こう?」
「……私隊長になったの成り行きだから……」
 視線を返して問うたその答えに、素直に眼を瞬かせた。金色ははにかむようにして笑う。
「本当は他に候補居たんだけどね、第二の隊長って。でも一度紫旗自体の構成が崩れることがあって、そのどさくさ。第十部隊とか第十二部隊の隊長達に助けてもらってる形」
「……そういうの言っても良いのか?」
「知れたところで使いようもないでしょ? 私が死んでも十と十二と本隊が動くだけなんだし」
 ルエンはなんだかなあ、と呟いて視線を落としてしまう。とうとう眼を閉じて肘掛に寄りかかっていった黒服に気付いて、クロークの留め金を外してその背にかけてやりながらも彼女は続けていた。
「でも隊長してろって言われてるからなあ。顔見知りが部下とか、気まずい時もあるけど」
「クロさんとか?」
「クロウィルは同期だし副隊長だからあんまり。それより先輩が部下なのがね。私より余程紫旗に長いのとか居るから。……でもあんまり気にならないかなあ。歳とか経歴経験で軽視するところじゃないから気が楽ってだけかもしれないけど」
「ああ、あいつ副隊長だったんだな……お前ら本当どうやって隠してたんだよ、クロウィルが紫旗だってのは知ってたけど、知らされてるから隊長格だと思ったら」
「隊長格だよ、あいつも第十一の指揮権持ってるから。あと皆私のこと『フィレンス』だって思い込んでくれてたから、アイラーンのラシエナだ、って印象薄かったろうし」
「称号違い」
「字の関係。尚更でしょ?」
 じゃないと意味ないよ、とからんと笑って言う。結局あの件は一番の首謀者は捕らえられていないまま、加担者として支配されていた数人の魔法使い達は記憶処理を施しての開放となっている。あれから協会の中ではそれらしい動きが無いと見れば、やはりフィレンスが自らの地位を明らかにした意味は十分に伝わっているのだろう。ちらと横を見やりながら思う。フェルは、もうすでに寝入ってしまっていてこちらの声も聞こえていないようだった。変に思う、紫旗が紫旗の事を話題にすれば、あまり良い顔をしないのが常なのだが。昨日から妙に眠そうにしているし、ずっと眠っている、とは、クロウィルからも聞いてはいるが。
「……ん、まあ、あんまり気にしすぎても、だとは思うけど」
「かなあ……」
 膝の上の子猫がごろごろと転がるのを片手で転がり落ちないように支えながら、エレッセアがそう呟いたところでゼルフィアが茶器の揃いを盆に載せて運んできてくれる。進んで受け取ったフィレンスが用意してくれるのに礼を述べて、それから茶器以外に何も載っていないテーブルを見やって首を捻った。
「……そういえば何も無いな、このところずっとあったろ?」
「隙あらば猫が食べるから撤去しました」
 うぇ、と黒服二人が呻く。やっぱり黒服は年齢や性別を問わず甘いもの好きらしい。最近ではお茶菓子担当となり始めているフィレンスはばっさりと切って返して、それから少し笑って立ち上がる。少し前、東から帰ってきてからというもの彼女の短めの髪を飾って編み込まれた髪紐が大きく揺れるのがなんとなく眼に映った。
「厨房にあるから少し分けて取ってくるよ」
「あ、わるい」
「早く消費しないと悪くなるだけだからね」
 言って、さっさと扉の向こうに消えてしまう。なんとなく追いかけて手伝う気にもなれなくて、そのまま長椅子の柔らかい背に上体を預けた。猫が転がるのは指先でつついて撫でる。
「……難しいなあ」
「学院卒は、そうだろうな。騎士となれば主君も持たずになるだろ?」
「一応女王陛下から頂いて預かってる称号だけどね。……そうか、紫旗ってことはフィレンスさんの主君て陛下か……」
「そうなるな。紫旗は騎士も魔導師も主君を立てる」
 割って入った声に眼を向ければ、青翠だった。彼はそのまま真っ直ぐに黒服のひとりへと歩み寄っていって、完全に顔も伏してしまっているそれを確認してから隣に腰を落ち着かせた。
「だからこそ協会騎士は強いと思うけど」
