「やっぱりセオラスさん……ッ!!」
「えっなに!?」
 談話室の扉を恐る恐ると開いてなぜかテーブルや椅子の配置どころか絨毯の柄すら変わっている談話室で子猫三匹をまとめて膝の上で転がしている蒼青が見えた瞬間にフェルが崩れ落ち、その声を聞き取った彼は思いっきり肩を跳ねさせてそちらに顔を向けた。にゃーという無邪気な鳴き声。後ろからクロウィルが顔を覗かせてセオラスを見やって、ああ、と呟いた。
「眼開いたのか」
「みたいだなー。でもまだ良くは見えてないみたいではある。病気とかは無かったみたいでほとんど何もなく帰ってきたけど」
「なら良かった、かな。……フェル大丈夫か?」
「大丈夫に見えます……?」
「……見えないな」
 言ってクロウィルは扉の足元で崩れ落ちた黒服に両腕を伸ばしてあっさりと抱え上げる。抱え上げられたフェルも大人しく白い肩に顔を伏せて、その背中を軽く叩きながらクロウィルは並びの変わったソファの一つに腰を掛けて、膝の上の銀に声を向けた。
「暫くはこうだし、慣れといた方が良いぞ」
「理解はできてます……納得は措いて物理的な距離があるって安心が欲しいです……」
「物理的なのはもう無理だな……」
 とんとん、と背中を叩いてやればやっと顔を上げる。フェルはクロウィルの膝の上から、広く場所を広げた暖炉の前で絨毯に直接腰を下ろしたセオラスの方を見やって、うう、と呻いた。
「長官に猫が戻ってきたって聞いたからまさかと思ってたんですけど……」
「昨日の夜あたりかね、箱入りで行ったのが箱入りで帰ってきて、じゃあ誰が面倒みるよってなった時に押し付けられたんだよな」
「部屋とかは……」
「流石に俺もずっと協会にいるわけじゃないしなー。だからって自分の部屋に他人入れるの抵抗あるんだよ」
「あーそういやお前他人の部屋には侵入するくせに入れはしないよな」
「好奇心旺盛なのよ。フェル、近づいても大丈夫だぞ、さっき食べさせたばっかりで大人しいから」
 膝の上に大きなタオルを広げて三匹を順繰りに撫でていた彼に言われて、フェルはえ、と零した。手は勝手に白いクロークを握っているのを見て、セオラスはやんわりと含みのある笑みを浮かべた。気付いたクロウィルが眉根を寄せる。
「……なんだよ」
「いやー。麗しきかなって」
「凍れ」
 死すら望まれなくなったのか、とセオラスが嘆いてみせる間にクロウィルはまったくと悪態を付きながら膝に抱えた黒服を抱え直す。黒服は逃げもせずに横抱きにされたまま白服の胸元に寄り掛かって、その上にクロークが被せられた。
「フェル、眠いのか?」
「んー……ちょっと、だけ……? 暇なのもあるとは思うんですけど」
「眠かったら休んでていいからな。コウも、今日は出てるのか」
「街の方に興味があるみたいだったので、宝珠と一緒に。何かあればすぐに戻ってきてくれますから」
「……宝珠って一人歩きするのか……」
「あんまりさせないのが主流らしいんですけどね」
 あまり縛り付けるのもどうかと思うのが本心だ。もとより宝珠は使い手が居なければ具現どころか機能もしないのだから、それ以上に制限をする気もあまりしない。それ以上に今は、コウも『音曲』も互いに興味があるようだったから。
 にゃあというよりみゃあという高い鳴き声を寝かしつけながら、セオラスはどこかに視線を投げかけて、そうしてから口を開く。
「させないってか、宝珠が使い手から離れたがらないってか。フェルお前信用されてないんじゃない? 大丈夫か?」
「……なんかセオラスさんに言われると含みどころじゃないような気がするんですけど」
「まあそれなりに訓練された宝珠がふらふらしてるって聞いたら悪戯はしたくなるよな」
「セオラス……」
「二度はやんないけど。別の手が思いついたらやるかも」
