「長官、顔に出ています」
「顔以前に天気に出てるから手遅れだ」
 上着を乱雑にソファの背に投げる。投げつけると言っても過言ではないそれにクラリスは嘆息して、そして視線はどこかへ――軍部の高官達の為に用意された貴賓室の方を向いていた。
「……珍しいように思います、ヴァルディア様がああも明確に脅しにかかるのは」 「脅される方が悪い。……リアを呼んで来てくれ、大方妹かフェルのところにいるはずだ」
「了解致しました」
 ちらと見やった先、窓の外では昨日から連日の吹雪が吹き荒れている。すぐに扉を潜りながらもうそろそろ暖かくなってくる頃合いなのにと嘆息すれば、すぐの場所でここ数年は見慣れない一人と出会した。目を瞬いたクラリスに、おう、と片手を上げるのはエーフェ。上がった片手がそのまま扉を指差す。
「この吹雪ってもしかしてあいつ?」
「そう。珍しく完璧に怒ってるわ」
 見知った間柄だから、社交辞令も必要ない。そういう判断なのだろう、言われたそれには同じようにして返す。途端に彼は扉を見やって頭を掻いた。
「うーん、わからんでもないんだがなぁ……ちょっと危険だな」
「そう?」
「あいつ魔力使いすぎると自滅するから。リア探し?」
 言うそれには、クラリスは再度眼を瞬いた。首をかしげる仕草に、疑念が素直に表れる。
「……探してこい、とは言われたけれど……自滅って」
「たまにいるんだよそういう魔法使い、対症療法はしとくから気にしないでくれな。リアならさっきフェル抱えて部屋行ってったぞ」
「え、なんで」
「神殿の事とかだろうな、あるいは大公権限が必要なのかも。地方の村なら何とかなるけど、今回緋樹自体が機能しなくなってるからなぁ……」
「……そんなに……?」
「街の構成が壊れた、街から全員を避難させないと間に合わない。……リアが長官で助かったな、あいつは即断できるから」
 数十万の人間が一度に動くことになる。緋樹の白も黒も、その護衛に割り当てて、余った人員は他三方に回す。書記官が聞いているのはそれだけで、だからその言葉には苦いものが湧き上がるばかりで、どうするかという問いすらも浮かばなかった。――廃墟になるだろう。再び協会として、街として立ち上がれるまでに一体どれだけかかるのか。
「……ディアは見とく。リア呼んできてくれ、館長から俺に連絡来て、この案件で図書館代表って事になった、組み立てて通達する」
「わかったわ。……落ち着いてから少し時間をくれないかしら、やりたいことがあるのだけれど」
 言えば、今度はエーフェの方が眼を瞬く。不思議そうなそれには少し笑って見せた。
「前線に戻るわ。折角あなたが帰ってきたんだから」
 わずかに間が空いた。エーフェは極力表情を変えないようにしている、そうしようとしているのが分かるのも変わらないと、思っているうちに一息溢れるのが見て取れた。
「……なら館長に休暇もらえないか交渉してくる。こんな時だし、通るだろ、協会で安定してて余力裂けるの西しか無いしな。……鈍ってたら許さねえぞ」
「あなたこそ。『異種』相手に戦えない工学師なんて必要ないもの」
「上等」
 笑って言い放って、それで紅桃は扉を潜って行ってしまう。自然と視線が外れたのを合図に、貴賓室へと足を向ける。
 魔法を殺す人員が必要になるだろう、だから言えば、ヴァルディアも拒否はしなかった。ただそれを言った瞬間のあの表情は見ものだったと、思い返して笑ってしまう。まるで親に悪戯を仕掛けられたことを知った子供のような顔だった。
 早いうちに訓練を重ねて勘を取り戻さないといけない。思いながら貴賓室の並ぶ四階へと階段を登り切って、そのうちの一つ、東の彼が短い逗留を過ごす部屋の扉を軽く握った手で叩いた。
「リアファイド様、少々宜しいでしょうか」