「ええ?」
「主君が居ないってことは信条が、だろ? 俺らにそういうのは許されないからな。何の話だ?」
「同期とか先輩に上司するときの話」
「……ああ」
 振られたディエリスが返したそれだけで、汲んで理解してくれたらしい。そうだな、と考えるようにして視線が落ちて、またすぐに戻ってくる。
「長官が良い見本だと思う」
「あれ見本にして良いのかな」
「不遜な部分を除いたら良いと思う」
 容赦無えとルエンが零したが意図的に聞かないことにしたのだろう、クロウィルは身体の前に回したクロークの据わりを直しながら続けた。
「騎士の叙任にしても階梯にしても、魔導師の階級にしても地位にしても、相応だからその位置にいる、ってのは協会だと絶対だしな。じゃないと今の蒼樹って有り得ないだろ?」
「そうなの?」
「協会入った当時推定十三歳の魔導師が六年後には長官やってたりするしな」
 一時無音に陥った。加えて、と声をあげたのは紅茶のカップを持ち上げたディエリスだった。
「確定で十九の女騎士が紫旗の隊長だったりな」
「あいつも俺も今の配置って成り行きだからな……?」
「同じこと言ってたよ」
「……聞いた?」
「ああ。……駄目だったか?」
 いや、とは口にはしながら、白いクロークを被せられた一人に眼をやっていた。それには三人揃って疑問符を浮かべておいて、その間に翠の眼が戻ってくる。
「紫旗は紫旗で、上下関係と年功序列が両立しちゃってるからなあ……隊長なり役職者が若年なら年配がその世話見るし、若年の失敗は年配の教育不足だからってのが行き届いてる分楽ではあるな。あとは勉強」
「勉強?」
「軍学必要になるからな。軍の采配ってなると気を遣うし、紫旗の汚名は国家の汚名になりかねないから」
「ああ……そっか、そうなると協会騎士ってちょっと気楽かも」
「俺もそれは思う、こっち来てからあっち戻ると多少窮屈にも感じるし」
 足元によろよろと歩いてきた灰色の猫に気付いてそれを片手で拾い上げる。クロウィルが白いクロークの上に据えれば、他の二匹よりもずっと安定した足取りで遊び回っているらしい灰色は支えようとした腕を苦心して乗り越えて、眠っている一人の黒い服と白いクロークの間に滑り込んで丸くなる。暖かい場所を見つけるのが上手いのは猫の特性だろうか。銀色の間から顔を覗かせたコウが小さく鳴いて伏したままの頭を鼻先で突いたが、反応は無い。クロウィルがそれを見やっている間にコウが肘掛に飛び乗ってうつぶせの顔を掻い潜るようにして鼻先を突っ込もうとしているのを見て、さすがにと思って手を伸ばした。
「コウ、寝かしといていい」
 頭を撫でるようにすれば、鋼が身を引いて嫌がるように首を振るう。何かと思って手を引けば、すぐに蒼がこちらに向いた。見下ろすように銀を見て、前肢の片方がそこに乗る。
「……どうした?」
 訊いても、きゅる、と鳴くだけで、すぐにまた銀色を潜って黒服のフードの中に戻っていってしまう。どうしたのだろうと疑問符を浮かべている間に扉が開いて、バスケットを提げた色違いが見えた。扉を開いて肩越しに振り返って、誰かに声を掛ける声。続いて入ってきたのは、この蒼樹では見かけない顔。
 疑問符を浮かべたエクサとルエンにはすぐに気づいたのか、扉を押さえたフィレンスが口を開いた。
「緋樹からの応援。案内というか、一応ね」
「ああ、そういえば今日だったか」
「結構早かったね。大丈夫、入って。好きにしてても誰も何も言わないし」
 後ろは幾つか顔を覗かせた何人かに言って、それで彼女は扉を潜る。どこか恐る恐るというように入ってきた数人を見てエクサが立ちあがって席を示した。
「真反対は遠かっただろう、好きに休んでくれ」
「……有難い。カヴァス・ディスラグトだ、一応代表という事になっている」
 先頭、白の一人が苦笑めいて言い、礼するのにはエクサもルエンも苦笑で返す。あまり良い意味での出向ではないから、憚かるところもあるのだろうと思って、クロウィルが腰を浮かせて隣室へと足を向けた。