 クロウィルの声に返す時にはもう彼の蒼い眼は猫に戻っている。本当のところはどうなのかとフェルが嘆息しながら白に寄りかかった身体の据わりを直して、そのまま肩から掛けられたクロークに首を埋めた。疑問符を浮かべたクロウィルの視界の視界の端に赤が映り込んで、間を置かずに声。
「おう、なんか増えてるような減ってるような……」
 本棚の影から姿を見せたのは、今度は人の姿に白い制服姿の一人。頭に二つの特徴的な耳をそよがせる彼に、あれ、とクロウィルは眼を瞬いた。
「ディエリス。珍しいな、昼に居るの」
「流石にあと何日も無いのに任務行かせられたらキレる。おかげでエクサと合わせられたのも何回かだけだけどな。……そっちのどうしたんだ?」
「あー、いや、たぶん眠いだけ」
 様子を伺うような、訝しむような色がその声に見えてクロウィルはなんだかなあと思いながらも言って返す。何を言いたいのかはなんとなくわかる。できれば言って欲しくない。ちらと様子を窺えば、紫は既に眼を閉じていた。怖い怖いと言うものがすぐ近くにいるのにと意外に思う間に、ディエリスは一度本棚の影に隠れて、少しして入れ替わりに出てきたのはエクサだった。白に気付いて何かを言おうとして、その寸前に銀に気付いて一度口を閉じて、そして翠を見やる。
「場所を考えた方が」
「お前ら紫旗が護衛対象に何すると思ってんだ」
「護衛対象を甘やかして抱いて寝かしつけるのは紫旗の仕事の内なのか?」
 眼を逸らせたクロウィルにエクサは大きく溜息をついて、茶器の揃えられた盆を手にテーブルへと近付いていく。その後ろからすぐにディエリスが追って姿を見せて、追加のカップを盆の横に置きながらちらと青翠を見た。
「やっぱり手ェ付けてんじゃねえか……」
「語弊と誤解を生もうとする語彙選択には苦言を呈する。やめろ」
「語弊と誤解を生みかねない行動選択してる輩が何言ってんだよ。というかアートゥスといいその小さいのといい黒服はそんなに部屋以外の場所で寝るの好きなのか?」
「転寝ぐらいはするかもしれないが俺に向かって訊くなディエリス。一緒くたにするんじゃない」
「って言ってもなあ……」
 無防備っていうか、と呟きながら白いクロークに覆われた黒服を見やる。ここまで反応が無いという事は本当に意識も無いらしい。つられたようにクロウィルも腕の中を窺い見て、微動だにしないままの様子には取り落としてしまわないようにと抱え直した。猫を寝かしつけたらしいセオラスが三匹の入った木箱を抱えて別の三人掛けにそれを据えて、自分はその横に腰を下ろして砂糖の瓶を引きずっていく。
「談話室で寝るってやつの方が少ないとは思うけどな」
「そうかぁ? いつも誰かしらいるような気がするが」
「アートゥスだろそれ、あいついつも論文読みながら寝落ちてるから。最近だと諦めたらしくて膝掛け持ってきて置いてあるしな」
 ほら、と指し示された先には別の場所の一人掛け。暖炉には背を向けるように据えられたその背には備え付けのような顔をした見るからに暖かそうな一枚が掛けられていた。もうあそこは彼の定位置になってしまっていて、他の誰かがあそこにという事は滅多に無い。ディエリスのどこか感心したような声が続いた。
「……とうとう諦めたのか……」
「任務から帰ってきて休憩もなく静かに本を読むなんて芸当は中々できたものでもないからな。セオラス、浪費するな」
「甘党」
「自費でやれ。クロウィルは、……要るか? というか飲めるか?」
「あー、欲しくなったら自分でやるから置いといてくれ」
 角砂糖を立て続けに何個も攫っていこうとするセオラスから瓶を奪い返しながら言うのには苦笑して返す。こういう立ち回りをする人間が彼の他にも何人もいるから、いつまで経ってもセオラスが年長者の位置に立つことが無いのだがとは思いながらも、それで順応しているらしいからともう誰もそれに関しては言いもしない。もっとも古株であるはずの一人については、諦められている、が正しいだろうが。