 少し張った声を扉の奥へと向ければ、少しの間が空いた。すぐに良いぞと返答が聞こえて、扉を押し開く。綺麗に整えられた調度の中に腰掛けた一人と、その膝に頭を乗せた銀の黒。思わずその場でたたらを踏んで立ち止まった。
「……何か……?」
「わからん。話が終わったらすぐに寝た、様子おかしいな……最近出ずっぱりだったとか、あるか?」
「いえ、最近は任務の準備と訓練だけで、任務そのものには……」
 銀を撫でる手は淀みなく、だが緑の眼には険が浮かんでいた。黒服は、フェルは静かに眠っている。声に気付いて起き上がる様子もない。リアファイドは一度息を吐き切ってから書記官を見上げた。
「ディアの方終わったか?」
「はい、先程。エィフィエが図書館から権限の委譲を承けたようです、他に何かご用意致しましょうか」
「西の案件の詳細資料を用意して欲しい、それで最終的に何人寄越すか決める。南には頼れない、北は海が荒れてる。東の白黒は中央に置くが全員は無理だ、それに関しては先に長官の承諾は受けてるが」
「聞き及んでおります、万全をもってお預かりいたしますとお約束を」
「頼もしいな、任せた。……前線戻るって?」
「はい。流石にこの状況で安穏と書類に構っている程人格者ではありませんから」
 十四階梯の女騎士。それが本来の肩書きだ。流石に騎士には知られているかと思うのと同時、ヴァルディアももうそのつもりなのだと確信して安堵した。追い討ちのように、東の長が言う。
「エーフェも引っ張って東来てくれ、構成魔法を殺さないといけないからな」
「元よりそのつもりです」
 言い切れば、緑朱は笑う。嬉しそうな、楽しそうな――それ以外には見えなかった。
「……紫旗はいるから置いておく。運んでくれるだろうけど」
 虚空を見上げた彼の声にはどこからか是の応え。そうしてからリアファイドは銀色を丁寧に慎重にソファに預けて、そうしてから背を伸ばして立ち上がった。
「執務室だな、あとは良いから準備に戻ってくれ」
「分かりました。書記官に引き継ぎは終えておりますから、何かあればそちらに」
「頼んだな」
 言って、テーブルの上の封筒を手に扉を廊下へと抜けていく。立ち位置を入れ替えるようにしたそれを見送ってから、気にかかって距離を詰めた。ソファのすぐ側に膝をつく。
 何の変哲もなく眠っている、そのように見える。頬に掛かった銀を払ってから、その頬に触れた。
「フェル、起きてちょうだい」
 紫旗は動かない。黒服の間は、というそれを、彼らは忠実に守っているようだった。だから少し音が立つ程度に頬を軽く叩く。
「フェル?」
《……クラリス、あとは見ておくから》
 クロウィルの声。姿の見えないそれはいくら聴いても慣れないと思いながら、眉根を寄せて返した。
「何かあったの?」
《特には、俺達が把握してるものはない。でも確かに様子はおかしいから、調べておく。……この部屋使えないか?》
「調整させるわ、好きにして」
《悪い、有難うな》
 魔導師達を近寄らせたくないのだろう、それを考えればこの貴賓室が一番良い。東の長官はすぐにまた中央に戻る。
「……フィレンスは?」
《避けてる、な、あの感じだと》
「……そうね。……フェルのことお願いね。事務処理が必要であれば情報室にお願いするわ、それとなく言ってはおくから」
《承知した。……本当に前線戻るのか?》
「ええ。悉く本当か、って訊かれるのだけれど、私も騎士だから」
《……悪い、紫旗が動けないからって、協会に全部》
「貴方達の責任じゃないわよ、大丈夫。魔法院が馬鹿した所為だって、協会だって了解した上よ」
 国の施策も行われるだろう、確実に。だがそれを待てる余裕が無い。だから、余裕のある者が。
「……準備しないと。クロウィル、暇があったら相手してちょうだい?」
