蒼樹の街に、唐突に鐘の音が鳴り響いた。
 警鐘とも、時刻を告げるそれとも違う。遠くまで響き渡るように、ゆっくりとした調子で、何度も打ち鳴らされているのは、神殿のそれだった。
「……フェルは?」
「東区の神殿に行った。流石に神事までは急には無理だけど、水だけでも、って」
 見下ろす街の景色の中で、次第に道に人影がぽつぽつと現れて、ゆっくりとしたそれは止まらずに増え続ける。
「……兄さん、寝れた?」
「ん、大丈夫。……流石にもう出ないとだな」
「ん。……よく晴れてるね」
「……だなぁ」
 昨日の吹雪が嘘のようだった。青い空の端から足元まで続く白は、早朝ということもあるのか、透き通ってよく見える。
「なんとかするから、お前は心配しないで仕事してろな」
 景色に眼を取られている間に手が伸びてきていた。頭、額のすぐ上を押さえるような手付き。
「二人も、見つけてやるから」
 続いた言葉に眼を伏せる。――地上に残っていた人間は全滅だった。弟達は孤児院に本を届けに行って、その場で波を知らせる警鐘を聞いたらしい。院で養われていた幼い子供達を地下道に押し込んで、そのあとはわからない。子供達に死者は無かった、それでも職員の殆ども、街を見ればそんな状況はどこを見てもそうであって。
「……あのね」
「うん?」
「蒼樹、紫旗ほどじゃないけど、居心地良くなったよ」
「うん、そうみたいで安心した」
「うん、……それで、黒服達が帯作ってくれるって」
 撫でる手が一瞬止まったのがわかった。すぐになんともないかのように動き出す兄の手には、今は素直に安堵できる。
「東の人達も一緒に。……ひと段落ついたらで良いから、樹に掛けて貰って良い?」
「わかった。その方が樹にも良いからな、……有難う、って、伝えておいてくれ」
 従順に頷くのを見て、リアファイドはよし、と声に出した。一度窓の外を見やる。鐘の音は止んでいた。かわりに響いているのは歌声だった。
 ――盛大に餞けするのは、人と、街と、その魔法に対しての。
「……見送りは良いから、先戻ってろ。仕事だろ」
「外には出ないけどね。……わかった、……またね」
「おう」
 言い合って、それで居室の窓から外の様子を見つめたままの兄を残して扉をくぐる。廊下を少し歩いた先の別の部屋に戻れば、綺麗に整えられた客室の風景。白服は、と見渡してみても、部屋の中には見当たらない。剣は、ここには持ってこなかった。
 結局一夜に満たないままに話は終えてしまって、そのあとはこの屋敷の侍女に食事を勧められ湯を準備され、疲弊してしまっていたのもあって、流されるままにこの屋敷で眠ってしまった。長官の、とは聞いているが、どうやら普段ここを使っているということも無いらしい。いるのは侍女が一人だけと、屋敷の中を悠々と歩き回る猫が一匹。撫でてやろうとしても、しなやかに逃げ回って、しかもそれを楽しげに鳴いてみせるのは飼い主に似ていると苦笑してしまったが。
 扉を叩く音。振り返れば、灰色の髪をきっちりと結い上げて帽子の中には折り込ん女性が、白と藍色のお仕着せの中で優雅に一礼するのが見えた。
「お召し物は、お身体にも合いましたでしょうか」
「あ、うん。有難う、いろいろやってもらって」
 夜着を借りたまでは良かったが、朝目覚めて見れば寝台横の衝立の奥には女性らしい一揃いが置かれているだけで、制服はその時からして見当たらなかったのだが。思っている間に、侍女の彼女が腕に抱えていたものを差し出してくれる。
「ご衣裳はこちらに。地下に人目は少なくなっておりますが、今はそのままでお戻りくださいませ。あまり客の無い屋敷でございますから、好奇を集めないとも言い切れません」
「わかった」
 若草色の、春の色をした簡素なドレスだ。わざとらしくなく首元まで覆い隠してくれる柔らかい白い布地には黄色で細かい刺繍が走って、織りのゆったりとした上衣と相まって暖かい。飾り袖の長いそれは、確かに女性の装いなのだが、備えるほど女性の訪う事の多い人なのだろうか、あの長官は。
「リアファイド様は、私が確かにお送りいたします故、お送りできず恐縮でございますが」
「ん、頼んだのこっちだから。気にしないで」