 ソファに落ち着いて甘さのつけられていない紅茶を一口飲み降して、それにしてもと口を開いたのはディエリスだった。眼を向ければ、濃緑の視線は扉の方を向いている。
「俺らのいない間に色々あったみたいで」
「話は聞いてたんだろ?」
「逐一、って程ではないけどな、一応。新人が今年は二桁に近いとかってルエンが半泣きで喜んでたりとかな」
「ああ……あの喜びようは異様だったな……あいつの責任はひとつとして欠片も無いんだが」
「……そういえば俺後輩ってほとんど居ないんだよなぁ……同期も二人とかだし」
「クロウィルよりも少し前……五年くらい前か、その辺りから合格者が目減りしてるんだ。今年は豊作な方だな、既に二人脱落してるが」
「え」
 視線を向けて呻いたディエリスにエクサは肩をすくめるだけ。クロウィルがそういえば見ない顔が幾つかあるようなと記憶を反芻しているうちに、もう一人の白服は頭をがしがしと掻いていた。
「本気かよ……根性無ェのか訓練のついてこれなかったのかわからんが……生き残ってんの六人か?」
「だ、な。四人は正式に任命されてるが、あとの二人はどうだったか……今年の新人訓練の担当がルエンとアートゥスと、騎士がロードとフィローだ。誰かに聞けば判るとは思うが」
「……エクサって結構新人のこと気にするよな……」
「世話好きらしい、どうやらな」
「俺も結構気にしてる方だと思うけど?」
「一緒にするな享楽主義者」
 カップを持ち上げながらの冷たい声にセオラスは分かりやすく唇を尖らせる。このところこの調子が続いていて非常にめんどくさい、とは、本人を前に言えば激化するだけなので言わないが恐らくエクサも同じ思いだろうとクロウィルは勝手に認識していた。そんなに間違ってもいないだろう。
「……で、なんだけど」
「なんだよ?」
「……女共があんなに結託してんのはなんかあったのか?」
 視線を向けられたクロウィルは、ただ何の事だと首を傾げた。



「……なんでそんなに結託してるの……?」
「面白いからに決まってんだろ」
 何言ってんだ、と言わんばかりに言い返されて、フィレンスは深く深く溜息を吐き出した。言い返したベルエンディはそのまま目の前のテーブル、そこに広げられた無数の紙の一枚を指先で拾い上げる。別の場所から別の声。
「助かるわー、もう何年もやってるからネタもタネも尽きちゃってて。南と西のしか知らないから、東のを知れるのは単純に嬉しいわ」
「いや、なら良いんだけど……あの、じゃあなんで私囲まれて確保されてるの?」
「これが一段落付いたらちょっと追及したいことがあるから」
 にっこりと笑って言うディナの声になんとなく黄色味が見えた気がして立ち上がろうとしても、背後から肩を押さえた手が二つもあるのでは逃げ出せもしない。さらにその背後からは手の持ち主であるサイラとユーリィが何事かを静かに話し合っている声が聞こえるが、言葉までは聞き取れなかった。
 ――なんだかものすごく嫌な予感がする。ただ任務の準備も終わってやることも無いし、だからと言って任務を貰いに行く気もせず、ただ時間を浪費しているのもなんだからと厨房で何か作って談話室にでも置いておこうと思って来ただけなのに。溜息に俯いた拍子に胸元に垂れてきた髪紐の先を手持ち無沙汰に弄る。幾つかを並べて見比べていたディナが、ふうと息をつく音に眼を上げる。
「……でもやっぱり、材料とか、特に調味料とか香辛料……西のもので代用できるのは限られるわよねぇ。中々こちらには回ってこないものが幾つかあるから、それは何とかしないと」
「あ、かもしれない。でもあっち味付けも強いから、こっちで暮らしてる人には濃すぎるかもしれないし、そのあたりは変えちゃって大丈夫だと思う」
「そう?」
「美味しいのが食べれたら幸せです」