「予備足りるか?」
「たぶん大丈夫、三十あるのは確認してるから」
 声を向ければ、バスケットをテーブルに据えたフィレンスもそれで意図は伝わったらしくすぐに返してくれる。なら出してくるかとポットの中身を一気にルエンとエクサのカップに注いでから給湯室に向かう間に、数人はすでに部屋の中に入ってきていた。その最後の一人に気づいて、エクサがあれ、と声を零した。朱色から金に抜けていく特徴的な髪。
「……緋樹長官?」
 思わず零れたそれには、扉を後ろ手に閉めた彼が顔を上げてそちらを見やる。そしておお、と声を上げた。
「王宮で会った顔だな。久しぶり」
「久……来て良いんですか!?」
 思わず腰を浮かしてのエクサのそれに、まあまあと笑ってみせる。白い上着とクローク、騎士としてのそれだと気付いたのはそれからで、その彼は物怖じもせずにソファまで歩を進めながら言った。
「ちょっとディアに署名貰わんとな書類あってな、あとは諸々の為の出張。フェルー、寝るんなら部屋行ったほうが良いぞー」
 銀色のすぐそばで足を止めてしゃがみ込み、銀色をなでやりながら彼は言う。なんで東の長官がと硬直しているルエンの横で、ならと気付いたエクサがフィレンスを見れば横目で返された。示されたのは東の彼らだ。ならばそういう事だろう。傍から声が飛んでくる。
「長官、蒼樹のとも知り合いなんですか?」
「まあ何人かはな。同期の卒業生とかいるし、王宮で会う面子もいるし。……エナ、フェルどうしたんだ?」
 呼びかけには、バスケットから取り出したものをテーブルの上に取り出して据えていた色違いが振り返る。一度背を伸ばして、首を傾げて答える。
「ん。なんかずっと眠いみたいで、昨日あたりからずっとこう。何なら配達するから、早く帰ったほうが良いんじゃない?」
「うーんこっち先終わらしときたいんだよな。ディアが会議してる間暇してるんもアレだし」
 しゃがんだまま銀色を撫でる手を止めずに、どこか楽しそうな様子すら見せて緋樹長官、リアファイドは言う。まるで東であった事の欠片も感じさせない様子には変だと思いながら、エクサは緋樹の白黒の方を見やる。騎士が七人、魔導師は二人。視線に気づいたのか、先程にも真っ先に名乗った一人がもう一度口を開いた。
「少なくて悪いが、何日か後に追加で二十人くらいは来る、手伝いになるかもわからないが、少し待ってくれると有難い」
「いや、気にしないよ。来てくれるだけで有難い、……西は特に人手が足りないから苦労をかけると思うが」
「話は聞いてる。覚悟しているさ。……そちらは?」
「エクサ。こっちがルエン、と、エレッセア・クーシェとその相方のゼルフィア。今あっちに行ったのがクロウィル・ラウラスで、そこで寝落ちてるのがサーザジェイル」
 指差しながら言えば、最後のそれで彼らはようやく一人に気付いたらしかった。銀色は急に人が増えた事にも気づかないのか、やはりずっと眠っているようだった。どうしたのだろうかと何となく疑問に思っても、疲れているだけかもしれないと思えば揺り起こす気にもなれない。思っている間に無言だったエレッセアが手を伸ばしてフィレンスの白服の裾を引っ張っていて、フィレンスがそちらを見やればなぜか抑えた声音。
「……前聞いたんですけど緋樹の長官さんって」
「ああ……、うん、まあ、一応兄です」
「一応じゃなくて確実に兄な」
「いちいち細かい事気にしてるんだったら抜くよ」
「何を!?」
 何をしても起きないらしいフェルの髪をいじりながら横あいに入れてきた兄に即座に返したそれには彼が思わずだろう、振り返って大きく声を上げる。フィレンスは目を向けすらしなかった。
「煩い。喧しい」
「おま、兄が仕事とはいえ遠路はるばる来たのにその扱いって」
「来いって誰が言ったでもないのに押しかけてきて遠路はるばるって良い身分ですね兄様」
「身分の事言うんだったらお前よりはるかに上だかんな俺」