 言って、差し出された包みを受け取る。しっかりと作られた制服は、そうやって揃えて腕に抱えればそれなりの重さになる。よし、と内心頷いてから眼を上げれば、外套を広げてくれるのが見えた。そこまではと言おうとしたのに気付いてか、侍女の先んじての声。
「主に叱られますから、お気になさらずに」
「……今度返しに来るよ」
「いいえ、差し上げるようにと仰せつかっております故」
 首を傾げる。そうしている間に肩に掛けてくれたクロークは、全身を覆って余りあるような、ドレープも美しく整えられたもの。裏地は品の良い灰色で、表は嫌味の無い深い紅。首元のボタンを留めてリボンを結んでくれた彼女は、そうしてほんの少し、満足そうな表情を見せた。
「主は『らしくない』ことを嫌われますから」
「……そう、なの?」
「はい。藍の髪紐は、次お越し下さった時にお渡しいたしましょう。切ったりなどなされませんよう、本日は、外套のフードで誤魔化して頂けましたらと」
 言われて、目線は落として右手でこめかみの辺りに触れる。やっと肩に掛かって毛先が跳ねる程度になった、女にしては短すぎる髪。なんとなく気恥ずかしい気持ちでちらと見れば、侍女は一度優しく笑んで、そして扉を指し示す。
「人が地下に戻るより先が宜しいかと。お食事を準備できずに申し訳有りません」
「ん、戻ったらちょうどくらいだから平気だよ、有難う」
 彼女は深く腰を折って優雅に一礼して、そして扉を開いてくれる。
 促されるままに廊下に出て、少し進んだ先の階段を下へと降りていく。地上に出る扉は閉じてしまっているから出入りは地下のそれだけで、地上にも貫く高さは六階に相当する。その階段を降りた正面に黒い影が腰を下ろしていて、気付いて見やれば黒猫。
 近付いても逃げないのをいい事に、すぐの場所でしゃがんで手を伸ばす。昨日のように逃げられることもなく、喉をくすぐればごろごろと喉を鳴らして眼を細める。すぐに満足したのか立ち上がって階段を駆け上がっていくのを見送るうちに、外へと出る大扉が開かれていた。
「お気を付けくださいませ。まだ暴漢騒ぎは続いている様子でしょうから」
「わかった、有難う。……兄さん頼むね」
「はい、確かに。ご武運を、いってらっしゃいませ、ラシエナ様」
 送り出す言葉に、扉をくぐる。暖かい日だと思いながら外套のフードを目深に被って、人気のない街の端から中央へと足を向けて歩き始めた。頭上を見上げれば、確かに分厚い天井があるはずのそこは晴天で、屋敷の一番上から見上げた空と変わらない。響くように聞こえるのは、気の所為なのか、それともそう思いたいだけなのか。
 献歌は、糸紡ぎの歌が多い。糸を紡ぎ、鮮やかに染め上げ、とりどりの布を織り、種々の色でありとあらゆるものを刺繍する女の手の歌。時の龍神の配下である運命達は、星を動かす女神だという。女神が星を紡ぐようにと詠う歌は、季節祭の風車の歌に次いでよく知られた歌だ。名が同じでも地方や家によって伝わる歌詞が違う、それでも節が同じなら皆気にせずそのまま歌う。
 そういえば西の糸紡ぎを知らないような気がして、僅かに歩調が緩んだ。この辺りに地上に出れるような道があったかと視線を巡らせる。冬の始まりと終わりの頃に家畜達を移動させるための大きな道があったはずだと、人気の無い大通りを暫く北上して、西側に裏路地の一つを見つけてそこに滑りこんだ。人の気配のないそこで、一応の用心と、袖口に潜ませた短剣の感触と、腰に提げた『短剣』の感触を、確かめる。



「……先に一つ、書簡を届けさせました」
 急なそれに、白湯をゆっくりと口に運んでいたそこから眼を上げる。今は下座、神官の装いに象っているのは宰相と呼ばれるその人で。
「その事で後に、王宮から使いを遣らせます。現在のご職務の一連を終えましたらご確認ください」
「……すみません、宰相閣下にも、ご迷惑を」
「全くです。言うくらいなら返上して王宮に戻って来て頂きたい」
「それは出来ないと、何度も」
「そう言う事も、貴女がシュオリスに迫る事と同じ応酬と、何度も申し上げていることですが」
「だからでしょう?」
 小さく笑って言えば、簡素な椅子に腰掛けても背の曲がらないその人は、軽く視線を落とすようにして息を吐いた。――国主の右腕、宰相クライディオル=フェルトカーヅェ。フェルは、白湯の器を膝の上に下ろしながら深く息を吐いた。ついで視線が向いた先、窓の外。神殿の近くでは、まだ歌声が続いている。垣間見えた中に白と黒が見えたのは、数時間は前の事だったが。