 テーブルの上に広げられているのは無数のレシピだった。絵に彩色までつけられて鮮やかなそれは、普段朝夕の食事の準備に音頭を取っているディナに限らず、多数の人間の気を惹いたようだった。普段の食事に並ぶようなものからしっかりとした会食に並べられるようなものから、菓子類まで。毎夕にディナが何を作ろうかと悩んでいるのを見兼ねて、東にあるアイラーンの城に帰ったついでに料理人の暇を見つけて写しを貰ってきたものだった。緋樹の街の屋敷はしばらく修理に掛かるだろうが、城と城下は余波が掠めた程度でほぼ影響はなかった様子で、それだけは安心できた要素でもある。
「……東って思ったよりも肉料理少ないんだな。もっとあるのかと思ってたけど」
「どちらかというと野菜とか穀物が多いかなぁ……あとは魚とか。大きな川があるし、向こうだと牧畜よりも畑の方が多いから」
「うーん羨ましいんだけどなんかちょっと残念な」
「加工肉はあるんだけどねぇ」
 生の肉を煮たり焼いたりという品目は、東には少ない。西は牛も羊も豚もいるが、東は主には牛だけで、東の地域全体に安定して供給できるほどの土壌を持っていない、という部分が大きいのだろう。
「だから逆に私は蒼樹来てびっくりしたんだけど。かなり頻繁に肉が出てるから」
「地域が違うとかなり違うわね、確かに。ベラも、あなた北の出身でしょう」
「北は北だったけど内陸っちゃあ内陸だったからなあ。湿地ってか沼地ってか。鳥とか魚とか鯰とか、あと鰐とか食ってた」
「うわ……」
 声を漏らしたのはフィレンスだけではなかった。明らかに表情を歪めたエレッセアがテーブルの上に組んだ両腕を摩りながら視線を落としていく。
「……ワニってたべれるんだ……」
「案外美味いぞ、淡白で」
「……え、でもあの明らさまに異次元から来ましたみたいな見た目のを狩って捌くの……?」
「顎の力強いだけだって。確かにこう、真正面から見ると怖いけど。目複眼だし口四つに裂けるし絹裂いたようなすごい声量の声で鳴くけど」
「うわあああ想像しちゃうからやめて冷静に説明しないで」
「『異種』より大人しいから大丈夫だって。なあ?」
「私に振らないで……爬虫類は全然大丈夫だけど鰐は駄目だから……」
 真横から振られたフィレンスは顔までそらしながら掌をベラに向けて言う。いつだったか小さい頃に見かけて以来何度か夢に見た程度には衝撃だったのだあの生物は。遠目に見えた瞬間に逃げ出したいくらいには。
 ベルエンディはしきりに不思議そうに首を捻りながら腕組みに思案の表情に戻る。不意に向かいに座ったエレッセアと眼が合って、無言で差し出された手は無言で握り返した。同志は尊い。思いながらも両肩に乗った手があるままなのには息をついて、そしてその二人を見上げた。視界に入ったのはサイラと、後ろで何かを言い合っているうちの片方、ユーリィ。片方、サイラにむけて口を開く。
「……逃げないからさ?」
「って言って、放してるうちに隠形されたら、ね?」
「……逃げないよ?」
「じゃあ、話を聞いてから、逃げるかどうか決めてくれる?」
「……逃げないよ?」
「今は、駄目」
 ロイの相方となったこの黒服は、動くものを見かけると話の途中でもふらふらとどこかへものすごい速度で駆け抜けていくような人だと認識していたのだが、どうやら違うらしい。穏やかな声音に柔らかい笑みで、しかし肩を掴んだ手は微動だにしなかった。ユーリィの方を見てもこちらに気づいた様子は無い。ゆらゆらと髪紐の端が揺れる。
「……ん、よし、フィレンス、これ少しの間借りていてもいいかしら? その間に写してしまうから」
「あ、うん。好きにしていいよ、終わったら返してくれれば」
「有難う、参考にさせてもらうわね。……で、本題なんだけれど」
 紙をまとめて一つの山にしながら、立ったままだったディナが空いた席に腰を下ろす。かなり長い間レシピと向き合っていたのにやはり忘れていなかったかと、溜息を吐きたい気持ちと身構える動作がぶつかって変に身体が揺れる。ディナはいつもと変わらない調子で続けた。