《十四相手にしたくないんだけど……》
「『異種』の重さを早く思い出したいから。調練場にいるから、出来ればフィレンスも」
《あいつもあいつで対人に特化してるからなぁ……》
「対人特化だからよ。二年も書記官をやってたんじゃさすがに感覚まで戻すのに時間がかかりすぎるから」
 言って、立ち上がる。不意に黒服の肩にかけられた砂色のコートが不自然に動いた気がして捲ってみてみれば、茶色を翼の下に抱き込んだ鋼がフードの中に見えた。苦笑する。
「コウ、世話を見てくれるのは助かるのだけれど、談話室から出さないでいてくれるともっと助かるわ。あそこが一番手厚いから」
 きゅる、と鳴いたそれが伏せていた体躯を起こして、眠っているらしい茶子猫の後ろ首を咥え上げてフードから這い出てくる。言った通りにしてくれるつもりなのか、扉へと向かうそのすぐ後について把手を捻って引き開ければ、すぐにその隙間に滑り込むようにして廊下へと抜けていく。
 一度振り返って、やはり様子が変わらないのを怪訝に思いながらも自分も戸を潜る。すぐに足を向けたのは南棟の向きに。久々の準備なのだからと意識を向けていないと、何かを忘れていそうで不安だった。



 ノックもせずに扉を開いて中に入れば、金糸に首を絞められている不機嫌そうな目と鉢合わせた。
「……何されてんの?」
「嫌がらせだ」
「封印だっつってんだろ」
 椅子の後ろで金糸の端を持ったエーフェが言う。後ろ手に扉を閉めている間に工学師は溜息を吐き出していた。
「お前一個人の感情で街一個雪埋めにすんな大迷惑だろどう考えても」
「あいつらが死んだら雪も晴れる」
「血を引き合いに出さない」
「売られた喧嘩は買う」
「もう品切れだろ」
 品切れどころか大赤字だろうなあとは思っても口にはしない。窓の外を見れば、それでも雪の勢いは減じていた。疑問符を浮かべて金色を見やれば、片手が持ち上がる。大量の細い腕輪がざらざらと音を立てるのを見てうわあと口に出していた。
「お前そこまで抑制されてんのに天候にって相当だぞ?」
「今更だろ」
 重さにか、すぐに降ろされた腕が机に触れれば硝子が割れるとも聞こえる程の硬い重い金属音。そして後ろへと向けられた声はそれこそ不機嫌極まりなかった。
「エーフェ、苦しい」
「ちっとくらい我慢しなさい。リア、気にしないで良いからな」
「いやこれ気にしないって無理じゃねえかな」
 無理矢理括られたのだろう、もともと癖のある金の髪はあちこちで飛び跳ねているし、その首に金糸を巻きつけている男はいるしで事情を知らなければ何が何だかわからない。知っていてもわからないが。触媒の端を一旦仮で結んでおいて、エーフェはローブの中から銀糸と綺麗に磨かれた涙の形の水晶を取り出していた。水晶に空けられた小さな穴に銀糸を通しながら紅桃が嘆息する。
「こういうのいると工学師って自尊心微塵に砕けてくんだよなあ」
「なんで?」
「十五個割った」
 返答は首を絞められている張本人からあった。二人を見比べる。工学師は苦い顔をしていた。
「なんで」
「今持ってる材料だと物量作戦しかないのに最初の幾つか渡しただけで割れるんだよ、やってられるかって」
「十六個目からは一気に渡されたから割れてないな。数えてたから間違いない」
「人が善意で作ってる魔法具壊すたびに一個目二個目って無表情で呟かれる人間の気持ちくらい理解しろ問題児」
「強度が低すぎるんだ」
「絞め殺すぞヴァルディア」
「勝手にしろ」
 本当に機嫌が悪いらしい。そういえば学院の頃もこの類の抑制具を付けられていた時期はこんな感じだったかと思えば、工学師が準備しているその気配に気づいたのか肩越しに振り返った黄金が身構えていた。
「、……水晶はやめろ」
「勝手にしろっつったよなお前な? ついさっきな?」