「……閣下がまだ神官位をお持ちとは、想像もつきませんでした。しかも渡司なんて」
「神官から政治家になろうとする輩が少ないですからね。もっとも私はなろうと思ったわけでも無いですが」
「そうなんです?」
「貴方の母上を脅したら脅し返されただけです」
「…………」
 やっぱりこの世代の人達って何かしらおかしいんじゃないか、と思う。そのおかしい軸がおそらく自分の義母なのだろうかとも思うが、なんとなく確かめてしまうには勇気が足りない。思う間に再び視線が向くのがわかった。見返せば、伺うような視線。
「……体調が優れないと聞きましたが?」
「あ、いえ、全然大丈夫です。なんか気を抜くとすぐに寝れてしまうってだけなので……」
「……それは負担になっているという事なのでは?」
「さ、最近は任務そのものにって事あんまりなかったのでそれは無いです」
「常でない事は確実のようだ」
「それは新年からこっちずっとなので……」
「…………」
「…………」
 無言の圧にそっと屈して眼を逸らした。溜息の音。
「……お気持ちも多少は理解致しますが、閣下がそうなさる事で動くものが大きすぎる。今にでもお戻りください、神官も侍従も官もそれを望んでおりましょうに」
「……私は望みません」
「殿下」
「私が戻って、どうなる、って事は、宰相様も一つも言わないなら、そういう事だと私は理解しています」
 今度口を噤んだのは大人の方だった。地方都市の神殿の一つ、高位神官が控える間は、それでも広く整えられている。たった二人だけで控える者もなにもいないのにはそもそも神官が『仕える者』だからだが、今はそれも都合の良い事のように思われる。秘密話をするには、これ以上の場所はない。
「唯一それを公然と言ったのはエルディアードだけです。そのエルディアードが戻らなくて良いって言う間は、そうします」
「……彼は何を?」
「私が蒼樹から神殿に戻った後に、何がどう変わるのか」
「具体的には」
「王位継承が変わる」
「何を根拠に」
「……私が今知っていて良い事ですか?」
 詰問する調子になりかけたそこにそれが返されて、そうして苦笑したのが紫銀で苦い表情を浮かべたのは宰相の方だった。
「……陛下も、宰相様も隠していらっしゃいますけど、レナって、王家の人間でしょう? 同じようにもう一人か二人、本来なら継承権を持つ人間が私のすぐ近くに居る、陛下が即位に際して継承権を剥奪した傍系の血筋の人間が」
 応えはない。思考する間が現れたその間に、フェルはもう一度苦笑した。
「レナが言ったわけじゃありませんから、推測ですけど」
「……王家は愚鈍なくらいが宜しい」
「……よく罰されませんね、宰相様……」
「陛下が既にご存知ですからですよ。そもそも私は紫銀を王家にとは言ったが、王女としてとは言わなかった」
「その割には言いますよね、戻れ、って」
「死亡の可能性が高い場所を選ばなかったら言いませんでした。図書館でも魔法院でも席はありましたでしょう」
「サーザジェイルにはどちらからの接触もありませんでしたけれどね」
「無名の魔導師には当然でしょう」
「『紫銀の魔導師』は院にも図書館にも不要です。私が死んだ後はどうするんです」
「今は両共に長が安定している。体制もそう簡単には変わらないでしょうから、研究所の二の舞にはなりませんでしょう」
 紫銀が顔を上げて首を傾げる。それに気付いて眉根を寄せた宰相が何かを言うより早く、扉を叩く音。慌ててフードを被り直したそこに扉が開いて、呼び掛ける声。
「サーザシェイル殿、協会から」
「……何かありましたか?」
「花の献上をと申し入れがございました。院長様が承けられましたので、祭祀の神官に宰って頂きたく、お呼びした次第です。渡司殿は……クライディオル様は急の事にも関わらず、有難うございました」
「もう落ち着きましたか」
「はい。東の出身の者も多かったのですが、院長様がご説明くださいました」
「では私はお暇致しましょう、リアファイド殿もそろそろ戻られましょうから。サーザシェイル殿、後は頼みます」
「はい、渡司殿」