「精霊眼って言っても、幾つか種類があって」
「……はい」
 何を言われるのかと思っていた、その最初がそれで、内心あれ、と思いながらも素直に頷いて返す。後ろの二人も気付いて戻ってきたようで、ディナはそのまま続けた。
「主に二系統あるの。言葉通り精霊を見る眼と、ちょっと違って微精霊と氣を見る眼と」
「これ基本的にはどっちかしか持ってないやつのが多いな。あたしは精霊を見る眼。ディナが氣を見る眼。サイラとシェリンが程度は弱いけど両方持ってて、レッセは野次馬」
「お菓子の気配にホイホイされたらレシピだった。ちなみになんも見えないです。ユーリィも」
「見えない勢のことはいいから続けてちょうだいディナ」
「……で。貴女は気付いていないと思うけれど、貴女の周りっていつも精霊が多いのよ」
「……言われたことはあるけど」
 何年か前に、紫旗の魔導師と、この蒼樹の黒服にそうだと言われた事はある。おそらく禁忌の影響なのだろう、人にとっては禁忌でも精霊にとっては同類に思えるらしい。自分には精霊眼が無いから眼に見る事はできないが、実際には魔法を使う時には周囲の精霊がほとんど無償でその補助をしてくれているとも、説明を受けてはいるが。
「……もしかして何か変……?」
「ん、いえ、居ること自体はそんなに不思議でもないわ、伝聞だけれど貴女の魔法は神の魔法に近いみたいだから、精霊にとっては心地良いもののはずだから」
「……神の魔法ってなんでしょうか先生」
「話すと長くなるから今度にしましょう。気になる、というか、今ちょっとシェリンですら若干微妙に真剣なのは別の理由」
「若干微妙にではないよ、ちゃんと真剣に考えてるじゃないか」
「あんたはこれでまたあの人で遊ぶきっかけが出来たから嬉しいだけでしょう……」
 シェリンはセオラスと同類なのではないか、と、ぼんやり浮かんだ。なんとなく自分より長くここに居る女性達からシェリンへの当たりは若干厳しいようにも見える。基本的には物腰の柔らかな紳士然とした騎士ではあるが、彼女も一枚剥がれたら、という部類だろうか。ディナが一息零しでそれを断ち切って、改めてその視線がこちらを向くのを見てフィレンスは再び身構えた。
「……な、なんでしょう」
「……今日の朝見かけたときから貴女の周りに精霊が見当たらない、というか、変に遠巻きにしてる、というのが一つ」
 眼を瞬いた。気付きようもないのだが全然気付かなかったどころか普段との違いが分からない。更に続けたのは隣に座ったベルエンディだった。
「もうひとつが、お前の氣じゃない氣がお前にずっとくっついてるって事な」
 更に眼を瞬いて首を傾けた。疑問符を浮かべたまま動かないそれを見て、ディナがわずかに遠い眼をする。
「……あのね、他人の氣を纏うって事は本来起こり得ないのよ。魔法を使う人間には致命的にもなるの、それだけ障害が大きいから使役自体が困難になるわ」
「……そうなの?」
 沈黙。ベルエンディがテーブルに頬杖をついたままもう片方の手を挙げた。
「先生、ちゃんとした魔法学の講義の必要性を感じる」
「今度計画立てましょうねベラ」
「ほいさ」
「え、えっ? そんな変な感じとか一切しないけどそんなに大変な事?」
「非常に大事な事。魔法を使う人間でなければ気にする事もないんだけど……貴女も一応は魔導師の括りなのよ」
「……えー、と……?」
 まさかと、そう思ったのが最初で、後の事に思考に追いつかない。混乱している、と、他人事のように思う。
 黒服に言われるとは思っていなかった。それが一番で、横のベルエンディがテーブルに突っ伏すように両腕を伸ばしたのも気付かなかった。
「まーフェルみたいに古代語までやるのはなっかなか居ないけど、自分の魔力の状態くらいは把握してないとだよな」
「そう、見える見えない問わずに気付けないと話にならないのよね。それに他人の氣はその本人じゃないと操作も出来ないから、邪魔だからって排除するのも難しいのよ」