「やめろ、どうせこの後回収して触媒にするつもりだろ」
「生きてるだけで魔石作ってくれる友人居て工学師としては超お得」
 にっこりと笑んだ工学師の頬に怒筋が浮いたような気がしてリアファイドがそっと眼を逸らしているうちに抵抗の声が押さえつけられる音と声。魔法使い怖いと三度ほどゆっくり唱えてから改めて眼を向ければ、何故か金色は机の上に顔を伏せていた。
「……うん、エーフェ?」
「魔法使いが透明水晶嫌いな理由な。魔力吸われるんだわものすごい勢いで。そんで魔石になるからヴァルディアは実は水晶持たせておくだけの簡単お手軽な金の成る樹」
「……ディア生きてるか?」
「死にたい……」
 小さい声で聞こえた。何かしらの要素が積み上がった上に相当苦しいらしいと見てそっと頭を撫でておく。手が追い払いにも来なかった。エーフェを見やれば肩をすくめるだけ。窓の外は、早くも光が差していた。溜息を吐き出す音、のそりと魔導師が顔を上げる。
「……話は終わったか」
「フェル、ってか、この場合は大公だな。神殿大公の許可は下りた。これで堂々大手振って王が紫旗も神官も動かせる、スィナルも了解済みだ」
「あいつらは?」
「アイラーンとしては寛容ではあれないけど、長官としてならどうでもいいな」
 髪よりも濃い金が上向く。その拍子に首元が見えた。金糸銀糸が硬いそれに変わっていて、透し彫りに水晶が埋め込まれ垂れ下げられた豪奢な首輪に見える。透明水晶と言っていたのに、その幾つかには薄く色が浮かんでいる。
「だからアイラーンの当主が動く。西の領域の話になるけどエジャルエーレを公爵に据えたいのは他二家と王族も共通の意見だからな、勝手にやるけどいいな?」
「……掃除してくれるなら有難い。オルヴィエス様とクライシェ様にお任せする」
「おう、伝えとく。で、本題な」
 腕に抱えていた封筒を差し出せば、腕輪で重いだろう腕を持ち上げて受け取る。すぐに開いたその中身を見て、眉根を寄せる。それもすぐに眼を伏せる動きに変わった。
「……そうか」
「兆候が出てる。中毒者も居る。東の人間じゃ無理だ、構成に知られすぎてる。東に……緋樹の街に一度でも入った事のある人間も」
 後ろから伸びてきた手が書類を攫っていくのにもあっさり明け渡して、ヴァルディアは立ち上がって本棚の方へと足を向けていた。綺麗に装丁されているとは言えない何冊か、紐を通して表紙と裏表紙をつけただけのそれを幾つか腕に抱えて机に戻ってくる。
「紫樹には?」
「通達した。記憶走査機構は止めてもらってる。白樹は樹がまだそこまで育ってないから論外だけど、幼いからって悪影響があるかもしれない、他都市とは断絶させるように院から指示が出てる」
「早いな」
 言いながら開いたそれは所属者の経歴が書かれた調書らしい。横目にしながら、相槌のようなそれには頷いた。
「大元は王都だからな、異変があれば現地よりも察知は早い。おかげでここまで直行で来れたんだけど」
「……緋樹の所属者達は? 知ってるのか」
「伝える意味がないだろ? 知ってもあいつらは何もできない」
「協会の街をひとつ廃都にするんだ、多少でも周知しておいたほうが良い」
 エーフェが挟み込んだそれにリアファイドは腕組みしてみせる。机の上に放られるようにして滑った一枚――王紋に重なるように王の署名、そのすぐ下に神殿大公の署名。北と南の長官の署名。残った場所は三人分。緑朱の声は硬い。
「……結界魔法の汚染だ、知らなくても進行する。知ってても止められるもんじゃない」
「だから何も言わない、か?」
「俺の口から言っても所詮「貴族の戯言」にしかならない」
「リア」
「実際王侯貴族の決めた事に変わりない、協会と院と神殿の許可が必要ってだけで。言うにしてもせめて王命を待ちたい」
「そんな必要は無いと思うけれどねぇ」