 東の長官が問題なく動けるようにと、中央から援護の目的で遣わされたのだと聞いたのは、神官の位を持つ者は至急に東の神殿に集まれという命令と同時だった。大公の命令が伝えられたのは、書類に署名をしてから三時間後。伝えたのは陣を伝って蒼樹に着いた宰相で、彼もまだ時間があるからと神殿に向かってくれた。そのまま夜を徹しての準備と潔斎、鐘を鳴らし始めたのは朝の六時。
 『サーザジェイル』が祭祀の位を持っていて助かった。祭服のまま部屋を出ていく彼を見送りながら思う。レナと入れ替わるに便利だからという理由が一番最初だったがとは思いながら、促される声には頷いて返す。
 壁に備えられた鏡を一度見やる。フードの下の髪はしっかりと編み込まれて隠されている。顔を隠すように垂らされた刺繍の入ったレースは目元を隠しても視界を遮りはしない。神官の一人が差し出してくれた盆の上から真珠の指輪を取り、左手の手袋の上から中指にそれを据えて、そうして指先が向けられるのには素直に顎を上向けた。喉元、高い襟に覆われたそこには既に白銀の細かな装飾が首輪のように這っている。
「白の役目に誠実に。祭祀の在り方に純粋に。渡る者の誓約に忠実に」
 言葉を終えて指先が離れていく。魔法の気配は欠片もなかったのに、呼吸以外に喉を使う事が出来なくなっていることを確認してから、ゆっくりと頷く。神官の中でも『渡る』者は限られる。渡れば、渡った先ではこちらの常は通らない。最たるものが言葉であって、故に渡った先で言葉を使ってはならない。
 部屋に二人が入ってくる。いずれも同じようにレースとフードで顔まで隠した二人。同時に差し出された白い布の中央に左手を置いた。軽く握るようにして目を閉じる。ややあって、二人がゆっくりと動き出して、手を置いた布地が動いていく。それに従って足を動かして、ゆっくりと踏み出した。別の方向の扉の開く音。両開きのそれが動いて押さえられる音。石を削って磨いた扉は独特の音がする。淀みなく進む布を追ってその扉を潜って、それを合図に、肺の中が空になるまで深く息を吐き出した。



 扉が開く音がして、振り返れば外套のフードを被ったままの姿。戸を押さえた神官に有難う、と声を向けるそれを見て、立ち並んだその中からは小さく声が上がった。
「ラシエナさん?」
「ん。外の供祭司に聞いたからついてきた」
 カヴァスの呼びかけに応えて、なんとなく外套の前の合わせを押さえながらその場の数を目で数える。八を優に越す数の白黒と見て、その中に見えた何人かに、そうかと声に出ていた。
「……ロードも、アートゥスも東なんだ」
「うん、……俺は、」
 遮るように一人の手が伸びて、変わらずフードで隠された頭を乱雑に撫でて、ロードはその手を止めないままに表情だけで笑って言う。
「東の学院のな。運の悪いことに俺に拾われて西に来てな」
 不自然なそれにはわずかに疑念を浮かべるだけにとどまった。アートゥスが逃げるようにしながらもその手を振り払いはしないのには苦笑だけ向けて、一人が腕に抱えた束に眼を向けた。気付いた一人、抱えた女性の黒服が小さく笑う。
「やる事もなかったから、ずっと作ってたのよね」
「気にしないで。私もだから」
 言いながらそこに足を進めて、左手に持っていたそれを差し出す。受け取ってくれたのには素直に安心できて、それでも受け取った彼女が疑念を浮かべて見上げてくるのには苦笑した。
「勝手だけど。兄さん絶対自分からじゃ言わないから」
「……やっぱり仲良いじゃない?」
「一応否定しておくけど」
 四本の花。二本は緑と赤の色違いの花弁、残った二本は赤から金へと染まった色。
 細かな糸を使って編んだ花は燃やしてしまえば何も残らない。だから神殿に供上げするのは、生花でなければそれが良い。歌われる歌が紡ぎ歌であるなら尚更だ。束に加えられたそれを見れば、女性の腕にひと抱えしてこぼれ落ちようとしているほどの数。それほどにもなろうと思っている間に、合間から顔をのぞかせた一人と不意に眼が合った。あれ、と声が落ちる。
「……セオラスも?」
「出身じゃねえけどな。知り合い居たし、まだ連絡つかねえから、それで」
「……大人しく神殿来るとは思わなかった」
「魔導師は神殿大事にするもんだぜ?」