「だから、心当たりがないか、っていう、そういうはなし」
 後ろのサイラが二人に続ける。フィレンスは混乱の後にゆっくりとやって来た動揺を処理しきれずにただ視線を落としてええと、と呟いただけだった。そのまま黙り込んだフィレンスを見やって、ディナはふむ、と口元に手を当てる。
「精霊もその氣があるから近付いてこない、でいいのかしら」
「そー見えるけどな。訊いても答えてくれないから推測だけど」
「精霊見える人だと会話もできる?」
「得意不得意はあるけど、出来るやつが殆どだな。レッセあれ、学院の授業でなかったか、精霊学とかで」
「……見るのはやったかも。でも話すとかはやらなかったなあ、思いつきもしなかったし」
 一通りのやりとりを終えて、周囲の視線は揃って緑紅を見やったが、当の本人は沈黙のままだった。それを見やったサイラは少し首を傾けて、ベルエンディとは反対側の隣に腰掛けて問いかける。
「誰かの魔法のすぐ近くに居たりとか、した? 魔導師が調合中のところ、とか、作業中、とか」
「直接氣に触れるって事はあまりないから、魔力の濃いところにいたとか……」
「氣が混じるってので代表的なのは夜の運」
 言いかけた瞬間に即座にシェリンとユーリィの手が動いて深紅の頭をテーブルに叩きつけるように押さえ込む。ご、と打ち付ける音に驚いた色違いがそちらに眼をやって、押さえ込んだ片方がふ、と笑う声が落ちる。ベラは抵抗するように両腕をテーブルに突いて上体を上げようとしていて、そこにユーリィの声。
「あんたその口が悪いのとそういうところ治したら美人よ」
「ざっけんな治さなくても黙ってりゃ美人だろ……!!
」 「美人はそういう事言いません」
「ちゃんとぼかしたじゃねえか……!!」
「ぼかしたどころか明け透けじゃないかベラ。駄目だよ」
「お前に言われたかねえ……」
「おや。心外だなあ言葉を選びに選んでそれ以外に解釈ができないようにして且つ全く別の語を当ててから言って欲しいな?」
「悪口勝負は別のところでやって頂戴、ベラもシェリンも。フィレンス、気にしなくて良いからね」
「……ごめんちゃんと聞いてなかったんだけど夜が何……?」
「気にしなくて良いわ」
 内心の動揺と思考しなければならないという焦りとに苦戦していて殆ど会話を聞き取れていなかったフィレンスが疑念とともに見やった先でディナは強い口調で言い切った。エレッセアが暖かい表情で平和だなあと呟いて、横ではベラが顎をさすりながら体を起こしていた。どうやらさっきの二つの手でテーブルにぶつけられたらしい。
 いいから、と更にサイラに促されて、それでやっと落ち着いてきた脳内を整理する。心当たりと言われても、この頃はフェルの魔法のある場に立ち会うのも任務のそれだけで、昨日の任務はそれほど重い案件でもなかったからすぐに終わってしまった。そのあとはもう一度一人で外に出向いて、帰ってきたのは夕方頃で、そのあとにコウを抱き枕にして一度眠って。
「……あ、」
「ん?」
「……昨日の夜に」
 ばっ、と音を立てて顔を挙げたベルエンディの額をユーリィが即座に掌で弾いて黙らせる。ディナもサイラももはやそちらには眼もくれないで、フィレンスは口元に手をやって呟いた。
「杖の事教えて貰った……長官に……」
 即座にサイラとシェリンが踵を返して素晴らしい早さで厨房の外へと扉をくぐって消えてしまう。一度ばさりと大きく聞こえた音に驚いたフィレンスがそれを振り返って見送って疑問符を浮かべているうちに、悶絶しているベルエンディも放ってディナが額に手を当てて深く息を吐き出した。
「……え、え? なに?」
「……いいえ、貴女の所為ではないから……こういうのは、こう、やる側っていうか……教導であれば教導者が気にする事だから……」