 唐突に割って入った声に眼を見開いていた。反射で身構えて身体を向けた先、いつの間にかソファに腰掛けた老婆と見て困惑が浮かぶ前に、半身を浮かせたヴァルディアが声を上げていた。
「ヴァン、まだ決まってない、どうして来た」
「ええ、決まってないのは知ってるわ。でもね、北のフィティールも、南のサヴァナも、西のおばあちゃんも、真ん中のキレナシシャスも、皆、東のフィラのことはよく知っているから、それで、東の人が来たところのはね、訊いておこうってなったのよ」
 構成魔法のそれ。そうとわかって歯噛みする。面前にすればすぐ判る、『これは人間ではない』と。
 そう思っていることも思った瞬間に伝わっているだろうに、背の伸びた老婆は柔和に笑っていた。息使いの音が聞こえて、ヴァルディアが動く気配、肩を軽く押し出すように叩かれる。
「座れ。ヴァン、技師達には?」
「言ってきたわ、大事なお客さんとお話をしたいから、追いかけてこないでって」
「……分かった。エーフェ、手伝え、神殿を脅す」
「フェル脅すってよく平気で言えるよなお前……相手王族だぞ王族」
「なら女王でもはっ倒しに行くか」
「スィナルは普通に反撃してくるからやめような」
「あとで図書館も脅す」
「……よろしい」
 扉へと向かっていく二人分の動き、徹底的にやってやると工学師が言ったところで、扉の開く音。視線の先で老婆がヴァルディアを見やるのが見えた。
「何か食べるものがあると嬉しいわ。厨房が賑やかだから」
「運ばせる。あとは好きにしてくれ」
「ええ、ありがとうね。ね、リアファイド、座って話を聞かせてくれる?」
「構成結界達の相手をしに来たんじゃない」
 扉の閉じる音が聞こえて、それでようやく視線を外すことができた。失敗した、と小さく思う。反射で返してしまったと思っている間に柔い笑い声。
「強情にならないのよ。訊きたいこともあるけれど、伝えたいことのほうが大事だから」
「何をだよ」
「伝言があるの。あの子が、フィラがね、守れなくてごめんなさい、って」
 無音に陥った。陥らせたのは自分と気付いて結局溜息にもならずにソファに腰掛ける。正装の堅苦しさが窮屈だった。魔法の笑う柔い声。
「あなたは、駄目ねぇ。魔法使いじゃないのに、魔法と仲良くするなんて」
「……そうだな」
「長官達は皆そう。苦手で、そうなるってどこかで思ってても、あたし達を避けたりすることなんて一度も無いわ。アルフェリアなんて特にそう、技師達よりもサヴァナといる時間が長いって、サヴァナは嬉しそうだったわ」
 一度言葉が途切れる。『ヴァン』は表情を少しも変えはしない。なのに声音は多彩だった。
「きれいな鳥だったわねぇ。あの子は炎だったから、おばあちゃんとはあんまり近くに寄れなかったのね。それでも、きれいな鳥だったわね。あなたと同じ朱色で、大きな翼で、いつも街を覆って動かなくて。……まだね、意識はあるみたいなの」
 本来は人間に充てる言葉でも、知っていればそれ以外の理解のしようがない。『ヴァン』は笑っていた。仕方の無いことだと言いたげに、眉が下向く。
「あたしを見てくれている技師達がね、あたし達とフィラを切り離す直前まで、フィラは街を守ろうとしていたわ。みんなが戻ってくるまで、街が『異種』に荒らされないように。だから、樹は無事よ。だから、あなたから言って欲しいの」
「……どうして魔法が魔法を気に掛ける」
「何故かしらね。確かにあたし達は、魔法で、思考回路も、姿形も、作られたものだけれどね。……それでも、あたし達は守るために作られているの。街と人とその暮らしを守って支えていくことが、私達の存在意義なのよ。だから言ってあげて、樹は無事で、あとは人が守れるから、もう眠っていいって、フィラを終わらせてあげて」