「そうらしい、とは知ってるけど」
 精霊に近いからだろう、魔導師達は神に明確な敬意を示す者が多い。精霊眼の有る無し以前にそういうものだという認識が強いと、幼少から魔導師を見ていたからこそ強くそう思う。自分はそれこそ面前に立つまではと思っていると、不意に遠くから扉の開く音が耳に入った。そろそろかと思って一歩引いて、そうしている間に控えの祭服の一人が動く。
「皆様、お待たせ致しました。シュオリス様、わたくし共は同席を許されておりません、ご無礼を」
「構わない、急はこちらだ」
 相変わらず丁寧なことだと思いながらも返す。白黒達が眼を向けてくるのには、肩をすくめておいた。
「特例、らしい。私は禁忌破りで実際に神に触れたことがあるから、触れられない神官との同席は出来ない」
「……俺たちは良いのか?」
「境目、だからね、ここは。祭祀の神官が来るから、神が来てもおかしくはないし、私がいても他人がいても構わない。祭祀以外の神官が避けなきゃいけない、ってだけ」
「祭祀とかって役割あるのか、神官に」
「うん。祭司、渡司、供司、が代表かな、あとは無所属というか、色々の手伝い。渡司は祭司の移動先導の為、供司はこういう、供物とか捧げるものを供える役目。今回は鐘の日だから祭祀がそのまま直接神と柱に渡してくれる」
 言う間に控えの神官達が静かに戸の外へと掃けていく。閉じられたそれを見送ってから少しして、とん、と両開きの扉が叩かれるのが聞こえた。右手の扉。部屋の正面に備えられたのは簡素ながらにしっかりとした作りの祭壇、その奥には空間があるが薄い紗が分厚くなるまで重ねられていて見通せない。壇は既にこの季節だというのに花で埋め尽くされていて、その中央には埋もれるように細い両開きの扉が垣間見える。軽い音を立てて開いたのは花とは遠い扉で、入ってきたのは三人だった。両手に布を支えた二人、その布に手を置いた一人。
 すぐに白服達が膝を突いた。剣を取るとも違う最高礼。すぐに魔導師達も同じように膝を突いて、最後の一人は胸に手を当てて腰を折るだけ。布から手を離して顔を上げた祭服は、一度それらをぐるりと見渡したらしかった。
 遮るように渡されていた布が左右から除けられて、一言もないうちに一人が動く。白い祭服の中ではひときわ小さいそれは、迷わず花束を抱えた彼女のすぐ目の前まで進み出て、そして膝を折ると同時にその肩にそっと触れる。それを合図にして顔を上げた彼女は、腕の中の一抱えをその祭服へと差し出した。
「この場には無い者も居ります。数は四十を数えます、下載はお気遣いなさいませんよう」
 言い終えると同時に、受け取った祭服の手が伸びる。花束を抱えながら、その女性のこめかみの髪を撫で、そこに絡げてあった白い細い帯を解き、抜き去って、その帯を持った手でまるで当てがうように額を撫でる。
 ゆったりとしているのに緩慢には見えないその一連の最後に、女性は押し頂くように深く頭を垂れて、そうしてすぐに立ち上がり一団から外れるように距離を置く。祭服はすぐにもう一人の前に膝をついて、同じように白い帯を解き髪を撫で、額を撫でる。何人もに何度もそれを繰り返して、花の束とは別に、祭服の手には白い帯の束が出来上がっていた。
 たった一人、膝をつくことのなかった最後の一人にも同じように白い帯を解いて抜き去り、その手が額を撫でる代わりにその胸元に軽く宛てがう。外套越しのその手の感触が失せてから会釈だけを返して足を引けば、祭服はすぐに踵を返して祭壇へと進み出る。花に彩られた中の扉を押し開いて、その中に姿が消えたと見て、そこでようやく部屋の端に控えていた渡司の片方が声を上げた。
「今のうちに、外へ戻られますよう」
 何人かが、え、と声を漏らすのが聞こえた。見遣ったのはセオラスで、祭壇の奥へと向かう扉が閉じられたのを確認してから白黒に向けて声を上げる。
「祭祀が花だけじゃなくて白帯も持って行った、だから『ここまで』だ。もう白帯は作れないし身につけることもできない、白帯を持てないならここには居座れない」
「左様でございます。皆様の喪は、続く後は祭祀が祭ります。祭祀が戻れば喪が移ります故、今のうちに逃げなされませ」
 一人が言ううちに、もう一人が扉を開いていた。来る時に潜ったのとは別の扉、光が差しているのを見れば、どうやらすぐ外に繋がっているようだった。