 呆れたような、疲れたと言わんばかりの暗い声でディナが言うのにはエレッセアとユーリィとフィレンスとの三人で眼を見交わす。むしろどうして理解できたのかとユーリィがシェリンの消えた後を眼で追っているうちに、言ったディナも立ち上がっていた。
「……ちょっと私も行ってくるわね」
「ど、どこに」
「犯人のところ」
 言い放って綺麗に背を向けて足早に扉を抜けて去って行ってしまう。急に人数の目減りした中で、唯一残された黒服が額を押さえながらでもようやく顔を上げて、そしてちらと扉の方を振り向いた。
「……行ってなんて言うんだか……」
「……ベラ、なんなのあれ?」
「あー……まあ、魔導師の不文律っていうか、暗黙の了解ってか。そうかヴァルディア微精霊まで見えるって聞いてたけど流石に氣までは普段は見てねえのか……よく見えすぎる奴の弊害だなこりゃ……」
「ごめん、全然話が見えないんだけど」
 長らく留置されていたにもかかわらず今度は置き去りにされたのは一体なんなのかとフィレンスが言えば、深紅は難しそうに眉根を寄せた。思い切りやられたのだろう、赤くなった額を揉むように押さえながら、少しの沈黙の後に、まあ、と声が落ちる。
「魔法使いって直接的とか物理的にとか目に見えるようにとかっていうあからさまにってのは嫌うわけだな」
「うん?」
「だからわかる奴にはわかるようにしとくだとかそういう手法になるんだわ」
「うん、……何が?」
「何って……こう…………まあいいや。なんか作るか」
「えっ」
 額を押さえていた手を離して言って急に立ち上がる。分かりやすく唐突に話を断ち切られて慌てて見上げれば、肩をすくめる仕草で返ってきた。
「説明すんのも大変だし分かってないみたいだから無問題。今の所はな。そのうち分かってくっからそしたらあとで枕に顔突っ伏して足バタバタさせとけ」
「えっなにそういうのなの!?」
「人によるからなあなんとも。それよかほらなんか作るぞ、一昨日あたりから談話室に何も置いてなくて口寂しいんだよ」
 ほらほらと言いながらフィレンスの肩を押して強引に促す。何かを作るというところは抵抗するつもりもなかったから素直に立ち上がって、言われたそれには疑問を向けた。
「もう無いの? 前あんなに大量に作ったのに」
「大量に消費されてるって事だなそりゃ」
 立ち上がったフィレンスの背を押しながら食料庫の方へと向かうベルエンディを見やって、残された二人が眼を見交わす。息をついたユーリィが息をついてフィレンスがいたそこに腰掛けた。
「流したわね」
「うん、流したね」
 若いなあ、という思考が共有されていることを互いに察知しながら、あえて触れずに言い交わす。エレッセアは残されたレシピの山から焼き菓子の一つを抜き取って眺めながらふふと笑った。
「魔法使いって変な事するね」
「変っていうか、ねえ……通用しない相手にはどうするのかしら」
「『察せ』ってやつじゃない? 少しでもその気がするなら、って」
「面倒な生き物……」
 騎士にとって魔法使いとはそういうものだ。よく分からない事をする人間。判断基準も行動規範も騎士のそれとは全く異なっていて、その上理解しがたい事柄すらある。
「……苦労するわーあの娘……」
「成年してるかどうかも、そういう意味じゃ区切りにならないもんねえ」
 さていつ気付くだろうかと、食料庫から材料を取り出してきたらしい二人を見やりながらユーリィは頬杖をついた。焼き菓子だろうか、エレッセアが手伝いでもとレシピの紙を山に戻して立ち上がって足を向けて、そこに扉の開く音。眼を向ければ青翠。
「お。クロさん」
「だっ、……から、やめろってその呼び方……学院の方から定期連絡があったんだけど。それで一応知らせた方が良いかと思って、レッセに」
「……おう?」
 ぱち、と眼を瞬かせて、黄碧は首を傾けた。




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