「紫旗に白が何言ってる。信頼も信用もしてるけど親愛には程遠いから諦めてくださいお兄様」
「何を諦めろって」
「人望」
 もうやだこいつ、とはリアファイドがソファの端に顔を埋めて呟いた。強い、とはエレッセアがこぼすだけで、緋樹の面々はほの暖かい眼をしていた。そのうちの一人が口を開く。
「……長官、早く蒼樹長官のところ行ったらどうですか」
「あいついま会議中……っていうか会議室から蹴り出された……」
「じゃあ捨てられた子犬よろしく廊下で小さくなってろ」
「エナ、さすがに怒るぞ?」
「怒れるの?」
 やはり振り返りもしないラシエナが既に紅茶を片手にソファに腰掛け、リアファイドは完全に絨毯に座り込んでしまう。エクサが苦笑に代えてフィレンスを見やった。
「少しは」
「やだ。ぜったいやだ」
「時間があるなら、とは言っておくぞ」
「時間があるから嫌なの」
 言いながらフィレンスは胸元に垂れ掛かった紙紐を払って背中に追いやる。数日前までにはなかった、緋樹がと聞いてから数日後には数日姿を見かける事もなく、帰ってきたときには既にあった。白地に赤の刺繍の、織紐でないそれは、制服を替えられない騎士の喪のそれだと、皆解っている。だから誰が言わなくとも、そういう事だと解っている。
 緋樹長官は、聞こえているだろうに何も言わない。彼がそうして眼に見える形で示さないのは、立場故なのだろう。溜息の音、顔を上げたリアファイドが手を伸ばしてフェルの頬に触れるのにもフィレンスは何も言わないで、代わりに伺うようにしたその様子に対しては横目を向けた。
「……家で良いんじゃない?」
「うーん、できれば突っつかれる要素減らしたいんだよな。さすがに今回綱渡りはしたくない。……仕方ないな、エナ、貰ってって良いか?」
「あげないけど貸してあげる。……何かあったら総力挙げて殺すぞ愚兄、私の相方だからね」
「わかってます」
 急に冷え込んだ声音には素直に答えて、立ちあがったリアファイドが両手を伸ばして器用に黒服を抱え上げる。途中で滑り落ちたクロークの下で灰色が下敷きになったのを見てルエンがそれを回収している間に、リアファイドはすぐに踵を返して談話室から姿を消してしまっていた。それに少し遅れるようにして給湯室からカップを持ってきたクロウィルが、無人になったソファを見やってフィレンスを見やった。
「大丈夫そうか?」
「んー、たぶん。私達がいるよりよっぽど手出し辛いだろうから」
「ああ……まああの人も人外だよな」
「本当にね」
 溜息ながらのそれには、素直じゃない、とは思いながらも盆に載った追加のカップ類とポットを渡せばあとはやってくれる。なら大丈夫かと思って、元の場所に戻ってクロークを投げ渡して腰を落ち着ける。ちらと見やった緋樹の白黒も、少しは落ち着いたようだった。テーブルの上にはクッキーと小ぶりのタルトが切り分けられている。手早く準備した彼女がそれを緋色の方へと持っていくのを見送って、そうしながらソファの座面に転がって丸くなった灰色を持ち上げた。白はエレッセアの膝の上に、と確認して、そうして眉根を寄せる。ルエンの方へと眼を向けた。
「……一匹足りなくないか?」
 言えば即座に黒服達の視線があちこちを探し始める。口も挟まずにずっと聞き手に徹していたゼルフィアが、そういえば、とようやく声を上げた。
「コウが抱えてなかったか?」
 フェルが寝入る前から。言われて思い返してみれば確かにそうだったようなと思い返した瞬間クロウィルが立ち上がって即座に出て行った。
 エレッセアが眼を瞬く。
「……こういうときに一番に動くのってクロさんだよね……」
「フェルが猫怖いしてるの可愛いからね」
 思考の無音。ん、と眉根を寄せて疑念を浮かべたのはエレッセアだけで、他の面々はそういうことか、と各々視線を彼方に飛ばした。




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