「裏庭です。柵の門がすぐの場所にございますから、そこからお戻りください」
「……潜らなくて良いのか」
「はい。どうしてもという時は、この扉から中へ。本日よりひと月の間は、鍵は外しておりますから」
 ――甘いのだな、と、思う。きっとこの場の全員が不思議に思っているだろう。それでも促されるままそれぞれが足を踏み出して外に向かうのを一番後ろで見送って、見送り終えてから、視線を動かした。色違いが向いたのは花の合間の扉。
 手を伸ばしてフードを背に落とした。そのまま足を進めて扉に手を掛けるのも、神官達は何も言わない。フィレンスはそのまま手に軽く力を込めて、把手のないそれを押し開いた。
 途端に水辺の空気に触れた。自然の泉を囲う広い空間、そこに張り出すように大岩の地面。固い感触の途切れた先には清水が揺れていて、今は造花がその水面に浮かべられていた。視線を上げれば、見慣れた刻印の彫り込まれた石柱、十二の柱。
「……皆さんは?」
「帰ったよ。たぶん、大丈夫だと思う、皆もう来ないよ」
 どうしても死にしがみ付いて離れられない人もいる。そういった人は、来る時にそうしたようにもう一度潜り直して現世に戻るまでの間、何日でもあの部屋に通う。そういう意味の問いと思って答えれば、花の一つ一つをその色に見合った柱の前に浮かばせながらの祭祀の神官は、少しだけ視線を上げたようだった。
「入った時に、応えがありました」
「……うん」
「……何度やっても慣れませんね、こればっかりは」
「それが祭祀として、でしょ? 魔導師としてじゃなく」
「そうなんですけどね」
 苦笑する声音。その残滓が完全に消えてから、止まっていた手が再び動き始める。動作に重なる声は静まっていた。
「火の神、水の神、木の神が応えして下さいました。遠い地の事だから、樹の成る土地の事だから、と」
「……うん」
 神官の言うそれは、やはり魔導師のものとは違う。いつになっても、神官として振る舞う時のこの様子には慣れられない。自分にも起こる事だと解っていても、姿の無い、声すら無いままの理解にはいつも混乱が付き纏う。その混乱すら無い事を自覚して、それで自嘲が浮かんでしまった。
「……ごめん、今の私だと駄目みたい。光王のも判らないから」
「そうだろうと思っていましたから、気にしませんよ。それよりも魂抜けに気を遣ってください、今は繋がりが強くなっていますから。帰りはちゃんと潜って出るんですよ?」
「大丈夫だと思うんだけどなぁ。繋がってても、まだ遠いし。それに私だと潜れないし」
「駄目です。神官が止めても押し通ってください、私が最高位なんですから」
「それ職権乱用とかにならない?」
「なりません」
 妙にきっぱりと言い切ってくれる。どこか意地のようにも思えて笑ってしまう口元を片手で押さえた。
 ――神殿は異界だ。神の世に近い。伝承めいたその概念もこの国では重んじられる。だから、異界と現世を行き来するには、人として死ぬ必要がある。洞窟に見立てた長い廊下を一言も漏らさず通り抜ける事が異界への生まれ変わりを意味し、現世への生まれ直しを意味する。禁忌に触れて理解した、魂はそれだけの行為で容易に変化する。
 だから既に大きな変容を迎えた魂はそれ以上の変化を拒む。洞窟を潜れない者は境界を渡る。紫銀と、祭祀の神官と、禁忌破りがそうだった。
「……すぐに追い付きますから、先に戻っていてください。貴女の守護の声も届かないなら、日を空けるべきですから」
「……うん、わかった。そうする」
 きっと夜になってようやく帰ってくるのだろう、この神官は。思っても何も言わなかった。彼女がしてくれるなら、不足も無い、妙な事にもなり得ないだろうと確信できるから。
 愚直が過ぎるのだと、そう思う。思っても何も言わないで、そのままいつの間にか閉じていた扉に身体を向ける。やはり把手の無いそれは、だが僅かに隙間を晒していて、抜け出すにも良い形に作られていた。
 少しだけ頭痛がする。繋がりが強いと言っていた、その影響だろうと、長い胎道に向かいながら思う。




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