 頬杖のように額を押さえたそこからは何の応えもない。それでも沈黙のあとに安堵したような吐息を漏らせて、そうしてから『ヴァン』は元のように笑みを浮かべた。
「ご飯はちゃんと食べないと駄目よ。ディアが鍵を開けてくれているから、食べたら彼の家に行って、今日は休んでいらっしゃい。蒼は緋とは両極だけれど、今の貴方にはそれが良いでしょうから」
「……お節介だな」
「構成だもの。おばあちゃんにとってはね、みんな子供のようなものだから」
 計算でもしていたのか、言い終わると同時に戸を叩く音。返事を待たずに、控えめに開かれた先に鋼色。
「……『ヴァン』、これ……」
「ありがとうね、コウ。運んでくれたのね」
 柔い暖かい香りがして、それで息をついて見上げれば少年。エーフェが言っていたそれかと呼びかける名前でわかって、それで声を上げた。
「なあ」
「……大丈夫よ」
 手が伸びてくる。子供にするように頭を撫でられる感触。
「フィラを壊してしまったのは『異種』で、『異種』を作るのは人間で、って、おあばちゃんも知ってるわ。でもね、あたし達を作ってくれたのも、人間達だから。私達がこうして人間のようにしていられるのも、人間達のおかげだから。だから、人の都合だとか、そんなことで悩んだりしなくて、大丈夫よ」
 軽い足音が近付いてくる。目の前に盆が置かれる。
「ラシエナが、あなたに、って。ヴァルディア長官、が、来い、とも言っていたから、伝えた」
「……わかった。……フェル大丈夫そうか?」
 眼をやって問いかける。鋼色、人とは言い難い気配のそれ。少年は、眼を瞬かせる。
「……さっき起きて、怒っていた」
「……理由は?」
「『よく考えたら腹が立ってきた』、って言って、フィレンス……ラシエナに、パイを作らせてて、待ってる間も何か食べてる」
「……なんで?」
「逃げているからだと思う」
 ――魔法なら魔法らしくしていれば良いのに、と、思っていたのはそれで立ち消えた。魔法らしくある魔法は容赦が無い。息を吐き出した。
「……悪いんだけど、ディアに、エナも連れてって良いか聞いてきてくれないか」
「そうじゃなければ縁切って叩き出す、て、ヴァルディア長官が怒ってたから、ラシエナには伝えてきた」
「…………」
 一因は自分だったのかと、それで腑に落ちた。あの他人に興味が無いという姿勢もなかなか崩さない輩が天候を左右するまでとは、それだけでも珍しいから、貴族の馬鹿達が勝手に逆鱗に触れただけだと思っていたが。
「……過保護……ありがとな。名前、コウ、で良いのか?」
「うん、そう呼ばれてる。……東の、アルファスの技師の魔法、だった。人間にとっては、ずっと前のことかもしれないけど」
 それで判った。『ヴァン』が迎えた意味も、ヴァルディアが寄越した意味も。逃げるなと言われているように思えて力が抜ける。軽い息と共に苦笑になった。
「……人間か、人間同士の過失だ、気にしないでな」
「ん、……ん」
 何か言おうとしたのか、それでもこくんと頷いた少年姿のそれは、一度『ヴァン』のすぐ近くまで足を進めて、そこに一度抱き付いてからすぐに扉を潜って姿を消す。一度きりのその間に鋼を撫でた老婆は、ふふ、と音を零して笑った。
「お食べなさいな。そうしたら、行って、話して、休むのよ。明日になったら、また頑張りなさい、ね?」
「……わかった。……構成は食べないのか?」
「食べてる人の、美味しいとか、そういう感覚は、おばあちゃんは大好きよ」
 エルシャリスのような事を言う。思うそれに小さく笑って、そうしてから盆に手を伸ばした。




__________




back   main  next


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.